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オウム真理教に対する強制捜査を考える市民の会ニュース 第10号掲載

オウムヒステリーに埋没した日本
          
岩崎 一郎


 強制捜査とはまったく別個に以下もう一つ議論をかもし出したいと思う。是非多くの人に考えていただきたい。

 ここ最近、1995年当時のオウム報道を改めてチェックしているのだが、改めてそのヒステリックな扱われ方には驚くばかりである。正に戦後の混乱期、メディアが荒れていた状況と全く変わらず、報道倫理が聞いて呆れると言う他ない。

 この点は改めて繰り返すまでもないので、今回はこれ以上触れないが、その報道を振り返るにあたり、これまではそれほど気にもとめなかったのだが、人権蹂躙のための番組以外の何ものでもないワイドショー番組を持つ局はもちろん、NHKからテレビ東京に至るまでが、ある共通の疑問を呈している。表現は様々であるが、簡単にまとめると下記の通りである。


 「なぜ有名大学卒業のエリートが、オウムに惹かれ、入信してしまったのだろうか」
 「なぜ麻原ごときに騙されている事実に今まで全く気付かなかったのか」
 「何が若者をオウムに走らせているのか」

 これらの発言が、頻繁に有名大学出身者も多く含むと思われるテレビキャスターから語られたのは、既にご承知の通りであるが、ここで興味深いのは、前記の通り問題提起していながら、全く回答が示されないまま終了しているのである。「なぜオウムに騙されたのか」の回答が、ある特定被告の人生の軌跡を振り返るだけで番組は終了する。冒頭で示された疑問は、番組としては結論は見いだせないというものなのか、あるいは視聴者に対して、自考を促しているのか、それすらも不明である。『オウムとO−157』というタイトルを打ちながら、その関与は不明であるという結論になっている例と全く変わりなく、何とも無責任極まりなく感じる。

 ところで、私個人としても、必ずしも前記疑問に対する明確な回答を有しているわけではない。また、この問題を真剣に考えるにあたりマスメディアも有力な判断材料になるかもしれぬ必要不可欠な情報を伝えていないように思える。  無論、それを追求した場合オウム真理教のプラス面を喧伝することとなってしまう。マスメディアとしては、オウム真理教の宣伝になる、殺人集団を褒めるのかという批判を恐れて、あえて控えてきた現状があるのだろうが、真剣に前記疑問を解くにあたっては、それとこれとは全く別問題であり、避けて通れない点であると言わざるを得ない。  当然惹かれるものがあったからこそ入信したのであり、マイナス面しか見当たらない教団に価値を見出すことも、極めて考えにくいのであって、教団に対する何らかの魅力を感じたことは、火を見るよりも明らかだろう。一流大学出身の有名キャスターが、テレビというものに惹かれるものがあったからこそ入社したことと全く同じ構図である。

 私自身の例を言うと、冤罪救済活動に携わる理由として申し上げられることは、マイナス面もあるかもしれぬが、それでもそれに魅力を感じ、そして避けて通れない重大な問題であると考えたからであり、それ以上の合理的な説明は極めて困難である。少なくとも、プラスの価値観を見出すものがあったのは、説明するまでもないが、事実である。オウム真理教に属する各個人に対しても、当然同じことが言えるだろう。

 と申し上げると、「彼らはオウムの殺人教義に価値観を見出したのだ」「科学兵器製造という昔からの科学者の憧れと、オウムの目指すものが一致したからではないか」「日本の歴史に残る、世の中を震撼させるという夢の実現を果たす上で、オウムという場が有効と考えたからにほかならない」という反論も予想されるだろうが、このような論法だけにしつこく固執することは喋っている本人の低レベルなものの見方の範囲を露呈するヒステリー以外のなにものでもなく、オウムに優れた面はないと決めつけ、今見えていない現実を見逃す危険性が出てくる。  このような当たり前のことをあえて説明しなければならないほど、当時のオウム騒動は冷静さを欠いていたのである。

 さて、オウムヒステリーは今でも根強く語られているようであるが、少なくとも報道も沈静化した今、改めて冷静な目で、「エリート、若者らがオウムに惹かれた理由」を分析する状況が整ったとも言える。疑問を呈したまま、結論を全く見出さないで終わった各番組は、この点を改めて考え直す時期に来ているとも言える。当時の発狂状態を脱した今こそ、冷静な分析がより望まれるのである。

以上



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