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検察官請求証拠に対する弁護人意見書平成九年四月二四日

一 不同意証拠(略)

二 不同意の趣旨

1 弁護人らは、これまで地下鉄サリン事件における一万一千数百点に及ぶ被害者関係証拠につき、同意・不同意の意見を留保してきたが、本日これらについて全て不同意とする意見を述べた。本来不同意の理由は、反対尋問権行使の要求であるから理由を述べる必要はなく、また、権利行使である以上、理由を述べるような制約を受けてはならないものと考えられるが、本件の場合は、必ずしも反対尋問の必要を考えているわけではなく、むしろ証拠調べ自体に反対して、検察官の主張、立証を整理・検討するよう強く求めるものであり、その趣旨を明らかにしておきたい。

2 この事件は、被告人が教団所属の村井秀夫ら多数の者と共謀の上、地下鉄の電車内等においてサリンを発散させて不特定多数の乗客等を殺害しようと企て、各実行者が電車内に置いたサリン在中の袋を傘で突き刺し、サリンを漏出させて電車内等に発散させ、一一名の死亡者と三七九六名の負傷者が生じたとされ、死亡者については殺人既遂罪、負傷者については殺人未遂罪で起訴がなされている。

 このうち、被告人にとって最大の問題は共謀の事実の有無にあることは間違いがないが、その他の実行行為及び被害状況に関する部分についても、被告人が直接関与していない事柄であり、しかも結果が重大であるだけに、弁護人らとしては、検察官から提出されている証拠を厳しく吟味して行かざるを得ない。

3 他方、弁護人らは、検察官のなした冒頭陳述に対し、特に被害関係については次のような求釈明の申立てをしてきた。

 すなわち、サリン中毒によって死亡した、あるいはサリン中毒症によって負傷したと言えるためには、

1.サリンの毒性の程度

2.右毒性が人体に及ぼす影響及びそのメカニズム
 が明らかになった上で、本件事件において、

3.各車両内に流出されたとされる物質がサリンであったか


4.サリンであったとしても、どれだけの量が、どのような状況の下で流出し、

 それがどのような時間的、空間的状況の下で気化し、拡散していったのか
5.サリン混合液にはサリン以外にも有害物質も含まれ、それが同時に気化して人体に影響を及ぼした可能性はないか
 等の点が厳密に検証されなければならない。
 そのうえで、
6.本件被害者とされる者が、本件被害を受けたとされる当時、どこの場所にいて、どのような状況の下で、どれだけの時間、サリンを吸入し、あるいはサリンに接したのか

7.右状況は、前記サリンの気化状況に合致するか

8.本件被害者とされる者には、具体的にどのような症状が生じたのか

9.右症状は、前記サリンの人体に及ぼす症状に合致するか

10.右症状は、当時存在していた可能性のあるサリン以外の物質、あるいはサリンとは全く関係のない原因によって生じた可能性はないか
 等の点が、厳しく検証されなければならない。

 したがって、右各点について釈明を求めたものである。

 また、公訴事実別表記載の各被害者の「加療等期間」は、検察官によれば「受傷期間、通院期間及び全治までの期間を含める意味である」とされる。

 しかし、検察官から請求されている被害者の答申書等の記載によれば、例えば、事件当日病院において治療を受け、その後何度か通院するなどした後、一週間程度して「サリン中毒」の症状が消えたとされているのに対し、医師の回答書においては、事件から二週間経過後に来院し診断したところ、「サリン中毒」の症状が消えていたという場合には、最後の診断の時点では加療を行っておらず、すでに治癒していることが確認したにすぎないにもかかわらず、加療期間としては二週間とされているような例が多数見受けられる。

 そこで、「加療等期間」とは、具体的にどのような期間を言い、本件においては、これをどのように判断して「加療等期間」を算定したのかを明らかにするよう釈明を求めたものである。

 さらに、本件においては、殺人未遂罪として起訴されている三七九六名のうち、加療期間三日とされる者は四九三名、同二日とされる者は二九三名、同一日とされる者は八八八名、合計一六七四名であり、加療期間三日以内の受傷者は受傷者全体の四四パーセントを占めている。逆に加療期間三〇日を超える者は四八三名であり、受傷者全体の一二パーセント強にすぎない。また、死亡者を含めた全受傷者の内の死亡者の割合はわずかに二・八パーセントにすぎない。

