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苦しみを滅するブッダの教え
          
Pura Yuki Narathevo






はじめに

本稿は、「オウム裁判対策協議会」の要請により、以下の方を想定して書いたものです

・すでに様々な修行方法や瞑想方法をおこなったことがあり、成果についてもそれなりに自負のある方。

・加えて、修行や瞑想について、より深く探求をされたい方。

・しかし、今までの方法をそのまま続けていいのか迷う面もあり、なにかしら参考となる情報も求めている方。

なお、私自身がいままでに原稿を書くときは、今まで瞑想や修行にとくに興味もなかった方もふくめて、日常生活のなかでどのように修行や瞑想を生かしていただくか、という発想がもっぱらでした。

今回は読者層の想定が違っているため、注意すべきポイントとしてピックアップしている事項など、既存のケースとは違いもあります。

しかし、表面的な注意点や表現が少々違っていたとしても、最終的に目指すところも、途中の過程でのポイントも、その内実は実のところ同じです。

この点を念のため付記しておきます。


「苦しみを滅する」ブッダの教え

ブッダの教えは、「苦しみを滅する」ことを目的としています。

仏教は決して死者のための儀式要綱でもなく、哲学的な思索に留まるような机上の空論でもなく、また、一部の人たちのための悟りマニュアルでもありません。この世に生を享け、苦しみに直面する人間誰もが活用できる苦しみからの解放の教えであり、その道を歩み始める者は、今この瞬間から苦しみを減ずることができ、やがては完全な滅苦にまで至ることができる、そういう教えです。



「苦しみを滅する」こと以外を目的とするケース

ブッダの入滅後、その教えは各地に広まり、たくさんの派にもわかれていきました。

そして様々な表現、いわば「専門用語」で教えの「目的」が示されてきました。

この「専門用語」による表現に関する理解が多くの誤解を生じさせることになっているように思います。これが、本稿において考察したい点の一つです。

たとえば、
悟り、解脱、涅槃、ニルヴァーナ、極楽浄土、等々・・。

それらは「苦しみを滅する」、その境地のことを指しているのかもしれません。

しかし、言葉というのは、独り歩きしがちです。「悟り」「ニルヴァーナ」等々と表現した段階で、あたかもこの現実とは違う、異次元の特殊ななにものかを指しているように聞こえてしまう。なんだか「神秘的で凄そう」に聞こえてしまう。
そして、いつしか目的が「(この現実の世界のなかで)苦しみを滅する」というよりも、「悟る」「ニルヴァーナへ至る」など、「未知の境地を目指すこと」へとすりかわってしまう可能性があることは否めません。

仏教では盲信を否定します。しかし未知なる境地を目指すことが目的となってしまうと、知らず知らずのうちに「信じている」状態に自らを陥れてしまう危険性も生じてきます。なぜなら、目的については、ことあるごとに自らのうちで確認することになりますから、次第次第に虚像が強化され、それを心の励み・支えとしてしまう可能性があるからです。

また、苦しい現実に直面している人の中には、そのような未知の境地の話を、とても魅力あるものとして捉えるという場合もあるようです。眼前にある苦しい現実を放置したまま別の世界へいけるというニュアンスを感じ取ることができるからかもしれません。

もしかしたら非常に質の高い学問的研究に基づいた調査プロセスを経たうえで、その専門用語についてしっかり定義した人もいるかもしれません。

しかし、まったく違う定義でその言葉を使用する人もまたいるでしょう。
法律の条文中で使用される専門用語のように共通概念としてしっかり定義される言葉などとは違うわけです。 とすると、誤解を生む可能性もかなり高いともいえるのです。



「未知の境地」を目的とすると、新たな苦しみを生じさせてしまう

こうして修行者各自がふくらませたイメージより設定された「未知の境地」を目的としてしまうことは、新たな苦しみの始まりとなる可能性があります。

たとえば、修行途中で、そんな未知の境地が本当に存在するのかなあ、と疑問に思うことがあるかもしれません。こうなってくると、信じるか、信じないかといった悩みを生じさせることになってしまいます。

