弁護人更新意見書平成九年四月二四日
第一 本件各公訴事実に対する意見
弁護人らは、本日の被告人の意見陳述において、被告人が言わんとしているところは、一七の公訴事実につき、水野VX事件を除き、少なくとも一六の公訴事実につき無罪であると主張したと理解している。
弁護人らは本日の被告人の意見を踏まえるとともに、さらに被告人のみならず関係各証拠を含めて検討をし、時機をみて意見を述べたいと考えている。
第二 弁護活動の基本姿勢
一 弁護人の基本的職責をめぐる考え方と問題点
弁護人らは、第一回公判の意見陳述で、「この裁判をめぐる最大の特徴は・・・被告人を断罪する報道・評論が広範囲に先行し、本件各公訴事実がすでに成立しているかのような社会的予断が充満していること」を指摘し、この法廷では、その予断が徹底的に排除されていかなければならないことを強調しつつ、「弁護人らの基本的職責と任務」について、次のように述べた。
「弁護人らの基本的な職責は、何よりも、審理の対象としての訴因の明確化を求め、…証拠の検討を通して、まず、公訴事実の客観的側面としての罪体それ自体の成否をチェックし、次に、その罪体と被告人との結びつきの有無をチェックしていくことである。それは、当事者主義に基づいて、検察官と被告人・弁護人とが相争うという訴訟構造におけるチェックであるから、本質的に、公訴事実を批判的に検討し、厳正に吟味していくということにならざるをえない。」
以来、弁護人らは、ほぼ一年にわたる公判審理の中で、この基本的な姿勢と方針を一貫させてきたし、それは、これからも貫かれていくことになる。この基本的な姿勢と方針は、被告人と弁護人らとの関係がどのようなものであるのか(常に信頼関係が成立するとは限らない)にかかわりなく、弁護人として果たすべき最低限度の職責であって、弁護人の任務の在り方としては、変更の余地がないのである。
ところで、この間、弁護人の職責と「争点の整理・明確化」に関する議論には誤ったものが目立ち、弁護人らに対する不当な非難も絶えなかった。たとえば、第二九回公判で、裁判所は、弁護人らに対して、「本件におきまして適正かつ迅速な裁判を実現するためには、まず早急に争点を明確にすることが最も重要なこと」であり、「争点が曖昧なまま膨大な証拠調べを続けて一〇年裁判としてしまっていいかということが根本の問題であります」と述べた。このような議論は、法廷の外でも、飽きることなく続けられてきた。
本件の具体的状況のもとで、そのような「争点の整理・明確化」を弁護人らに要求する裁判所の方針は、それ自体が根本的に誤っているとともに、大量の同意証拠がなければ裁判が長期化するとの見解を含んでいるという意味でも、被告人・弁護人の争う権利を制約するものである。
そのことは第二九回公判でも、すでに厳しく批判しているが、この機会に、改めて、本件における弁護活動の基本的姿勢の意味を明らかにしておきたい。
その前提となっている本件の具体的状況とは、次のようなものである。
公訴事実が多く、取調請求された検察側証拠の量も膨大であるから、もし、審理が長期化することになれば、その責任は検察側にある。
弁護人らは、第一回公判前も、それ以降も、裁判所から、それらの事実関係と証拠を十分に検討するだけの準備の時間を与えられていない。
弁護人らと被告人との接見による打合せや事実関係の確定など、弁護活動のための基礎的な作業が困難をきわめ、弁護人らの力の限界を大きく超える状況が生まれている。
いずれの面からみても、弁護人らが、本件各公訴事実の事実関係を確定させた上で、弁護活動を進めることが困難な事案になっている。
弁護人らとしては、これらの具体的な状況のもとで、出来ることをごく普通の弁護活動として、坦々と進めてきただけであって、非難される筋合いはない。
二 「争う権利」の確保が弁護活動の基本的課題
当事者主義の訴訟構造といっても、刑事訴訟では、検察側が公訴事実に関する主張・立証責任を百パーセント負担しているのであり、被告人・弁護人側は、合理的な疑問を提起するだけでよいという仕組みになっている。たとえ、被告人が公訴事実を認めても、検察側が適法・有効な証拠を法廷に提出しなければ無罪とされるのである。
したがって、弁護人としては、被告人の公訴事実に対する認否の内容にかかわりなく、検察側の主張・立証を厳正にチェックするべき職責を負っているのであり、そのことが、誤判を避け、真実の発見に結びつくことにもなる。
その当事者主義は、民事訴訟手続と全く異なっている。民事訴訟手続では、主張・立証責任がことごとく原告と被告に配分され、「争う」ことを明言しない限り、「争わない」ものと認められ、両当事者がそれぞれに争点を明確にする責任を負わされている等の点において、刑事訴訟手続の当事者主義とは対照的な訴訟構造になっているのである。この二つの当事者主義を混同するようなことになると、刑事訴訟手続における被告人・弁護人の「争う権利」を平気で制約・侵害することになる。
