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江川紹子
(ジャーナリスト)


破防法に反対

江川でございます。時間がなにしろ限られておりますので、結論の方から先にポンポンといきたいと思います。
まず私の立場の説明を説明しておきます。破防法に関してですが。今の時点で、現時点で今のオウムに今の形での破防法の団体適用は止めてもらいたいと私は考えています。
何故これだけ沢山の留保をつけたかと言いますと、例えば現時点で、ということで言いますと、松本サリン事件の前後、仮に警察がオウムに踏込む材料が無くても、公安調査庁は独自の調査でその材料を得たんだというようなことがあれば、私はあらゆる人権の中で一番大事なというか、重いものは命だと思っていますので、それを、多くの命を救う為ということであれば、私は反対しなかったかもしれません。あるいは麻原彰晃という教祖がもし仮に逮捕されていないという、そういうオウムに対してであれば、反対しなかったかもしれません。あるいは、破防法そのものの論議は色々ありますが、私は治安立法というものが全く無くていいという立場をとっておりません。
ただ、やっぱり実際に、今回の弁明の手続きなどを見ますと、法的な不備があると、そういう中での破防法には賛成できないという立場です。
去年のかなり早い時期に破防法の話が出ました。私はその時からずっと破防法はよろしくない、むしろ逆効果であるということを言い続けてきた訳ですが、破防法推進の方にはよく聞かれるんですけれども、「じゃあ、あんたは保障できるのか。これからオウムがなんにもやらないということを、あんたは保障できるか。もし何か起きたら、あんた、どう責任を取るんだ」ということを、ものすごく言われます。私はいつも「保証書は付けられません」という風に申上げています。例えば、どこかの子供が、今、すごくいい子に育っているけれども、大きくなったら犯罪者にならないという保証書は誰も付けられない。同じ様に、オウムの人がこれから何か重大犯罪をやらないという保証書は私には付けられない。ただやっぱり、いろいろ事実を考えてみようということを私は申上げることにしています。


裁判から見える真実

私は本当、破防法をめぐって、あるいはオウムをめぐっては、申上げたいことは沢山あります。ただ、時間の制約もあるので、今日は一点だけを申上げたくて大阪まで参りました。それは、やっぱり事実から出発しようということです。
オウム真理教というところはいろんな犯罪を犯して、そのために沢山の人の命が奪われたというのは、これはもう事実です。裁判、裁判と仰いますが、実際、裁判の中でいろんな人が証言をしています。判決も一部出ております。
それだけじゃなくて、裁判という手続きだけにこだわるのではなくて、やっぱり事実とはいうのは何だったんだろうかということを皆で考えなければいけないという風に私は思うんです。
で、裁判のことで言えば、オウム真理教をめぐっては、軽いものから重いものまで200人前後が起訴されている訳ですけども、私が傍聴したのは130から140人位です。
もちろんその人の初公判から判決までずっとべったり見てる訳ではないので、全てが分かったと言うつもりも全くありません。ただ、ずっと裁判を見てますと、最初の内は比較的軽い、つまり実刑になるのか執行猶予になるのか、そこのところが境目だと言われるような程度の事件から始まって、しかも執行猶予にしても、二年になるのか三年になるのかと、そういうような事件から始まって、次第に重大事件の審議が進んで行きました。
その重大事件の中で、沢山の被告人がいろんなことを語っています。よく報道されるのは井上嘉浩君ですか、井上嘉浩被告の法廷では、彼は、いろんな自分の知っていることを語るということで贖罪をしたいという風に言っておりますし、それだけではなくて、例えば広瀬健一という被告がいます。彼はかなり早くからヴァジラヤーナのワークというんですか、そういったものに関わってきた人です。
マスコミ的に言えば武装化の歴史をずっと見てきたし、関わって来た人でもあります。その彼が、自分の知ってることを逐一語りました。それから杉本繁郎さんという被告人がいますが、彼はオウム真理教の仲間を、つまり、今も信じていたその富田さんという人を自分の手で殺した、彼にとっては一番辛い体験を含めて裁判で語っています。
勿論、今は黙秘したり否認したりしている人もいます。ただ、そういう人、例えば新実さんだとか上祐さん、土谷君。そういった人たちも、捜査段階ではかなり詳細な供述をしています。
例えば上祐被告など、黙秘と言って、かなり「尊師は私の全てです」とか言って、みんな「おーっ」とか思ったかもしれませんが、実は共犯の青山被告の法廷には上祐被告の自白調書が13本も出てきて、全部尊師の指示であったということを何度も繰り返し述べております。
もう一人、私の印象に残っている被告人がおります。それは滝沢和義君という被告人です。第7サティアンの、サリンプラントの建設の責任者だった人です。この人は刑が確定しております。彼は警察や検察のストーリーに合わせた供述なんかはしていません。

