山科ハイツ騒動
京都の山科ハイツといわれるマンションが、これはいわゆる分譲マンションで、賃貸マンションではないんですけども、新幹線に乗られますと、東京の方から来ますと、京都に入ってすぐに山科区という区がありまして、東京から来ると左側、南の方にマンションがあって、垂れ幕がですね、「オウムは山科ハイツから出て行け」と、そういう風な大きな垂れ幕を見られた方もあるかと思うんですが、そういう所に、京都のいわゆる郊外、郊外と言うと、山科区の方に怒られるけども、滋賀県との境目にある住宅街の中にあるマンションが、この事件の現場です。
昨年の十月に、このマンションの所有者からですね、現在、裁判で被告になっておられるオウム信者の方々がおられるんだけども、その中の一人がそこを借りて。
ちゃんと、「自分たちはオウムの信者である」と。そこで共同生活をするんだというようなことも全部告げた上で、昨年の十月に賃貸借契約を結んだ、と。
で、原告側の人達、原告というのは正確に言いますと、その住民、区分所有者と我々は言うんですけども、その代表の方なんですが、その原告の言い分によると、いろいろ反対をしたけども、反対を押切って、昨年の秋に入居した、と。
それから、そういうことが分かって、まあ入居者とすれば、まあ入居者のどれ位が本当にそういう気持ちで一致しておったか、それはもう知る由もないんですが、とにかくいろいろ入ってきた人達を追出す為に、いろんなことをやった。
住民の追い出し運動
例えばビラをまいたり、あるいは部屋の前にいろいろ落書きって言うんかな、それから、こちらから言わせると、誹謗中傷するようなビラを貼ったりですね、あるいは監視カメラで二十四時間、出入りしている人を監視するとか、あるいは立入り検査と称して部屋の中まで入ってきて冷蔵庫の中まで開けてみる、というようなことで、いろいろ住民の方では反対運動を展開されてきた、と。
で、これに対してですね、被告となった人々から聞いている話、私たちが知る限りでは、むしろそういう住民達の理解を得よう、ということで、それなりにこちらの方も努力をした、相当こちらとしては譲歩したという気持ちだったんですが、結局、そういうことの理解が得られなくて、最初にこちらの方から調停を起こしまして、何とか、そういう、私達からすると嫌がらせということも無くて、平穏に生活をしたいということで、こちらから調停を起こしたんですが、結局、調停でも話が出来なくて、それでいわゆる住民の方から裁判が起こったというのが大まかな経過です。
宗教施設か?
裁判の方は、五月に第一回の裁判がありまして、七月・八月と、三回これまであったんですけども、簡単にお互いの言い分を紹介させて頂きますと、原告の方、住民側の言い分は、要するに四人・五人、そういう数人のオウムの信者の人がそのマンションの一室を借りて住んでおる。
で、まあ住民側に言わせると、単に住んでるだけじゃなくて、それを一つの宗教施設として利用しておる、という風に言うんですが、この点は争いがありますけれども、何れにしても、そういう、居住して、宗教施設として利用していることが、いわゆる法律にある言葉なんですが、そういうマンションの住民の共同の利害、利益に反する、もっと具体的に言ったら、生命・身体にいかなる危害が与えられるか分からないという不安感に苛まれると。
だから出て行けというのが原告・住民側の言い分です。それに対して、被告となっておる信者の方は、我々はそこをに住いとして四・五人が共同で住んでいるだけである。
もちろん、人の出入りはあるけども、これは通常の家庭であっても、人の出入りは多少、多い・少ないはあっても、あることですし、それから宗教施設と言われるけども、例えばキリスト教の方が十字架を上げ、あるいは仏教の信徒の方が仏壇を家の中に置いているのと一緒であって、特別、宗教施設と言われるようなものではない、と。
ですから、そういうことまで、いわゆる共同利害に反するということで明渡しを要求するというのはおかしいのじゃないか、というのが被告の方の言い分なんですが。
私達の方が、この裁判の中で一つ、原告の方に明らかにしてもらいたかったのは、何故、こちらに住んでいる、被告になっている人達の具体的などんな行為が、いわゆる共同の利害に反するというのか、あるいは何かここで犯罪行為を行ったということなのか、あるいは現に行っているということなのか、あるいは将来行うという風に考えられる具体的な何か根拠があるのか、ということを、釈明というか、説明を求めた訳ですけども、結局、その中で返ってきた最終的な答えは、今も言いましたように、結局そこに居住しておる、と。
で、宗教施設として利用しておる、と。まあ、宗教施設として利用しているかどうかは、これはある程度、評価を分けることなので、これは我々としては、まさにそこにオウムの信者が住んでいること自体が危険なんだと、もっと言えば、未だにオウムの信者が信仰を捨てないこと自体、オウムの信仰を持っていること自体が危険な存在であるという風に言わざるを得ない、原告の主張ではそういう風に考えざるを得ないという風に思っています。
果たしてそういう主張が法的に、まあ社会的にこれがまかり通るかどうかという問題、これがまかり通っているかも知れませんけども、少なくとも裁判という場で、そういう論理がまかり通っていいのかどうか、これについては我々も疑問があるというか、むしろそういう理論がまかり通るはずがない、という風な考えで裁判を戦っているというのが現状です。
民間版破防法
で、これが何故、破防法と関連してくるかと言いますと、まさにこの、いつも被告に会った時、あるいは弁護団が四人いるんですけども、その中でも話すんですが、まさにこれが破防法の民間レベルでの適用であろう、という風に思う訳です。
で、破防法というのは、先程山中さんからも紹介があったように、これまでも何件か適用された例はありますけれども、いわゆる団体適用というのは初めてで、弁明手続きというものが行われたのも初めてです。