このような刑事訴訟制度の手続構造のもとでは、第一に、弁護人の職責が検察側の主張・立証のチェックを基本とすることになるのは当然であり、第二に、その上で、被告人・弁護人側が検察側の主張・立証に合理的な疑問を生じさせることの出来る積極的な事実関係の主張や法律上の主張を提起していくのかどうかが課題になる。
一般に、無罪の主張であろうと、量刑の争いであろうと、刑事訴訟手続では、弁護人が争うべき問題点は必ず存在しているものであり、被告人側の積極的な事実関係の主張や法律上の主張に関する問題提起に焦点を合わせるために、被告人・弁護人側が「争点」を整理して、しぼり込む場合はいくらでもありうる。しかし、それは、あくまでも、被告人・弁護人側が、そのような方針を採用することが可能な場合であり、かつ、そのような方針を採用した場合に限られるのである。
本件の前記具体的状況のもとでは、まだ、被告人側から積極的な事実関係の主張や法律上の主張を提起していくことができない実状にあり、右の第二の段階が無理な状況にある。
そうである以上、弁護人らの立場から可能な弁護活動としては、第一段階のチェック活動の徹底しかないわけで、それが本件における弁護人の最低限度の職責であるということになる。
それは、根本的に、被告人側が検察側の主張と立証を争う権利だけは何としても確保するという最低限度の弁護活動であって、万一、それを制約されたり、侵害されたりするようなことになれば、弁護活動も適正手続も根底から崩れてしまうのである。
三 本件における「争点」のとらえ方と「予断」
このような観点から、検察側の主張・立証のチェックをとらえる以上、その主張と立証上の弱点や疑問点は、その全部が「争点」になるのである。
結局、本件「争点」の全容は、次の理由によって、最終弁論で整理されることになるであろう。法的義務はないが、その整理がないと最終弁論にならない。
本件では、被告人の「共謀責任」が問われているのであるから、その成否が大きな争点の一つになることは間違いないが、証拠取調べの結果をみると、それ以外の点においても、検察側の主張・立証には弱点や問題点が多く、「共謀」の一点に「争点」をしぼり込むことなど出来るものではない。
本件では、検察官主張の「殺人容認の特異な教義」と「武装化計画」を柱とする一七個の一連の公訴事実をめぐって、今後、どのような事実が発見されていくことになるのか予断を許さない状況である。たとえば、弁護人らは、教団幹部としても、地下鉄サリン事件の実行犯の一人としても、重要な位置にいた林泰男氏の調書をまだ開示されていないので、その関係から、「共謀」の問題や実行行為段階などについて、一体、どのような事実関係が登場してくるのか全く分かっていない。
また、地下鉄サリン事件における被告人の「共謀」の唯一の検察側証拠というべき井上証言は、他の証言、とくに、中川証言などと重要な点でくいちがい小杉巡査長との関係なども未知数である。
さらに、最近、ロシア検察当局に身柄を拘束されたと伝えられている元教団幹部は、検察側主張の柱の一つである「武装化計画」に関与していた人物でもあり、その証言から何が飛び出してくるのか、予想もつかない状況である。
つまり、オウム教団関係の事件では、闇に隠されているものがまだまだ多く、それらの事実が明らかにならない限り、事件全体の真相が見えてこない。
これらの問題点と本件の具体的状況を総合すると、被告人の明示の同意があって、弁護人らが納得出来る場合でない限り、「争点」を「共謀の成否」の一点にしぼり込むことは、弁護清動として許されない。
右の通り、弁護人らが勝手に早々と「争点」を整理したり、明確に限定したりするべき事案でないことだけは明白であり、弁護人らだけが、「争点の整理・明確化」を実行することになれば、弁護人としては、被告人との関係において、最大級の職責違反を犯すことにならざるをえない。
普通の場合、これらの問題点は一々説明するまでもなく明白なことであって、本来的には、論議の必要もない問題点である。それにもかかわらず、このような論議が、なぜ今さらのように、本件では必要になっているのであろうか。弁護人らとしては、まさに、その点にこそ、本件公判審理の根本的な特徴点が現れているものと考える。
問題の核心は、検察側に対する求釈明や検察側証人に対する反対尋問などの弁護清動には無駄が非常に多いので、その無駄を省き、争点を整理・明確化して、審理の促進を図るべきであるという見方が、法廷の内外で、きわめて強いという点にある。
そういう見方が完全に誤っていることについては、後述の「冒頭陳述に対する訂正要求」や「取調証拠に対する意見」等の意見陳述によって明らかにされる。その誤りは、被告人に対する有罪の予断が強いために、弁護人らの具体的な主張や尋問の意味・内容を正確にとらえることが出来ないという状態から生まれたものであり、そのように、有罪の予断のために、眼のくらんだ状態が現在の法廷の内外で強すぎるのである。本件被告人がどのような立場にいようとも、また、被告人に対する世間的な風向きがどのようなものであろうとも、被告人にも、無罪を主張する権利があるということを、この法廷がしっかり保障しない限り、きちんとした裁判を進めることは出来ないのである。
