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年報 死刑廃止96/「オウムに死刑を」にどう応えるか

あらゆる断定はつつしむべき
          
山際 永三


 『「オウムに死刑を」にどう応えるか』とは、いやな題ですね。そもそも「オウム」 関連事件には、まだ死刑の判決はおろか求刑も出ていないのに、なんで「オウムに死刑 を」にどう応えるか?なのか? そのセンスが、いやらしいですね。「オウムに死刑を」 という「世論」があるということなんでしょうが、そんな「世論」は、マスメディアに よって作られた「世論」であって、いままでのいわゆる「凶悪事件」ではいつでもあっ たじゃないですか。三崎事件で荒井政男さんが逮捕・連行される時には群衆から「人で なし!殺してしまえ」という声がとびました。裁判が始まったばかりの時に、『「荒井 に死刑を」にどう応えるか』なんていう問題提起をしますかね? 少なくとも救援運動 のセンスではありませんよ。
 「オウムに死刑を」にどう応えるか?という問題設定はすごく受け身で、いわば“相 手の土俵で相撲をとる”ということであって、市民運動としての主体性が問われると思 いますね。
 「オウムに死刑を」にどう応えるか?の設問にまともに応えるとすれば、オウム事件 で被告とされた人々を救援し弁護すること以外にあるわけないじゃありませんか。それ 以外は全部評論であり、いわば卓上の空論ということになりますよ。私はオウムの人々 に対する救援を始めています。
 オウム事件が特殊なんだというのであればオウム問題として議論をすべきです。私た ちは昨年十二月三日に「オウム問題における人権」と題してシンポジウムをやりました が、そこではむろん死刑の問題も出ましたし、オウム事件に関するさまざまな問題を自 分たちの問題として捉えかえそうとして、まともなディスカッションとなりました。そ こで、オウムの小さな権力をつぶす大きな国家権力の暴力行使は、国家経済至上主義の 再構築の過程として画期的な出来事であるということを強調する福田雅章さんの意見と、 オウム事件を利用して情報化・管理社会をさらに進めようとする警察の動きは、ずっと 繰り返されてきた警察とマスメディアの癒着構造がさらに露骨に現れたものだという視 点を強調する浅野健一さんの意見とが、基本的には一致していながら、力点の置き方の 違いで微妙にぶつかって、興味深いものがありました。私は、どちらかといえば、浅野 さんの意見に賛成です。オウム問題で、日本社会に蓄えられてきた積年のウミが、醜悪 にも溢れ出たと考えています。多くの人々の間に、意見の一致と不一致の“ねじれ現象” が起こっています。国家とは何か、人権とは何かといった基本的な問題で、多くの人の 立場が問われ、試されていると考えます。だいいち、いわれるところの「犯行」が、ど ういう人によって、どういう目的で行われたのかも、前代未聞で、わからないことだら けです。すべてはこれからなのですから、あらゆるレッテルや断定は、つつしむべきで す。
 もし、「オウムがあんなことをやってくれたおかげで死刑廃止が十年おくれた」と少 しでも考えている人がいたら、それはとんだお門違いだといわざるを得ません。オウム をバッシングしてやまない作られた「世論」こそ、人の命を大切にしない社会を拡大し ているのではありませんか。
 私は日頃から、実践をともなわない卓上の空論が日本をダメにしてきたとも思ってい ます。思想とオピニオンは違うんです。ニワトリが先かタマゴが先かということかもし れませんが、死刑廃止は、個別の死刑囚の救援をとおしてのみ前進するのであって、制 度改革を先行させて一般的な前進を期待するのは邪道だとさえ思っています。「オウム に死刑を」にどう応えるか?という問題設定は、どう考えても一般論です。われわれは、 もっともっと草の根の市民運動に執着すべきですよ。
  

(1996年4月)



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