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宅八郎さん 講演



司会: ありがとうございました。
それでは引き続いて、宅さんお願いいたします。



私とオウムの関わり 



宅: 宅八郎です。

 おふた方がいまおっしゃったことは、もっともだと思います。

 ぼく自身が今回の地下鉄サリン事件に端を発した騒動をどのように見ていたかということについてお話ししたいと思います。

 まず、オウム真理教というのは、ぼくはわりと好きですね。正しいとか正しくないということとは別個に、好き嫌いを話していいと思うんですけど、わりとぼくは麻原彰晃が好きなところがあるんです。ぼくは信者ではないですけど、顔も面白いし。ぼく歌が好きなんですけど、麻原彰晃の歌は、実はぼく、ほとんどカセットを持っていますけど、結構いいんですよね。なんていうのかなあ、抑揚のない歌い方というか、微妙な、ぼくは歌謡曲好きなんですけど、歌謡曲史上で自分の名前を歌ったっていうの、まずないんですよね。

 ぼくが麻原彰晃に会ったのは90年の確か1月位で、選挙にでる直前だったのかなあ。当時ぼく、杉並に住んでいたんです。最初に、あの青いポスターを見て、かなりインパクトを受けたんです。すごい、と思いまして。坂本弁護士一家拉致って89年の終わりでしたかね、総選挙の前でかなり騒ぎだしていた時期なんですけど、清水さん、四姉妹にぼくどうしても会いたくなりましてね、美少女に縁がなかったものですから。清水四姉妹と麻原さんと、麻原さんはおまけみたいなものだったんですけど、会わせてくれと取材を申し入れまして、そして終わって話をしていると、どういうのかな、好き嫌いでいえば、比較的好きだなと思いましたね。

 歌のこともそうですけれども、どういえばいいんだろう、よくオウム真理教とオタクという言葉のマイナスイメージを重ねあわせて、オタク世代の宗教といういわれ方するわけなんですけど、現にぼく自身たとえば非常に有名な方と同い年なんですけど、二人の名前を挙げておくと、宮崎勤と上祐史浩なんです。まさに世代の彩りというのかな、ある共感を持ってしまう面があるんです。

 麻原さんが登場するとき、椅子に乗ってくるじゃないですか。あの感じっていうのは、ほとんどアニメとしか思えない。キント雲じゃないですけど、来たりする感じなんか、絵になるなとかすごくそういう感覚はもっていた。

 何年か前ですけど、「朝まで生テレビ」ですか、幸福の科学と激突したときなんか、ぼくは見ていただけですけど、気持ちのいいくらいまともなことを言っているんですよね。部分部分って言うのは細かく見ていくと、オウム真理教の言っていることとか、上祐史浩の言っていることっていうのは、かなりまともなことを言っているっていうのが、ぼくの感覚です。


捜査と報道のありよう  



 今回の問題というのは、大きく分けて二つだと思うんですね。まず、警察の捜査のありようと報道のありよう、この二つなんですけど、ぼく自身は例えばこの二つ、現在正しいとはぼくは思っていませんけど、なくていいのかということになると、なきゃいけないんです。あっていいと思うんです。とにかく、警察もあっていいし、マスコミもあっていいと思います。 

     ぼく自身のここまできた生き方で説明しますと、ぼく自身ライターとして原稿書いたりその意味では、なにかについて報じる側でやっていましたし、やっているわけです。ぼくのデビューが90年かな、ライターとしての宅八郎っていうのは、報じようとする側なんですけども、その後、わりと顔が売れてしまいまして報じられる側というのを経験したわけです。おそらく今日こちらにパネリストとして参加されている中で、報じられる側というか、報道被害を一番ひどく受けているのはぼくだろうし、警察の逮捕歴でも前科一犯ですから、その時の報道もかなりひどかったんです。報じる側と報じられる側をいっぺんに経験してしまったんです。先ほどの警察のありようとマスコミのありようを考えると、警察って結構マスコミ好きですよね。警察がマスコミ好きだっていう感覚ってのが、すごく実感としてわかるんです。かっこいい警察を演出しようとするじゃないですか。かっこいいでも、正しいでもいいけど、都合のいい情報だけを出してきますよね。本来であれば、― そこは浅野さんに次に語っていただくことになると思うんですけど―、ジャーナリズムなり、報道というものが、警察を監視して正しい警察というものを維持していけばいいと思うんですね。

