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浅野健一さん 講演



司会: ありがとうございました。
それでは最後になりましたが、浅野さんお願いします。

浅野: 私は、メディアの問題をやりたいと思います。いま、宅さんが、浅野健一の本は役立たないと言われましたが、今度付録を付けて役立つ本を書こうかなと考えたりしたんですけど、役立った人が一人いまして、上祐史浩さんが、早稲大学のESSみたいなクラブに入っていて、その時に慶応と早稲田の早慶戦、―慶早戦と私は言いますけど―、英語のディべートがありましてね、その時に上祐さんの早大は実名主義派で、慶応が匿名主義でやって、そのために彼は、ぼくの本を一生懸命読んでいるんですね、相手を負かすために。私が95年5月6日に対談したときに彼はそう言っていてました。
 これは3月26日に、TBSで筑紫哲也さんや木村晋介さんを言い負かしたときも、警察とメディアの癒着を撃った彼の論理はまさに『犯罪報道の犯罪』の論理そのものでした。あれを聞いて、ぼくの本を使っているなと思いましたね。それを上祐さんみずから対談が始まる前に、実はあの本を読んで参考にしてますと言ってましたので確認できました。


犯行断定しない立場  



 私、今日の集会で最初の千代丸さんと福田さんの発言の中にですね、ちょっと気になることがあったのは、サリン事件というものを、完全にオウムがやっていると受けとれるニュアンスで話された点です。私の誤解かもしれませんが、やっぱり今日の段階では、真実はまだわからないんだというふうに考えた方がいいと思います。宅さんは、全然関係ない とは思えないと思うと言われました。その意味では、やはり一つ一つのセンテンスに、検察当局は、オウムが事件を起こしているんだというふうに発表しているとか、起訴したとか、主張しているとか、そういうふうにいちいち言うべきだろうと思う、非常にうっとおしいですが。

 昨日も、死刑廃止のフォーラムで団藤重光さんは限定をつけて、もしそうであれば、こうこう思うと。こう思うというのは、本当に思っているような感じがしたと私の友人は言っていましたけど。しかし、ジャーナリストや学者が公の場で発言するときは、いちいち限定をつけて言うことは非常に大事なんではないかという意味で、もちろん千代丸さんや福田さんもそういうことを全くふまえた意味で使われているんだと思いますけれども、再度確認しておきたいと思います。

 私は大学の中で非常に肩身の狭い思いをすることもありまして、いつ同志社の島田裕己さんになるんだろうかと。優しい学生たちは、研究室へ来て「先生ちょっとオウムについては、おさえた方がいい。気持ちはわかるけど」と言うんです。「おまえ、自分の就職の心配しろ」と言うと、「先生のゼミにいるから就職が心配です」と言う、「要するにおまえ、自分のことしか考えていないのか」と喧嘩になるんですが、まさにそういう雰囲気というのは怖いなぁと思います。

 私のゼミのある学生の両親はですね、「浅野というあなたの先生は、単なる目立ちたがりやで、ちょっと変わったことを言うためにテレビに出たり書いたりしているんだ」と言って、私にマインドコントロールされている子どもを普通の常識に戻そうとして家で論争をしているそうですけれども、ぼくはその家に行って両親と3時間くらい話すから、対話の場を設けてくれと言ったら、そんな浅野と話す気はないと、みんながオウムがやっているとわかっているときに、そんなことまだわからないなんて言う人はおかしいんだというわけで、対話の機会もないんです。



