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新宗教・文化ジャーナル
『SYZYGY』
オウム真理教と人権 掲載


オウム事件の意味
          
山際 永三


 1995年に起きた「オウム真理教団関係の事件」は、日本の社会に対して、はっきり とは眼に見えにくいが非常に深刻な影響をもたらしている。
 日本のマスメディアは、欧米のマスメディアにくらべて、より一層画一的という欠 点を持っているが、そのマスメディアは一斉に「オウム信者さえいなければ、日本は 幸せな国だ。オウムをつぶすためには、何をやっても許される」というキャンペーン を1999年の現在までやり続けている。実際に、日本の国会では、オウムのような危険 な団体をつぶす目的で、「組織犯罪対策法」(これには通信の盗聴を警察に許す法律、 犯罪によって得た収益と疑われる預金について銀行は密告する義務をもつ法律などが 含まれている)などが成立してしまった。日本は、警察国家への道を大きく前進した。 歴史には多くの前例があるが、特殊な恐ろしい犯罪事件をきっかけとして、その恐ろ しさへの反動として、美しく見えるスローガンが人々の眼を狂わせ、結果として警察 と保守的政治家が権力の基盤を強固にする。その意味では「歴史は繰り返す」ように も思えるが、「オウム事件」には、いままでの日本の歴史にはなかった新しい要素が 内在していると思われる。


私の立場
 私は、1932年生まれで無宗教主義者、映画監督を職業としてきた。1970年代の「ウ ルトラマン・シリーズ」など子ども向けのドラマを多く監督してきた。私は、政治に は関心があるが、政治家にはなりたくない。私の信念によれば、どのような政治家が 国家を運営しても理想に近づくのは困難だ。私は政治家に、せめて戦争だけは避けて、 環境汚染をできるだけ減らし、なるべく民主主義的な社会にすることを努力してもら いたいと希望している市民である。私は自分が映画の仕事をしていただけに、日本に おけるマスメディアのあり方には関心を持ってきた。マスメディアが大きくなり、立 法・行政・司法の3権力に次ぐ第4の権力になることによる弊害が多いことを危惧し てきた。とくに犯罪事件や事故の報道が、警察情報に片寄ることにより、書かれたり 写されたりした人々の人権侵害が起こることを防止しようと考え、仲間とともに1985 年から「人権と報道・連絡会」という市民運動を始め、私はその事務局長(無報酬) となった。


オウムとの出会い
 私が「オウム真理教団」を意識したのは、1990年だった。その年の国会議員選挙に 「麻原彰晃教祖」はじめ25人の信者が立候補し、街頭でそろいの派手な衣装を着た女 性が踊ったり歌ったりしているのを見て、奇妙な新興宗教が現れたものだと考えた。 選挙で全員落選したあと、九州熊本県の山の中に手作りの家を建てて百人くらいの信 者が住み込み、村の行政当局や住民とトラブルになっていることを知った。この時も、 私にとって「オウム」は遠い存在だった。日本には多くの新興宗教があって、そのな かには、ときどき非常識なパフォーマンスが、また、娘を誘拐されたと騒ぐ親の姿が マスメディアで騒がれることがあった。マスメディアは、ほとんどの場合、新興宗教 を徹底的に非難するキャンペーンを展開していた。
 1991年10月の「人権と報道・連絡会」月例会には、「オウム」の顧問弁護士である 青山弁護士に来てもらって、熊本でのトラブルやマスメディアの「オウム」非難報道 について見解を聞いた。そのとき青山弁護士は、横浜でオウム反対の活動を始めてい た坂本弁護士の一家失踪事件について、理由のはっきりしない疑いをかけられて困っ ていると述べていた。1995年になって、逮捕された数名のオウム信者が坂本弁護士・ その妻と幼児の3人を殺害したことを自白しているから、1991年の時点で青山弁護士 は私たちを騙したのかもしれない。しかし青山弁護士は、坂本弁護士一家殺害につい て知らされていなかったのかもしれないし、詳細は不明である。
 1994年6月に、長野県松本市で「松本サリン事件」が起こり、住宅地の数カ所で窓 から毒ガスが入り込み、7人が死亡した。翌日から、警察とマスメディアは現場近く に住む会社員の河野さんが犯人に間違いないとのキャンペーンを始め、河野さんは長 時間にわたって警察によって取り調べられた。彼に関しては、何の証拠もなかったた めに、逮捕・起訴はされなかったが、それから1年間にわたり、彼は「松本サリン事 件」の犯人と見なされ続けた。彼の妻は、サリン中毒により、1999年現在も病院に入 っている。1995年になって逮捕された数名のオウム信者が「松本サリン事件」を自白 したが、その自白は、いくつかの点で客観的な事実と矛盾している。事件は、夜11時 ころに起きたとされているが、夕方6時ころ、また、7時ころから9時ころにも異常 を感じていた人々がいたことが確認されている。毒ガスの影響が、ガスを撒いた後に 残ることはあり得るが、撒く前にも存在していた事実は、毒ガスを撒く行為が複数回 あったのか、あるいは別のグループもいたのかのどちらかだと考えられる。


