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新宗教・文化ジャーナル
『SYZYGY』
オウム真理教と人権 掲載


オウム報道およびオウム関連裁判の問題点
          
三山 巌


一、「オウム真理教」という怪物イメージの独り歩き
 団体として法人格を有していた宗教法人オウム真理教は、1996年、国から強制的に解散させられた。ところが、報道機関は、任意団体オウム真理教に対し、以前の宗教法人オウム真理教となんらかわらないがごとく「オウム真理教」と呼び、報道する。普通の感覚からいえば、当事者である元「宗教法人オウム真理教」の構成員たちが、自身の任意団体の名前を、かえるのだろう。しかし、宗教的な理由からか、彼らは「オウム真理教」という名前にこだわり、あえて非難の的となり続けている。人権を守るべき立場の弁護士も、彼らにはできるだけ関わろうとしない。そして、任意団体オウム真理教には基本的に法的な当事者能力はない(注)から、いくら「オウム真理教」について虚偽の情報を流したところで、誰からもまともなクレームはつかない。だから、報道機関は、「オウム真理教」について、嘘かホントか分からないようなことも断定的に言いたい放題、という状況ができあがっている。「オウム真理教」という名の、怪物のようなイメージだけが、ひたすらに独り歩きを続けているのだ。

 もっとろくでもないことには、この構図を公安調査庁・警察庁・国会議員が、それぞれ実に上手(陰険)に利用していることだ。彼らは「オウム真理教」という名の怪物イメージをマスコミを使ってさらに煽り、煽っておきながら「オウム真理教対策」と銘打って自らの利権を達成するという、「最悪の構図」ができあがりつつある。この「最悪の構図」の最大の犠牲者は、作り上げられたイメージである「オウム真理教」の実在を信じ、ひたすらにまどわされている多くの日本人だろう。この集団幻想を相手にしての日本人の集団ヒステリー状態に、「中世の魔女狩り」の様相と相通ずるものを感じているのは、わたしだけだろうか。

 さて、わたし自身、わりと調べた分野である報道問題については、より詳しく述べてみたい。

(注)法的な当事者能力を持つために「権利能力なき社団」として主張する方法があるが、裁判所が認めなければそれで終わりである。かりに主張しても、オウムをどうやって解散させるかばかりが論じられている現状では、おそらくは認められないだろう。


二、脚色された情報、誤情報が多い
 オウム報道の特徴として、まず、報道量が極端に多い、ということがあげられよう。1995年3月以降から現在(1999年9月)まで、オウムに関する報道量は、異常である。特に、オウム真理教を非難、批判するバッシング報道が多い。特定団体に対するバッシング報道量としては、戦後では間違いなく日本一だ。
 しかし、報道する必要のある内容が、そんなにたくさんあるのか、という疑問は、当然でてこよう。これについては、必然性のある報道はそんなに多くはない、といえよう。必然性がないにも関わらず、なぜそんなに報道量が多くなるのかといえば、報道機関がさして報道するほどもないことを「ニュース」に「仕立て上げている」のである。そのような報道のやり方には当然無理があるから、必然的に「脚色された情報」「誤情報」が極端に多く生じることとなる。


三、報道の視聴者、読者の不安感を煽っている
 オウム報道は、無理にでも視聴者(もしくは読者)の恐怖感を煽る傾向が、非常に強い。その方が、ニュースバリューがでるからだろう。このことが、不必要な社会混乱を巻き起こしている。昼時のテレビ番組の場合、オウム報道のバック・ミュージックとして、本来オウムとは無関係な、恐怖感を喚起させるヘビーメタル・ミュージックを流すことは、しょっちゅうだ。
 最も信頼度の高い報道機関においても、「客観報道」と称して、オウムを叩く人のコメントを、そのまま大きく取り上げ報道する。その反面、オウム側のコメントはほとんど報道しないか、非常に小さくあつかう。結局、ほとんどの報道機関が、オウムに関係する報道において、視聴者の恐怖感を不必要に煽っている結果となっている。


四、報道機関の産業主義
 オウム報道は、視聴率、もしくは売り上げが、たいへん伸びる。オウム報道の背景には、極めて多額の金銭が動く、独特の市場が形成されている。そこで動いた金銭を具体的に指摘することは難しい。しかし、どう少なく見積もっても、数十億、数百億を遙かにこえていることは、まず間違いないだろう。


五、悪質オウム報道の具体的典型例
 悪質なオウム報道の典型的な具体例をひとつ紹介しよう。なお、非常にひどい例であるが、実のところオウム報道ではこのようなひどい例は日常茶飯事であることを、お断りしておく。

 オウム真理教信者が当事者となって、産経新聞社を訴えている訴訟がある。当事者となった信者を、かりにAさんとする。Aさんは、ある不動産業者と、建物(元工場)について賃借契約し、信仰をともにする仲間と共に96年初頭から居住をはじめた。ところが、96年12月に、産経新聞社発行の夕刊紙「夕刊フジ」が「スクープ/オウム/新アジト/工場乗っ取り/経営者一家失跡」と一面大見出しをつけ、建物の写真や地名入りでAさん宅やAさんの行動、職業、年齢等を突然報道したのである。この夕刊紙は、おおよそ160万部ほども発行された。あらゆる意味で、まったく滅茶苦茶な話である。
 あまりにひどい仕打ちに、Aさんは憤慨し、1997年2月27日、東京地方裁判所へ損害賠償を訴えた。
法的な権利侵害の内容は、以下の二点である。
@名誉毀損。すなわち、誤った報道により、Aさん個人の名誉を傷付けた。
Aプライバシー侵害。すなわち、Aさん個人がオウム真理教を信仰しているという私的情報を、Aさんの意思とは無関係に勝手に暴露した。