また、修行者同士で共通の専門用語をつかって「未知の境地」について話していたとしても、その意味内容が異なっているということも起こりえましょう。

このように、修行をすすめることそのものが、苦しみとなってしまうかもしれません。

「苦しみを滅する」はずのブッダの教えがそのような新たな苦しみの因を招くとすれば、本末転倒です。

試みに、これらの専門用語で言わんとするところを、平易に表せば、「苦しみから解放される」となるでしょうか。このように表現したほうが解釈の違いにより「未知の境地」のイメージをふくらませてしまう可能性を低くすることができるかも知れません。

あるのかないのか議論がいつまでたっても終わりそうもない形而上学の輪廻のことを問題にするのではなく、今ここで確実に苦しみを滅することを目的にするのです。ブッダも輪廻のような形而上学の問題には関与してはいません。



明るい教え

ブッダの教えは、いつでも、だれでも、いかなる環境・境遇でも、
「苦しみを滅すること」
ができると説きます。

一般的に私たちが抱く様々な願望については、年齢や性別など外的条件が壁となってあきらめないといけないことも多いかもしれません。しかし、ブッダの教えの実践にあたってはそんな風に考える必要はありません。
若くても年老いていても女性でも男性でも生涯チャレンジ可能なことなのです。もちろん一気に100%とはなかなかいかないかもしれません。しかし、生きている限り少しずつでも修行をすすめればその分苦しみは滅されるのです。



わがまま・自分勝手という意味ではない

なお、「苦しみを滅する」ためであれば、どのように修行を進めても良いという意味ではありません。
自分勝手に周囲にふるまい、しかし(ブッダの教えを実践し、苦が減っているのだから)自分は辛くないのだから良いのだ、と当人が言い張るケースというのもあり得ます。

しかし、このように行動した結果、最低でも周囲の人と何かしらの心地よくない軋轢を生むでしょう。

周囲に苦しみを生じさせてしまっていないか、しっかり点検しながら、修行を進めていただきたいと思います。



ブッダの教えにおける「幸せ」とは

「苦しみを滅する」ブッダの教えを「幸福をもたらす」教え、という風に言うこともできるでしょう。

実際のところ、ブッダの教えの実践により、とても心が幸福になります。 たとえば、子どものころ、とくに何か大きな出来事があったわけではなくとも、日常のごく素朴なひとコマにもとても心が生き生きとしていた記憶はありませんか。 そのような生き生きとした心の感性は、大人になっても十二分に取り戻せます。大人の知識・知性をもちながらも、そのような心の感性も取り戻せるのです。
ポイントを押さえて修行を進めれば、むしろ子どものころ以上に心の感性を磨ける可能性があります。

しかしながら、「幸福」というと、一般には「外側のなにかを得る」ことのように考えられがちです。
お金があれば幸福、結婚できたら幸福、子どもがいれば幸福、あの学校に入れたら、就職できたら、あの地位につけたら・・等々。
一般的にはこうした事柄を幸福と称するでしょう。
ブッダの教えの意味する幸福は、こうしたものとは異なったものであると言えましょう。そういうことから、ブッダの教えを説くにあたっては「幸福」は誤解を生じないよう慎重に用いたい表現のひとつです。

なお、外側のものについて、ブッダの教えでは一概に否定はしません。しかしこれら外側のものは、それを得ることや失うことに執着しすぎると苦しみに変化します。したがってとくにそれらをクローズアップして推奨するわけでもないのです。外側の条件については淡々とした態度で接し、執着しすぎないようにしましょう、という中道のスタンスです。



「幸せ」という言葉を使う際にも注意が必要

ところで、伝言ゲームをしたことはあるでしょうか。

@十人ほど並ぶ。

Aある内容について、最初の人が二番目の人に伝言する。そのときに他の人に聞こえないように伝える。

B二番目の人は、聞いた内容を三番目の人に伝言する。そのときに他の人に聞こえないように伝える。

Cあとは A、Bと同様の作業を最後の人まで繰り返す。

そうすると、Aで最初に伝えられた「ある内容」はどの程度正確に最後の人に伝わるものだと思いますか?

