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神坂直樹
(司法修習修了者/裁判官任官拒否訴訟原告)


市民運動が問い直されている

市民運動のあり方そのものが問い直されてるなあ、という風に思っております。関西だと、今は時候の挨拶のように、O―157のことが言われています。O―157ということがあって、実際に破防法適用の根拠が一つ失われてるなあ、と思うのは、O―157があって、かつて、例えばオウムのいろんな刑事事件が取り沙汰されているさなか、ハイジャックの事件が起きたら、「あれは、ひょっとしたらオウムの信者がやったのかもしれない」という風なことを、コメンテーターの弁護士さんが仰ったりするといった状況の中、実際にはそうでなかったということが、後で明らかになった。
で、セアカゴケグモの騒動が、堺などを中心に起きた時にも「あれは、ひょっとしたらオウムがやったのかもしれない」、こういうことを平気で。メディアがそれに乗っかったりするんですね。
そんな状況が実際にある、そういう中で、実は今回、O―157が起きた。場合によっては、そういう風な、ありもしないような無責任な噂が、またメディアに乗ってくるかな、こう思いましたけれども、それは今回に関しては無かった。やはりそれは、非常にまあ、我々市民生活をおくっている者にとって、今、オウムという人達がどういう存在であるかを、ある一部を反映しているように思います。つまり、それほど怖い存在ではないんだという一面を表わしていると思います。
つまり、実際に、怖い怖いという気持ちは持っているのかも知れないけども、現実には、いろんな形でバッシングは進んでいて、かなり弱体化が進んでいるだろうということも、実際にメディアの中から読み取っているということだろうと思います。
O―157のことは、そのために取上げたということではないんですけども、そのO―157を見て、ある意味では、また、学校に行ってない子は、別にO―157による被害を受けていないと思うんですね、実際は。何が感染源か、まだまだ分からないというような状況の中で、じゃあ本当に学校で、いろいろ給食制度とかを問い直さなければいけないという意見が実際に起こってくる、これは当然だとは思いますが、「いやあ、学校へ行くからあかんのや」と、例えばこういう風な人がいてもおかしくない訳です。ただまあ、そういう風な意見は、なかなかクローズアップされない訳なんですけども、実際、市民社会で我々は生活していて、いろんなことを考える人がいるということは、これは実際、押さえておかなければいけないだろうと思います。


運動内部の議論

そのことから出発しましてね、私は市民運動としては、箕面忠魂碑違憲訴訟という、いわゆる今までの社会運動や市民運動の中では、反・靖国という風な位置付けをもらう、そういう運動の中に身を置いてきた訳なんです。
私が小学校六年生の頃から二十年間にわたる訴訟が続いてきてる訳なんですが、やはり、このオウム騒動というか、ようするにマスコミ報道を皮切りに、こういう風なことが起きてきて、やはり、今後どうするのか、と。やはり、宗教の問題がこうやってクローズアップされていて、箕面忠魂碑訴訟としては、どのようなことを、信仰を考えていかないといけないのかということ、例えばニュースを編集しよう、といった場合、今日、ちょっとニュースをお配りできていないのは残念ですけども、実際問題、大変な議論になります。
やはり、我々は一緒に考えてやってきて、そして、反・靖国と言われる運動の中では、当然、当たり前のように、こう考えてるだろうという風に、相手のことも勝手に考えているところがある訳なんですね。しかし、やはりこの忠魂碑訴訟で一緒にやっていた原告とか支援者の間ですら、やはり議論を始めると、いろんな考えが出てくる訳です。
やはり、あくまでも刑事裁判手続きの中で、いろんな凶悪犯罪が行われたと言うけれども、やはり我々自身が直接の情報に接していないという中で、もっともっと冷静になるべきではないか、と。それがやはり、今まで近代社会が築いてきた無罪推定の原則じゃないか、という風な意見も勿論あるし。
「いや、ちょっと、そうじゃない」、と。少なくとも、これまでのマスコミ報道を見る限りでも、もう、この程度のことまでは十分事実として認めてしまっていいんじゃないかと思っている、と。その辺の根拠も明らかではないんですけども、そういう意見が戦わされます。
僕は、それは良かったな、と思います。実際、極めてですね、非常に険悪な状態で、会議の中でも出ます。やってる人間はですね、我々原告というのは、おばちゃんや、おっちゃんや、まあ若い連中も含めてですね、やってるわけですけど、そういう会議の中でも、そういう風に二分します。これは逆に言うと、当たり前のことが明らかになったんだな、と。
我々社会派、あるいは反・靖国という運動に括られたりとか、イコール例えば反・靖国であれば、当然それは反・統一教会という風な運動にも直結するであろう、と。内至、今はもう少し広く、反カルトという運動の方向へ進ませたい、と。そういう風な、あらかじめ何か設定されたルールの中で我々は運動をしてきたのかというと、、実はそうでなかったということがはっきりしたと思います。むしろ、実は我々自身が社会生活をおくってて、その中でいろんなことを考えてきたことがあった、と。当たり前のことを改めて発見・再認識したんだな、という風に考えています。
ただ、会議を進めていく中で、少なくともニュースの中で、やはりオウムの問題、しかも宗教法人解散命令、そして破防法適用へと進んで行くという流れを見てきた時に、もっともっと冷静に考えなければいけないんじゃないかという風な意見は、否応なく、そういう風な状況では、はっきりと出てきますので、ニュースを編集して、例えば破防法適用の問題、それからオウムに対する、様々に仕掛けられてきた刑事的な捜査、別件逮捕とか捜索というものに対する批判を、やっぱり為さなきゃならないだろう、という風なことを、やってきています。
私自身は、箕面忠魂碑訴訟という長い運動の中で、裁判官を志すようになりましたが、裁判官の任官拒否という、最高裁によって、裁判官に採用されないという事件に遭遇して、今、実際に裁判をやっていて、弁護団も組んでいます。どうしても私自身が裁判官任官拒否訴訟の原告ということで、自分として考える、いろんな発言を求められる、何か書くことを求められたりするという機会も非常に多いし、私もむしろ積極的に発言していきたいというタイプの人間です。


