1999年7月31日
「純血」の実態 |
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7月27日の朝日新聞夕刊5面に出ていた記事である。
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1999年5月25日 「難民」の由来 |
毎週日曜日午前10時半からNHKで放送される「週刊こどもニュース」を楽しみにしている。 |
1999年5月16日 宮崎勤事件―「魔が居るわ」と書かれたハガキ |
私が「M(宮崎勤)君裁判を考える会」に属していることから、宮崎勤事件、いわゆる「連続幼女誘拐殺害事件」について何か報告してくれないかという注文がEメールで届くことがある。 |
1999年3月28日 少年A取り調べの警察官・検察官に対し、弁護士ら11人が自白強要の告発 |
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まず、事情をよく知らない人のために神戸事件の冤罪説について触れておきたい。神戸事件は少年Aが犯行を行ったとして一般的には認知されている。しかし、あれは冤罪ではないか、当時の様々な状況からも少年Aが犯行を行ったとはとても思えない、との声が意外に強いのである。その視点から今回の話を読んでいただくとわかりやすい。
少年Aの両親は現在どこに住んでいるのか不明だが、文芸春秋社はなぜか行方を知っていて、両親に接触し、手記を書かせることになる。 両親の判断材料は、少年Aとの面会、弁護士の接見メモ、精神鑑定書だけだった。 こうして、そもそものこの手記の眼目である、
が書かれることになったのである。つまり、親ですら自らの息子である「少年Aの犯行である」と、肯定している状態なのだ。 集会を主催する冤罪説の人々が、「少年Aの親ですら息子の犯行であると肯定する状態」をどういう理屈で乗り越えるのかな、と私個人としては楽しみにしていた。その期待通り、後藤昌次郎弁護士はすごかった。見事に解説してくれた。 聞いたことはすぐ忘れるたちなので心許無いが、とりあえず思い出した部分だけ紹介することにしたい。
このへんのいきさつは、28頁5段目に触れられている。
9月末の最初の面会のときのやりとりが、27頁一番下の段から28頁3段目にかけて記載されている。
後藤弁護士は、この涙に注目して、 「この涙は、少年の無念の涙」 と解説してみせてくれた。 一番助けてほしい時に面会に来てくれなかった両親に対して、今になってという気持ちは強かっただろう。少年はまさか警察が妨害していたとは露とも思わなかったに違いない。 集会からの帰り道、一緒に行った友人の88才になる上野さん(三鷹事件で獄中死した竹内さんを支援したことがある)は、 「面会に来ないのは、両親がお前を見捨てたからだ、と警察は言った(可能性が高い)、というのを後藤弁護士は忘れている」 と評した。 「警察は言った」 というのは、過去の冤罪事件を支援した上野さんの、経験からくる推論である。 私は、 「警察がそういう発言をした可能性はある」 と答えただけだったが、確かに、少年と両親を離反させるために、何らかの言葉を警察が弄したのは間違いないところだろう。 |
1999年2月11日 決めつけてしまわずに落ち着いて推移を見守る必要性 |
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朝日新聞1999年2月8日朝刊4面「ミニ時評」に、珍しく狭山事件のことが載っていた。
引用の「その日」というのは、紙面の報告者・社会部の本田雅和記者と石川さん(もう60歳になるのだという)が久しぶりに会ったときのことである。 それにしても、真実を言うのに、驚くほど大変な時間がかかるものである。獄外にいる者の理解を遙かに超える長い時間だ。 石川さんの場合は、仮出獄した時も言う機会はあったと思うのだが、四年たってようやく言えたわけである。 真実のことが言えない、そのことこそが、警察・検察の取調べが人に与える影響の大きさ(長い間に渡って与える影響)を示しているというべきであろうか。 「犯人」自身が自白していても、「本当の真実」を話しているのかどうか決めつけてしまわず、落ち着いて推移を見守る重要性を語りかけているように思われる。 |
1999年1月12日 「ロシアに物がある」真実の状況がねじ曲げられ、「ロシアに物がない」という報道となって誤って伝えられている |
朝日新聞1月10日5面「声」欄に載った記事。 |
1998年12月30日 湾岸戦争多国籍軍の毒ガス被害は自作自演か? |
朝日新聞1998年12月29日朝刊7面 |
1998年12月25日 野坂昭如の知事にまつわるお笑い発言 |
毎朝、1時間から2時間くらい少し早歩きで散歩している。 |
1998年12月22日 毒入りカレー事件の弁護人が語るエピソード |
14日人権と報道・連絡会の例会が行われ、和歌山カレー毒物混入事件の報道に関して、林健治被告の弁護人・木村哲也弁護士が講演した。 |