実は、途中で伝言する人すべてがよほど注意していないと、比較的簡単な内容であっても最後には「全然違う話」になってしまうことも珍しくないのです。

「聞いたとおりの言葉と一字一句異ならない、まったく同じ言葉」をリピートする形で伝言するということには、多くの人が注意を払わない、と言うことです。

パーフェクトに同じ言葉でなくとも、自分にとって言いやすく、しかしほぼ同じと思える意味の言葉で言い換えてしまうのです。このようなちょっとした言葉の置き換えが複数人の間で複数回発生するとなると、もう全然違う意味に変化していってしまう可能性が高くなるのです。

こうしたことから、「修行により幸福が得られる」という「言葉」だけが伝達されていったとき、いつのまにか仏教的な幸せとは意味内容が異なってしまい、ひいてはそれが新たな苦を増やすことともなりうる、ということです。



苦しみを滅するために 二つのポイント

ここまで、ブッダの教えの目的が、「苦しみを滅すること」であると確認してきました。

次にどうやってその目的を達成していくのか、について考えてみましょう。

その拠り所となるであろうポイントが二つあります。
それは、「客観性」と「慈悲」です。

この二つのポイントは常に相互に影響を与えあいながら修行を進める役割を果たします。

事実をありのままに認識した上で慈悲をもって行動できるなら苦しみが少なく、やがては滅することのできる生き方ができる、ということです。

これらのポイントが押さえられていれば、苦しみを滅する方向から大きく逸れてしまうことはないでしょう。

反対に、このポイントを押さえられていなければ、苦しみを滅する方向に進むことが困難となるかもしれません。
仮に修行や瞑想をしているようであったとしても、苦しみを減らす方向から逸れてしまっていないかどうか、確認する必要があるでしょう。

もう少し各ポイントについて詳細に記してみましょう。

@ 客観性について

主観的な視点からではなく、客観性を持ってあらゆるものをありのままに理解することが必要です。今ここについての正しい理解がなされなければ、以降の行動・思考は苦しみを増やす方向へ進んでしまうと言えましょう。たとえば、その行動が慈悲の実践を意図したものであったとしても、正しい事実認識がないまま行動したがために、新たな苦しみを生じさせてしまうことにもなりうるということです。

事実をありのままに認識することがいかに大切であるかがお分かりいただけると思います。

A 慈悲について

客観性のポイントをきちんとおさえたとしても、次に対象に対して悪意をもって行動するなら、やはり苦へつながることとなります。しかし慈悲をもって行動するなら、苦しみを減らしていくことができるでしょう。



いつでも「客観性」を保つこと

このように書くと、「なんだ、簡単だ、客観性ぐらい私はすでにもっている」と思われるかもしれません。 しかし、実のところ、ここでいわんとしている客観性とは、維持し続けることが大変に難しいものなのです。教えを正しく実践するために、一見簡単に思えるものであっても、あらためてその意味を考察するような心構えで臨まれることをお勧めします。

たとえば、99%の部分でちゃんと客観的に身の回りの事象をみていたとします。
しかし、1%の部分で、極端に客観性を失したものの見方をしているとしましょう。
誰かを極端に嫌悪しているとか、逆に極端に執着しているとか・・。

そうすると、その1%の部分で大きな苦しみが生じることもありえます。

たとえば、食べすぎで少々健康を害しており、食を控えめにしたほうがいい、という表面的な自覚があったとしましょう。しかし、やはりついつい食べてしまう。自分で自分をコントロールできない。これは、肝心な食事をするそのときになると客観性を失している、ということなのです。