検察側の主張として第7サティアンでサリンができたということになっていますが、彼は「自分は、できていないと思う。ただ、自分は作ろうとしたし、その過程ではこんなことがあった」ということを、3日間にかけて詳細に語っていました
その彼の誠実な態度というものは、私はすごく印象に残っているんです。自分が体験したことは、はっきり「こうです」と言い、自分が聞いたことは「こういう風に聞きました」。自分が想像したことは「こうではないかと思います」。全部語尾まできっちり使い分けて、きちんとした証言を、誠実な証言を行いました。
そうしたいろんな証言の中から分かってきたことの中で一番重要だということは、やっぱり重大犯罪の行われる時には、必ず教祖であった麻原彰晃こと松本智津夫被告の明確な指示があったと、命令があったということです。
一番最初の事件とされている、ましまてるゆきさんの死体を焼いて、粉々にして湖に流した事件、これが、まあ一番最初の麻原彰晃の指示でした。教団発展の為には、これが表に出ていいのだろうか。まずいんじゃないか、と。いいんじゃないかと言った人は四回重ねて「どうなんだ」というふうに聞かれています。
つまり、もう結論は出てるんですね。そういうはっきりした形で、やはり田口修二さんの殺人事件の指示が出され、坂本弁護士一家の指示が出され、その他、松本サリンや地下鉄サリンなどの無差別殺人、あるいはほんとにほんとにオウムを信じていて、スパイなんかでは絶対無いはずの富田さんの殺害なども、全部上からの指示で行われてきたということも、裁判を聞いてて本当によく分かってきました。
で、それをやらされた人達はすんなりやった訳ではありません。多くの人がそうだと思います。やっぱり、広瀬さんとか豊田君とかそういう人達の証言や陳述などを聞いていると、「何故やらなければならないのか。やりたくない。でも、やらなければならない。やっぱり尊師の指示だから、やらなきゃいけない。でも、やりたくない」。
その本当の、何というかな、葛藤の末、何も考えられない状況でやってしまったんだという話をしていましたけれども、本当に、そういう信者の人たちがいろいろ悩みながら、葛藤しながら、でもやってしまったという、そういうようなことも裁判の中でよく分かってきました。
その他、裁判の中でいろんなことが分かってきました。麻原さんという人は、深いお考えがあって、こういうことをやったのではない、けっこう場当り的にやってるということも、よく分かってきました。
あるいは、破防法の弁明などを聴いたり、裁判を傍聴したりして、今、いろいろ悩みを抱えてる弟子、あるいはかつての弟子のことなど殆ど考えていないということも、よく分かってきました。
こうした事実から、やっぱり麻原彰晃という人の指示無くして、オウム真理教というのは少なくとも人殺しはやらないという風に私は思っています。
破防法で問題になっている破壊活動というのは主に人殺しのことだと思うんですね。もちろん松本サリンが中心ですけれども、それ以外に、とにかく人を殺したというそのことを、何と言うかな、オウム真理教に対して、そういうオウム真理教をぶっ潰せ、ということが、やはり破防法の動機となっていると思うんですね。
私はそういういろんな殺人事件の、重大事件の傍聴を重ねていくうちに、やはり麻原という人の指示無くしては、オウムは人殺しどころか動物、虫けらも殺せないという人達ですから、人殺しなどするわけが無いというふうに思いました。
もし仮に、麻原彰晃の指示無くして、破壊活動、あるいは殺害行為というものを仮にやったとしたら、これはもうオウム真理教ではないという風に私は思っています。
そして今、あの人が明確な指示を出せない以上、今後、オウム真理教の人達が組織として何か重大犯罪を犯すという可能性は、極めて極めて薄いのではないかな、と思います。
もちろん弁護士さんの中には、オウム真理教と麻原さんの間で連絡役をしない人がいないとも限らない訳ですが、でもまさか殺人事件の指示をするような伝令役になる弁護士はいないと私は信じております。