 しかも、これらの被害者の中には、単に目がチカチカするというように極めて軽微な症状しか訴えていない者もあり、こうした症状の事例においては、一般的に言って「死の危険」は全く感じられないものである。

 他方、サリンの毒性が極めて強いものであるとしても、吸入する量が極めて微量の場合には、人体に対し極めて軽微な影響しかもたらさず、死に至る危険が全く生じないことがあることは言うまでもない。したがって、本件実行行為が、殺人罪の実行行為として人を殺害する危険性がある行為であると言えるためには、大気中のサリンの量が人を殺すに足りる一定濃度以上存在し、あるいは被害者たる人物が一定時間以上その場に留まっていることが必要である。

 サリンが地下鉄車両内で漏出されて気化し、同車両内及びその列車が停車する各駅構内にサリンが拡散していくという検察官の主張する本件事件の状況を前提とした場合、サリンが大気中に気化し拡散していく状況の中で、右の意味で人を殺害するに足りる濃度のサリンが存在する空間は一定の限界があることは明らかである。

 また、地下鉄の乗客は特定の目的を持って地下鉄に乗っているものであり、少なくとも終点で折り返して乗車し続けることは通常考えられないことからすれば、その場にいる時間にも自ずから限度があることは明らかである。

 このように、本件実行行為により人を殺害するに足りるサリンの毒性が波及する範囲には、場所的、時間的な限界があるところ、本件においては、検察官は、サリン中毒と思われる症状を呈した被害者で死亡していない者に関しては、全て殺人未遂罪として起訴しているようにも思われる。

 そこで、検察官に対し、本件各現場において、サリンの毒性が波及する範囲をどのように定めて、各被害者に対する殺人の着手があったと判断したのか明らかにするよう釈明を求めたものである。

4 弁護人らは、本日に先立ち、平成九年四月四日付けで裁判所に対して「検察官請求証拠に対する意見書」を提出したが、その中で、本件被害者関係証拠については、以上の点に対する検察官による釈明等がなされるまで意見を留保する旨表明し、その後の裁判所及び検察官との打ち合せ期日においても、改めて以上の点につき検察官に釈明を求めた。しかし、このような弁護人らからの再三にわたる求釈明に対して、検察官は今日に至るまで何らの釈明もなしていない。

 弁護人らとしては、以上の求釈明事項において指摘した問題点については、検察官の請求証拠を前提としても極めて問題があると考えているものである。

5 一方、検察官の請求する一万一千数百点の被害者関係証拠の大半は、被害者毎に、次のような三つの証拠から成り立っている。

 すなわち、第一は「被害事実答申書」と題する書面の謄本である。これは、司法警察員が被害者から聴き取った内容を、定型のB四版一枚の用紙に記入したものである。内容は、被害者の氏名、生年月日、住所、勤務先等のほか、当日の着衣、携帯品、治療を受けた病院名、病院の所在地、傷病名、入退院月日、通院期間、被害日時、被害場所、被害の模様、治療状況、参考事項(処罰の意思等)などの記載欄があり、さらに地下鉄車両の図があり、そのどこに乗車していたかを図示するようになっている。末尾には、「以上間違いありません」として、日付と被害者の氏名が記載され押印がなされているが、この署名は「答申者の依頼により代書した」として司法警察員が代書したものである。

 このように「被害事実答申書」は、被害者自身の署名もないうえ、その内容も極めて簡単なもので、その真実性を担保するに足りる事情の記載は全くない。さらに具体的内容について言うならば、例えば、被害状況について、「○時○分ころ、地下鉄○○駅構内において受傷した」旨の記載はあるものの、駅構内のどの場所にどの位の時間いたのかについての記載はないものが多く、先に述べたサリンとの因果関係に関する弁護人らの疑問に何ら答えるものがない。被害者の具体的症状についても、後に述べる医師の回答書には全く記載のないものもあり、また回答書に本人申告内容として記載されているとしても、医師の診察に基づく他覚的所見とは言えないものが多々ある。治療状況についても、先に述べたように治療期間の点で回答書の内容と矛盾するものが数限りなく存する。

