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「弁護側法廷資料」の紹介&三浦解説



「AUM13(オウム・サーティーン)オウム事件を解析するための13の公式」
2003年09月18日土谷正実公判弁護側最終弁論で土谷正実自身が読み上げた上申書

※ここに掲載したのは、土谷の上申書で、現物は全部で50ページある。
長いので、とりあえず地下鉄サリン事件、松本サリン事件に関連する部分だけ掲載する。
また、わかりやすくするために、三浦が勝手に小見出しをつけた。(  )内がそうである。


(P1)

矢数愛子さんから白いmont-bellのジャンパーの差入れがあった。
 あれは冬のことだった。Mont-bellの白いジャンパーを身に包んだ土谷正実は検察官請求のある証拠を見ていた。
VXの正式名称に関する証拠だった。
2、3行程度の極めて短い文章中にVXの正式名称が記されているはずだった。
5秒もしないうちに土谷正実の口元がゆがんだ。
苦笑いを浮かべているのだ。
たった2、3行程度という極めて短い文章中に未曾有と言っても過言ではないミスが存在したのだった。
苦笑いを浮かべたまま土谷正実はその証拠を引き裂いた。
その証拠には鈴鹿の名前が記されていた。
土谷正実はおもむろに立ち上がり、引き裂かれた証拠を手に持ったまま水洗便所の方へ歩いていった。
土谷正実はその証拠をさらに細かく引き裂いてから水洗便所の中に落とした。
水洗便所のボタンを押すと、けたたましい音と共に鈴鹿の名が記された証拠が水洗便所の中に吸い込まれていった。
十数秒後、便器の中の水の動きが静まると同時に静けさが戻ってきた。
静まった便器内の水面には土谷正実の顔が映っていた。
土谷正実の顔にはまだ苦笑いが残っていた。

 mont-bellの白いジャンパーは、洗濯のため矢数愛子さん宛てに宅下した。
「水で洗えば、まず最初に水溶性の物質が洗い落とされる」と土谷正実はつぶやいた。
さらに続けて「小学生でもわかることだ」と土谷正実は吐き捨てるように言った。
平成15年7月22日付上申書を書いている土谷正実の表情だけからでは、土谷正実がどのような想いでボールペンを握っていたか、推測することは困難だったに違いない。
「小学生でもわかることなんだが、日本の検察相手では仕方ない」と思いながら、土谷正実はパラパラパラと書類をめくった。
それは第149回尊師公判記録の青木直子速記官速記の14ページないし23ページと秋吉峰子速記官速記の1ページないし15ページの部分だった。
土谷正実は森のことを思い浮かべた。
野中弘孝鑑定人はトラザルティーのジャンパーから切り取った資料を2回鑑定した。
1回目の鑑定は平成7年2月頃に行われた。
1回目の鑑定の際、野中鑑定人はトラザルティーのジャンパーから切り取った資料を水で洗浄し、その水洗浄液を分析しただけだけであった。
1回目の鑑定の際、野中鑑定人はトラザルティーのジャンパーから切り取った資料を有機溶媒でで洗浄しなかったのだ。
「2−(N,N−ジイソプロピルアミノ)エタンチオールは有機溶媒可溶分だから1回目の鑑定にさらされても2−(N,N−ジイソプロピルアミノ)エタンチオールは、トラザルティーのジャンパーに付着したままになる。
ところが2回目の鑑定でも2−(N,N−ジイソプロピルアミノ)エタンチオールがトラザルティーのジャンパーから検出されなかった。
つまり、そもそもトラザルティーのジャンパーVXや2−(N,N−ジイソプロピルアミノ)エタンチオールに付着したという事実はないのだ」
と思いながら、土谷正実は右手の方角に積み上げられている証拠の山をあさった。
大西作成の平成8年2月9日付検面調書を探しているのだった。
この検面調書は平成15年6月になって初めて検察が開示した証拠だった。
土谷正実はその検面調書の13丁裏を漠然と見た。
そこには土谷正実が平成6年12月30日の午後6時頃からメタンフェタミン塩酸塩合成のワークを始め徹夜でそのワークを行なっていたことが記載されている。
「ヴァジラ・サンガーさんがヴァジラ・ティッサ師に渡したブツはO-エチルメチルホスホン酸モノクロライドだ」とつぶやきながら土谷正実はその検面調書をとじた。
そして平成11年6月4日公判後の接見の時に尾嵜弁護士が話していたことを回想しながら、土谷正実は森から意識をはずした。


(P2 松本サリン事件―白い霧)

 平成11年6月4日公判にて吉浦は大西作成の検面調書の要旨を述べたが、その要旨は間違っていた。
「目の前の文章の意味すらわからないとは驚きだな」と思いつつ、土谷正実は大西による取調の日々を回想していた。
あれは、大西から「サリーちゃんの歌」の話を聞いた頃のことだった。
大西の話に重々しい雰囲気はなく、一瞬ギャグだと思った。
平成6年6月27日新實さん達はワゴン車に乗っていたわけだが、ワゴン車の中で新實さん達は声を合わせて「魔法使いサリーちゃん」の歌を全員で大合唱していた、という話だった。
ここで平成15年7月に場面を移す。
土谷正実はボールペンを置いて腕組みをしながらつぶやいた。
「新實さんのギャグには俺もいろいろと困ったもんだったが、中村昇さんもいい迷惑だったろうな」。
感慨にふけった後、土谷正実は再びボールペンをとって、大西とのやりとりを書き始めた。
いわゆる加熱式噴霧車の中に入るだけの度胸があるか、という話を大西とかわした。
ビニール袋を頭からかぶるだけのかっこうでサリン噴霧中のトラックの中にいられるか、というような事を大西に尋ねてみた。
大西は即座に強く首を横に振った。
当たり前のことだ。
大西の方が吉浦よりもはるかに賢い。

平成11年6月4日公判が終わった後、尾嵜弁護士と接見した際に吉浦のことが話題になった。
その中で尾嵜弁護士は次の旨語った。
「オウム裁判の最初の頃はいい検事がオウム裁判の公判検事に選ばれていた。
途中からいい検事がオウム裁判からはずれていった。
途中からはもうみんなクズですよ。みんなカスですよ」。
オウム裁判の公判検事がみんなクズ、みんなカスになった時期を「クズとカスになった日」と呼ぶことにする。
尾嵜弁護士の「途中からはもうみんなクズですよ。みんなカスですよ」という言葉は、今日に至るまで弱ることなくいきいきと輝き続けている。
刑事裁判のプロ尾嵜弁護士の言葉であり信用性は高い。
「途中からはもうみんなクズですよ。みんなカスですよ」という言葉を尾嵜理論と呼ぶことにする。
 尾嵜理論によると南野は「いい検事」ということになる。
本当にそうなのか?
南野と言えば「とろりとした感じの褐色がかった液体」だ。
科学的素養のある者であればそれが何であるかを特定するためには、まず「とろりとした感じの褐色がかった液体」を手に入れようとするはずだ。
そして手に入れた「とろりとした感じの褐色がかった液体」を分析し、その物質を特定することになる。
南野は何もやってない。
土谷正実はつぶやいた。
「そのとろりとした感じの褐色がかった液体は不純物の混じったカラギーナンだ」。
教団内の人物でサリンとVXを合成できるだけの知識と技量を持ち合わせていたのは、土谷正実と鉄井晶子さんと森千太郎さんだ。
もし南野が「いい検事」だとするならば最低でも森千太郎さんにチェックを入れるはずだ。
平成6年8月から平成7年3月20日までの間に森千太郎さんがVXワークとサリンワークにどのようにからんでいたのか、ほとんど何もわかっていない。
「しかし南野は過去の人だ」と思いながら土谷正実は今現在の人達に意識を向けた。
鈴鹿と澤田と森だ。
土谷正実の口元がゆがんだ。
とりあえず鈴鹿、澤田、森との接点の中で最も最近のことを思い出してみよう、と土谷正実は考えた。
7月14日公判の午前、鈴鹿がしゃべっていた。
土谷正実の五臓六腑に「みんなクズですよ。みんなカスですよ」という尾嵜理論が浸透した。
なおも鈴鹿はしゃべり続けた。
土谷正実の五臓六腑にしみ渡った「みんなクズですよ。みんなカスですよ」という尾嵜理論に土谷正実はべろんべろんに酔ってしまった。


(P4 松本サリン事件―ブルーサリン)

