1975年10月15日1975年10月17日小野悦男さん救援会の様子
救援連絡センター 03-3591-1301ゴクイリイミオオイ 機関紙 月刊『救援』連載(1997年11月〜1998年1月)記事
山際 永三
1997年11月号
救援連絡センター設立30周年に向けてのリレー回顧記事を、事務局の古いお二人が書いた後、中心を担っておられた方々の筆が、どうしても進まないとのことで、私にオハチが回ってきた。
私は運営委員になったこともなく、単なる維持会員なのだが、救援連絡センターが出来る前から救援運動に関わって、周辺をうろうろしていた関係で、中心にいた方々よりも気軽(無責任?)に書けるのではないかというのが事務局の思惑らしい。
私の記憶も定かでないのだが、水戸巌さん(救援連絡センターの初代事務局長・故人)に最初にお会いしたのは1967年だったか、羽田闘争の記録映画『現認報告書』の製作上映に関してであったと思う。その後、私が「日大芸闘委支援委員会」のことをやっていたため、68年12月の『合同救援ニュース』第1号(救援縮刷版収録)に記事を書いたりすることになったのである。その頃私は、「金嬉老公判対策委員会」の会合に顔を出し、大沢真一郎さんにもお会いしたことがあった。
69年のはじめに、センターを作ろうという相談を水戸さんから受けた。私は、しり込みしてセンター発足の責任ある立場からは逃げたのである。ただ、水戸さんに対してだったか他の人に対してだったか私は、「救援センター」ではなく、あくまでも、「救援連絡センター」にすべきだと意見を言ったことがあったと思う。私の考えとしてセンターは、あくまでも全国の中心になってはならず、単なる連絡機関にこそなるべきだということから、その提案をしたのである。むろんセンターが全ての事件を全面的に引き受けることなどできるわけもなく、事件当初にセンターが関わった事件も裁判段階では、それぞれの個別救援会が責任をもってやるという原則に、結果としてなったが、私の提案は水戸さんらに採用されたのだと私は解釈している。今でもセンターのことを、「QC」と略す人がいると、私は「いやQRCですよ」と言うことにしている。このことは「個別」の主体性にこだわる全共闘運動の雰囲気を知っている人なら、分かってもらえるはずだ。私はQRCの運営からは逃げて、もっぱら「日大闘争救援会」のことをやっていた。
本紙前々号で「事務局K」さんが「センターができる直前の1月18〜19日、東大安田講堂の攻防戦で 760名もの逮捕者が出」と書いているのを読むと、私は「ちょっと待ってよ、日大では1600名の逮捕者があったことをどうして書いてくれないの」と今でも言いたくなるのだ。私は「東大」嫌いで「日大」ファンなのである。
私は、その後「警視総監公舎爆破未遂事件」の救援に関わった。すこし遅れて「土・日・P事件」のでっち上げが始まった時、「総監公舎」の獄中被告からの強烈なアピールもあって、その救援にも関わった。そのうちに、学生運動の弾圧に対して人権を言うのなら、一般刑事事件獄中者の人権を問題にしないのはおかしいということになって、「小野悦男さん救援会」にのめり込んでいった。それらの事件が冤罪だから特に関わったわけではない。私なりの自己体験があって、そうしてきたのである。
1976年10月15日現場検証風景 (小野さん冤罪事件)
私や現事務局長・山中幸男さんたちに共通して「救援のノウハウ」みたいなものがあるので、「救援」という言葉にもこだわりがある。人を救うことなどできるわけがないのは当然だ。だから「支援」という言葉でもいいのだが、なぜ「救援」かというと、要するに、@逮捕直後からの差入・面会、A家族対策、B弁護士依頼、C全記録のコピーと精読、D調査活動、E弁護団会議への参加……等々の実践がどうしても必要だと考えるからである。単なる心情的支援、カンパ活動、世論対策ではない。この職人的ノウハウを、次の世代に伝える契機になれば、この回顧記事にも意味があると思う。
さっそく、苦言を呈しておこう。本紙のコラム欄などで、単なる政治論議がかわされていたりするのを読むと、腹が立つことがある。「救援」はまず獄中者への差し入れから始まるべきものであって、床屋政談の場ではない。
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