危険性薄い

以上のようなことから導かれる結論というのは、やはり将来の明確な危険性というのは本当に薄いのではないかな、と。少なくとも明確な危険性があるというならば、それをもっとはっきり私に教えてほしい、と。そうすれば私ももう一回いろいろ考えるんだけど(笑い)残念ながら破防法の手続きを見ていても、そういったものは見られなかったということです。



なぜ反対運動は盛り上がらない?

ただ、問題なのは、何故、明確な危険性は無いのではないかというふうに、オウムのことを見てきた人達が、私だけではなくて、口を揃えて言うわけですが、どうしてそれでも反対運動が盛り上がらないのかということを皆さんにも考えてもらいたいなという風に思います。
やっぱりこれだけの事実があったということを踏まえての反対運動でなければ多くの人の心に響かないということを言うんです。
これを単なる感情論と言われるかも知れません。でも人間というのは感情を持つ動物です。多くの人達が破防法適用に賛成しているというのは、明確に破防法の危険性、条文、その他を分かって言ってるんじゃないと思うんです。やっぱりオウムを潰したいという感情の発露だと思うんですね。そういう人達に対して、事実を避けた論議をぶつけても、ぜんぜん心に響かないのではないでしょうか。
それからもう一つ。やっぱり信者の人にも、私は事実と向かい合う勇気というものを持って欲しい。事実を踏まえた上で、じゃあ何故こういうことが起きたのか、自分で切開するというか、切り開いていくというか、その勇気を持ってほしいと思います。
今、多くの元信者の人が、私といろんな話をしています。もちろん、簡単に、ころっと一抜けた、という訳じゃありません。本当にいろんな悩みを持ちながら、本当に苦しみながら、でもやっぱり事実から目を背けてはいけない、そういう覚悟で、時には、もうぐじゃぐじゃになったりしながら、でも、私のような非力な者だけじゃなくて、それを支えたいと思っている人は、今、沢山います。
昨日も元信者の人達が何人か集ってくれたので、じゃあ一緒に御飯でも食べようかと言って、食事をしながらいろんな話をしました。その中の一人が就職したんです。で、初めての給料が出ました。その中で、雇主は知ってるんですけど、オウムの信者だったということを。で、給料袋の中に、「初めてのことで大変だっただろうけど、頑張ろうね」という手紙が入っていて、本当に感動したという風に言ってました。
やっぱり社会の中には勿論オウムだという、それだけで撥ね付ける人もいるでしょうけども、やっぱり、みんなが努力すれば、事実と向かい合う姿勢を見せれば、それは分かってくれる人達だって沢山いるんです。
そういう意味で、反対運動のやり方ということも考えたい。やっぱり事実を前提にして、事実から出発してみんなで考えていきたいという風に私は思います。以上です。