とうとう土谷正実の口から不規則発言が飛び出した。
「おまえなあ、20kgのサリンに10kgのイソプロピルアルコールを加えればサリンは全て分解するというは常識なんだよ」。
鈴鹿の表情に変化はなかった。
ポーカーフェースなのか、それとも根っからの馬鹿なのか。
休廷が告げられ傍聴人がいなくなってから、土谷正実は次の旨鈴鹿に告げた。
「平成6年2月、20kg弱のサリン保管用に合計容量23lの容器を購入した。
いくら過剰にイソプロピルアルコールを加えたとしても最大容量が23lなのだから、20kg弱のサリンに多くとも大体5kgぐらいのイソプロピルアルコールが投与された計算になる。
だから逮捕前の土谷正実はブルーサリン中にサリンが残っていると思った。
これは逮捕前の土谷正実の認識である」。
土谷正実が話し終えても鈴鹿の表情は変わらなかった。
「鈴ではなく馬だな」と思いながら土谷正実は退廷した。


(P6 オウム裁判の捜査方針―吉永祐介)

「吉永祐介だな」。
吉永祐介のニックネームは「捜査の神様」であり、尾嵜理論による「いい検事」にしてもクズ・カスにしても、「捜査の神様」の意思を尊重するのは間違いない。
吉永祐介のことを「創作の神様」と呼んでいる土谷正実との大きな違いだ。
オウム出版の「えんじょい・はぴねす」という雑誌に「あなたもわたしも創造主」というコーナーがあったことが思い出される。
地下鉄サリン事件の逮捕日よりも前の時点で既に林郁夫供述が存在し、かつ外崎清隆供述が存在し、かつ土谷正実の上申書が存在した。
これら3点を根拠として「創作の神様」主導の下、捜査方針の概略が決まったと考えるのが最も自然である。
ここまでが起承転結の「起」の部分にあたる。
この「捜査方針の概略」を創作の神様の意思と呼ぶことにする。
その後、起承転結の「承」の部分で創作の神様の意思に従って、取調検事が供述調書を創作し、また尾嵜理論による「いい検事」が公判検事としてオウム裁判の方向性を決定づけた。
この「承」の部分で登場した検事は取調検事にしろ公判検事にしろ皆、創作の神様の意思に盲従するしかないのである。
創作の神様の意思を強力にサポートしたのがマスコミ報道を中心とする世論であったことも忘れてはならない。
世の中に「化学班キャップ」という空想の存在が生み落とされた。
そしてこの「化学班キャップ」という空想の存在は創作の神様の意思通りにすくすくとすこやかに成長していった。
その後、起承転結の「転」の部分が訪れた。
この「転」の部分で登場した公判検事は皆、「みんなクズですよ。みんなカスですよ」と言われている検事達である。
この「転」の部分の時に「クズとカスだけになった日」を迎えた。
この「転」の部分で登場した公判検事は皆、尾嵜理論による「いい検事」達が確立したオウム裁判の方向性に盲従するしか能のない者たちである。
「転」の部分で登場した公判検事は皆、尾嵜理論による「いい検事」達がつくり出したオウム裁判の流れにただただ流されていればいいのであった。
そして起承転結の「結」の日を迎えた。
それが7月14日、すなわち論告求刑の日であった。
先ほどダダはウルトラマンに出てくると書いてしまったが、ダダが出てきたのはウルトラセブンだったような気がする。


  (P7 松本サリン事件―白い霧  第1原則)

 おぼろげな記憶だがウルトラQにはゴマクジラというのが出てきたような気がする。
土谷正実の目にはゴマクジラと鈴鹿の姿がダブって見える。
ゴマクジラは白い霧を噴霧する怪獣だ。
平成13年6月25日付上申書の中で予想した通り、検察はいまだに馬鹿の一つ覚えで「白い霧」のことをサリンだと言っている。
ゴマクジラが噴霧する白い霧をサリンだと仮定すると、ゴマクジラは即死する。
いわゆる加熱式噴霧車に頭からビニール袋をかぶっただけの鈴鹿を乗せて、白い霧を噴霧させ、その白い霧が加熱式噴霧車をすっぽり包んだという場面をイメージして欲しい。
白い霧はあのポンコツトラックの中に入ってきて車内のいたる所に付着し、着ている服にも付着する。
よってビニール袋をぬいだ時点からその白い霧の影響を受け始める。
こんな事はウルトラQやウルトラマンやウルトラセブンを見ている小学生にもわかることだ。
ところが鈴鹿と澤田と森にはわからない。
もしその白い霧がサリンだったならば鈴鹿は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない。
鈴鹿に限らずいかなる人であっても加熱式噴霧車の中から生きて帰ってくることは出来ない。
特筆すべきはポンコツトラックの中で端本悟さんがビニール袋をかぶっていたのに対して、実行役のリーダー村井秀夫がビニール袋をかぶっていなかったという事実だ。
中村昇さんは無防備のまま加熱式噴霧車から発生していた真っ白い霧を5分から10分間浴び続けたが治療すら受けておらず、今も元気である。
白い霧状になったサリンを鈴鹿が浴びれば鈴鹿はイチコロだ、すなわち即死だ。
鈴鹿に限らず、いかなる人であっても即死する。
尊師法廷と土谷法廷での土谷正実証言から明らかなことであるが、ここで第1の結論を述べる。
すなわち「松本サリン事件の犯人はオウム真理教ではない」。
この結論を今後第1原則と呼ぶことにする。


(P8 永岡VX事件   第2原則)

ここでさらに第2の結論も述べておく。
すなわち「永岡会長に対する殺人未遂事件の犯人はオウム真理教ではない」。
この結論を第2原則と呼ぶことにする。
O-エチルメチルホスホン酸モノクロライドを人体に付着させても何の被害も発生じないのである。
O-エチルメチルホスホン酸モノクロライドの毒性の低さと浸透性の低さは特筆に値する。
土谷正実、森脇佳子さん、田下聖児さん、大谷真澄さんは普通の市販の試薬と同じようにO-エチルメチルホスホン酸モノクロライドを扱っていたが、O-エチルメチルホスホン酸モノクロライドによって縮瞳をおこした者は1人もいなかった。


(P8 地下鉄サリン事件―ジフロ  第3原則)

さらに第3の結論も述べておこう。
すなわち「永岡会長に対する殺人未遂事件がおこった日に村井秀夫が手に持っていたメチルホスホン酸ジフロライドはクシティガルバ棟でつくられた物ではない。
地下鉄サリン事件直前、CMI棟での合成に使われたメチルホスホン酸ジフロライドはクシティガルバ棟でつくられた物ではない」。
この結論を今後第3原則と呼ぶことにする。
第7サティアンでつくられたメチルホスホン酸ジフロライドは茶色く着色していたし、かつ読売新聞のスクープ記事を受けて平成7年1月3日までに全て廃棄したという話である。
読売新聞のスクープ記事と共に併記しなければならない事実は村井秀夫が土谷正実に対して合成禁止を命令した物質はNPPDだけであるという事実だ。


(P8 地下鉄サリン事件―オウムが作ったサリン=ダミーサリン  第4原則)

今後、地下鉄サリン事件がおこった日にオウムの実行役5名が地下鉄の車両内に持ち込んだサリン溶液のことをダミーサリンと呼ぶことにする。
ここで第4の結論を述べる。
すなわち「北村浩一運転手、高橋克也運転手、外崎清隆運転手の有機リン中毒症状の原因はダミーサリンではない」。
この結論を今後第4原則と呼ぶことにする。
オウムの実行役5名にしても実行前に予防薬を飲み、ダミーサリン入りビニール袋を傘の先で突いた直後に地下鉄車両から降り、その後傘の先を洗浄しており、さらに顔をダミーサリンから50cm以内に近付けていないことからもオウムの実行役5名の有機リン中毒症状の原因もダミーサリンではないと考えられる。
ビニール袋の両面に穴を開ければ下側の面から、即ち実行役からより遠い方の面から下向きの方向にダミーサリンが漏れ出すことは小学生でもわかる。
重力の影響だ。
地球上では液体は地面に向かって落下する。
ダミーサリンで濡れていたビニール袋をほうきとちりとりで処理しちりとりをのぞき込むように顔を50cmくらい近付けてダミーサリンのにおいをかいだ鈴木良正助役の方が、オウムの実行役5名よりもはるかに長くダミーサリンを扱いダミーサリンに近付いたが、その鈴木良正助役はその日の夜10時半頃まで勤務を続け病院にすら行かれなかった。


(P9 地下鉄サリン事件―本当のサリン    第5原則)

ここで第5の結論を述べる。
すなわち「ダミーサリンから顔を50cm以上離していた地下鉄サリン事件被害者の死因と障害の原因はダミーサリンではない」。
この結論を今後第5原則と呼ぶことにする。
25℃における水の蒸気圧は23.55mmHgであるのに対して、同じ温度におけるサリンの蒸気圧は2.86MmHgであり水よりも約8倍蒸発し難い。
サリンの分子量140.09であり空気よりも約5倍重い。
N,N−ジエチルアニリンとフッ化水素が共存することによってダミーサリンは通常のサリンよりもさらに蒸発し難くなり、鈴木良正助役がこのダミーサリンのにおいをかごうと努力したのに対して、オウムの実行役5名は誰ひとりとしてダミーサリンのにおいをかいでいないし、かごうともしなかった。