「極端な人間」を作りたくない

そういうことで、私自身が社会活動の中でそういう発言を、このオウムの関連でやってると、あんな極端なことを言うから裁判官への任官を拒否されたんだよ、こういう風に言う方もいらっしゃいます。気持ちは分かります。分かります、分かるんだけれども、要するに我々の中で、市民社会の中で、簡単に、そんな極端な人というのを作りたくないんです。
私自身は先程言われましたように、全ての人を好きでいたいという気持ちの中で生活をしたいというのが本音でありますし、やはり、そう簡単に極端な人を作っていいんだろうか、と。それからやはり、例えば私自身が、少なくとも法曹、もっと簡単に言うと、実務法律家ですかね、実務の法律家に進もうという方向を志した人間であるということの中でですね、「ああいう考えを持ったまま裁判官になっていくということになると、青山弁護士みたいになるのではないか」、こう書かれたこともあります。
私自身は、匿名でこういうことを言われるのはフェアじゃないかも知れませんが、少なくとも青山弁護士みたいになる、と言われることもある。ただ、そういう方についてもですね、確かに青山弁護士という人が、なんらかの犯罪に関わった可能性というものが、今、裁判で、実際には問題にされている訳です。じゃあ、実際にその方が、私は青山弁護士という人が、例えば、どんなひどい人で、どんな素敵な人なのかということは、まだまだ実像には触れていない訳です。むしろ実際に触れてみて、話を聞いてみたいなと。むしろ非常に興味をそそられる人間の一人です。
そういう意味では、事実事実という風に言われながら、みんながなかなかその事実に迫れていないんだろうと思います。そうである以上、そういう立場から発言するということに対しては、もっともっと、冷静であったり慎重であってもいいんじゃないかなと、自分自身の体験を通じて考えます。
横山弁護士という人が、もう既に元弁護士ということになっていますが、実際には住民運動とか、いろんな中で言われているかも知れませんが、今度、名誉毀損裁判を起こす、と。おそらく横山弁護士に対しては、その実際の事実を抜きに、かなり、いろんな不当な評価を受けている面があるのではないか、と。例えばあの人は、いろんな大変なことを言われてますけど、それについても、この名誉毀損裁判を、ちゃんと応援していこうじゃないか、という市民運動が出来上がってもおかしくない訳です。