ですから私も、最初にこの破防法適用ということが問題になった時に、どういう風な形で手続きが進められていって、実際に破防法が適用されたとなると、どんな社会、あるいはどんな状況になるんだろうというのが全く予測できなかったんですが、まあ弁明手続きの方は一応打切られたということで、まあ、ああいうことだったんだなあ、という、評価はいろいろありますけども。
で、仮に、もちろん適用すべきでないと思うんですけども、仮にこれが適用されれば、もちろん行政訴訟とか、訴訟に訴えはするでしょうけれども、訴訟したって、とりあえず破防法が適用された、という効力は、取り敢えずは裁判が終わるまで続くので、そういう風に、一体、破防法を適用された、いわゆるオウム真理教という団体に属する人達は、どのような取扱い、あるいは規制を受けるんだろうか、というのが、具体的なイメージとしてはなかなか湧かないんですけども、まさに、この山科ハイツを見てると、よくイメージが分かるということが言えると思います。
つまり、これまでは住民の人によって、二十四時間テレビカメラで監視されておって、出入りする人をチェックされて、場合によっては中に立入り検査に入ってくると。
で、これがまあ、おそらく破防法適用となればですね、住民の人達に変わって公安調査庁の職員が、あるいは警察がですね、国家権力ということを背景にやってくる。そこでもちろん住民の人達の協力も得るだろう、と。
山科ハイツで行われていることと、ほぼ同じ様なことが全国各地でされるんではないかという風に私は思います。
そういうことでこの裁判は非常に意味があると言ったら変ですけども、一つの、破防法が適用されたらどうなるかということを知る、いい材料ではないかという風に思っています。
まあ、そうなってもいいと思うか、そうなったら困ると思うかは各自の判断がいろいろあるかも知れませんけども、とりあえず山科ハイツの状況というものを一度注目されたらいいのではないかという風に思います。
いかなる思想も自由
で、これから、ずっと。私の個人的な意見なんですけども、じゃあ何故、私が弁護士として、こういう事件を取上げるのか、と。あるいは引き受けたか、ということなんですが、これは被告になった人達がオウムの信者であったからとか、あるいは何か、何党の、自民党であったからとか共産党であったからとか、そういうことではなく、まさに憲法で保証された思想・信条の自由、あるいは内信の自由というものは、如何なる理由があっても犯されてはいけないという、これはまあ、憲法の基本原理がまさに脅かされようとしている訳で、そういう点でから、この裁判を広げていきたいという風に個人的には思います。
ですから中に入っている人がたまたま本件ではオウムの信者でしたけども、これがいわゆる昔言われたような過激派の人間だとか、労働組合だとか、あるいは右でも左でも、極左でも極右でもいいんですけども、とにかくそういういろんな人が、どのような思想を持ち、あるいは宗教を信じようと、これは自由であると。
それが内心に留まっている限りは自由であると。だから私は極端に言えば、仮にオウム真理教というのが非常に危険な存在で、今、山科ハイツに住んでおられる方々が非常に危険な思想を仮に抱いておったとしてもですね、それだけで明渡しを要求できるというのはおかしいのではないかという風に私個人は思っています。
ただ、裁判の中ではもちろんそんなことは言いませんけども、そういう姿勢からこの裁判を私個人としては考えているということを一応お伝えしたいと思います。
破防法について言いますと、反対ということについては、反対の理由というのはいろいろある訳で、ある人は、思想・信条の問題だという見方をし、ある方は、そんなことやったってオウムは潰れないよ、と、もっと、地下に潜って、もっと今より危険な状態になる、と。
いろんな意見があるんですけども、やはり破防法の問題に限って言えば、私個人として言えば、そういう思想・信条に対する弾圧と、あるいは侵害という風に捉えるべきであろう、と。
そうでないと、この問題は、仮にオウムがいいのか悪いのか、あるいはオウムに対しての適用がいいのか悪いのかという、ある程度、矮小化というと言葉が悪いですけども、確定された問題に対する適用のことしか問題になり得ないので、やはりもっと一般的に広げてこの破防法適用の当否の問題は考えるべきだろうという風に私個人では思っています。
それから、この裁判を見ている中で、もちろん、さっき言ったように理屈としては私個人割り切って出来るんです。
じゃあ、自分がもし逆の立場になってあのマンションに住んでおって、そういう社会的に危険であると言われる団体に所属しておる人、あるいはそういう思想を持っていると言われている人達が入ってきた時に、果たして自分はどんな行動を、あるいはどんな考えを持つんだろうか、というのは、やはり自分自身に置かれている問題です。ですから、それについて、もし自分がそういう立場に立った場合に、どうなるかというと、そうなってみないと分からん、としか言いようがないんですけども、まあ少なくともそういう風な感情で流されて済ますべき問題では無かろうという風には思います。
昨年の、丁度、五月か六月頃から、千代丸さんの関係でオウムの刑事事件を、ここに居る中田弁護士とも一緒にやるようになって、いろいろ刑事事件から、この民事事件と、いろいろ関わってきましてけど、今後もですね、こういうことを通じて自分なりに思想・信条の自由とか、そういう問題を、これからも、ライフワークと言うのはちょっと大袈裟ですけども、一つのライフワーク、一つのテーマとして考えて行きたいという風に思います。どうもありがとうございました。
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