(P9 地下鉄サリン事件―エチルサリン  第6原則)

さらに第6の結論を述べる。
すなわち「平成7年3月20日、地下鉄車両内にエチルサリンをまいたのはオウム真理教ではない」。
この結論を今後第6原則と呼ぶことにする。
尾嵜理論によると遅くとも平成10年中に「クズとカスだけになった日」を迎えている。
「クズとカスだけになった日」以降に明るみになった事実の前には無力な存在であり、自己の栄達と昇進のために既存の検察の方針に盲従するしかないのである。
したがってこれらの条件を満たしている検事達が「エチルサリンが検出された」という事実を認めることは不可能なのである。


(P10  松本サリン事件と地下鉄サリン事件―白い霧)

「ゴマクジラというのは間違いかもしれない。
ウルトラQに出ていたというのも間違っているかもしれない」と土谷正実は思った。
記憶を整理していくうちに怪獣の名前を間違えているような気がしてきたのだ。
帰ってきたウルトラマンにタッコングという怪獣が出ていたような気がするのだが、タッコングは白い霧を噴霧する怪獣かもしれない。
いずれにせよ平成6年6月27日に中村昇さんが真っ白い霧を5分から10分間浴び続けたのは事実だ。
ところが平成7年3月20日に地下鉄車両内で白い霧を見た人は誰もいないいわゆる加熱式噴霧車から噴霧された物質には殺傷能力はなく当然のことながらその物質はサリンではない。


(P21 池田大作暗殺未遂事件)

土谷正実は昨年3月6日付けの意見書の41 42 43を見ていた。
そこにはこう記されている。
『細川政権が成立した頃から、私は公明党・創価学会に強い関心を持つようになりました。
平成5年10月6日には尊師が「……ノストラダムスの予言における、今年の7月、池田大作が勝利するという予言詩がある……そして、その後、8月から7カ月間、細川政権は成立することになっている。したがって、94年3月、この、94年3月において、細川政権は倒れるはずである」と説法されました。
平成5年10月中旬頃には私は次のように考えるようになっていました。
「創価学会・公明党は日本におけるアメリカの番犬。
アメリカにとって、終戦後の日本国内でアメリカが理想とする価値観を超越する「何か」を提示する団体が台頭することは好ましくない。
日本の宗教界にそのような団体が現れた場合、創価学会が番犬として機能する。
その団体が強力な場合は政治力を行使して圧力をかける必要があり、公明党が政界で機能する」。
……「池田大作暗殺計画」において池田大作氏を殺害する意図はなかった
……池田大作氏を殺害することは絶対不可能な状況の下でサリンを撒いている
……平成6年3月までに「オウム真理教が池田大作氏を殺害しようとした」という事実を残す必要があった。
……この事実が発覚すれば創価学会・公明党は堂々とオウム真理教を非難すりことができます。』
「ニッポンの検察のスペルマ」において鈴鹿が発射したやつは実に馬鹿げていた。
「創価学会の立派な建物の中に鎮座している人を殺害するために、その建物敷地の外にある道路上にサリンを撒く」など茶番劇だ。
「創価学会の建物敷地の外にある道路上にサリンを撒いても、その建物の中にいる人に危害を加えることは出来ない」ことなど村井秀夫にとって常識中の常識だ。
土谷正実の口から「検事さんのオナニーなんかに付き合っていられない」という言葉が発射した。
実に馬鹿馬鹿しい。
筑波には植物園があって土谷正実は1回か2回入ったことがあった。
植物園の中には温室があって、土谷正実は温室の中に入って観葉植物を見ながら「手入れが大変だろうな」と漠然と思った。
ここで皆さんに考えて頂きたいことがある。
その植物園の前には国道が走っているのだが、その国道で水を撒いている車を想像して欲しい。
この車を運転している架空の人物の名をスペルマンと呼ぶことにする。
スペルマンに尋ねてみた、「なんで道路に水を撒いているんですか?」。
スペルマンは答えた、「植物園の中の温室の中にある観葉植物に水をやろうとしているのです」。


(P22  地下鉄サリン事件―リムジン謀議 言っているのは遠藤と井上   第8原則)

 ニッポンの検察のスペルマ」の中核をなしていたのは遠藤誠一の供述・証言のようだった。
遠藤誠一と一緒に仲良くニッポンの検察に命乞いをしたのは、まぎれもなく現場指揮者でありながら「連絡役だった」などと主張している井上嘉浩だ。
ここで第85回公判の土谷正実の中川智正証人に対する対質質問を振り返ってみよう。
土谷「……この法廷で井上さんが証言しているんですけれども、井上さんの証言の中で明  
   らかにおかしな証言があるんです。
   その内容というのが假谷さんの事件とも絡んでますので、是非とも証人に井上さん   
   の証言を分析していただきたいんです。
   ……3月18日に「識華」から上九に戻る際に、井上さんが尊師に対して、上九に   
   着いてからでいいですので、ちょっとお話ししたいことがあるんですが、と問うた
   ところ、尊師から、リムジンに乗るように言われた。
   そして、その話というのが、松本剛さんと林武さんの指紋の除去の許可だった。
   ところが井上さんは、リムジンに乗ったにもかかわらず、リムジン内で指紋の除去 
   の許可の話を出さず、ずっと後になってから、第2サティアン3階の尊師の部屋に   
   行き、そこで尊師から指紋の除去の許可を得た。
   こう証言しているんですけれども。」
中川証人「その証言は私の法廷でもしてましたけど。」
土谷「松本剛さん、林武さんは御存知ですか。」
中川証人「ええ、知ってますよ。」
土谷「彼らの指紋の除去に関しては何か御存知ですか。」
中川証人「はい、知ってますよ。」
土谷「どういうことを知っているんでしょうか。」
中川証人「ですから、3月17日の昼に、指紋除去の話は、僕は東京で井上君としてます。
     そのときに、3月17日の昼の時点で、井上君はもう許可を得てました。」
土谷「3月17日、昼の段階で、もう既に許可を得ていた。」
中川証人「麻原氏から井上君は許可を得てました。」
土谷「どういうことを言っていたんでしょうか。
   井上さんはその点について、どういうふうに許可を得たとか、そういうことは言っ    
    ていたんでしょうか。」
中川証人「クリシュナンダにやってもらえばいんじゃないかと麻原氏が言ったと。
       で、一緒についてきてくださいというふうに井上君から言われて、私も林郁夫さんに依  
       頼しに行ったんです。
       井上君と一緒に。   
       それが3月17日の昼です、昼から夕方にかけての話ですね。」
土谷「井上さんの証言では、ずっと後になってから第2サティアン3階の尊師の部屋で指紋の除去  
    の許可を得たと証言したんですけれども、その同じ場面で、井上さんは指紋の除去の許可    
    を得るのと同時に、井田さんを井上さんの運転手にすることの許可も得たと証言しているん
    ですけれども、この点について何か知っていることはありますか。」
中川証人「それは3月17日の昼の時点で許可を得たということを井上君は言ってました。
       僕は、それについては、よかったねと言ったんですけどね。」
土谷「これも同じ3月17日昼に、井上さんから、井田さんを運転手にする旨の尊師の許可を得たと
    いう話を聞いたということですか。」
中川証人「そうですね、はい。」
土谷「そうすると、3月17日昼の出来事を、井上さんは法廷の証言の段階で、3月18日以降にず     
    らしたと。」
土谷正実は速記録をとじてから、こうつぶやいた。
「井上は、林郁夫が井上のウソを見逃す、と読んだな。」
ここで第8の結論を述べる。
すなわち「井上嘉浩は平成7年12月の時点で、いわゆるリムジン謀議などないと言っていた。
そしてリムジン内にいた者のうち、今現在、リムジン謀議があったと言っているのは遠藤誠一と井上嘉浩だけである」。
この結論を今後第8原則と呼ぶことにする。
ところで第61回公判で遠藤誠一は松本サリン事件前の尊師の部屋における会話内容を証言した。
遠藤誠一はこう証言した。
「たしか、村井さんが、必要だったら林郁夫も連れていこうかなと、このような感じの言葉を言ったような気がします。
それで、麻原さんがそれに対して、クリシュナンダというふうなホーリーネームで言ってますけれども、クリシュナンダは必要ないんじゃないかと」。
この遠藤証言の内容は逮捕取調期間中には1度も聞いたことがなく、初めて聞いた話であった。
本当のことなのか、それとも遠藤誠一得意のウソなのか。
もしウソだとするならば遠藤誠一は、この場面で林郁夫を出しておくことによってリムジン謀議の伏線にしている。
かつて遠藤誠一と深く交わり、そして遠藤誠一によく騙されたことのある人物こそ、遠藤誠一のウソを巧みに見抜くことができる。この条件を完全に満たしている人物は土谷正実だ。
遠藤誠一は平成7年5月中旬に「死刑になるのが怖いんですよ」と言い出し、井上嘉浩は平成7年12月に「殉教者にはなりたくない」と言い出し、その井上に対して検事が「死刑にはしないよ」と約束した。
遠藤誠一と井上嘉浩は検察に魂を売り渡し、彼らの魂のエキスが「ニッポンの検察のスペルマ」に満ちあふれている。