オウム事件の謎
 1995年1月1日の読売新聞(発行部数日本最多)は、オウムの富士山麓に作られた 建造物の周辺から、サリンの痕跡が検出されたと報道した。これが事実であるならば、 警察は富士山麓のオウムの建造物およびそこに出入りする人々への監視を強めること が可能だったはずだ。ところが、警察は、3月20日の「地下鉄サリン事件」の発生を 予防することに失敗した。3月20日には、首都東京の政府機関が集中している場所を 中心とする地下鉄の車内で、同時に数カ所でサリンガスらしき毒ガスが撒かれ、11人 が死亡し多数の人が病気になった。この無差別テロには多くの日本人が驚愕し、一種 の社会ヒステリー状態が生まれた。この「地下鉄サリン事件」をきっかけとして警察 は大々的にオウム弾圧にのりだし、多くの「オウムの犯罪」を暴露し、その大部分が 「麻原彰晃教祖」の命令で「オウム真理教団」の幹部が実行したことが明らかとなり、 彼らはそれぞれ複数の罪名で逮捕され、裁判にかけられた――と、公式には発表され ている。しかし、真相はいまだ闇の中にあり、私は、現在裁判で検察官が主張し、マ スメディアが書き立てていることが真実だとは到底考えられない。おもてむきには3 月20日に突然サリンを撒かれたことになっているが、実は前日の19日には多数の警察 官が埼玉県朝霞市の陸上自衛隊の基地内で、毒ガス対応のマスクの装着訓練をやって いた事実がある。警察は、少なくとも何者かが毒ガスを使いそうだという情報を掴ん でいた。また、19日には、当時の「オウム真理教団」本部があったビルの入口に火炎 瓶(ガソリン入りの瓶)が投げつけられて発火した。これは後で、オウム信者だった 自衛隊員が「オウム真理教団」が何者かによって攻撃されていると見せかけるための 偽装工作だったとされているが、なぜ19日なのかは解明されていない。「オウム真理 教団」の幹部と警察幹部との間に(その間にさらに別の人物も介入していた可能性も 含め)、19日の段階で秘密情報のやりとりがあり、たとえば「サリンを撒く」「いや、 やめさせろ」「いや、もう間に合わない」といった、ぎりぎりの駆け引きがあったこ とをうかがわせる。さらに、1994年の9月には、サリンについての差出人不明の手紙 がマスメディア各社に送られていたという事実もある。その手紙が何を意味している のか、多くの情報が閉ざされている。


私の問題提起
 私は、この論文で、「オウム事件」の全貌を明らかにすることを目的としていない。 事件の数は多く、「坂本弁護士事件」や「地下鉄サリン事件」のように、オウムの信 者が外部に対して起こしたとされる事件と、毒ガスや武器を製造したこと自体が犯罪 とされた事件と、「オウム教団」から逃げだそうとしてリンチを受け殺されたという 事件などがある。それらの事件の他、ビルの駐車場に車を駐車したことが違法(建造 物侵入)とされたり、ビラをポストに入れたこと(住居侵入)、偽名でホテルに宿泊 したこと(文書偽造)、住民登録をしていない場所に住んでいたこと(公文書不正記 載)、警察官が自分自身でころんだところを側で見ていたこと(公務執行妨害)など も違法とされ、多くのオウム信者が逮捕された。したがって、逮捕された四百数十人 のオウム信者のうち起訴された者は百数十人にすぎない。保守的な政治家や警察の幹 部は、どのような法律を口実に使ってもいいから、オウムをつぶすようにと命令した のである。私は、「オウム事件」の中心部分は闇の中にあり、裁判によって解明され るとはかぎらないと考えている。私は、この論文で、私がそう考えるに至ったさまざ まな兆候と、「オウム事件」が日本の社会の全体にもたらした影響の大きさ、日本の 社会がなぜオウムを生みだしたのかについての考察の概略を記述してみたい。