 証拠の第二は、「捜査関係事項照会書」と題する病院・医師に対する照会書であり、これは次に述べる回答書を求めるための形式的な書類に過ぎない。

 証拠の第三は、右照会に対する医師の「回答書」と題するB五版一枚の定型用紙である。その内容は、患者の住所、氏名、生年月日のほか、「傷病名」、「具体的症状等」として「所見」と「本人申告」欄、「治癒期間」として「入院期間」「通院期間」及び現在加療中か否か、「治癒見込み時期」あるいは「治癒時期」の記載欄、「後遺症等の有無」、とその「具体的症状」、「参考・血液検査等」として「血液検査の実施の有無」「コリンエステラーゼ正常値」「コリンエステラーゼ値」「その他」などの記載欄がある。

 しかし、これにはカルテや検査結果等、これを裏付ける証拠は一切添付されていない上、その内容を見ても、既に述べているように治療期間については極めて問題であるばかりでなく、例えば、「傷病名」として「サリン中毒症」と記載されているだけで、具体的な症状の記載のないものや、縮瞳の有無やコリンエステラーゼ値が記載されていないものが少なくない。

 以上の通り、本件被害者らの被害状況を立証するための証拠は、その内容及び形式においても極めて杜撰なものである。このような証拠は、これが仮に通常の傷害事件であったとしても、弁護人としてはこれらの証拠を同意することに躊躇せざるを得ない。ましてや本件は殺人既遂、同未遂罪の成否が問われているものであり、しかも被告人自らが実行行為には直接関与しない共謀共同正犯の責任が問われているものである。被害状況についても厳格な立証が要求されるものである。

6 現在、公判においては、サリン鑑定に関する科学捜査研究所職員安藤皓章証人の証人尋問を終了した。野中弘孝証人の反対尋問はまだ残っているが、これまでの両証人の尋問結果からは、地下鉄車内等の残留物が果たしてサリンであったのかについて、十分な立証ができたと言えるかは疑問である。両証人作成にかかる鑑定書自体は極めて簡易なもので、いつ、いかなる試験をおこなったのか不明であり、その試験結果の具体的なデータが添付されず、鑑定の状況を第三者が検証できるものではない。鑑定方法としても、ガスクロマトグラフイー質量分析法のみを以てしては、サリンの同定として十分であるとは到底言えないことが明らかになったにもかかわらず、それ以外に行った試験結果などのデータを開示しないまま、「サリンに間違いない」との結論のみを証言するに過ぎない。

 さらにサリンの毒性については、安藤証言によっても、人を死に至らせるには一定濃度のサリンが必要であることが明らかとなった。そして、弁護人らの指摘するサリンの気化及び拡散の状況については、依然として検察官によって何らかの具体的な主張及び立証もされていない。

7 弁護人らとしては、以上のような状況に鑑み、本件被害者関係証拠を全部不同意とし、改めて検察官に対し、被害の事実、サリンとの因果関係等につき根本的に主張、立証を検討するよう求めるものである。

8 なお、本件各証拠を不同意とすることにより、裁判の長期化を懸念し、弁護人らの姿勢を批判する意見も予想される。しかし、このような批判は、刑事裁判の本質を全く理解していないものと言わざるを得ない。

 すなわち、刑事裁判において公訴事実につき立証責任を負うのは検察官のみであり、被告人は有罪判決を受けるまでは無罪と推定され、公訴事実についてはこれを争う権利を持つ。しかも、立証は、本来これを体験した者に対する証人尋問によるのが原則であって、供述調書等の供述代用書面の取調べは伝聞法則に反し、例外的に認められるに過ぎない。被告人側は、検察官の提出した証拠に同意する義務は全くないのであって、これを不同意とすることによって検察官の立証の負担が事実上増大することがあるとしても、それは本来刑事訴訟法が予定した証拠調べの原則に戻るだけである。

 さらに、本件は、先のような杜撰な証拠に基づき、検察官が軽傷者も含む三八〇〇名弱の被害者と思われる人たち全てにつき殺人未遂罪として起訴したこと自体に問題があるものである。

 もとより弁護人らとしても、本裁判をいたずらに長期化させることは本意とするところではない。今後検察官には、証拠を再検討し弁護人らの疑問に正面から答えると共に、例えば一か月未満の負傷者については公訴を取り下げるなど大胆な処置を検討するよう求める次第である。また、裁判所においても、今後は弁護人らに対して証拠の同意を迫るのではなく、検察官に対して証拠並びに公訴自体の整理をするよう適切な訴訟指揮をされることを望むものである。

9 以上は本日現在における弁護人らの意見であり、弁護人にあっては、今後も証拠検討を継続し、同意すべきものについては積極的に同意をしていきたいと考えている。





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