(P25 地下鉄サリン事件―リムジン謀議)

 いわゆるリムジン謀議は存在しなかったと考えられる理由について、土谷正実は尊師法廷で証言し土谷法廷で意見陳述した。
さらにこの件について1点補足しておくことにした。
昨年3月6日付けの意見書に「林郁夫氏……地下鉄サリン事件の実行行為後、村上栄子氏と一緒に宿泊施設に入り、村上栄子とセックスをした。
平成8年、土谷法廷に検察側証人として林郁夫証人が出廷したが、林郁夫証人はこの点について最後までシラを切り通した」とあるように林郁夫証言は信用できないのだが、最終の意見陳述の機会なのであえて述べることにした。
林郁夫証人は土谷法廷で、地下鉄サリン事件後の第6サティアン1階における尊師との会話内容を次のように証言した。
「一応その後、もう話がないと思って、あいさつをして、その場を立とうと思ったんですが、そのときに、要するに地下鉄にサリンをまいたこと、地下鉄のサリン事件というのは、オウムがやったと世間では言っているようだがというようなことを言いました」。


(P30 松本サリン事件―サリン噴霧車)

 平成6年6月27日に見えなくなるくらい真っ白い霧に包まれた中古トラックはもともと1984年3月28日に出荷されたトラックだ。
供物便のトラックと同じトラックだ。
教団の体質として安い中古トラックを一括購入したのだろう。
土谷正実は世田谷道場でワークをしていた時と学生班でワークしていた時にしばしば供物便トラックの助手席に乗せてもらっていたが、冬の時期は供物便トラックの運転手は皆、防寒ジャンパーを着ていた。
供物便トラックの場合、当たり前のように外の空気が運転席・助手席に入ってくるからだ。
常識として考えて欲しいところだが、この中古トラックの乗車席を特別装備することなく風通しの良い状態のまま、この中古トラックの荷台から毒ガスを噴霧するなど狂気の沙汰だ。
サリンよりも毒性の低い青酸とホスゲンについて考えてみよう。
この中古トラックの荷台から約30リットルの青酸もしくは約30リットルのホスゲンを噴出させたらどうなるであろうか。
青酸もしくはホスゲンがフロントボディにまで漂ってきて、フロントボディの中にとじこめられている乗車席の人達が即死する。
1984年3月28日から十年以上もの歳月を経た平成6年6月27日に、見えなくなるくらい真っ白い霧に包まれた中古トラックの助手席で村井秀夫がビニール袋すらかぶらずに平然としていられたのは「噴霧している白い霧状の物質には毒性がない」ということを村井秀夫が知っていたからであるしか考えられない。
土谷正実は渡部和実供述調書を開いていた。
そこには「加熱式噴霧車両で、水を使った実験をした状況についてお話しします。
実験の時期は犯行に使われた日の2〜3日前くらいだと思います。
実験の場所は第12サティアン1階で、立ち会ったのは私の他、村井、林泰男、藤永の他、富樫などもいたと思います。
ただ正確なメンバーは藤永くらいまでしか記憶になく、残りのメンバーについては、いたと思うという程度のものです。
……実験では、誰かがバケツか何かで加熱容器に直接水を入れて噴霧実験をやったように思います。
バッテリーのスイッチを入れたのは、村井の指示で林か富樫だったと思います。
私は、村井の指示で、ある時間ごとに電流か温度の数字をメモしていました。
水は蒸気となって吹き出し口から飛んで行き、実験は30分以内には終了しています。
この30分という数字の説明します。
私の記憶では10分はかかった、しかし、20分を超えたどうか、はっきりしない、しかし、30分を超えることはなかった、と思う……。
実験が終って、村井は、何か満足したような言動をしていました。
その点の記憶はあるのですが、村井が具体的にどういう言葉を云ったか、私は思い出せません。
実験で蒸気がどのようにとんだか再現図を書きましたので提出します。
蒸気の先端は、この図面に書いたように実際に壁までとんで行くのが見えたかどうか確かではなく、もっと手前で消えて見えなくなった可能性はあります。
私は、村井の満足したような言動もあったので、実験それ自体はうまく行ったと考えました。
実験終了後、村井は、富樫か林にバッテリーの再充電を指示していたと思います。
……実験再現図の私の書いた蒸気の流れについてですが、……蒸気が、シャワーを横にして水を吹き出させるような感じで飛んで行ったかもしれませんので、そのように理解して下さい。
つまり、蒸気がもう少し急角度で広がるような感じだったような可能性もあるということです」と記されていた。
土谷正実は「平成6年6月27日、いわゆる加熱式噴霧車から噴霧され、中村昇さんが無防備のまま5分から10分間浴び続けた真っ白い霧は水だ」と思いながらその調書をとじ、さらにこうつぶやいた。
「水を使った実験のときには村井は、サリンを撒くなど一言も言っていないはずだ」。

第77回公判の林泰男証人の証言を振り返ってみよう。
弁護人「噴霧器というと、当然、何かを噴霧するわけだね。」
泰男証人「はい。」
弁護人「何を噴霧する噴霧器だというふうに理解していましたか。飽くまで当時の認識だからね。」
泰男証人「当時、教団になされていた毒ガス攻撃、それを防ぐための中和剤をまくための噴霧器と   
       いうふうに説明を受けていました。……」
弁護人「……いつごろ実際に噴霧器を稼動させて噴霧させるというかについては、何か説明はあ   
     りましたか。」
泰男証人「いいえ、何もありません。」
弁護人「結果として、松本サリン事件で、松本に持っていって噴霧器を稼動させたことになるんだ 
     けれども、そういうことはあなたは想定してましたか。」
泰男証人「いえいえ、そんなのは全然知りませんでした。」
別の林泰男証言も見てみよう。
泰男証人「平成6年7月過ぎ、村井が第7サティアンのサリンプラントにこもりきりになって仕事をす    
   ることがあったんだけれども、その際に、村井の仕事の引継ぎとして、いろんな水の管理という    
   のを私がさせられることになりました。
   その経過があって、土谷君のところに毎月1度か2度、水の検査を頼んでいたということは以        
   前に多分証言したんじゃないかと思うのだけれども、その際の村井の指示として、土谷君は   
   親の念というのかな、念があって揺れやすいから余り余計なことを知らせないようにという注意    
   事項を受けていました。
   だから、土谷君は余り教団側の活動や教団外での活動というのはそんなに知らなかったんじゃ   ないかなと思っています。」
裁判長「親の念というのはあなたとしてはどのように理解したわけですか。」
泰男証人「要するに、土谷君の両親は土谷君を教団から戻して普通の生活をさせたいと、かなり   
   強く念じていて、念じていてというか思っていて、実際に、これも申し上げましたけれども、仏       
   蓮宗うんぬんという話がありましたけれども、そういうことがあるから、教団ではそういう人の念
   というのが実際にいろんな影響を及ぼすというふうに当時は考えられていて、そういうことから   
   土谷君の心の揺れというんですか、信仰心の揺れというのが出るかもしれないというふうに考  
   えていたことから、そのように言われたというふうに思いました。」
 今日は8月24日だ。
毎年この時期になると佛蓮宗・仏祥院に監禁されていたことや「8の日」の出来事、そして新人かつ平サマナであったにもかかわらず常に親切に親身になって接して下さったダーキニーさんのことがリアルに思い出される。
1991年秋、経行教学修行班に入っていた時のことであった。
経行の時には当然外に出る訳だが、ある時から修行班のサマナは皆白い覆面をかぶって経行することを義務づけられた。
土谷正実も毎回経行を行なう際には、常に両目と口の部分だけ穴が開いた白い覆面をかぶって毎回経行を行なった。
後になってわかったことだが、これはオウム・ハンターに狙われているサマナ達が経行修行中に  オウム・ハンターにら致されないようにするための対策だった。
修行班のサマナ全員が白い覆面をかぶって経行を行なえば、教団外の人達には誰が誰なのか、さっぱり分からなくなることを見込んで継続的に行なわれたのであった。
1992年夏から学生班のワークが始まったが、同年10月まで土谷正実のボディーガードはタカモリさんという男性サマナだった。
最初に外出するときにタカモリさんから数種類の催涙スプレーを渡され、それ以降外出する時に必ず催涙スプレーを持って、ボディーガードと一緒に外出した。
タカモリさん自身もいろいろな武器を持って土谷正実に付き添っていたが、その後ボディーガードはタカモリさんから寺嶋さんに替わった。
その理由は、佛蓮宗・仏祥院が強引な手段でら致する団体であり、かついわゆる被害者の会には武道経験者もいるので、いざというときにタカモリさんでは護衛は無理だろうとの理由から、東京工業大学での尊師講演会前に土谷正実のボディーガードとして武道経験者・寺嶋敬司氏が指名されたのだった。
寺嶋さんは現世にいたとき空手をやっていたのだった。
省庁制発足後は空手の指導教官として寺嶋さんがサマナ達に空手を教えていた。
仲谷武矢さんも第10サティアンで寺嶋さんから空手を学んでいた。
土谷正実自身も外出中、催涙スプレーを持っているだけで精神的余裕が生じた。
1992年夏以降常に土谷正実が護身用に数種類の催涙スプレーを携行していたという事実と、1993年6月以降「自衛のために化学兵器を持つ」という村井秀夫の思想に対して土谷正実が否定できなかったという事実には相関がある。
土谷正実を化学兵器合成にかり立てたのは、村井秀夫と佛蓮宗・仏祥院と被害者の会と細川政権及び雅子様だ。
「俺が1カ月以上佛蓮宗・仏祥院で監禁された経験と全く同じ経験をしてみろ」と澤田に言っておく。
全く同じ経験をすりゃあ、俺の心境を理解できるはずだ。