したがって、一時的に客観性を発揮できればいいということではなく、人生のなかで満遍なく客観性を保つ必要があるということなのです。

客観性とは、「理論はシンプル」だが、「体得は極めて難易度が高い」ものといえるでしょう。

難しく考える必要はありません。
しかし体得についてはその難しさを理解して取り組む必要があると言えるでしょう。

およそ人間がチャレンジできる事柄のなかで、本当の意味で客観性を保ち続けることの体得は、もっとも難易度の高いチャレンジ項目といっていいでしょう。

しかしながら、 客観性は、育てたなら育てただけ「苦しみを減らす」方向に進んでいると言えます。
成功するか失敗するかの二者択一のように考える必要はありません。



客観性を育てると発見できるもの

さて、心に客観性が育ってくると、おのずと発見される真実があります。

これは、本来は修行に取り組むおのおのが自分自身で発見するべきものです。

ただ、何の手がかりもなければ、修行者にとってとらえどころのない話ともなりかねません。
そこであらかじめ

「修行を進めてゆけば、いずれ自己の心身にこのようなものが発見できる」

として、示されているものがあります。

・無常 アニッチャー

・無我 アナッター

・苦 ドゥッカ

の三つです。

この三つは「三相」とよばれます。

これらを発見するころには、あらゆる事象について執着する必要がないことを本当の意味で知ります。観察しないで曖昧にうやむやにしてなんとなく放置するのではありません。はっきりと明晰に観察した上で執着しすぎる必要がない事実をはっきりと知るのです。



「苦しみを滅する」修行に必要なこと

人が直接観察できる範囲は限られています。

そのため、人から聞いた話など間接的な情報も活用して、ものごとを理解する必要があります。間接的な情報には他者によるバイアスが入ることは避けられず、情報の確度が低くなる、すなわちありのままの事実でない、という可能性が高くなるということは否めません。
かといって、直接観察していないこと以外は何も信頼しません、といったのでは、普通の日常生活すら不可能になります。
そういう場合は断片情報を組み合わせて論理的に考えることになります。

しかし、主観的な好き嫌いの感情とごちゃまぜにしながらの類推や、論理が非常にしっかりしていてもその前提となる事実関係を踏まえないなど、誤った方向に展開してしまう可能性があります。

「客観性」は、間接的な情報を組み合わせて、ものごとを理解しようとするときのよい羅針盤となります。本来の目的を見失わず、健全な方向で修行を進めていける可能性がとても高まるのです。



論理的であることと客観的であることはイコールではない

客観的であるということは論理的であることであると思われるかもしれません。

たしかに論理的であることは客観的であるための助けになることがあると言えます。

しかし、論理の前提となる事実認識が正しくなければ、その時点で客観的とは言いがたくなるのです。

主観を前提とした論理というものもあるからです。

論理的であるということが、客観性を担保するものではないことを十二分に理解する必要があります。

「苦しみを滅する」方向に進むために大切なのは、主観にハマり込まないように注意し、客観性を保つことなのです。



無意識から気づいている状態へ

ここでいう客観的である状態とは、悩んでも仕方がないのにくよくよとしてしまうとか、執着しても仕方がないのにこだわってしまうとか、そういう状態に自分がハマってしまっていることに気づく、ということも含みます。

こういう状態にハマり込んでしまっているとき、私たちは苦しくなります。気持ちは暗く、沈みます。

なぜこのように苦しみが生じるのか。それは、自分自身の心の動きをありのままに理解できていないからです。

気持ちが暗くなるときは、自分自身が認識できないような微細かつ素早いスピードで延々と何度も何度も繰り返された「どうして、どうして」というようなパターン的な思考を、無意識において行った結果なのです。
とくに強く感情が動くような状態においては、この繰り返しがより強く行われた結果である可能性があります。

そのことを自覚できない、自覚できないからなぜ暗くなるのかわからない、疲れるし余計に不安になって・・という悪循環です。

こうした悪循環から抜け出す方法はあるのです。自分自身の状態、すなわち主観にハマりこんでしまっていることに、客観的に気づくことです。

もし本当に自分自身が何をしているのかはっきりと明晰に知ることができれば、自分自身を必要以上に苦しめていたのは直接には自分自身であることに気づきます。次に、仮に外的には厳しい条件であったとしても、心の中では必要以上にはそのことにこだわらず、やることはやるという前向きな姿勢もでてきます。

また、いっとき客観的だった人が時と場合により客観性を失することもよくある話です。

相当訓練をつんできた人であっても油断はできません。

どんなに努力していても、ふとした拍子に心のパターンにハマりこんでしまう。そしてそのときに苦しみが発生するのです。そのリスクを少しずつ少しずつ減らしていく、それが修行です。
「苦しみを滅する」ことがブッダの教えであることを忘れずにいれば、修行に取り組むモチベーションを正しい形で維持できるのです。



