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福田雅章さん 講演



福田: 福田雅章でございます。きょうは、こんなたくさんの方がお集まりいただいて大変光栄に思っております。今日のテーマは、「オウム問題における人権」という書き方をしております。これはいったい何を意味しているのかというところから入らせていただきたいと思います。



人権こそ問題だ 



 「オウム問題における人権」とは、いま起訴され、被告人になっているオウムの人達の人権のことなのでしょうか。或いは、子ども達を強制連行されたオウムのお母さん、お父さん達の人権なのでしょうか。それともサリンで殺された被害者の人権のことなのでしょうか。私は、実は本当に大事な人権はそこにあるのではないと、その人権とは我々の人権なのだと、我々一般市民の人権こそがこのテーマの中に入っている一番重大な問題だと考えております。

 最近この事件が起きてから日本社会は、命の問題に大変センシブルと申しますか、神経質になりました。いつサリンで殺されるかもわからないこの恐怖、こういことが、いまの平和な日本の市民社会の中であってはならない、哲学者まで動員いたしまして、オウムの事件とは、非常に残虐な、日本の未来を背負うべき人達が、日本社会を壊し、日本人の生命を危うくしているんだ、そこにこそオウムの本質があるという事を喧伝してまいりました。しかしこの視点からでは決してオウムの本質は捉えられないと私は考えております。

 吉本隆明氏さえも、次のようなことを述べております。「命を懸けて革命をやろうとした人達、―これは、麻原さんほかオウム教団の人達を意味していると思いますが― 自らの命を懸けて革命をやろうとした人達をそんなに簡単にバッシングする事はできない」というコメントを新聞に出されております。ここでも吉本さんの問題意識というのは、実は“命”の問題だったんです。

 私は日本で初めて“人権こそ問題だったんだ”という視点でこのシンポジウムを開かれた今日の実行委員会の皆様の見識の深さに敬意を表させていただきたいと考えております。


暴力による支配に抗して 



 人権とはそもそもなんだったのかともう一度考えてみる必要があるだろうと思います。実は私、本来ならばポリネックと申しまして、横山弁護士と同じものをしていなければならないと医者に命じられています。けれども皆様の前でそういう無様な格好は見せたくないのでいまは隠してございます。これは私は、19歳の少年に、完全に赤信号を無視して突っ込んでこられまして、私のワンボックス・カーが大破してむちうちと手のしびれという症状になっているわけでございます。これは人権の問題で考えた場合、私の人権は、なぜ人権ということがでてくるのか?実はその19歳の少年の80キロで走ってきたあの赤い車、これがまさに暴力でございます。その暴力でもって私の人生が支配されたということ。だから人権が必要になるわけです。生の実力によって他人を支配し、管理する。それに対して、生の実力でもって支配し、管理してはいけないんだよと。この力というのはお金の場合もありましょうし、男だったら腕力もありましょう。最近は女性の腕力が強いというのは、アメリカでセクハラは逆に女性によって男性が犯されているということでございますけれども、生の力でもって人を支配し管理しちゃいけないんだよと、その支配を阻止する手段として我々は人権という装置を作ったんです。

 人権というものを一人一人に保証することによって、他人によって生の力で支配されないという、社会的に承認された力を作ったんです。先ほど千代丸さんは大きい権力に対抗することこそ楽しいんだと言われましたけれど、大きい権力というのは、生の実力・武力が、うんと大きいということなんです。

 したがって人権というのは、我々の日常生活の隣にあるわけですね。恋人によってあなた方は、―私の場合は妻になりますかね―、支配されてはいないか、管理されてはいないか。私は親という力、生殺与奪の権能を持って、子どもを支配し、管理していないか。これは、暴力なんです。そういう暴力によって、子どもを支配し、妻を支配している、それに対抗するために子どもの人権がある。そして女性の人権があるわけでございます。今回この人権が、どういう対抗関係、どういう生の実力によって支配されたから、オウム問題における人権が問題になっているのか、これをきちんと精査いたしませんと、非常に難しい問題がでてくるだろうと思います。



人権と弁護 



 いま千代丸さんも何人かの名前を挙げられました。有田芳生さん、江川紹子さん、伊藤芳朗さん、なぜ彼らは批判されなければならないのでしょうか。まさに人権のじの字も知らないからです。

 弁護士が人権を忘れたときどうなるか。彼らは社会的正義を実現するものとしてのカルテルを結んでいるわけですね。弁護士法というのは、あれはカルテルでございます。弁護士の資格のある人以外は弁護活動はできないんです。その人権を守るためにカルテルを結ぶことを許された人が人権のじの字を忘れてしまったとき、日本の社会は暴力の社会になってしまうわけです。