(P37 地下鉄サリン事件―ジフロの量)

むしろ土谷正実はサリン合成に否定的・消極的で、土谷正実は動物実験をやりたくないという理由からもっぱらアフリカツメガエルのことを考えていた。
「ただまだサリン合成の現場に関しても謎が残っている」と土谷正実はつぶやいた。
なぜ遠藤誠一はトリエチルアミンを使わなかったのか。
なぜ遠藤誠一はメチルホスホン酸ジフロライドに水を加えたのか。
ヘキサンはどこにあったヘキサンを使ったのか。
メチルホスホン酸ジフロライドは全部でどれだけの量があったのか。
他にもいろいろとあり謎がめじろ押しだ。
ここで第11の結論を述べる。
すなわち「遠藤誠一は頑強な秘密主義者かつ重篤な大ウソつきであり、遠藤誠一の供述・証言の信用性は極めて低い」。
この結論を今後第11原則と呼ぶことにする。
遠藤誠一は遠藤自身の量刑を軽くするためには手段を選ばずオウム真理教関係者を次から次へと検察・警察に売り渡した。
遠藤誠一は創作の神様の意思に乗っかることで死刑を免れようとしたのであった。
 8月20日以降黒ボールペンの出が悪くて困る。
替芯を替えてもダメだ。
紙の問題か?
いずれにせよ、しばらくは黒サインペンで意見書を書くことにしよう、と土谷正実は思った。
黒ボールペンでは字がうすくなるケースが多々あり、そうなるとその字の上から何度も重ね書きすることになり疲れる。
よって今日はもうやめにする(9月2日)


(P38 滝本サリン事件      第12原則)

 日が明けて今日は9月3日。
目の前に平成7年6月5日付の遠藤誠一供述調書がある。
そこには『サリンを作るまでの経緯について、実はお話ししていなかったことがあるので、これから申し上げます。
私が、これまでお話ししなかったのは、アパーヤージャハ正悟師長こと青山吉伸の名前を出さなければならなかったからで、アパーヤージャハ正悟師長は私の京都大学での先輩でもあり、私にとって実の兄のような気持ちを持っていたため、その名前をできれば出したくなかったからです』
と記されている。
平成7年6月5日というと、遠藤誠一が「死刑になるのが怖いんですよ」と言い出した平成7年5月中旬から数えること半月以上」たっている。
かつて遠藤誠一と深く交わり、そして遠藤誠一によく騙されたことのある土谷正実こそ、遠藤誠一のウソを巧みに見抜くことができる。 平成7年6月5日の時点で既に遠藤誠一は青山さんを検察・警察に売り渡していた。
遠藤誠一の自己中心的な邪悪な目論見によって、教団内のサリンを合成していたこそすら知らなかった青山さんが滝本事件で逮捕起訴され、さらには有罪判決を受けた。
滝本事件はえん罪だ。
常識として考えて欲しいことだが、平成6年5月9日に車のボンネットのフロントウィンドー付近に落ちた数ml程度の液体など、車が風雨にさられたり車を洗車することによって数日もしくは数週間のうちに洗い流される。
しかもブルーサリン中に存在した有機リン化合物は、メチルホスホン酸ジイソプロピルが圧倒的なほど大量に存在し、メチルホスホン酸モノイソプロピルなど微量しか存在しなかった。
ブルーサリン中に圧倒的なほど大量に存在したメチルホスホン酸ジイソプロピルの前では、メチルホスホン酸モノイソプロピルなど物の数ではない。
もちろんブルーサリン中にサリンは存在しなかった。
「水で洗えば、まず最初に水溶性の物質が洗い落とされる」
と土谷正実はつぶやいた。
さらに続けて「小学生でもわかることだ」と土谷正実は吐き捨てるように言った。
小学生でもわかることなんだが、ニッポンの検察相手では仕方ない。
メチルホスホン酸ジイソプロピルは水溶性ではないが、メチルホスホン酸モノイソプロピルは水溶性である。
平成6年5月9日に車のボンネットのフロントウィンドー付近に落ちた、合計数mlのメチルホスホン酸ジイソプロピルとメチルホスホン酸モノイソプロピルのうち、まず微量かつ水溶性であるメチルホスホン酸モノイソプロピルの方が先に検出不可能になる。
メチルホスホン酸ジイソプロピルの方は数日もしくは数週間の間は検出可能だったろうが、車が風雨にさらされたり車を洗車することによって数日もしくは数週間のうちに全て洗い流された。
ここで第12の結論を述べる。
すなわち「滝本氏の車から検出されたメチルホスホン酸モノイソプロピルを滝本氏の車につけたのはオウム真理教ではない」。
この結論を今後第12原則と呼ぶことにする。
「実の兄のような気持ちを持っていた」などという大ウソをつきながら青山さんを奈落の底に突き落とした遠藤誠一には性格的な問題があるのであろうか、それともそうしなければならない特殊な事情があるのであろうか。


(P40 地下鉄サリン事件―オウム実行役はなぜ5人?)