 ところが、今回のオウム真理教の問題に関していいますと、当初その、上九ですか、サリン事件の3月20日、そして22日に一斉捜索、あのときの報道に端を発しているということ自体大変な大問題で、あんなもの、警察側が集合時間と集合場所を決めて、じゃ朝8時ね、やるからねとか、2500人いますよみたいな、そんなやり方をしなければあんな報道は できないわけで、そういう意味だと、警察とマスコミというのは、あきらかに手を組んでオウム真理教に対する糾弾を行っていったと思います。そこから始まっていること自体、ぼくものすごく懐疑的なんですけど、その一連の流れの中で、だから、子どもの拉致とかなんかが行われたと思うんですね。



私の報道被害対策 



 ぼく自身が、報じる側と報じられる側というのを経験して、自分の人権、ぼく、人権という言葉あまり好きじゃないんですけれど、何らかの不愉快な思いをしたり、人権が侵されたといってもいいんだけど、それを自分が経験したり、あるいは、人権が侵害されているケースをみているときに、自分なりに考えたことがあります。

 それは、言葉を発するにしても、当然ぼくに反発する人がいるかもしれないけれど、ぼくが考えたことというのは人権救済なり、人権を守るっていうのをつきつめて追求すると、“処刑”にいくっていうことなんです。そういう言葉だけを言うと、それはオウム真理教じゃないかと言われそうなんですけど、もう少しわかりやすく言うと、報道に携わっている人達が、あまりにも、自覚と責任がないっていうことを、徐々にぼくもわかってきた。 報じる側が、報じられるケースっていうのはほとんどないし、ま、ときどきあるくらいで、よっぽどひどいことでもあればやっと報じられますけど。

 ぼく自身、高校生の時とか大学生の時とか、浅野健一さんの本とか読んだんですけど、―浅野さん怒んないでくださいね―、なにもならないなと思ったんですね。自分が、現に報道被害に曝されるというケースに立ってみて、浅野さんの本ってあまり役に立たなかったんです。申し訳ないです。それで、どうしたらいいのかなと考えて、やっぱり考えるきっかけになった言葉は、ビートたけしさんがフライデー事件の起きたときに講談社に討ち入りしちゃったわけですけど、「ほかに方法があったら教えてくれ」と言ったんです。ぼくはこの言葉が頭の中に引っかかっていたとこがあって、ぼくなりに考えたのは、報道に携わっている人間というのは、一回“処刑”されないと駄目なんだということを考えたんです。

 ぼくのいう“処刑”というのは、ちょっと言葉の意味ってのは正確にわかんない人は恐ろしいかもしれないんですけど、例えばこういう言い方をした方がいいかな。むかし「オウム真理教の狂気」というキャンペーン記事で、「サンデー毎日」が最初に報道したときに、当時の編集長の自宅周辺にビラを配ったんですね。その時にマスコミは、なんていう教団なんだろう、とんでもないことをするなというふうに報じたことをぼくよく覚えているんだけど、ビラの枚数と「サンデー毎日」の部数ということを考えたら、ビラくらいいいじゃないかということをすごくその時に考えたわけです。もう5年も前ですか。その感覚は、いまのマスコミの人は全然持っていないし、逆に言うと、ぼく自身が“処刑”という言い方をしましたけど、ビラを配ったこともあります。

 報道に携わっている人間というのは、自覚もないし、責任もないのに、特権意識だけあって、自分たちは報じられないと思っているし、不特定多数の人間が見たり読んだりするっていうことに対してあまりにも無神経だし、そういうことは、自分が身を切られたときにはじめてよくみえてくる面があるんです。



マスコミによるバッシング 



 別の言いかたで今回の事件に絡めて言うと、上祐史浩って相当バッシングされたじゃないですか。あれなんでバッシングされているのかなとぼく自分なりにみて、宅八郎の場合も若干そうなんですけど、上祐史浩が嘘を付いたとか、サリンをばらまいたとんでもない教団の幹部だったからとか、そういうことじゃなくて、マスコミの上祐に対するヒステリックなバッシングっていうのは、ぼくはよくわかるんだ。どうわかるかというと、あれは一回言い負かされているからなんだ。マスコミの人間というのは、とにかく言い負かされたり、質問されたりすると、この野郎と思うんですね。

