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『救援』1997年8月号掲載

報道問題からみた「神戸少年事件」
少年法改悪を射程に
繰り返されるバッシング報道

          
山際 永三(人権と報道・連絡会)


 小学六年生を殺害したとして逮捕されたのが中学三年生だったということで、マスメ ディアは大騒ぎをしている。十四歳の少年が真犯人かどうか未確定というのが私たちの 大前提だが、たとえ犯人だとしても、特に驚くことではないと考えるべきだ。問題は山 積しているのだから。
 いじめの日常化/義務教育への不満のうつ積/社会全体への挑戦/犯行声明をマスメ ディアに送り付ける繙繧ヌれ一つとっても、当然あるはずのものが噴出しただけのこと と理解すべきである。中学生にしろ小学生にしろ、おとなのギスギスした関係・不当な 競争社会の反映の中で生きているのだ。せめて子どもは純心であるべきというのは、お となのエゴイズムにすぎない。苦悩する子どもたちを、直視すべきである。


  刑事裁判の形骸化  



 今回の事件が5月末、それは1989年の「M君事件」の死刑判決後一か月半だったこと に、まず注目したい。私たちにとっての「M君問題」は、「多重人格/責任能力」論よ りも、被告・弁護側が事実関係を争うことなく裁判が終始したことへの大きな不信だっ た。主な検察側「証拠」を、弁護人(鈴木淳二氏ほか)がすべて同意して争わないこと は何を意味するのか? 最近ではオウム事件の裁判で「証拠」を不同意にすることは、 裁判を引き延ばす悪い弁護方針という風潮さえ、マスメディアには蔓延している。これ ら一連の問題は刑事裁判の形骸化・儀式化の典型で、逆に言えばペーパー・トライアル (新聞裁判)の影響がいかに巨大かの証明でもある。
 今回の事件が5月末、警察庁が全国少年課長会議で「少年の凶悪犯罪に対してより強 い姿勢でのぞむ」ことを決めたのが、6月3日である。

県警捜査本部は、早い時期から少年にターゲットを絞っており、「三〜四十歳の ガッチリした男」などの容疑者像はマスメディアを踊らせるために放置しておいただけ というのが、おおかたの見解だ。これも一種の情報操作である。小学六年生殺害の第一 報(5月27日)で、すでに「連続通り魔事件」も同一犯人とし、やがて年齢が異なるか ら違う犯人という説が流され、少年の逮捕直後に「通り魔事件も自供」と報道された。 すべてその時々に都合のよい「自白・目撃・伝聞」の言葉々々で報道される。物的証拠 は、ずっと後回しなのである。この現象はオウム裁判でもみられることで、私たちは、 最近の犯罪が特に解明困難だから証拠を獲得しにくいなどの説明では全く納得できない。 刑事裁判の形骸化は、この国のジャーナリズムの弱体化、つまり権力による情報操作と 並行して、深く進行しているのである。



  少年法改悪  



 今回の事件で弁護士会から派遣された当番弁護士が、少年の留置場所を警察ではなく 鑑別所にすべきだと抗議したのは、ほとんど唯一の朗報だった。弁護士にさえ心を開か ない少年であるならば、なおのこと、警察官が寄ってたかっての取り調べは、百害あっ て一利ないことは明らかではないか。
 官房長官の「個人見解」として少年法見直しが云々されるのに歩を合わせて新潮社の 週刊二誌は、逮捕少年顔写真掲載を強行した。大新聞は普段から週刊誌と、もちつもた れつの役割を分担し、週刊誌の広告をでかでかと掲載し、今回も『FOCUS』の広告 は載せておき、法務省が動き始めると『週刊新潮』の広告を拒否してみせた。すべて横 並びで、公権力の動きに追従している。
 『週刊新潮』が従来繰り返してきた人権侵害報道、例えば特定の裁判官をバッシング する「無罪病/無罪常習/減刑前科」等の記事をみると、そのネタは検察官のリークに よるのは明らかで、この国の官僚および企(業)畜どもの醜悪な発想の象徴だった。  彼らは、少年であろうとなかろうと、凶悪事件犯人を厳罰に処すことで社会を防衛で きると考えている。厳罰応報主義は、ますます社会を悪くすることに気付かないのだ。 まだ事実が明らかになっていない段階で、被疑者少年が早く社会に戻りすぎるなどと論 ずるのは結局異端者を抹殺しようとする発想だ。私たちにも責任のある、社会全体の病 理を、どうしてみようとしないのか。
 いくつかのメディアで「少年事件に詳しい弁護士」若穂井透氏のコメントが紹介され ていたが、その趣旨は、少年事件では「情報が極めて制限されているため、そのいらだ ちが暴露報道を生む」というもので、主客転倒もはなはだしい。また、『FOCUS』 では《人権派「野崎研二弁護士」》が、少年の顔写真掲載は当然などと言い放ち、メデ ィアに利用され、踊らされている。冤罪が生まれ易いなどといわれる現行少年審判の欠 陥と、報道の暴走をリンクさせるこうした愚論が、弁護士から出てきていることには、 あきれるばかりだ。



  運動の課題  



 私たち人権と報道・連絡会は、新聞労連(北村肇委員長)が本年2月に公表した「新 聞人の良心宣言」を高く評価し、その実現を期待している。宣言の内容は、権力・圧力 からの独立/市民への責任/公正な取材/公私のけじめ/犯罪報道/プライバシー/情 報公開/記者クラブなどに関し、なるべく現実的に、しかも理想を失わないよう配慮さ れたもので、ジャーナリズムの起死回生策そのものだ。「特異事件」が起きると、必ず 繰り返される人権侵害報道の洪水を前にすると、その良心を裏付けるシステムの必要が 痛感される。
 今回の事件では、インターネット掲示板での無責任な暴露情報エスカレートも問題と なった。高度情報化社会は、複雑で制御しにくいものなのだ。権力対人民といった従来 の図式で、言論の自由を普遍的価値基準とするのも困難であり、メディアに関わる人々 の、さまざまなレベルでの職能的な自律性・責任制度が必要となる。
 インターネットや週刊誌などの暴走を、官僚による上からの規制で抑えようとする動 きを警戒すべきだ。まだまだ大きな情報力を保持している新聞界が、他のメディアに先 駆けて自律的なシステムを準備すべきである。新聞労連の「良心宣言」に応えようとし ない社団法人新聞協会(マスコミ倫理懇談会を含む)の態度は、まさに犯罪的だとさえ 言える。
 『救援』紙読者には、具体的な報道批判、裁判批判の運動を起こすことを呼びかけた い。情報化社会において報道問題は、即その国の「法」のありかたの問題なのである。



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