 伊藤さんはもちろんの事、江川さんも、それから有田さんも一つ重要なことを忘れている。言っていることは、大変立派なことを言われている場合もございます。例えば次のように言われた。「オウムの一般信者の人達はなにも悪いわけではない。麻原―これは、彼らの言葉では呼び捨てで―によって支配されて、その命令で動いていたにすぎないんだ。だから暖かく迎えてあげましょう」と言うんです。これに反対する人はいないだろうと思います。弁護士さんもそう言っています。今日お配りした資料の中では、21頁のオウム被害対策弁護団の方々の出された文書の中の、「信者・元信者の社会復帰について」という項目にもそのことは出ております。



権力と個の問題 



 私はですね、今回の問題を、やっぱり権力と個の問題、―権力というのは暴力です。―暴力によって支配される個の問題としてこの関係を捉えていかなければならないと考えます。

 そうすると、ここで暴力とは何であるか、サリンで人を殺すというのは、これは暴力でございます。これは権力でございます。その権力によって日本社会の市民が犯されたというわけでございます。したがって、こういう違法な権力というものは、やっぱりその被害者の人権という視点から見ても、きちんとこれは是正をし、その権力の行使に対し、違法という判断、措置を下していかなければならない。

 ところが、今回はそんなに単純なものではないということ、実は、権力と個の問題は三重の関係に存在しているんだということを是非ご理解いただきたい。三重どころじゃない。実はもっとたくさんなんですね。麻原さんを中心とするこのオウム教団の権力というものが、まずどこに出たかといいますと、一般社会の市民をサリンで攻撃するという暴力によって出ました。

 もう一つは、身も心も捧げ尽くして信用できる、この人なら身も心も尽くしてもいいんだと信じていたそのグルが、実は権力者になって、一般信徒を管理し支配したわけでございます。権力の形は、オウムの幹部対一般信徒の関係でも出てきます。これは日本の大きい主要な社会とオウムという社会、いやオウムの社会における権力と個の問題、これはオウムの中の社会じゃなくて、オウムから一般社会の人に対する暴力もあったわけです。犯罪というのはこれは権力行使なのでございます。

 もう一つ考えなければいけないのが、さらに大きい国家の権力です。人が暴力によって人を支配しようとしたときには、我々は契約によって、より大きい国家の権力に、つまり国家の実力に委託をいたしまして、その小さい犯罪者の力を阻止して、我々の身の安全を守ってくれと約束をしているわけです。それを我々は刑法という形で契約しているわけでございます。



大きい権力・小さい権力 



 したがって麻原さんを中心とするオウムが我々を攻撃するというその暴力、権力の行使に対して、より大きい権力がそれを阻止してくれる、ということになるのでございます。するとここでまた、権力と個の関係が出てまいります。じつは権力者であった、生の実力を使った、オウム教団の幹部の人達は、より大きい権力との関係におきましては、これはやっぱり権力と個の関係と同じ事になってまいります。

 同じように、大きい権力は、我々市民一般の個に対する関係として問題が出てくるわけでございます。さらにはメインの文化と、サブカルチャーという小さな集団との関係、ここでも大きいメインのカルチャーはサブカルチャーに対してバスティング、或いは非国民宣言をいたします。こうしたことについては戦前・戦中のことを考えていただくとおわかりになりますけれども、ごく簡単にはやっぱり権力と個の関係、大きい一般社会のほうが強い生の武力をもって異端の社会をつぶすわけですから、ここにも権力と個の問題があるわけでございます。

 このように何重にもなった権力と個の問題を解きほぐしながら、我々は一つ一つの問題を解決していかなければならない。江川さん、有田さん、伊藤さんが間違っていたのは何だったのかが明らかとなります。次のことを想像してみてください。第二次大戦の末期、日本にアメリカ軍がやって参りました。飛行機に乗って、美しい、きれいな声でですね。「悪いのは、東条英機を中心とする軍部である」と。「あなた方一般市民はまったく悪くない。したがってアメリカ軍に降伏しなさい」と。「そうすれば、食べ物もいっぱいあるし、すばらしい教育もあるし、平和で自由ですよ。自由を保障しますよ」とアナウンスしたわけでございます。この飛行機に乗ってきた宣伝担当の女性アナウンサー、これはアメリカ権力の使者なのでございます。