オウムの信者たち
 私は、1995年6月ころから「オウム真理教団」の複数の信者と会い、多くの問題に ついて話を聞いたり彼らの住居を訪ねたりする機会を得た。私と顔を合わせる信者は 「教団」の幹部ではなく、「犯罪事件」のことは全く知らなかったという。彼らは、 富士山麓の倉庫のような建物に居住して修行している時に、ヘリコプターから毒ガス を撒かれるから注意しろとか、近いうちに警察による強制捜査が行われるだろうとは 聞いていたが、「地下鉄サリン事件」が幹部によって決行されたなどということは信 じられないという。彼らは若く、20歳代から30歳代で、中学校の教師だった一人は日 本の公立学校が押しつける教育方針に不満を感じ「オウム真理教」に出会って「出家」 したという。「出家」とは仏教用語で、家(ホーム)を出ると書き、家族・財産から 離れて僧侶になることを意味する。彼らは非常に真面目な人生を歩もうとしており、 1999年の現在まで私に嘘をついたりする気配は全くない。彼らは、時々私にオウムの 本を読むようにすすめることがある。それらの本には、古い仏教に基づくオウムの教 義やヨガの修行のことが書かれているが、私は熱心な読者にはなれない。
 彼らは、原則として1日に2回だけ食事をするが、普通の眼からみれば大変な粗食で ある。そのほうが健康に良いという。彼らは、富士山麓の大規模な建物を追い出され たあとは、数人ずつアパートなどに住み、交替でアルバイトをして収入を得ている。 彼らは、時々遠い地方にある場所に合宿して何日間かの修行に入る。修行は、都会か ら離れた場所で、一人ではなく何人かで一緒にやるほうが良いのだそうだ。彼らの多 くはパソコンを操るのが得意で、インターネットの情報などについては非常に詳しく 、また自分自身でホームページを開設している。


オウムの特徴
 私のみるところによると、「オウム真理教」という宗教は、古い仏教の教義に基づ いているが、「教祖」または「開祖」と呼ばれる「麻原彰晃氏」への帰依を中心に成 り立っており、信者または「出家者」一人一人と「麻原彰晃氏」との精神的な結びつ きが信仰生活の中心をなしているようだ。信者同士、また出家者同士は、当然仲間な のだが、宗教的には一人一人は別々で、少しいじわるく言えば「便宜的」に共同生活 をしているように感じられる。彼らは、人間の死の必然という一種の諦観からすべて をみようとしているように思える。しかし、それは日本の既成の寺院仏教の僧侶たち の多くが、とかく「あきらめ」と通常の価値観への順応を教えるのとは全く異なる。 自分の人生にとって何が一番大切なことかを考えつめ、修行によって精神的に高いレ ベルの体験を積むように努力する。そのために出家する。寺院の広大な土地や建物を 相続して社会的なオーソリティを得る既成仏教の僧侶とは、全く違う。改めて考えて みれば、あらゆる宗教は人々の日常を批判的にとらえ、人間に対して厳しい面と優し い面とをもっている。そうした宗教に、ある種の危険性はついてまわる。
 1995年ころ私は、オウムの信者たちに言ったものだ。「あなたたちは、どうして富 士山麓のあのように美しい風景のなかに、あのように味気ない倉庫のような建物を沢 山こしらえて、そこで乱雑な共同生活をしていたのか。宗教ならば、それにふさわし い美意識があって当然ではないのか?」と。彼らは答えた。「建物にお金をかけたく なかっただけです。なるべく実用的で、大勢が住めるところが欲しかったのです。建 物は全部自分たちの手で作りました」――鉄骨を買ってきて、自分たちで組み立てた というのである。むろん彼らの仲間には建築士の資格をもっている者がいた。彼らは プラグマチストなのだ。彼らは食料も印刷も薬品も、自給自足を目指し、そうした仕 事を「ワーク」と称して分担していた。毒ガス攻撃に備えて、各建物には空気清浄機 を取り付けることになり、自分たちで工夫した機械を取り付けた。 ときには、とんでもなく奇妙な「ワーク」もあったそうだ。潜水艇を作るというので、 海に進水させたところ、沈没しそうになって人命が危うかったという。彼らは、その 潜水艇が何の目的で必要なのか詮索はしなかった。ともかく何でも自分たちで作る「 ワーク」の一貫だったと、楽しそうに回想する。「ワーク」の失敗は日常茶飯事だっ たという。彼らは、効率を無視するプラグマチストということになる。富士山麓に建 てられた倉庫のような住居には、1994年ころには急激に信者・出家者が増えて、千人 以上にもふくれあがり、なかには、どこのだれだか判らないような人も大勢いた、と のことだ。そうした新しく増加した人々の多くは、1995年の「事件」後、急激にいず こかへ消えてしまったという。当然ながら、さまざまな邪悪な目的で潜入していたス パイもいたであろう。
 こうしたいくつかの特徴から言えることは、「オウム真理教団」は決して一枚岩の 強固な団結心をもった組織ではなく、ルーズな面をもっていた。いかにも今の日本社 会が生み出した宗教らしい、日本社会をカガミに写したような要素をもっている。彼 らは、日本の過剰消費社会にいやけをさし、都会に背を向け、世俗を捨て静かな山で 修行する。しかし、パソコンやビデオは大いに利用し、1995年以降は全くやらなくな ってしまったが新しい実験や研究には非常に熱心なのである。何の目的かわからない 奇妙なことでも、「ワーク」をやってみようと誰かが言い出せば、何人かでやってし まうという自律性と杜撰さが同居していた。このような特徴をもつ教団を利用して何 かを計画する者が、幹部のなかにか、あるいは近い外部の者にか、いたとしても決し て不思議ではないような状況があった。