自ら確認する教え

これから教えを実践してみよう、という人の立場から考えてみましょう。

修行を進めるにあたって、他者からチェックしてもらうことにより正しく進んでいるかどうかを確認できるという考え方があります。たとえば、チェックポイントが外側にあらわれて物理的な次元で論じやすいスポーツなどではあり得るでしょう。しかしながら、外側にはあらわれず、修行者自身では客観性を確保しづらい心の働きを取り扱う修行において有効であるかどうかについては、慎重に判断したいところです。

北伝仏教などでは師によっては、比較的個別の細かいことまで師自身の見解を重視することもあるようです。ところが、師が弟子に対して強い影響力を発揮しうるのをいいことに適切であるとは思えない指導をする師も存在するとかいうことを、北伝仏教の指導者自身が注意点として述べているケースがあるとも聞きます。

もちろん素晴らしい師もきっとたくさんいらっしゃることでしょう。しかし、素晴らしいか素晴らしくないか、適切な指導であるかどうかを修行者自身が事前にそれを断定判断することは難しく、修行の方向に間違いがあった場合は、師が正しい道を示す役割を果たしてくれるのではなく、むしろその逆の役割を果たす危険性すらあるのです。

したがって、修行が苦を減らすという正しい目的に向かって進んでいるか否かは、自身の苦しみが減っているかどうか、よもや新たな苦しみを生じさせてしまっていることはないか、修行者自らが確認するしか方法はないのです。

タイ仏教においては、ブッダも含めて修行の先達をあたかも神のように絶対視することはありません。とはいえ、修行の先輩として敬意はもって接します。道の先達との縁と先達への敬意はとても大切なことです。それは自分自身の進む道を尊重することでもあります。

自分の判断すべてを差し出してしまうような次元の、自己判断放棄の態度とはまったく異なるものです。人から聞いたことはそれが誰からのものであっても、あくまでも参考情報です。苦しみを滅するためには、自身が修行をとおして自らの心身で確かめる必要があるのです。

ブッダの教えには、
「サンティティコー」
すなわち、行なっている修行が正しければ、正しいと修行者自らがわかる、というものがあります。

修行方法が自らにあっていないと思えばその人が去るのも自由です。

もちろん、師による指導により苦しみがしっかり滅されていくケースも、これも実際に多く存在します。他の方法ではどうしても解決できなかった極めて過酷な条件からの苦しみを、たくましく克服していったケースも実在します。

しかし、その場合にも師も含めて他人が結果を判定するものではありません。そもそも、他人が評価する意味がまったくないのです。

これははっきり自覚できる問題です。修行がすすめば、この生の現実のなかで、自らが自らの嘘偽りのない実感によって「苦しみが滅された」との手ごたえをはっきりと得ます。
たしかに、修行の過程における手法では先達が残してくださった様々な工夫・智恵が存在します。

しかし、結果の判断まで自分自身でできないと考えたりするならば、素朴なありのままの事実が見えなくなる懸念があります。

専門知識がなくては理解しがたい高度な模範解答が存在する近代教育、一定枠の専門家の存在に慣れ親しんだ現代社会では、この点にとくに注意すべきかもしれません。

「悟ったかどうか」などを自己判断することも危険でしょう。
独りよがりな勘違いをしている可能性があるかもしれません。

修行の目的は悟りについて考えることではなくて「苦しみが滅されたかどうか」なのです。 自分自身が感じているありのままの事実そのものが問題です。 「苦しみが滅されたかどうか」という事実にしたがって修行の成果は自己判断できますし、むしろ自己判断すべき事柄なのです。

ブッダの教えは、特定ジャンルの専門家のあいだでのみ理解され活用される特殊な教えではありません。
ブッダの教えは今ここの生の現実のなかで、それぞれが己の本音で感じるところを尊重しつつ、自立した意思をもちつつ実践できる、万人に開かれた教えです。



Pura Yuki Narathevo
1962年生まれ。タイ・スカトー寺副住職。
1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキアン師のもとで出家。
以後、村人のために物心両名の幸せを目指す開発僧として活動する一方、日本とタイを結ぶ架け橋としても活躍している。



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