土谷正実は平成13年5月14日付上申書を開いた。
そこには『平成7年夏から私は「5人ということは、尊師通達に名前の出た科技省メンバー、村井さんの部下の5人ということだったのではないか? 
渡部和実さんはなぜ実行役に選ばれなかったのか?
林郁夫さんはもともと治療役だったが、渡部和実さんと交代させられたのではないか?
もしそうだとすると交代の理由は何だったのか?」という疑問を持つようになりました。
大西検事の取調時、私は「なんで渡部和実さんは選ばれなかったんだろう?」と話し、2人で色々と話し合ったのですが、このとき大西検事が「そもそもなんで5人だったか、だよなあ」と言いました。
私の発想と全く同じ発想です。
これで私は「自分は核心を突いているのではないだろうか」と自信を持ち、自分の推理を大峯警部にぶつける決心がつきました。
その取調時、大峯警部は手の爪を磨くか何かの作業をしていて、顔は下向き加減だったのですが、私の推理を話したところ大峯警部はパッと顔を上げて驚いた表情で私を見ながら
「ピーンと来るねえ。
いい読みしてるなあ。
よく読んでるよ」と言いました。
私は「やっぱりそうだったのか!」と思い、色々と大峯警部に尋ねましたが、大峯警部は渋い表情で、明確な答を教えてくれませんでした。
このとき大峯警部は苦々しい表情で
「遠藤が、死人に口無しですからねって言ってんだよ。
あの野郎、何か隠してるぞ。
……日本も司法取引を認めりゃいいのになあ。
アメリカでは
認めているんだからよお。
司法取引を認めねえとかえって真実が見えなくなっちまう」と言いました。
私が「遠藤さんと村井さんしか知らない何かがあるっていうこと?」と尋ねましたが、大峯警部は黙っていました。
その後大峯警部はポツリと
「林郁夫が実行役の治療役、中川が合成の治療役」と言い、私はハッとして言葉が止まってしまいました。
すると大峯警部は「ここまでだ土谷君、これ以上聞くな」と言いました。
しかし「ここが勝負所」と私は粘り
「渡部和実さんが3月20日当時何をやっていたかだけでもいいから教えて。
このぐらいだったら大峯さんだったら簡単でしょう?」
と言ったところ、大峯警部は御機嫌といった様子でハハハと笑いながら「まあそうだけどな」と言いました。
(しかし、この時以降、私が拘置所に移監になるまでの間、大峯警部は渡部和実氏のことについては、はぐらかし続け、結局何も教えてくれませんでした。)
その後、大峯警部が「なんでそんなことを思いついたんだ」というようなことを聞いてきましたので、私は、大西検事が「そもそもなんで5人だったか、だよなあ」と言ったことなどを話しました。
すると御機嫌といった様子だった大峯警部の表情は険しくなり、大西検事がどういうタイプの取調官か尋ねてきました。
私は、大西検事が、大坪検事よりも、はるかに推察力があり、かつ、はるかに真相究明の志が強いことなどを話し、それに対して大峯警部は「そうか」とだけ言いました。
平成8年2月だったと思いますが、大西検事が「大峯ってどういう人?」と聞いてきました。
私はびっくりして「大峯さんと会ったことないの?」と聞き返したら、大西検事は「見掛けたことはあるけど、打ち合わせとか話したことがないんだよね」との旨答えました。
大峯警部は、大坪検事とは連日のように綿密な打ち合わせをしていて、大峯警部も大坪検事もこの事を私に話していました。
だから私は大西検事のこの発言を聞いて非常に驚いたのでした。
この時、四.で述べた「大峯検事の険しい表情」が脳裏にひらめき「大峯さんは秘密情報が大西検事にリークするのを避けるため、大西検事と打ち合わせをしないのだろうな」と思いました。』
と記されている。
平成7年12月以降、大峯警部のお付きの警察官は2人いたが、そのうちの1人と土谷正実はとても親しくなった。
残念なことにそのとても親しくなった警察官の名前を忘れてしまったのだが、スリ対策のプロフェッショナルだったので、今後その人のことをスリ・キラー刑事と呼ぶことにする。
通勤ラッシュ時の駅構内でスリ犯を見つけ出す技術(例えば眼の動かし方などの眼の使い方等)や、満員電車の中でスリ犯を挙げる技術等、およそ人間技とは思えない超人的なテクニックを数々教えてくれたスリ・キラー刑事に対して、土谷正実は深い親しみを感じた。
スリ・キラー刑事には高校2年生の息子さんがいて、サッカーの名門・静岡学園のサッカー部員だった。
スリ・キラー刑事は、大峯警部が大西検事と打ち合わせを行なわなかった事を知っているはずだ。


(P42 地下鉄サリン事件―傘)

次に土谷正実は平成7年6月4日付の滝澤和義供述調書を開いた。
そこには
『私が第7サティアン3階において、……平成7年3月19日の深夜か20日に日が変わった未明ころ、安いビニール傘5、6本か7、8本だったと思いますが、その先端をグラインダーを使って尖らせたことがありましたので、そのことについてお話しします。
……私が第7サティアン2階で書類の処分を終え、その後、3階に行ったところ、そこに村井正大師がいたのでした。
ほかに井上嘉浩、渡部和実もいたように思いますが、この2人については私がグラインダーを持ってきた時に、初めて見かけたのかもしれません。
私が3階に上がったのに気付いた村井正大師は私に対し、第2上九に行ってグラインダーを持ってくるように言ってきたのでした。
……私がグラインダーを持って第7サティアン3階に戻ると、渡部が私が持って来たグラインダーの刃について、これだとうまく削れないと文句を言っておりましたが、村井正大師が取りなしてくれたのでした。
そして、村井正大師に言われて、私がビニール傘の先端を、持って来たグラインダーで尖らせることになったのでした。
この時に、村井正大師、井上さん、渡部さんのほかに廣瀬健一、横山真人も第7サティアン3階におり、村井正大師、渡部さんを除くと、これらの人達は普段第7サティアンにいない人なので、なぜこの人達が来るのかと不思議に思いました。
……尖らせる方法は井上さんが傘の柄の部分を持ち、私が傘の先端を左手に持って、右手に持ったグラインダーでその先端を削って尖らせたのでした。
……私と井上さんが2人で傘の先端を尖らせている間、村井正大師か渡部さんの2人、若しくはそのどちらかが私に対し、
「もうちょっと先を尖らせろ」
などと指示しておりました。
また、村井正大師が渡部さんに対してではなかったと思いますが
「クリシュナナンダ師プラス正大師予備軍」
とか、何かを選んでどうのこうのと言っていたのを耳にしております。
傘の先端を1本削るごとに井上さんがその傘の先を近くに置いてあった段ボール箱にブスブス刺して、削り具合を確認し
「こんなもんでいいや」
と言ってから、次の傘の先端を尖らせる作業に移っておりました。
このようにして、傘の先端を削って尖らせるのに要した時間は30分くらいではなかったかと思います。
この間、その場にいた廣瀬さんや横山さんが何をしていたかよく分かりませんが、この2人は私が
傘の先端を尖らせる作業を全て終えた後、全ての傘を持って井上さんと一緒に第7サティアンから出て行きました。
3人が出て行ってしばらくして廣瀬さんだけが戻ってきました。
廣瀬さんは先程私が先端を削って尖らせた傘のうちの1本を持って来て
「曲がったから削り直して」
と言ってきたので、私が廣瀬さんの傘の先を見てみると、私が先程削ったところが曲がっていたためグラインダーを削り直してあげました。
削り終えると再度、廣瀬さんは持って来た傘を持って、第7サティアンから出て行きました。
私はこの2人の後に第7サティアンから出て行って、当時寝泊まりしていた第6サティアンに車で戻っていきました。』
と記されていた。
つまり渡部和実さんは平成7年3月19日から20日にかけて村井秀夫と一緒に行動していたのだ。


(P46 地下鉄サリン事件―3月17日以前に計画されていた)

土谷「この假谷さんの拉致の後に、モスクワの検察局がオウム真理教に対して、国民の権利を侵  
  害する組織の設立を禁じる刑法の条項などに違反した容疑で、刑事捜査を開始したということ  
  らしいんですが、このことは知っていましたか。」
中川証人「早川さんがロシアに行ったのは、それに関して、その動きを押さえるために行ったんで   
      すがね。」
土谷「それは、いつ行ったんですか。」
中川証人「それは、3月16日ごろから地下鉄サリン事件をまたいでですね。」
土谷正実は
「リムジンが識華から上九に向かっていたのは3月18日。
早川さんが成田空港から日本を発ったのは3月17日で、早川さんはそのロシア滞在中にモスクワのシェレメチェボ空港で端本悟さんに、地下鉄サリン事件はオウムによるものと教えている。
地下鉄サリン事件は平成7年3月17日よりも前に計画されていた」
と思いながら、再び速記録に目を落とした。


(P48 地下鉄サリン事件―イペリット    第6原則別解)

昨年3月6日付けの意見書を見た。
そこには
『森脇佳子氏が第2厚生省を去った後、假谷さん事件がおこり村井氏作製の「レーザー銃」が登場し、その後「ボツリヌス菌」の入ったアタッシュケース型噴霧装置が霞ヶ関駅に置かれ、そしてその後、「地下鉄サリン事件」が勃発したのでした。
村井氏は妻・森脇佳子氏を地下鉄サリン事件に巻き込みたくなかったから、彼女を第2厚生省から科学技術省に部署異動したのではないでしょうか? 
私は、科学技術省に移ってからの森脇佳子氏のワーク内容を知りません。
果たして村井秀夫氏の言う
「ヴァジラ・サンガーに頼むしかない」
特別なワークが森脇佳子氏に与えられたのでしょうか?
……地下鉄サリン事件は遅くとも平成7年2月には計画されていた』
とか
『もし平成7年3月20日の地下鉄テロ事件でびらん症状を呈した被害者が発生したら、どうなっていたでしょうか?
当然、クシティガルバ棟の土間に残されていたイペリット合成用容器に捜査の目が向けられ、同容器で合成されたイペリットが犯行に使われた、と報道されたことでしょう。
そして
「教団内でイペリットが合成されていたことはわかったが、イペリットを撒いた実行犯はわからない」
旨報道され続けたならば、教団の将来の危険性が大いに議論され、教団に対する破防法適用も夢ではなくなっていたかもしれません。
村井秀夫氏はなぜイペリット合成用容器だけクシティガルバ棟の土間に残すよう指示したのでしょうか』
と記されている。
教団内に合成されたイペリットは全て平成7年1月の正月中に廃棄処分された。
平成7年3月20日、地下鉄サリン事件がおこった車両と全く同じ車両から、科捜研がイペリット(もしくはイペリット同様の呈色反応を示す物質)を検出していた、という事実を決して忘れてはならない。
ここで第6原則の別解を示そう。
第6原則は複数解を持っているのだ。
第6原則の別解とは、すなわち「平成7年3月20日、地下鉄車両内にイペリット(もしくはイペリット同様の呈色反応を示す物質)をまいたのはオウム真理教ではない」。
念のため科捜研の安藤証人の証言を引用しておく。
「M9という毒ガスの試験紙があります。
それで、この試験紙を使って、確か、赤く出るとイペリットということが、それで、この地下鉄サリンの液体については、そういった試験紙でも赤くなってしまう。
それで、一部にマスタードじゃないかという話も飛んできたことはあります。」(第248回尊師公判速記録からの引用)。