質疑応答

(司会)どうもありがとうございました。会場の方の質問を受付けたいと思うんですけども、どなたか。はい、どうぞ。

(参加者)質問ではないんですけども。去年からずっとテレビとか、本を読ませて頂いて、江川さんのお考えを聞いてきました。
今の提起も、最初にやっぱり事実を踏まえた上での破防法反対運動、死刑廃止運動でなければいけないということは、最初に主張されるということが大事だと思うんですね。で、私も主催者の人達と前から交流はあるんですけれども、そもそも引っ掛かったのが統一協会問題で、統一協会の問題に対して、すでに少数者となっている統一協会を叩いて一体どうなるのか、というような文章が書かれてあったことがきっかけで、「こりゃ、もう絶対に反論せんならん」と思って、そしたらまた反論が返ってきたりしたんですけども、でもその時点では、統一協会問題の時は、私は
「こんなん、本当にこの人らが言うてるだけで、一般に受け入れられるはずがない、説得力が無い」
という風に思っていたんですけども、去年のサリン、オウム事件以来、今度はオウムにこうして、結構、意外と私の友人・知人関係が賛同してやったりしてるもんですから、去年、本当に私も「これは大変な事態になってきたな」と思って、社会派の中で寧ろ混乱を招いていて、折角仲が良かった友達とも、なんとなくしこりが出始めたというような、そういう問題で。
私に取っては、私は宗教者ですし、自分自身の、今一番の問題としても関わりたいと思っている一人なんですけども、今、元ヤマギシ会の人達とも関わって、統一協会やオウムの問題をやっておられる牧師さんとかと連係して学ばせていただいたりしている様な状況です。
ま、とにかく、質問じゃないんですけど、私はそういう風にきちっと押さえることが必要だと思いまして、一言申上げました。ありがとうございました。

(司会)他に意見・質問等はございますか?ないですか?はい、どうぞ。

(参加者)事実に基づくというのは大事だと思いますので、江川さん自身が知っている事実とね、実際、僕等がテレビであるとか週刊誌であるとかを見てね、事実に接する機会はあまり無いんですけども、実際、マスコミが報道している事実との違いとか、そういうことについて江川さん自身はどういう感じで思っておられるのかな、ということを聞きたいんですけれども。
もうちょっと具体的に言えば、自分が知っている事実を、ある程度大まかにマスコミは伝えているという印象でいいのか、随分違った形で一般の人に伝わっているということで江川さん自身の中に何かジレンマがあるのか、そういう部分をちょっと聞きたいんですけど。

(江川)マスコミ報道という風に、こう、一括して言うのは、すごく難しいんですね。
と言うのは、やっぱりその、じゃあテレビは駄目なのか、新聞は駄目なのか、とか、マスコミは、という風に、よく、こう、括弧で括って言いがちなんですけども、やっぱりその中で、本当の事実と私の知っている事実が全く合致しているものもあれば、なんかちょっとピントが外れてるんじゃない、というものもあるということです。

(同じ参加者)今の質問の仕方が悪かったようで。「マスコミ」と一つに括ってしまうのは、やっぱり良くないですね。具体的に、日テレとか産経とかNHKとか区別して、「どこは、まあ、ましだ」「何とかという雑誌はまあいいけども、あれはひどい」とか、そういう部分を。

(江川)私の知ってる事実に一番即してるのは、週刊文春の私の傍聴記を読んで頂けると(笑)、裁判の中でどういうことが言われているのかということを、本当に正確にお伝えするように努力しているつもりです。
で、ただ、例えば日本テレビというテレビ局があって、私はそこの報道局の人達と、かなり協力したりする機会も多いのですが、しかし日テレでも、100%私の事実認識と合っている時ばかりではないし、スタッフによって、あるいは番組によって随分違うなという風に思うこともあります。
例えばですね、ちょっと前のことになると思いますけれども、ワイドショーの番組の中で、第二オウムが作られているということで、ある元幹部の名前と顔が出て、バーッとやられたことがありました。ところが、その彼は私とも話をしてましたし、全くそんな動きはない。で、その人がどうも何か変な動きをしているという風にいわれた時は、その人は全く別の所に居たことが明らかになってるとかですね(笑)。
そういうものはポツポツとあります。ただ、言えるのは、事実と言っても、細かい事実はいろいろ違ったりするけれども、オウム真理教が犯した犯罪の概括的なものというのは、そんなに間違ってなかったんじゃないかな、と、去年の報道からいろいろ見ていて、細かいところではいろいろあるけれども、大筋ではかなり合ってたんではないかなという風に思ってます。

(参加者)あのー、新聞も週刊誌もテレビも、そんなにレベルとしては差が無いので、あんまりそのことは議論したくないんですけれども、江川さんが先程、「麻原彰晃の指示無くしては、種々の重大事件は無かったと思う」と仰ったんですけど、そういう事実を吟味しながら、実際に指示が無ければ事件があったのか無かったのかということを、裁判に於いて明らかにしていくというのが今始まったばかりだという風に私は認識しているんですけれども、私も今質問した方と同じ様に、今の時点で、どのことを事実として自分で受け入れるのか、受け入れられないのかということは、やはり、裁判が最終的には全て100%信頼できるものではないと思っていますけれども、少なくとも弁護側と検察側が提出して、合意し、事実として認め合ったものを基にして、それから事件を組み立てていく、というのが、今の段階では一番バランスの取れた考えじゃないかなと思うんですが、どうでしょうか。