 実は江川さんがそれなのです。自分自身が属している大きい社会の中の権力と一体となって、より小さい社会に対して立派なことをアナウンスする。これはより大きい力が、小さい力を支配する関係にほかなりません。要するに国家権力、警察権力、自衛隊という力、生の力が支配をする訳でございますから、自分が支配をされる立場に想像力を働かせるべきなのです。すなわち一般社会における、権力と個の問題を意識した上で発言してほしい。



子どもの拉致問題 



 教団施設からの子どもの拉致、児童福祉法に則ったというけれど、これは手続き的に完全に違法な手続きである。微罪逮捕・別件逮捕もそうです。大きい権力がですねえ、小さい権力を駆逐する。すなわち犯罪を駆逐するという名目で、法に則らない形で、巨大な権力を使っている、これはやっぱりおかしいんだと。そういう使い方をしちゃいかん。一般社会において、我々はいつでも犠牲者になる可能性があるんだよということを意識した上で被害者の人達に対して、「あなた方はそういう小さい権力によって被害者になったんですね」、或いは一般信徒に対して、「麻原さんを中心とするオウムの幹部の人達の権力の犠牲者になったですね」と発言してほしい。

 すなわち、弁護士さん、或いは解説者はですね、自分が常に権力の被害者になり得るんだという、そのことを十分に認識した上で、だから権力の被害者になった一般信徒、そして、幹部の被疑者・被告になった人達、そしてサリン事件の犠牲になった人達を語ったとき、初めてこれは、彼らは正当な立場でものが言えるんだろうと思います。ところが、彼らは、まさに権力と一体になって、権力に対する批判を一切せず、今回の巨大な権力の行使に対して黙して語らないで、より小さい暴力だけを問題にして、それだけを中心に論じている。そこに大きな人権意識の欠如があるというふうに私は考えております。これが一つの前提でございます。

 私は、この事件に係わったのは昨年の6月29日以降でございます。27日に松本の事件が起きまして、テレビ局が何か解説をしてくれというので29日に出まして、「無罪の推定原則からみて、河野さんを犯人扱いするのはとんでもない、河野さんは無罪と推定されなければならない、現在の警察のやり方はおかしい」と私は発言しました。それが今回の事件との係わりの始まりでございます。
 河野さんは、麻原さんを中心とするオウムの幹部の被疑者・被告人に損害賠償の請求も出しておりません。それから一般信徒に対してもきちんと理解を示しております。まさに、雲泥の差がそこにあるんです。河野さんという方は100年早 く生まれすぎた人ではないか。きちんと人権をわかっている人でございます。私は非常に敬服しております。

 あとその人権という視点で、子どもの問題についてごく簡単に触れさせていただきたいと思います。

 今回オウム信徒の子ども達に対して、警察など当局は、あまりにもひどい虐待が上九一色村で、或いは亀戸で行われていたので、子ども達の最善の利益を保護するために強制的に子ども達をその場から連れ去らざるを得なかった、情緒不安定の子ども、学校にやっていない、親子関係を全部否定されている、このような成長発達を阻害してる環境の元に子どもを置くことはできない、したがって子ども達を保護するという名目で保護いたしました。

 保護という言葉は、児童福祉法33条、25条の要件及び33条に則ってなら保護という言葉を使ってもよろしいんですけれども、今回はいくつかの問題がございます。決してこれは保護に値しません。警察による拉致でございます。それをはっきり私は皆さんに公言をしたいと考えております。



“一時保護”の違法性 



 四つのことに分類して考えていきたいと思います。一つは、警察に子どもを一時保護する権限があるのかという問題。第二番目、もし権限があるとしても、手続き的に、どのような手続きをとればそれを行使できるのかという手続きの問題。第三番目に、実態的要件と申しまして、本当に児童福祉法25条でいうような虐待、親から遺棄されて、保護しなければいけない情況にあったのかという実態面の問題。そして、第四番目に一時保護の継続の問題でございます。一時保護というのは、一時的な、より本格的な措置を加えるための検査をするための期間でございまして、従前の例におきましても一か月を超える一時保護というのは戦後の歴史の中にございません。それが最近でも未だに一時保護をされているオウム関係の子どもがいるという事は、これはいったい何を意味しているのか。一時保護の違法な継続の問題です。