(P49 地下鉄サリン事件―本当のサリン   第5原則)

ここで第88回公判の土谷正実の中川智正証人に対する対質質問を第5原則と共に振り返ってみよう。
土谷「床にこぼれた水をイメージして頂きまして、その床にこぼれている水を、その場に立っている      
   人が呼吸器系を介して吸うということはあり得ることなんでしょうか。」
中川証人「それはないと思いますけどね。普通はないと思いますけど。」
土谷「私が今まで見てきた全ての検事よりも、証人の方がはるかに多くの化学知識をもっています   
   し、はるかに化学センスもよいです。……そこでお聞きしたいんですけれども、証人レベルの   
   化学知識の持ち主、及び証人よりも所有している化学知識量の少ない人たちが、平成7年3
  月20日、地下鉄車両内の床に流れていたサリン溶液と、いわゆる地下鉄サリン事件の被害状 
  況との因果関係について評価できるとお考えですか。」
この質問に対して臆病者・小心者・姑息・クズ・カスである澤田があわてて中川智正証人の証言を妨害した。


(P49 霞ヶ関アタッシェケース事件)

ニッポンの検察の惨憺たる狼狽ぶりを横目に見ながら、第8原則・第9原則・第10原則・第11原則を年頭に置いて次の問題を考えてみよう。
「地下鉄サリン事件前に霞ヶ関駅に置かれたアタッシュケース型噴霧装置の中に入っていた液体がただの水だった理由は何だったのか。
そして、ただの水だったという事実を、なぜニッポンの検察はひた隠しに隠し続けてきたのであろうか。」
この問題の応用問題についても提示しておこう。
「遠藤誠一は初公判でなぜあのような罪状認否をしたのだろうか」。
遠藤誠一はボツリヌス菌だなどと大ウソをつきながら井上嘉浩にただの水を渡した後、サリンをつくるなどと言いながらN,N−ジエチルアニリンを塩基として使うと同時にメチルホスホン酸ジフロライドに水を加えた。
化学を専攻した土谷正実の目から見ると、遠藤誠一が本気でサリンを合成しようとしていたかどうか分からなくなってくる。
いずれにしろ、北海道大学医学部を卒業した遠藤誠一の口から真実が語られることはないであろう。
遠藤誠一の言葉の中で唯一信用できる言葉は
「死刑になるのが怖いんですよ」。
死刑を免れるために遠藤誠一は必死で大ウソをつきまくってきたのである。


(P50 地下鉄サリン事件―3月17日警察は防毒マスクを準備    第13原則)

遠藤誠一と共に教団の科学技術部門のトップに君臨した村井秀夫は、土谷が初めて村井秀夫に逆らった後、土谷正実をホテル浦島に呼び出した上でホテル浦島に大量の公安刑事を連れて来た。
村井秀夫は土谷正実を第2サティアンにとじこめた後刺殺され、その直後土谷正実が逮捕された。

紙面が残り少なくなってきたので、もうそろそろAUM13の第13番目の公式を述べなければならない。
AUM13の第13番目の公式とは、すなわち
「平成7年3月17日、警察当局は防毒マスク等を準備した上で陸上自衛隊大宮駐屯地に集結していた」。

歴史を愛する人や、将来歴史を専門的に学びたいと考えている人には、是非とも今年8月4日付上申書に記した11冊の本を読んでほしい。
真実とは往々にして厚いベールにおおわれているものなのである。
土谷正実はつぶやいた。
「教団外部の人間で、平成7年3月17日よりも前の時点で既に地下鉄サリン事件のことを知っていた者がいる」。
AUM13よ、貴方しかいない。
AUM13よ、まずは松本サリン事件の真犯人と永岡事件の真犯人を見つけ出して欲しい。
それが出来るのはAUM13、貴方しかいない。
報酬のうち一部は前金でお支払い致します。
前金は、平成7年以降にオウム真理教を弾圧するためにつぎ込まれた金額の総額の、1万分の1の額でいかがでしょうか?


解説 (三浦執筆)


土谷正実がこの上申書が読みあげたのは、2003年9月18日土谷正実公判のことだった。 弁護人が最終弁論を行なったあと、午後3時すぎから2時間にわたって、土谷正実本人が朗読を行なった。

朝日新聞(2003年9月19日朝刊38面)を見ると、
「土谷被告の公判結審 自作の『物語』2時間かけ朗読」
と見出し。

降旗賢一によれば、
「大好きだったという漫画『ゴルゴ13』をもじった、なんとも珍妙な小説風の物語だった。地下鉄、松本両サリン事件、VX3事件はオウムの犯行ではないと主張する被告は、こうして架空のストーリーに逃げ込むしかないのだ」
と散々な評価である。

土谷の見解にまったく意味はないのだろうか?
以下、順不同で私なりに検討・解説を述べていく。


■第6原則別解

土谷正実が言う「13の公式」の中で、地下鉄サリン事件に関係する
第6原則別解「平成7年3月20日、地下鉄車両内にイペリット(もしくはイペリット同様の呈色反応を示す物質)をまいたのはオウム真理教ではない」(注1)
から検討をはじめよう。

教団内にイペリットや、関連物質がなかったことは、Anthony T. Tuがまとめた表「上九一色のオウム真理教の施設から押収された物質」からもはっきりしている。(注2)
麻原彰晃第一審判決でもイペリットのことは出てこない。

「イペリットが検出されたという話があるが、これはM9という毒ガス試験紙が赤くなったため」
と科捜研は証言している。
専門家によれば、米軍やNATOの兵士が戦場に行くとき、軍服の肩に検出紙をつけている。
検出紙は毒ガスに接触すると、紙の色が変わり、その色からどのガスに襲われたかがわかる。
発色するのは、毒ガスによってpHが違うためである。
ただ、検出紙の欠点は感度が悪く、信頼性に欠けていることである。
たとえば、煙幕のガスと接触して変色する場合もあり、正確性が高くない、と言う。(注3)
M9試験紙はあまり信頼性がない、ということで、科捜研はイペリット説を一蹴したようである。
まだ疑問は残る。
自衛隊がイペリットを検出した、という情報が、M9試験紙を基にしただけのものだったのかということである。
専門家なら、試験紙での検出は感度が悪いことを知っているはずなので、さらに確認するため詳しく分析をしたのではないかという疑問である。
当時の東京新聞に、「化学防護小隊が検知器で検出した」、日経では「ガス検知器がびらん性ガスを検出した」と出ている。(注4)
被害の面から見ると、共同通信に「三人にびらん性ガスの症状が出ている」とある。
裏づけとして、近くの聖路加病院の報告では、「3月20日午後診察中、中毒疹様の発疹が数人に観察された」と出ている。(注5)
検知器による検出、被害面から見て、もっとイペリットの可能性を追求する必要があろう。


■第6原則

土谷は、サリンではなく、エチルサリンという。
エチルサリンのことを最初に発表したのは、日本医科大・南正康教授グループである。
興味深いことに、南らはカナダ防衛研究所らと一緒に発表している。
1996年8月東京で開かれた第14回国際法科学会集会でのことだった。
もちろん科警研ないし科捜研のメンバーも参加していただろう。

発表によると、少なくとも日本医科大病院に入院した3人からサリンに由来する物質、エチルサリンに由来する物質が検出されたというのである。
これは、サリンとともにエチルサリンも散布されたことを意味している。
これらのことは、少なくともサリンの散布だけを問題にすれば事足りるという考えでは不十分だということを示している。

なお、この件について、検察の主張は以下のとおり。

「論告求刑(2003年4月24日)
弁護人は、日本医科大学病院の入院患者四名の尿中からエチルアルコール等が検出されたとの論文を根拠に、本件サリン混合液とは異なるエチルサリン等の別の毒物が散布された可能性を主張するが、同病院の入院患者三十名のうち四名のデータのみを取り上げて一般化している点で問題がある上、現場に遺留されたビニール袋内の液体からはエチルサリンは検出されていないことや死亡被害者十一名(約一年三カ月後の死亡者は除く)の血液あるいは尿の中からエチルアルコールは検出されなかったとする鑑定結果にも矛盾していることからすれば、客観性、正確性および信用性に問題があると言わざるを得ず、このような論文に依拠した弁護人の主張は荒唐無稽な推論にすぎない。」