こうして、弁護人らは、本件の具体的状況のもとで、法廷の内外における「争点の整理・明確化」という声高の主張に強く反対し、「争う権利」の徹底的な保障を求め続けることによって、有罪の予断と厳しく闘っているのである。
四 「事件ごとの分担」・「並行審理」論の誤り
このように、裁判所が、弁護人らに対し、本件の具体的状況のもとで、弁護人側の「争点の整理・明確化」を求め、そうならないために、「曖昧なまま膨大な証拠調べを続けて一〇年裁判としてしまっていいかということが根本問題」と述べ、法廷の外でも、それに同調する声が存在しているという状況は、明白に、刑事訴訟手続の構造と原則を無視して、被告人・弁護人側の「争う権利」の放棄を強いているものといわなければならない。
しかも、裁判所は、それに加えて、弁護人らに対し、各弁護人の負担を軽減するためと称しながら、「弁護人の事件ごとの分担」と「並行審理」を強要し続けてきたのである。その要点は、分担しない事件について、弁護人は出廷しなくてよいことになるから、各弁護人の負担は軽くなり、一方、並行審理によって、「迅速な審理」を実現出来るという発想にある。
弁護人らが、すでに強く批判してきたように、これほど、本件における弁護活動の実務面を無視した発想はないのである。前記の通り、「殺人容認の特殊な教義」と「武装化計画」による一七個の一連の公訴事実は、関係幹部や関係証人が相互に関連性を有し、個別に分離・独立して把握することが出来ない構成になっている。そのために、弁護人らは、当初から、本件一七個の公訴事実について、時系列の審理が最も合理的であると主張してきた。また、一二人の弁護人らが、問題点や証人尋問などを分担しながら、最も効率的な弁護活動を進めてきたからこそ、無理を重ねる結果になっても、今日までのところに到達出来たのである。その中でも、「事件ごとの分担」だけは実行不可能であった。
右のように、相互に関連性のある各公訴事実について、担当していないからということで欠席した弁護人がいる場合、その欠席した公判の状況認識を共通にするためには、その弁護人が公判廷に出席するのに必要なエネルギーと時間をはるかに超える労力を弁護人ら全員が相互に負担することになる。それは、弁護人らの負担を軽減する方法ではなく、それを極度に加重する方法であるといわなければならない。「事件ごとの分担」と、それを前提とする「並行審理」こそは、本件の場合、公判審理の形骸化を避け、真に実りのある公判審理を実現していく上で、最大の障害となるのである。
このように、「事件ごとの分担」と「並行審理」の発想も、また、被告人有罪の予断のもとに、被告人・弁護人側の「争う権利」を無視し、「争点の整理・明確化」を機械的にしか考えない発想と同根のものである。それは、本件公判を単なるセレモニーとして祭り上げ、弁護人らを単なる飾り物に堕落させることを意味している。
弁護人らは、何があろうとも、そのような事態だけは絶対に拒否する。
五 「一〇年裁判」論議の危険な欺瞞性と責任論
すでにみてきたように、現在、「争点の整理・明確化」や「事件ごとの分担」などの問題について、あたかも、弁護人側に責任があるようなマスコミ報道も顕著であり、また、そのような報道と関連させながら、裁判所と弁護人との関係が「紛糾」しているとか、審理の見通しが全然立たないために、裁判所による審理の「混迷」が深まっているなどの各種報道も目につく。しかし、実際はどうなのかをしっかり見つめるべきである。
被告人が何を述べるのか、述べないのかにかかわりなく、すでに述べてきたように、弁護人らの方針には一片の動揺もなかったし、今日まで、必要な審理はすべて円滑かつ迅速に進行している。審理の行方が混迷しているなどという実態は存在していないのである。確かに、公判期日の指定等をめぐって、弁護人らと裁判所との間に衝突・対立があって、未だに解決されてはいないけれども、弁護人らとしては、裁判所の賢明な措置によって解決されるものと確信している。格別に異常でもない事態が、まるで大きな混乱状態にあるかのように報道されていること自体が異常である。
もちろん、わが国の報道機関の刑事司法と弁護活動に対する理解の度合にも、問題はある。しかし、裁判所が「争点が曖昧なまま、膨大な証拠調べを続けて一〇年裁判としてしまっていいかということが根本の問題」であるという見解を弁護人らに向けているような状況も、そのような事態の原因になっていることを改めてはっきり指摘しておかなければならない。
本件の具体的状況のもとで、現在の裁判所に求められている役割は、あくまで、被告人・弁護人側の「争う権利」を真に保障しつつ、検察側に対して、公訴事実と証拠の整理を求めることである。弁護人らとしては、この点に関する裁判所のこれまでの考え方が改められることを強く希望する。
弁護人らとしては、あくまで、有罪の予断に基づく「争点の整理・明確化」の主張に反対し、被告人・弁護人の「争う権利」を守りぬくために、この職にある限り、最後まで、弁護人の基本的職責を遂行する決意である。
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