私への二つの批判 



 東京都内で二回くらいオウム問題の集会で話をしたときに、二つの反応がありました。

 一つは、『検証オウム報道』という本で上祐さんと対談した私に対して、「最大の人権侵害である、むこの市民を死に追いやったオウム真理教の外報部長などという人と対談し、無条件に活字にするなんてけしからん」と言う山谷で労働運動をしている活動家がいました。なぜそういう人間と同席するんだと私を糾弾するんですね。むかし光文社闘争などの 闘争をやってきた労働者主催の集会で言われました。 もう一つは、次のような問題です。私たちの考える報道基準において、オウム真理教のような宗教団体、あるいはそのリーダーたちが、疑惑を受けたり、刑事事件で逮捕・起訴されたり、強制捜索を受けたり、あるいは刑事事件にならなくても何か反市民的な行為をしたという疑惑があるときには、それはきちんと宗教法人の名前も、リーダーの名前も明らかにして顕名で報道すべきだと考えており、それはすでに1986年に発表しています(浅野『新・犯罪報道の犯罪』229頁、講談社文庫)。オウム真理教とサリン事件の問題とか、坂本弁護士の問題というのは、その調査報道の対象であろうと思います。そういう意味でいえば、麻原さんが疑惑を投げかけられているときに、なにも発言しないで、上祐さんにすべてをまかせて姿を隠しているということについては、私は疑問で、麻原さんは答えるべきだと考えて、上祐さんとの対談でも発言しているわけです。そういう話をしたら、ある非常にリベラルな弁護士さんが、そういう浅野さんの言いかたはワイドショウと同じ発想だと、人に弁明を求めるべきではない。麻原さんは黙っていていいんだということを強く言いまして、私は非難されました。その弁護士さんが今度国選弁護人になったんですけど、どういう弁護をするか私は楽しみにしています。
 この二つの大きな反応。片一方は、人権擁護派といわれる弁護士さんが、宗教団体代表でも何も言わなくてもいいんだという。もう一方の、左翼運動家の人達は疑いをかけられた人と同席するのもおかしいと言う。教団は反人民テロリスト集団だ。反革命だというふうに決めつけて私を非難します。それくらいこの問題は難しいと思います。難しくてもやっぱり言わざるを得ない。私を非難した二人、両方ともさっき福田さんのおっしゃった本当の意味での人権をわかっていただけないかなと思っています。



おかしいことがそのまま



 最近では、流行語大賞がひどいですね。オウム関連の言葉が四つくらいベストテンに入っ

ているのに、オウムに関する言葉はだめだという、草柳委員長ですか、言葉を認めないとい

うのもすごいことだなぁと思います。



 島田裕己さんが退職に追い込まれるという報道、これは研究者仲間で話題にしても、「あれはしょうがない」というわけで、何とか「守る」という声明を出せないものかなぁと考えても、それはやめといたほうがいいという感じになってしまう。よく考えたら島田さんは、なにも悪いことしていないですね。ホーリーネームをもらったと有田さんらは言っているわけですけど、ホーリーネームでないともいうし、私だってもらっているかもしれない。だって向こうが一方的に出すものなら仕方がない。大江健三郎さんも文化勲章を断ったけど出されたんです。国から文化勲章に選ばれる作家はひどいんだという論理はおかしいんじゃないか思う。

 それにゼミの学生がオウムに入っちゃったというんだって、じゃ、有田さんの出た大学の一部教員はある政党に学生を送り込んでこなかったのかということも問われることになる、いい悪いじゃなくて。あるいは、昔ある教授の授業を受けた学生が、天皇制っておかしいと思って、天皇にパチンコ玉を投げたかもしれないし、そんなことで教える側の責任をいちいち問われたら教師なんてやっていられないと思います。

 とにかくまったくおかしいことが、おかしいこととして話題にならないで、社会化しないままになってしまうという状況ですね。



「自白」報道を変えるために 



 報道の問題で、一番大きいのは「自白」報道だと思います。教団幹部が犯行を認めたとか、NHKが10月4日にやった「麻原全面自供」の報道が一番大きいですけれども、要するに警視庁の取調室で出ている、密室の取調室で行われている供述というものが、もしあったとしても、それがカギカッコ付きでまことしやかに報道される。私は、メディアが取調室に盗聴器をしかけるか、超能力者が作業しているか、それとも警察のリークを受けて書いているか、三つのうちの一つしかないと考えます。