オウム事件の裏側
 現在進行中の裁判では、物的・科学的な証拠が非常に少ししか提出されていない。 証拠の大部分は、自白と証言という言葉である。言葉のニュアンスは非常に微妙であ る。オウム信者の言葉と警察官や検察官の言葉では、外国語以上の違いがあると、私 は確信する。被告人としての麻原氏は、一切のコミュニケーションを断ち切ってしま っているように思える。事実関係に多くの矛盾や疑問点がある。1995年の「地下鉄サ リン事件」の10日後に起きた「警察庁長官銃撃事件」の犯人はオウムだといわれ、元 オウム信者だったという警察官の自白まであったが結局起訴されないままに終わって いる。また同じ年の4月23日に起きた、麻原氏の第1の弟子の「村井氏刺殺事件」は 現場で「やくざ」らしき者が現行犯逮捕されたが、背後関係は全く解明されないまま になっている。
 検察側にとって一番重要とされているのは、麻原氏の裁判である。麻原氏についた 国選弁護人たちは、非常に熱心に、刑事弁護の原則どおりに弁護活動を行っている。 手続きを法律どおりに進め、事実に関する疑問点は、できるだけ追及する姿勢を貫こ うとした。これに対して、検察官・裁判官はむろんのこと、政治家も、マスメディア も一斉に「裁判の引き延ばしだ」と弁護士を責めたてた。この傾向は、ほかの一般の 事件にまで波及し、1997年以来、「凶悪な犯人を弁護するのは、悪い弁護士だ」とい う風潮が日本社会全体を覆いつくしている。私は、日本人の大部分がそのように近代 的な社会システムを否定する考えに陥っているとは考えない。明らかにマスメディア が冷静さを失い、麻原氏を早く死刑にすることが正義であるかのように、煽り立てる 記事を書いているのだ。
 そうしたなかで1998年12月に、麻原氏弁護団の中心的な存在だった安田弁護士が、 他の事件で逮捕・起訴され、9か月以上勾留されたうえで、裁判にかけられている。 安田弁護士は、顧問をやっていたある不動産会社の倒産を防ぐために別会社を作りあ げ、賃貸しビルディングのテナントは賃料をその別会社に支払うように経営者にアド バイスしたということを罪に問われている。しかし企業の顧問弁護士が、そのような アドバイスをすることは当然のことで、何かの犯罪を構成するものではない。安田弁 護士への不当な弾圧は、明らかに麻原氏の裁判を検察官の計画どおりに進めるための 陰謀である。日本のマスメディアは、安田弁護士を悪い弁護士のように報道し、安田 弁護士の人権を侵害し、同時に読者・視聴者の人権をも蹂躪したのである。