(江川)裁判の中で、いろんな証言が出ております。で、もちろん全部の証拠の殆どを同意している被告人もいるんですね。で、そういうんじゃなくて、証人でやってくれという被告人もいて、証人がかなり出ています。
例えば地下鉄サリン事件などは、実行犯の人がですね、あるいは運転手役の人もこれから出てくると思うんですが、実行犯の人が既に何人か証言をしています。で、ですから全体像を隅から隅まで確定するというのはもう少し先になるのかもしれませんけれども、やはり麻原という人の指示があって、それぞれの人がなにかしらの役割を果たしてですね、地下鉄にサリンをばら撒いたということは、このことについて「まだまだ分からない」というのはおかしいな、という様に思っています。
実際にやった人達が何人か、幾つかの法廷で喋っている訳ですから。で、そのことを「その人達が嘘を言わされているのかも」という風に言う人もいるかもしれませんけれども、じゃあ私は例えば信者の人なんかには「なるべく傍聴においで」という風に言います。
というのは、やっぱりマスコミを通じたら信じたくない、信じられないのかもしれないけど、やっぱりかつての法友の人達が本当に心の底から自分の真実を喋っているのか、そうでないのか、ということは、その人達が聞けば、よりはっきりすると思うので、やっぱりそういう人達が見れば、この人達は嘘を言わされているとかいうことではなくて、心の底から本当に真実を語ろうとしているんだということが分かってもらえるんじゃないかな、と思います。

(参加者)今、各種の犯行の指示が教祖によって行われたということなんですけども、例えば内部のマスコミの話を聞いたりすると、例えば、教祖の思いつきの指示と、それから教祖に対して、まあ指示が出るだろうという形の、許可といいますか、許可を求めると。
要するに、前提でOKが出るというだろうということで許可を出してもらうという形で問題を提起すると。それによって許可をもらうとそういった場合に関しても、それを指示として認識されているということなんでしょうか?

(江川)具体的に何について言われているのか、ちょっとよく分からないんですけれども、私が認識している限りでは、例えば質問形式で「ポアするしかないんじゃないか?」
という様なね、そういう質問で一応意見を求めるという形だけども、やっぱりそれは「ノー」と言えない状況と言うんですか、そういうのが前提となって皆「はい、はい」って言ってるっていう、そういうケースっていうのは、あったりしますけれども、人を殺すという、「殺していいですか」という許可を信者の側から教祖に上げたというのは、私はちょっと聞いてないです。
裁判で、そういう事実というのは出てきていません。寧ろ、例えば坂本弁護士一家殺害事件などは、オウムを批判していたサンデー毎日の牧さんを最初殺すという話になっていたのが、牧さんは会社に泊ることが多かったりして、なかなかその、家に帰るのが一定していない、難しい、というところから、「じゃあ坂本弁護士はどうか」という風に麻原という人が言い出した、と。そこから「悪業を積んでるからポアするしかないんだ」という風な感じで指示を出したとかですね、そういうはっきりした指示というのもあります。で、お伺いを立てて人殺しの許可を得たというのは、私は裁判の中では一つも出ていないと思います。

(質問者)分かりました。

(質問者)教祖の明確な指示が無ければ犯行には及ばないというお話でしてけども、私もその考え方には賛同するんですけれども、ただ一つ気になることがありまして、例えばその、明確な指示以前にオウムのヴァジラヤーナの教えそのものが危険なんだと、教え自体が人を殺していくんだと、そういう風な主張が一部にありまして、江川さん自身、それに連なる主張をされていたんではないか思うんですけれども、例えば本にも収録されていました。
以前の週刊文春で、「麻原説法の恐るべき云々」、そういう感じの文がありましたけれども、それについては現時点に於いては撤回といいますか、あるいは、ちょっと拙い文であったとか、そういう形で社会に向けて発言される予定はお有りでしょうか。