 以上四つの論点が出てきていると私は考えます。まず、第一に児童福祉法の29条では、児童相談所長は必要な場合には子どもを一時保護し、また適当なものに一時保護を委託することができると規定しております。この適当な者に委託をするというのは、一時保護という形でその身柄を預かって24時間面倒をみる人、適当な人、すなわち施設とか、親戚の家などに身柄を託することができるという意味でございまして、児童相談所長が子どもを取り上げる際に、その妨害排除のために、警察を使うことができるという規定ではございません。ところが、今回は29条に委託できるという規定があるから警察に委託をしたんだというのが一部の弁護士さんの主張でございます。しかし、この弁護士さんは法律のほの字もわかっておりません。なぜならば、民事執行法6条と申しまして、強制執行で財産を取り上げるときのことがはっきりと出ているんです。執行のために執行官が行きまして、妨害があった場合、その妨害を排除するために警察に援助を求めることができると書いてあるんです。ところが、今回は物じゃないです。人間を取り上げるのにそういう規定はどこにもないんです。どうして子どもを取り上げることを委託できるなどという解釈が可能なのでしょうか。これは憲法の33条、35条そして31条のすべてに違反する解釈であることは明らかでございます。

 警察には、そもそも委託される権限がないわけです。じゃ、デュウプロセスという手続き面でいきましょう。警察がなぜ強引に力ずくで子ども達を取り上げることができたのでしょうか。

 警察がそこに来ます。そこにいる集団は子どもを虐待している、だからそこに隠れている子どもをいま取り上げるという理屈を言うにしても、そもそもその部屋に入る、人の家に黙って国家権力が入るという権限はどこから出てくるのでしょうか。これはきちんと法定されていなければなりません。法律が許しているのは、正式な令状のある場合以外は現行犯の場合だけでございます。

 言い換えますと、児童福祉法29条では、調査権の時には、立ち入り権を認めております。たとえいやだといっても、虐待されている子どもが本当にいるかどうか調べるためだけには―これは立ち入り権と申しましてですね― 強制的に家宅侵入する権限を児童相談所に与えております。身柄を取り上げるためにはそういう権限をいっさい与えておりません。しかも今回は警察がやったんです。児童福祉法は、児童相談所の職員にはそれを許しておりますけれども、警察には一切許しておりません。たまたま、犯罪捜査のために家宅捜索をして、物を取り上げているわけですね。その犯罪捜査のために入っていたのを利用して、家の中から子どもを連れていっただけです。これは明らかに家宅捜索、強制捜査の乱用でございます。その範囲を明らかに超えているわけでございます。まず家に入ることがそうです。ましてや子どもを取り上げて行くなどはできません、絶対に。押収物件は必ずあとで目録にして渡します。今回の家宅捜索令状の中に、押収物件の中に子どもが入っているなんて事は考えられません。そうしますと、強制捜査権の一部として行ったとも考えられません。



権限は全くない 



 次に考えられるのが、警職法でございます。戦前の行政執行法というのは、これは悪名高き行政官の権力の乱用を認めた法律でございますけれども、それを戦後まさに日本国憲法のもとで否定いたしまして、あらたに警察官職務執行法を作ったわけですございます。犯罪捜査に関しては、これは刑事訴訟法にまかせました。警察官職務執行法3条では、迷い子、病人、親の保護のもとにない子は、本人が同意するときにはこれを保護することができるという規定になっておりますけれど、本人が拒否するときには、これもできません。そうすると今回は、警職法3条による手続きをとって警察が保護したということにもなりません。児童福祉法はさっき言ったように警察の権限を認めていないのですから、警察は今回のように子どもを拉致する権限は全くなかったわけでございます。

 実態がひどすぎたからという理屈を持ち出すかも知れません。実態がひどすぎる場合、警察どころか我々でもできます。いま目の前に子どもが床にたたきつけられて虐待されている、死んじゃうというときには、これは刑法37条の緊急避難、ないしは正当防衛というかたちで、ドアをたたき破ってでも入って、子どもを連れていくことができます。実態を考えた場合、オウムの子ども達はそういう情況にあったのか?上九一色村については確かなことはいえません。場合によっては、コンテナの中に何週間もいれられたという情報もありますので、あり得たかもしれません。でもそれを、我々はその場にいたわけではございませんのでわかりません。少なくとも、亀戸の施設から連れられていった子ども、杉並道場から連れられていった子どもは、5月16日に行われた子どもの強制連行の時には、そういう情況は全くないということは、その当時のお母さん達の証言、オウム側の人が撮影したビデオを見ても明らかでございます。

 緊急避難の場合は、個別的な子どもの最善の利益として許されているのです。団体としての子どもの利益を守ろうとすることは、これは明らかに子どもの権利条約に違反するわけで、個々の子どもが危ない場合のみその適用ができる。しかもこれは警察の権限でなくて、あらゆる人に許された権限でございます。今回は そういう緊急状態になかったということです。