事件後の信者たち
 「オウム真理教団」は、1995年10月に宗教法人として国から解散命令を受け、1996 年3月には裁判所から破産を宣告され、1996年10月には富士山麓などの大規模な住居 を追い出され各地に分散した。それ以後は、単なる任意団体ということになっている。 1998年には、オウムに対するマスメディアのバッシングも一段落したかと思われたが、 1999年に入って再び強いバッシングが開始された。つまり、オウム信者が何人かで集 団生活をしている場所がわかると、警察とマスメディアがそれを暴露し、付近の住民 を煽り立てて「オウム排斥」の住民運動を起こさせるのである。信者たちは、やむな く流浪することになる。ところが、集団で居住できるような建物を手に入れることは なかなか困難で、やっと探しだしても、そこで再び「オウム排斥」運動が始まって市 町村の長は住民登録を拒否するのである。日本では住民登録は国民全部と在日外国人 の義務であり、市町村の長の義務でもある。住民登録がないと、健康保険などの社会 福祉を受けることができなくなる。日本憲法の22条は、居住の自由を定めているが、 オウム信者が新たに居住しようとする市町村の長は、その憲法に違反し住民登録の法 律にも違反するのを判っていながら、「住民の感情」を理由としてオウム信者の登録 を拒否している。このような異常が、まるで正当なことのように許されているのが、 今日の日本の社会である。


破防法改悪の陰謀
 前述の「組織犯罪対策法」は、そうした新たな「オウム排斥」運動のなかで成立し てしまった。さらに、「破壊活動防止法」という特別法を、オウムに適用することを 1997年に見送ったことは間違いで、新たにその法律を改正してまでもオウムに適用す べきだという論調が、最近になって盛んに行われるようになっている。「破壊活動防 止法」は1952年に出来た法律で、政治目的で破壊活動を行なう団体およびその幹部に 厳罰を与えるものだ。1970年代に破壊活動を煽動したということで、左翼の活動家個 人には適用されたことがあるが、団体や政党に適用されたことはない。オウムに対し ても、宗教団体であるし将来にわたる危険性はとぼしいとして適用が見送られた経緯 がある。それを、今回は「政治目的」という制限規定をなくし、あらゆるテロ活動を 封じ込めるためと称して、一部の保守的政治家・評論家とマスメディア幹部が、改正 の必要を叫んでいるのである。「破壊活動防止法」が団体に適用された場合、その団 体のために2人でも3人でも集まって相談したり金を出したりすれば、それが犯罪に なるという非常に危険な法律だ。太平洋戦争中の「治安維持法」の復活であると言わ れている。「治安維持法」は、日本の天皇制を守るための法律だった。「破壊活動防 止法」は、今日の社会の安全を守るためという非常に抽象的な、漠然とした目的で改 悪されようとしている。私たちは、それを阻止するために全力を尽くすつもりだ。 オウム排斥の意味  オウムは、なぜこれほどまでに嫌われるのだろうか。確かに、1995年までのオウム の幹部たちは、その幹部たち自身の意志によってか、または何者かに利用されてか、 犯罪を犯したことは事実だろう。幹部たちが全く無関係な冤罪だとは、私も思わない。 犯罪に対しては一般の刑法により、公正な裁判をすることで十分だ。しかし、その犯 罪の真の責任者が謎につつまれたまま、その犯罪を知らされていなかった下部の信者 ・出家者にまで、連帯責任を問う必要があるのだろうか。私は、現代を中世の報復と 厳罰の社会に戻すことはしたくない。団体の連帯責任を問うことは、個人の責任を限 りなく希薄にさせる。下部の信者・出家者が、今日も宗教活動を続けようとすること、 少なくとも自分たちの修行を続け、日本の社会に生活しようとすることまで、全面否 定する必要はないと私は思う。まして、1995年の事件の後オウムをやめていく信者が いるし、逆に新たにオウムの信者になる若者がいて、出家する人さえいるというので ある。オウムには、日本の若者を引きつける何かがあるのだ。オウム事件を論評する 人々は、好んで「犯罪を実行した幹部たちは、麻原によってマインドコントロールさ れていたのだ」と言う。しかし、事件後の新たな信者たちをどう説明するのか。
 私の考えによれば、日本の社会では、「家庭の幸せ」という価値観がすべてにまさ る価値観だという「マインドコントロール」が蔓延しすぎている――その価値観に疑 問を持つ若者が次から次に現れるのは当然のなりゆきなのである。日本のテレビに流 されているコマーシャルフイルムを見れば、私の言う意味が了解されるだろう。そこ では、何かの商品を食べたり飲んだりしさえすれば、家庭は幸せというメッセージが あふれている。それは異常なほどである。その異常に反応し反発する別の異常が現れ ることも、必然だと思わざるを得ない。オウムは、まさしく現在の日本社会のスケー プゴードなのだ。だから、これほどまでに嫌われるのだ。

私たちの栃木調査活動
 私たち「人権と報道・連絡会」は、1999年8月4日に、もっとも激烈なオウム排斥 運動が起きているという、栃木県を調査した。調査項目は、以下のとおりである。