 この裁判については、わたしも個人的に応援し、裁判傍聴してきた。裁判の経緯についても、ここで報告したい。


六、第一審判決から窺える裁判所の偏見
 第一審判決は、1997年11月17日にくだされた。判決内容は、少なくともわたし個人は前例を知らないような、驚くべき内容であった。少々ややこしいが、できるだけ要点をまとめると、裁判所の判断はこうである。

@見出し内容を読めば、オウム信者が工場をのっとったと読める。しかし、Aさん個人の名前は、見出し内容からは特定できない。
A本文記事内容を読めば、Aさん個人が特定できる。しかし、本文記事内容に、Aさんが工場を乗っ取ったとは、はっきりとはかかれていない。
B見出し内容と本文記事内容は主張している内容が違う。したがって、見出し内容により読者を誤導し、見出し内容のような印象を読者に与えようとしただけということは誰が見ても明白であり、結論としては読者が見出し内容を信じることはありえない。
Cしたがって名誉毀損は成り立たない。

 @からCを、よく読んでもらいたい。この第一審裁判所の理屈が、はっきりいってまったくの屁理屈にすぎないことは、誰でも分かるだろう。
 新聞社が、読者に見出し内容のような印象を与えようとした以上、大部分の読者が勘違いしたままになるはずだ。普通に考えて、記事見出し内容は、本文記事内容の要点をまとめたものであって、まさか全く独立した虚偽内容であるとは、読者は考えたりしない。そもそも本文記事内容は、Aさんが工場を乗っ取ったと「はっきり」書かれていないだけで、Aさんを「乗っ取り」の当事者として疑惑視する内容にはなっている。したがって、見出し内容と本文記事内容を総合すれば、Aさんが工場をのっとった、もしくはのっとった疑いが非常に強い、と読者は解釈するだろう。たとえ「『虚偽の見出しである』と『断定しきる』読者が存在する」と想定するとしても、そのような人は極めてまれな存在でしかないと考えるのが、常識的な判断のはずだ。ましていわんや、大多数の読者が「虚偽の見出しである」と「断定しきる」など、絶対にあり得ない。しかし、読者はそう断定しきるはずだ、というのが、裁判所の無茶な言い分なのである。さらに残念なことに、裁判長の性急な訴訟指揮から派生したトラブルにより、Aさんの意に反して、プライバシー侵害の訴えについてはなんら判断されないまま、事実上、無視されて終わった。
 なぜこのような非常識な、ひどい判決を裁判所はくだすのかといえば、裁判所ですらオウム真理教、もしくはオウム真理教関係者に対する強い偏見がある、とわたしはみている。
ある弁護士は、裁判所のオウムへの偏見について
「灰色というより、もう真っ黒だよ、真っ黒」
と評している。


七、冷静に「普通」の判断を積み上げるべき
 日本の裁判は三審制になっている。第一審の判断に当然納得しなかったAさんは、1997年11月28日、第二審へさらに訴えた。第二審では、Aさんは本来個人の範疇では説明の義務を負わないはずの、一般的なオウム信者への誤った偏見の問題までも、丁寧に説明をくり返した。第一審での裁判所の強い偏見を感じたからだそうだ。誠実に、かつ粘り強くくり返されたAさんの説明は、ほとんど涙ぐましいものがあった。また、第二審の裁判官は、一審の裁判官とくらべ裁判官本来の職務に忠実であり、できるだけ「普通」に審理をしようとの努力が窺えた。そして、1999年4月19日に第二審も終結したのだが、終結後に気になる事態が起きている。判決日がくり返し延期されているのである。終結時には、1999年6月30日に第二審の判決を言い渡すとの予定であった。しかし、6月の中旬過ぎに判決の延期が裁判所からAさんに伝えられた。次の予定は1999年9月13日となった。ところが、9月初頭、またもや裁判所は判決日の延期をAさんに伝えた。そして今現在(1999年9月)の判決予定日は、1999年11月29日である。二度の延期となると、日本ではかなりめずらしい部類に入る。裁判所が具体的に何を考えているのかは不明だが、相当慎重になっていることは間違いない。やはりオウム問題は、特別扱いされているのだ。しかし、改めて考えてみれば、Aさんの裁判は、かなり限定された範囲での、しかも個人の名誉毀損訴訟にすぎない。このような限定された法的問題ですら特別扱いするのであれば、部分においても、全体においても、とにかく「オウム」と名が付けば何でもかんでも特別扱いするしかなくなってしまう。それでは、いついかなる時も、色メガネを通してしかオウム真理教を見ないのと同じで、そう見る側にこそ問題があると言わざるを得ない。わたしとしては、本件訴訟をあまり特別扱いしてほしくない。このような時期だからこそ、法律にのっとって、原則的に、ごく「普通」の判断するのが重要ではないか。裁判所がごく「普通」にAさんに対することができれば、Aさん個人も納得できるだろうし、集団ヒステリーに陥っている日本人の頭を少々冷やす意味でも、大いに意義があると考える。

(1999年9月)
 11月29日の判決は、またもや延期となった。これで三度目の延期である。新しい判決予定日は、今のところ2000年1月26日。(1999年11月29日追記)



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