山科ハイツ問題

つまり、市民運動というのは、山科ハイツ問題でもそうです。実際、山科ハイツ問題、私は三回、口頭弁論の傍聴へ行きましたけど、やはり私自身は、この裁判は負けてはいけないんじゃないかという風な裁判として見てます。ただ実際に、法廷に傍聴に来る方々は、確かにマンションの管理組合の方々が沢山来られていますし、圧倒的に傍聴席を占めているのは、そういう方々です。
ただやっぱり、それも一つの住民運動内至市民運動であれば、やはりそれを、あまり集団的な、ある意味では、いじめ、あるいは村八分的なやり方というものを許していたら、本当に我々の生活は、住みにくくなっていくんじゃないかな、と。実際にあのマンションに住んでおられる方々で、自宅で密かにいろんな経営をされている方とか、あるいは場合によってはデート喫茶とか、登録制のSMクラブとか、そういうのを開いている方も居られるかもしれません。いろんな信仰を持っていらっしゃる方が居られると思いますけども、そういう方々が全て、何か住みにくくされている状況は、どんどん進んでいくだろうと思います。
やはり、そういう状況というのはどうなんだろうかと、もっともっと慎重に考えていったほうがいいんじゃないかという人達が、もっと増えてもいいだろうと思うし、こういう、ある意味では圧倒的劣勢の中から、少しそういう人達の理解を増やしていこうというようなものが、市民運動として担っていこうという面もあるんだと。なんとなく、我々は市民運動となれば、裁判所、あるいは国を相手にするということになって、で、そういうことだけで大義名分が立ってしまうので、なんとなく傍聴席は、我々自身、圧倒的多数の中でその裁判を見守るということに慣れてしまってるんです。


たとえ小数派であっても

だから、少数派に置かれるということに、却って、なんとなく遠ざかってしまうんじゃないかなあ、という風に思います。敢えて少数派になったとしても、そこから自分自身、本当に、こう、生き方を見つめようとか、真剣にそういうものを模索していこうという人達の生き方を、これを機会にむしろその中で逃さずに。よからぬ商人の人達の考え方、統一教会、いろいろ取上げられていますけれども、その実像に、やはり、改めて迫らなければならないんじゃないかということ。
それから最近見られたのは、法の華という、福永法源さんという方が代表されているところが報道されている訳です。私自身は、例えば、この教団の事務所にもちょっと電話をしました。それから、市役所とかですね、それから実際に特別委員会が開かれてるということで、どんな状況なのかと聞きましたけど、やはり、教団事務所としては、こういうマスコミ報道によってですね、もう瞬間的に、物凄い数の電話が殺到してるという訳なんです。私としては、やはりマスコミの取り上げ方そのものがフェアじゃないし、少し冷静さを欠いているだろうと。こうなると、やはりそのテレビなんかを見てる人達が、ある意味で不安を覚えていくんじゃないか。
それぞれが自分の生き方を、ある信仰に身を置いていたりとかですね、そういった方々が居られると思うし、そういうテレビを見ている方々が、むしろ却って不安を覚えるんじゃないかということを、テレビに対しても抗議をしたりしましたが、そういう一方的なやり方そのものに対して、例えば電話をかけて牽制したり、抗議をしていくというのも、一つの市民運動のこれからのありかたとして築いていく必要があるな、と思うんです。だから、市民運動という言葉が、その通り成り立つということは、なかなか考えにくいことではないのかな、と思ったりもしてるんです。


「オウムから」と決め付けられて

で、本当に事実から、事実を踏まえてやらなければならないということで、私自身、この集会の実行委員会に最後の最後に加わって、集会を開くにあたって、今後、例えば破防法適用に反対する、破防法適用後をどういう風に、例えば見越すかということも言いようもなくて。分からないです。本当、その問題というのは、ぎりぎりの問題だと思いますからね。
ただ、その時に、こういう、我々が市民集会を開いてくる時にですね、ある方に、「なかなかお礼を支払えない」ということを、実行委員会のメンバーがお話ししたら、「オウムからはお金は欲しくないからね」と、こう言われたらしいです。
それをそのまま認めたらいけないんじゃないかと思うんですね。本当は、私自身は、市民として、オウムの人達も一市民として、それから私達も一市民として、こういう集会をもっていこうという訳なんですから、「オウムから」という、余りにも大雑把な決めつけを許したくないな、と思って、「そんなことを言わせたらいけないよ」と、他の実行委員会のメンバーの人にも言ったりしたんですけども、そんなことは一つ一つが大事だと思います。


杜撰な「事実」の認定

事実に迫るという風なことを言いながら、むしろ、なんか非常に大雑把な見方をされているというそのことが、今後、破防法適用に向けて非常に危惧します。
私自身は、いろんなところにも書いていますけど、この今回の破防法適用の動きというのは、宗教法人法の解散命令、本当に団体適用、団体の活動として、こういう問題の行為が行われたということが、あまりにも大雑把に言われ過ぎている、と。裁判所によってもですね、すごく杜撰な認定の中で、こういう状況が進んでいったこと自体が、もう既に破防法的な状況であったという風に考えています。
カルトであるということを前提に、あるいはカルトであるという決め付けが、安易に為されやすい。いろんな新宗教に対してですね。でもこういう状況はやはり国家神道がやはり当時成立していった状況と極めてよく似ているし、その中での、オウム真理教に対する、はっきり言いまして、宗教弾圧だという風に考えています。





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