・大田原市長の「住民登録不受理」理由と他県・他市の事例との違い
・住居登録義務との関係 
・住民の迷惑・不安の実態 
・右翼団体の活動実態 
・住民とのトラブル発生の経緯 
・マスコミの役割 
・オウム関係者児童の就学と教育委員会の判断 
・下野新聞の紙面とこの問題に関する編集方針

などであった。下野(Shimotsuke)新聞は独立した県新聞だが、今回のオウム排斥運 動については、煽り立てるような記事とセンセーショナルな見出しを連日掲載してい た。
 麻原氏の子どもを中心として何人かの信者が住み始めた住居は、田園地帯の林に囲 まれており、他の住民の住居からは 100メートル以上離れていた。門の前には簡単な 小屋が建てられて数人の住民が、1日12時間ずつ2組で24時間の監視に当たっていた。 住民にインタビューを試みたところ、「上の人が決めたことに従っている」という消 極的な人もおり、また「オウムは怖いからね」と言う人もいた。私たちの調査活動に あからさまな不快感を示す人もいた。住民の監視は、建物裏側の林の中の樹木の上に 小屋を作って、塀越しにも行われていた。何日か前には、夜中に林の側から塀を叩き、 奇声を発し、差別的な言葉を怒鳴るグループもあったという。また、一時期は連日の ように、右翼団体が大きなスピーカーを付けた大型バスを停めて演説し、塀の中の信 者に対して飲みかけのジュースの缶を投げつけて怪我をさせた。一部の過激な右翼は、 工事用トラックで門を突き破り2人の信者に怪我をさせた。運転していた右翼は警察 に逮捕された。私たちが驚いたのは、オウムの信者が車で門を出ていこうとした時、 何回か「撒き菱(makibishi)」という鉄製の曲がった釘(昔忍者が使った武器)を道 路に撒かれ、車がパンクさせられたということだ。オウム信者は、その撒いた人をい ったん捕まえたが、大勢の人によって奪い返されたとのことである。住民とのトラブ ルが、これほどまでにエスカレートしている場所は珍しい。他の県での、通常のオウ ム排斥運動では、住居の近くに手作りの看板が立てられ、「オウム出ていけ!」など と手書きされるものだが、大田原市では、立派に印刷された同じ文字の看板が多数設 置されている。相当の費用が支出されているのが判る。右翼団体の動きも他の場所と は異なって活発であり、裏から煽っている者の存在をうかがわせる。「撒き菱」のこ とは、ほとんど報道されない。私たちは、市の助役(副市長)に面会して話し合い、 栃木県の教育委員会を訪ね、教育委員長が麻原氏の子どもが小学校(日本では義務教育) に入学する場合には他の子どもたちのために入学拒否も考慮せざるを得ないとの趣旨 を発言したと報道されたことにつき見解を確認し、私たちの意見を伝えた。その後、 県庁の記者クラブで20人くらいの記者との記者会見を行った。
 翌日のいくつかの新聞には、「市民団体が現地調査」といった1行見出しの小さな 記事が掲載された。記事には私たちの主張として、――オウムの住居の中は平穏で、 住民の反応は過剰だ、冷静に判断すべきで煽るような報道はすべきでない――という 内容が書かれていた。マスメディアは記事を出さないだろうと考えていたが、私たち を無視はできなかった。デスクに言われてルーティンの記事を書いている記者の中に も、自分たちの仕事にいやけを感じている記者がいることは確実だ。また、この記事 が出たことにより、「人権と報道・連絡会」栃木グループには、栃木県内の未知の住 民から、「一連のオウム排斥運動には恐怖を感じていた」と、私たちの調査を支持す る意見が寄せられた。普通の住民のなかには平穏を望むがために、排斥運動に違和感 をもつ人々がいる。その事実は、私たちを大いに励ました。
 日本におけるオウムに関する社会ヒステリー、それが保守的な(太平洋戦争前と同 じ)政治家により巧みに利用されている実態を、あたかも猛スピードで驀進する列車 のように感じ、私たち少数者が「人権」を叫ぶ姿は、あたかもその列車の前で吠える 犬のように見えると言う人がいた。確かに適切な戯画である。私は、喜んで「人権」 の犬になるだろう。私は、学生時代に「破壊活動防止法」の立法に反対して活動した が、挫折したにがい経験を持つ。もし、67歳の私が「破壊活動防止法」で逮捕される としたら、それは私の大きな名誉である。


(1999年9月)



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