 これまでの数々の冤罪事件を考えてみると、誰が自白したかということがいかにいいかげんなものかというのは、甲山事件、あるいは1983年から4人つづいて起きた死刑囚が30数年後に再審で無罪になるという冤罪事件、あるいは95年6月に無罪が確定した九州・大分のみどり荘事件、そういう一つ一つの過去の裁判記録を読めば、マスメディアの「自白」報道がいかに実体のないものかわかると思います。
 松本サリン事件ででっち上げられた河野義行さんに対して、松本の警察署長が95年5月に謝りに―個人的にだそうですが―いまオウムについていろいろ自供したという報道が出ているけれども、ああいう供述報道というのは、ほとんど嘘だと思いますよというふうに河野さんを説得した。河野さんに対する、農薬を作るときに調合に失敗し毒ガスを出したと救急隊員に話した、みたいな報道も同じように、そういうことで間違いなんですよ、いまも行われているんですと言って説得したそうです。あるいは、NHKの井手上社会部長は、―11月9日にNHKと河野さんは示談が成立したんですが―その交渉の中で、間違ってご迷惑をかけた情報は警察庁から取った、警察庁がそう言うから間違いないと思ってNHKはやったというふうに言ったそうです。ここでわかるのは、警察が言ったとおり書く、しかもそれは警察が言ったという事実を伏せて誰々が「自供したことがわかりました」と、「すでに何々について供述していることはわかっています」と報道してしまう。この二つで新事実が作られていって、次々と真実とくい違うことが記録されていく。また間違ったデータがそこに入れられていって、雪だるま式に「自白」がどんどんつながっていくという構造をどうすれば変えられるか。

 これは非常に簡単なことで、農薬から毒ガスが出たという情報がどこからきたかということを、そのニュースソースを書けばいいんです。例えば、朝日新聞でいえばアサヒイヴニングニュース、毎日新聞でいえば、マイニチデイリーニュースとかいう英語の新聞ではちゃんと書いているわけです。「ポリスオフィシャルズが非公式に語った」とかですね、書いているわけですから、そういうことをやれと、私たちは要求していかなければならないと思います。



今回が特別ではない 



 今度のオウムについての報道は、サリン事件が起きたからひどくなった、今回は特別にひどくなったとは、私はあまり思っていません。こうした傾向は、もう去年九州であったバラバラ事件とか、その前は甲府の信用金庫職員の誘拐事件、それから、つくばの母子殺人事件、あるいは、愛犬家殺人事件、そういう報道の中で、メディアと警察が好き勝手な報道をしていく、逮捕、あるいは逮捕前に被疑者を社会的に制裁して葬り去っていくというデッチ上げの共犯構造が見事にできあがっていた。そこへ、今回の大きな事件が起きた。しかもテレビに出ている弁護士もジャーナリストも、そういった意味では従来からそれくらいの人権感覚しかなかったんだというふうに私は思う。だから、今回の事態で、相手が毒ガスだから、国民の全体を敵に回すような事件だからひどくなった、警察の少々荒っぽい捜査も許されるといったことではなくて、そういう構造がすでにできあがっていたんじゃないかと思うんです。

  95年9月15日に松本で河野さんについての集会があったときに、私と福田先生が講演に行って来たんですけど、その時に福田先生が言われたのは、河野さんに対するああいう荒っぽい強制捜査、被疑者不詳の強制捜索や取り調べは、60〜70年代の公安・労働事件の中で警察がやってきたことが適用されたということを指摘されましたし、河野さんのことをいち早く弁護しようとして立ち上がった永田恒治弁護士は、被疑者不詳での捜索令状の出しかたがおかしいという視点から救援に立ち上がったという意味からいって、そういう60年代以来の警察国家化、日本の公安警察が肥大化する中で今回の事態がおきていることが明らかだと思います。

 もう一つは、自衛隊が海外へ出ていくという、私たちの学生の時には考えられない事態が、1992年樺美智子さんが亡くなったのと同じ日にPKO法ができて、これまでに自衛隊員が海外へ多数派遣されているという事態の中で、サリン事件に自衛隊が治安部隊として毒ガスに対抗するということで、公然と市民社会に登場した。そういう特徴があるんじゃないかと思います。



新聞記者は公務員1種か 



 そういう様々な問題の中で、当局を監視すべきなのが、ジャーナリズムではないかと思います。ジャーナリズムがそれをやらなければ、ほかにやるところがあまりない。本当は一般市民が監視すべきなんでしょうが、ジャーナリストたちは、一般市民に伝えるべきことを、市民の知る権利に答えるために仕事をするわけですから、権力を監視するという任務をやらなければならないのに、それを怠ってきている。

