戻る
松本サリン事件、サリン検出までの技術的経緯

 1994年6月27日深夜の松本サリン事件で、長野県衛生公害研究所が長野県生活環境部公害課の要請を受けて、原因物質の究明にあたることになった。

 長野県衛生公害研究所はサリンなどの物質を検出し、同時に長野県警科学捜査研究所も同様の結果に至った。長野県警捜査本部と長野県生活環境部公害課は、7月3日「原因物質はサリンと推定される」と公表した。

 では、どうやって長野県衛生公害研究所はサリンを検出したのだろうか。検出の経緯を長野県衛生公害研究所の降籏敦海が水環境学会誌に発表している。内容を要約し、補足説明を付けたうえで紹介したい。

松本サリン事件における、サリン検出までの経緯
(長野県衛生公害研究所の場合)


 6月28日午前11時ころから約1時間かけて、現場付近の南北の池の水と第一通報者河野義行の家の屋内空気を採取した。
 蔵書を調べたり、文献検索を行い、日本中毒情報センターに電話で照会したりしたが、最初に原因物質として疑ったのは、以下である。

燐化アルミニウム PAl
シアン化水素 HCN
ホスフィン PH3
ハロゲン化ガス HF、HCl、COCl2など
有機リン系化合物

 このうち有機リン系化合物を最も疑った。たとえば有機リン系農薬なら一般にもでまわっている。それに、被害者にコリンエステラーゼ活性値の低下、縮瞳、視野狭窄などの症状がみられるとの関係医師の話を、テレビ・ラジオが伝えたからであった。これら症状は、有機リン系特有の症状なのである。




1、波形データ(マススペクトル)からの推定

 まず、リンに特有の炎光を検出することができる検出器にかけて、含リン有機化合物を選別した。
 次にEI(electron ionization)という方法で含リン有機化合物をイオン化する。それを、GC−MSにかけてトータルイオンクロマトグラフを得た。

 ちなみに、GC−MSとは、ガスクロマトグラフ(GC)と質量分析計(マス・スペクトロメーター。MS)とを組み合わせた、ガスクロマトグラフ質量分析計の略である。

池の水のGC−MS(EI)測定によるトータルイオンクロマトグラム

 図に見られるように、ピークが三つある。これは、含リン有機化合物が三種類存在していることを示している。

 そして、それぞれのピークからさらにマススペクトルを得、それをGC−MS付属のライブラリーと比較をして物質を特定することとなる。
 ピーク1は、次のように一致した。

ピーク1のマススペクトル(EI)


ピーク1のマススペクトル(EI)と一致する
サリンのマススペクトル(ライブラリーより)

 すなわち、ピーク1は
サリン CH3P(O)(F)OCH(CH3)2
と一致したのである。


 さらに、ピーク3はサリン合成の副生物とされる、
メチルホスホン酸ジイソプロピル CH3P(O)(OCH)2(CH3)4
と一致した。

ピーク3のマススペクトル(EI)


ピーク3のマススペクトル(EI)と一致する
メチルホスホン酸ジイソプロピルのマススペクトル(ライブラリーより)





 降籏はこの結果に、疑問を抱いた。
本当にサリンなのか?
サリンではなくたまたまサリンと同じマススペクトルを持つ別の物質の可能性はないのか?
衛生公害研究所のライブラリーのミスの恐れはないのか?
衛生公害研究所のライブラリーには入っていないがソマンやタブンの可能性はないのか?

 そこで国立衛生試験所に、長野県のものと異なるライブラリーの検索を依頼することにした。

 翌日データが送付されてきた。国立衛生研究所のライブラリーでもピーク1はサリンであり、ソマンやタブンではないことが明らかになった。

ソマン、およびタブンのマススペクトル(ライブラリーより)




2、リテンションインデックスの文献値との比較からの推定

 それでも抱いた疑問が完全に解消したわけではないので、別の方法を試みることにした。

 二番目の作業として、サリンの「リテンションインデックス」(相対保持指標)を用いた。

 リテンションインデックスとは、GCのリテンションタイムを標準となる物質(直鎖のアルカン)により指標化したもので、この数値の比較により同一物質かを判定するものである。

 そのためには、「サリンのリテンションインデックスの文献値」を入手しなければならない。再び国立衛生試験所に文献検索を依頼した。文献値は954.5だった。

リテンションインデックスの文献値(サリン)

 そして、C9H20ノナン、C10H22デカンを指標として、ピーク1のリテンションインデックスを測定すると、値は953となった。

ピーク1のリテンションインデックスの測定結果

 つまり、文献値と測定値はよく一致している。リテンションインデックスによっても、やはりサリンを指し示す結果となった。




3、分子量からの推定

 三番目の作業として、GC−MS(CI)測定をおこなった。
 GC−MS(CI)測定とは、目的とする物質の分子量を推定する方法である。
 サリンの分子量は140.09である。
 測定では、サリンの擬分子イオン(MH+)と考えられる141のピークが見られた。


ピーク1のマススペクトル(CI)




4、メダカ・アカヒレを使った実験

 四番目の作業として、メダカ、アカヒレを池の水に入れた。その結果、メダカは1時間、アカヒレは2時間以内に死亡した。



 こうして、

1、GC−MS(EI)による波形データ(マススペクトル)からの推定
2、リテンションインデックスの文献値との比較からの推定
3、GC−MS(CI)による分子量推定
4、メダカ・アカヒレを使った実験結果

の四つから、「原因物質はサリン」と特定したわけである。


【参照】
・降籏敦海「松本市における有毒ガス中毒事故への対応」水環境学会誌19巻2号1996年
・長野県衛生公害研究所『松本市における有毒ガス中毒事故の原因物質究明に関する報告書』1995年
・JISハンドブック化学分析1997年




戻る