 そしてお母さん達は脱会をいたしまして、子ども達と新たに人生をやり直すという決意のもとで待ちに待ったんですけれども、来年の3月〜4月までは子どもを返さない、マインドコントロールをされているから駄目だというんです。親から、嫌だというのに取り上げておいて、いったいどういう条件が整えば子どもを返してくれるのか、それも説明しない。じゃ、マインドコントロールされているという子どもにどういう治療をするのか説明してくれといっても答えてくれない。そもそも仏陀の教えを正しいと信じていることをやめない限り返さないということです。そんなことがあり得るんでしょうか。親の宗教教育の権限、思想教育の権限、こういったものこそ、実は民主主義の多様性を作る母胎のはずでございます。それを公然と無視しまして、一時保護の必要性がなくなっても返さないで、施設収容で長期収容となっている子どもたちが50数名残っております。それでいながら、離婚をした元の旦那、出家するために喧嘩別れをした旦那のところには、マインドコントロールが解けたというんでしょうか、さっさと返しております。

 当局の本音は何だったのか。実は児童福祉法が子どもの最善の利益を守るために使われたのでなくて、警察の治安維持のために児童福祉法が乱用され、利用されたんだということ。これも我々ははっきりさせなければならない。言い換えると児童相談所の人達、厚生省の人達は自分たちの領域が、かつて軍部に土足で踏みにじられたように、いま警察権力によって、自分たちの子どもを守るという任務が犠牲にされているんだということ、これをきちんと認識して、自分たちの職務をしっかりと認識しなければなりません。そのことを徐々にではあるけれども気が付き始めている人もでてきているようでございます。



戦前から続く日本のカルト 



 あと一分だけお話しさせてください。権力と個の問題、これは戦後50年、ここにおられる浅野先生をはじめ皆さん一生懸命考えてきたことでございます。しかし、建て前としての人権ということは出ましたけれども、本音では実はそうでない、我々はカルト集団の中にいたのではないでしょうか。オウムとは、我々のカルト集団が鏡に映った姿、あまりにも醜い、だから一生懸命崩そうとした。これがオウムバッシングであり、テレビのワイドショウであろうと考えています。

 じゃ、その根源はどこにあったのか。最大のカルト集団は、戦前・戦中の社会でございます。カルトの定義はなにか、教祖がいること、それから教義があること。その教義に基づいて全体がマインドコントロールされること、そして、それ を維持するために情報が隠蔽されること、それらを作るためのシステムが制度化されていること、この五つがカルトの定義でございます。そうであれば、オウムどころか日本国民全部が戦前のカルト集団から発生しているということがわかっ てくるはずです。そしてなぜいまここで問題になるのか、それは戦前との断絶がきちんとできなかったということなんです。まさに戦後、教祖・教義・そしてマインドコントロールの仕方、装置を変えまして、我々は別のカルトに所属していた。国家経済資本主義というカルトのもとで、エサ、ご褒美があればよかったのではないか。いままでは天皇という教祖様は一応いりませんでしたけども、これからはまたさらに、もうエサがなくなりましたから、教祖を作りましてですね、我々をマインドコントロールしていかなければなりませんから、新たな天皇制というものがいまここで復活しようとしているわけでございます。実は戦後、単身赴任、それから不登校、過労死等、たくさんの事象の中で、我々は我々自身を全 部捨てて、権力に擦り寄り、ご褒美をもらうために我々はアイデンティティーを捨ててしまったんじゃないでしょうか。

 自由というものをみな捨てた。リクルート事件、或いは金丸事件、よくみてください。大企業も全部自分を捨てて予算というエサをもらうために擦り寄った。擦り寄りとは自分を捨てること、マインドコントロールされることなんです。学校を見てください。受験競争という中で、子どもたちは全部マインドコントロールされている。この戦前との断絶をしなかったこと、情報隠しですね。教科書を見てください。従軍慰安婦など、戦前のカルトが、サリン事件をいま起こしたように、同じ程度に戦前我々がやったことを、我々はきちんと情報も与えられないできたわけでございます。大臣でさえいまだにわからずにあんなことを言っているんです。

 我々はいまカルト集団の中にいたんだということ。オウム事件とは、まさにそれを我々に悟らせてくれているんではないか、人権を言ってきた江川さん、伊藤弁護士、これも私の友人でございますが、まさにそのような考え方、いまワイド ショウで述べているような考え方しかできない程度にしか戦前との断絶が行われていなかったということ、これこそが我々がいま真剣に考えなければならない問題なんではないかと考えております。どうもありがとうございました。

(拍手)



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