(江川)結論から言うと、ございません。あのー、撤回はいたしません。
やっぱり、信者、やった人達の話を聞けば、「これはポアである」、あるいは「ヴァジラヤーナのワークである」ということでやってる訳ですね。で、教義上、いろんなことを自分で納得させたり、あるいは教祖から直接聞かされたりするものもあります。
ですから、それは撤回はしません。ただ、オウム真理教を見る時には、一面からではなくて、幾つかの側面から見る必要があるということは、私はいろんな機会で常々言っております。
例えばそのヴァジラヤーナというものを考える時に、本当に人殺しを正当化する教えとして使われることもあれば、そうでない、それは隠されて、つまり、表と裏とがあるというね、例えばヴァジラヤーナの歌というのがありますよね、オウムの信者の方なら知ってらっしゃると思うけど。
で、私は講演の時に、よくあのテープを流します。別に布教でも何でもなくて、こういう面もある、と。あれを聞くと、一般の人はだいたい笑います。つまり、ヴァジラヤーナというおどろおどろしい、私たちが持ってるイメージと、あの歌と言うのは全然イメージが違う訳ですね。そういう面もある、と。ただ、一面的に言ってることは、私は違うなという風に思ってますけれども、やはり、あの犯罪というのは、少なくとも実行犯の人達は、その教義に基づいてやっていた訳ですから、今まで私が申上げたことを撤回するつもりはございません。

(参加者)もう一つだけ、ちょっと瑣末なことですけれども、同じ記事のところで、オウムの仙人思想ということについて、説法を例に挙げて引用しておられますけれども、あの箇所については訂正なさいますか?

(江川)あのー、あれですか、えーと、「魂には何万倍の段階の差がある」というところですね?

(参加者)いえ、ちょっと前の、「徳がある高い魂がいた場合、一部の者しか救えなくてもやむを得ない高い魂があったとしても、それはしかたがない」という箇所ですけれども。あのー、公安調査庁も提出しておりまして、オウム側が反論している。というよりも明らかにこれは誤読だとしか思えないんですけれども。

(江川)その説法というのが、すぐパッと浮んで来ないんですけども、仙人思想的なところがあるというのは、私は撤回はいたしません。やはり、あの、聖なる修行者と凡夫・外道という者に対して、価値の差を明確に置いていると、それが、オウム真理教の特色の一つであるという風に、私はまだ今も考えています。やっぱりそれは、私の価値観とは相容れないものではあります。

(参加者)最初に仰った、事実から出発するということは、まさにその通りだと思うんですけれども、先程から仰ってる、ヴァジラヤーナとかポア、ワーク、おどろおどろしい言葉使いですね。
これは非常に、今、僕たちが、観念としてマスコミから流されている使い方をそのまま使ってらっしゃるので、それを聞けば聞く程ですね、実際の本当の事実は何だったのかということが、ますます遠退いていくような印象を感じるんですよね。
ですから、ヴァジラヤーナを僕は余り勉強してませんけれども、ヴァジラヤーナにいろんな意味合いがあって、それがおどろおどろしいという意味が皆にこびりついてて、 本当にそれがどうなのか、実際に行われたことのそれぞれを、そんなステレオタイプの言葉で割り切ってって、本当に事の整理ができるのかどうか、そこらへんをちょっと不安に感じました。印象です。

(江川)その言葉を私が使うというよりも、やはり、やった人達が「ヴァジラヤーナのワークの一環としてやった」と言っているのですから、やっぱり、そういう言葉を使うことは避けて通れないと思うんですね。
ただ、私がどうしても裁判を通じて知りたいな、本当は会って話して直接ゆっくり聞きたいな、と思ったのは、やはり、いろんな迷いがありながら、何故その一歩を踏出してしまったのか、そこの、何というか教義的な説明というのは、彼らの口からヴァジラヤーナとかポアとか出てきますから、頭の中では私は説明がつくんですが、やっぱり腹の中にどうしても腑に落ちないところがあります。
ですから、それを、やっぱり裁判を通じて少しでも読み取っていきたいなということで、私は法廷に通っているつもりです。





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