 ぼく自身は、上祐史浩の言っていたことは、部分部分ってのはわかるし、実にまともなことを言っていたなという気もします。こういうような言動をしていると、八郎はオウム寄りだなんていうことを決めつけてくるフレーバーな人もいるんで言っておくと、サリン事件などについての印象をこの場で語っていいかどうかわかりませんけど、全くオウム真理教が無関係だとは、いくらぼくでも思っていないです。

 ただ、まともな捜査が行われて、まともな報道がされればいいとぼくは思っているだけです。だから疑わしきは罰せずというのは公理ですけど、疑わしい場合は捜査してもいいと思うんです、それは。手続きに従って。

 原則論というのを唱えていると、「じゃ、おまえの裏庭にサリンを撒かれていいのか」というめちゃくちゃフレーバーなことを言い出す人もいますけど、「いい」ってぼくは答えます。それはもう、いまの法の体系の現場にいるんですから、その中で死ねばいいと思っているし、それを超えてきたらあきらめればいいと思っていますから。それよりはもっと、正しく法が作られ、正しく法が守られればそれでいいんで、その原理原則っていうのを貫こうとしたときに、もうこれで来るものに関してはあきらめる、それでぼくはいいです。



マスコミの無責任 



 今回だけは特例という言い方が非常にされているんですけど、それを総理大臣が言ってくれればぼくは認めてもいいです。「戒厳令」並みたいなことがいわれるけど、じゃ、「戒厳令です」とはっきりと警視総監なり、総理大臣なりが、どこのセクションが言葉にするのかわからないですけれども、はっきりしてくれるんなら、ぼくはそれでもいいと思っている、ある意味では。いまのは、マスコミのありようとか、オウムに関してもそうだけど、あまりにも責任の存在が曖昧だというのが一番問題だと思っていて、まさに毒ガスのように漂っていて、曖昧なんですよね、あまりにも。

 たとえば、マスコミの報道のありようということを考えていても、だいたい責任のがれのパターンっていうのがわかるんですが、「いや、視聴者や読者が求めるものを自分は提供しているんです」ということを報道に携わる人は言うんだけど、おそらくこの会場にいらっしゃる方もそうだと思うんだけど、デイリーのテレビを見たり、東スポ読んだりしている人は、キヨスクに売っているから読んでいるんだし、デイリーに写っているから見てるんで、別にそんなこと読者や視聴者に責任なんて求めようがないし、そう考えるとその責任は誰にあるんだという話になりますから、絶対に報道に携わる人間は、視聴者や読者の求めているものを提供しているだけだなんてことは言っちゃいけない。

 同じように、マスコミ報道が、警察をもうすこし監視するようなことがあったら、いくらなんでも、やり過ぎかなと、警察も身を引く面もあって、子どもの拉致も起きなかったかもしれないし、かりに子どもの拉致というのが行われたときに、いや、これはまづいんじゃないかなという異議を大きく唱えれば、もしかしたらそこで何らかの措置がとられたかもしれない。

 あまりにも漫画的な価値観じゃないけど、反オウムとか、親オウムとかっていうふうに分けて捉えられちゃうと危険だと思うんですよね。

 ぼくは宗教に入っていません。信仰は持っていると思うんですけど、宗教やっている奴はどこかおかしいんだというような宗教ですね。無宗教教というか、新興宗教やっている奴は頭がおかしいっていうみたいなことを、みんなが信じていたりするわけですから、その世の中のほうが何か恐ろしいなと、ぼくは思ってしまうところもあるし、不当な捜査や、不当な報道っていうのはおかしいんじゃないかっていうことを、もっと報道が声を大にしてやれば、早く脱会する人もいると思うんですね、逆に。

 だって考えちゃうでわけすよね、オウム真理教の信者で、はっきり信仰をもっている人とかが、オウムやめようかなと迷っていて、一回上九かどこかの山から麓へおりてきて、新聞やテレビ見たら、やっぱりこれはおかしいから、やっぱりオウムに戻ろうと、戻っていく人間ってかなり多勢いると思うんですよ。

 もう少しまともな報道ってものが行われていれば、脱会する信者も増えて、オウム真理教の解体も早く進むんじゃないかとぼくは、そういうふうに考えています。脈絡なく話してすみません。浅野さんにまとめてもらいます。 

(拍手と笑)



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