 なぜそうしたことを新聞記者がやらないのかと考えますと、新聞記者は、新人のときにサツ回りから始め、警察官と仲良くなってですね、情報をとる、―もらうと私は思うんですが、彼らはつかみとってくると言うんですが― 情報をもらいながら記事を書いていくということを若いうちからやらされている。しかも刑事の自宅を訪ねるときに、ウイスキーを持っていく、あるいは配偶者の誕生日を覚えておいてお花を持って行くとか、子どもの就職の世話をするとかいうぐあいにしろというような記者教育を受ける中で、しかも記者クラブの中で仕事をして聞記者というのは、国家公務員1種(報道職)だというんですね。なるほどうまいことを言うと思ったんですけれども、まさに行政職と同じように、報道職というのがあって、治安を守る、国益を担うという感覚が新聞記者の中にできていると思うんですね。そういう、私が、1984年に指摘したような犯罪報道の犯罪性を生み出すような構造そのものをいかに解体するかということが私たちの課題で、私たちの力がまだまだ弱いというふうに思います。

 ただし、私がずっと主張してきた犯罪報道の構造を変えようということに対して反対してきた人がいます。その一人が江川紹子さんです。彼女は絶対に実名主義を守るんだという、そうしなければ警察を監視できないというふうにあちこちでしゃべっていました。それといまテレビに出ている青年法律家協会系の弁護士さんは、わりとそういう主張に近かった。そういう人達、結局朝日新聞とかNHKが好きなんですね。「噂の真相」とか嫌いで、TBSの報道局など大手の堅いメディアの社会部というのはいい仕事をしているんだと考えている。住民運動や平和運動などの側に立つと考えられてきた人たちが、いま警察より先にオウムを叩け、叩けと言っているのをみて、本質が明らかになったなぁと思って、誰が本当のリベラリストか、本当の人権運動を考えている人かということがフィルターにかけられたというふうに私は思ってい ます。



天皇教からの解放 



 先ほど福田先生が最後にいわれた言葉に感銘を受けたんですが、私も多くの日本人は、まさに天皇教のマインドコントロールからいまだに抜け出ていないというふうに思います。この写真は 1991年11月3日に、インドネシアのジョクジャカルタというところで、日本の天皇夫妻が宮殿に入るときに撮影したものです。ここにいる三人は私をずーっと監視していたインドネシアの公安です。この公安を頼んだのは日本の警察庁です。日本大使館が頼んでいるわけです。私はジャカルタにいた一万人の日本人の中で反天皇テロリストの第一候補としてあげられていたんです。ある銀行の支店長なんかも、慶応の全共闘で、ぼくに一緒にデモに行こうと誘った人なんですけれども、その人のことは全然監視しないんです。

 ジャカルタにいる大使は、赴任するときに天皇家から写真をもらって行くわけです。ヴィオラかなんかひいているやつをね。その写真を、もしなくしたら大変なことになるんで、浅野さん、あれを1枚1週間ぐらいもらっていったらおもしろいよとある大学の教授に勧められたんですけれども、私はその教唆にのらずに、「先生が自分でやったらどうですか、私はやりませんよ」と言いました。そういう、大使が外国へ行くときに天皇から写真をもらっていく、その写真をなくすと昔の奉安殿の御真影をけがすみたいな、大変な目に遭うみたいなそういう雰囲気がある。それは、外務次官の娘を天皇家に差し出すという、そういうことからいってもはっきりしているし、あるいはそのお妃選びについて11か月も報道しないということを決めてしまうマスメディアの体質をみれば、いかにマスメディアが天皇教にがんじがらめにされているかがわかります。

 ですから大事なのは、私たちが天皇教からどう解放されるかということなので、オウム真理教と私たちの問題は、刑事事件としてオウム真理教幹部が起訴されている地下鉄サリン事件などの問題と、オウム真理教の宗教としての問題がもしあれば、別個に考えて、後者のほうはこれからも調査報道をすべきだし、これまであまりにも調査報道がされていなかったかもしれないと思います。

(拍手)


司会: どうもありがあとうございました。



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