冷静にみると、どうも検察主張に無理を感じるのである。
いくつかの疑問点を指摘してみよう。

1、「入院患者三十名のうち四名のデータのみを取り上げて一般化して」と言うが、これは一般化というより、「四名の尿からサリンとは違う物質が検出された」という事実を指摘しているだけである。

2、「 現場に遺留されたビニール袋内の液体からはエチルサリンは検出されていない」ことは、オウムがつくったとされるサリンとは別の神経ガスがあったという可能性とは矛盾しない。むしろ、事件発生当時の数多く見られた遺留物のなかに、その別の神経ガスが含まれていたのではないかという可能性を示唆するものである。

3、「死亡被害者十一名(約一年三カ月後の死亡者は除く)の血液あるいは尿の中からエチルアルコールは検出されなかったとする鑑定結果」は、それが事実なら、それでいいのであり、その人たちはエチルサリンには汚染されなかったということを意味するだけである。

なお、弁護側は次のように述べている。

麻原彰晃弁護団の最終弁論(2003年10月31日)
「日本医大病院に搬入された被害者四人から検出されたメチルホスホン酸モノエチルとエチルアルコールは、サリンではなくエチルサリンに由来するものと考えられるが、エチルサリンは『遠藤らが生成した方法では出来ないのであって、(この人たちは)遠藤らが生成した物質を吸引したのではない』ことを示している」


で、最後に肝心の裁判所の判断なのだが、サリン散布の責任を問われた麻原彰晃一審判決では、オウムがつくったとされるサリンにしか言及していない。
エチルサリンのことは一切無視である。

国際法科学会という公的な場所で発表されたという事実があり、検察も弁護側も主張をたたかわせた内容を、判断すべき裁判所がまったく無視するというのは、これはおかしい。

検察主張は、エチルサリンを否定する内容にはなっていない。それがわかっているから、裁判所はあえてエチルサリンには触れなかったのではないか。
ともあれ、いい加減なものである。


■第1原則

ここでの土谷正実の指摘で重要と思われる箇所は以下である。

1、端本悟はビニール袋をかぶっていたが、村井秀夫はビニール袋をかぶっていなかった。

2、中村昇は、白い霧を5分から10分間浴び続けたが、治療を受けず、その後も元気だった。

神経ガスなど毒性の高いものを散布する場合、撒く当人たちが十分な体勢をとるのが普通である。
ところが大した体勢もとらなかった。それなのにまるで被害が出なかった。
死者7人を出したサリン散布なのだから、当然毒性が強いサリンであることは間違いない。
それなのに、撒いたはずの当の人たちが、無防備のまま撒いて、何も被害が起きなかったのは、撒いたサリンがそれほど毒性がなかったのではないかという疑問が生じる。
土谷正実が、犯人はオウム真理教ではない、というのもそんなに荒唐無稽ではない。

撒いた当人たちに被害が出なかったことについて、麻原彰晃一審判決では一切無視している。
つまり、なぜ撒いた当人たちに被害が出なかったのか、まるで検討していない。
なぜ、サリンを撒いたオウムの人たちに何の被害も出なかったのだろうか。
検討に値する疑問である。

ここで思い出すのが、

1、オウムがサリン散布をしたとされる1994年6月27日午後10時30分すぎの前、すでに8時台、9時台に被害者が出ていた。少なくとも自覚症状が出ていた。(注6)

2、午後9時ころ、事件現場と言われる池から南西250メートル離れた路上に大型乗用車が止まっていた。車の中に2人、外に2人いた。外にいた2人は銀色っぽい宇宙服のようなものを着ていた。(注7)

という記事である。

証明されていないとは言え、被害が出た時間帯、毒性の強いサリンを撒くならこのぐらい防御するだろうなと思わせる宇宙服様の銀色の服を着込んだ2人組、というのは、調べる必要が大の内容である。

特に被害が出た時間帯がオウム実行犯の犯行時間帯とずれている事実は、明らかに問題である。

ところが、裁判において無視されたままなのは、いったいどうしたことであろうか。



■第4原則・第5原則

土谷正実の第4原則「北村浩一運転手、高橋克也運転手、外崎清隆運転手の有機リン中毒症状の原因はダミーサリンではない」と第5原則「ダミーサリンから顔を50cm以上離していた地下鉄サリン事件被害者の死因と障害の原因はダミーサリンではない」は、共通性があるので、一緒に取り扱うことにしよう。

地下鉄に撒かれたサリンを嗅いで、被害を受けた人と、被害を受けなかった人がいたというのである。
鈴木良正助役は、ほうきとちりとりで、サリンで濡れていたビニール袋を処理し、ちりとりをのぞき込むように顔を50cmくらい近付けて、サリンのにおいをかいだが、別に異常はなく、夜まで勤務を続けることができた。
ところが、オウムの5人の実行犯は、ビニール袋に入ったサリンの臭いをかがなかったのに、サリンの中毒症状が出ていた。
土谷は、オウムが持ち込んだサリン入りビニール袋から被害が出ていず、偽者のサリンなので「ダミーサリン」と言いたいのだろう。
その根拠として、オウムのつくったサリンは、サリン自体が空気よりも約5倍重い上、N,N−ジエチルアニリンとフッ化水素が一緒にまざっているので、さらに蒸発し難くなっている、ことをあげている。
だから、あんなにビニール袋に近づいて臭いをかいだ鈴木助役に被害が出なかったということは、毒性がないということだ、と言うのであろう。

村上春樹が編集した『アンダーグラウンド」という本がある。
その93ページ以降に井筒光輝さんの体験が載っている。
引用すると、
「霞ヶ関で乗り換えるとき、千代田線の先頭車両に乗るようにしています。…電車に乗り込むと、二人の駅員さんが僕の目の前で床を拭いていました。液体が箱から流れて出て、水がこぼれたみたいになっていまして……、その時はもちろんわからなかったけれど、それが実はサリンだったんですね。…モップじゃなくて、新聞紙で拭いていました。その箱が新聞紙にくるまれていて、それを使って床を拭いていたわけです。…落ちていた箱そのものも駅員さんが持って外に出まして、それでようやく電車が出発しました。結局包みを持ち出した駅員さんは、霞ヶ関駅の助役さんですが、亡くなったんですね。もう一人の方も、明くる日に亡くなりました。」
二人の助役とは、高橋一正さんと菱沼恒夫さんのことである。

一方の助役は死に、もう一方の助役は死ななかった。
なぜなのか。
注意して先程の文章を読み返して見ると、高橋さんと菱沼さんが拭いていたのは、サリンが入っていた「箱」を包んでいた新聞紙である。液体が「箱」から流れ出ていた。
オウムが持ち込んだビニール袋を、「箱」と表現するものだろうか。
オウムが持ち込んだビニール袋に顔を近づけた助役はなんのこともなかったということから推測すると、どうやら「箱」状のものと、「ビニール袋」とが現場にあったようである。

「箱」と表現する資料として、共同通信の配信記事がある。
「千代田線車内で見つかったのは縦約十センチ、横約三十センチ、高さ約五センチの長方形の箱」「高橋助役は、この箱を素手で持ち、車内から持ち出した」というものである。
こちらははっきりと「箱」の大きさまでも記載している。
このことは、麻原公判で、不審物を押収した経緯を記した「領置調書」を、なぜ検察側が提出しなかったのか、という疑いとリンクしてくる。





上申書はそれなりに重要な事実をいくつか指摘している。感情的な表現を多々まじえているがゆえに聞く側としては混乱をきたすが、整理してみると土谷の主張は軽視できない問題を指摘している。

裁判所には、検討すべきは公正に検討してほしいものである。まるっきり無視というのはいかがなものであろうか。無視しなかったら、一般に信じられている内容と違った内容が浮き彫りになってしまうのかもしれないが、それが事実なら仕方ないと思うのだが。




(注1)イペリット:びらん剤は皮膚に水疱を生じ、激痛を覚える。眼や肺も冒す。非神経剤のうち   
    で一番よく使われる毒ガスである。マスタードガス(HD)、またはイペリットとも呼ばれる。
    (Anthony T.Tu、井上尚英『化学・生物兵器概論』じほう29ページ)
    イペリットはマスタードガスという別名から気体と思われがちであるが、それは間違いで、   
    常温では液体である。融点は12.8℃であるから、ちょっと寒い日には固体となる。水に
    溶けないので有機溶剤に溶かし、噴霧して使われる。( Anthony T.Tu『中毒学概論』じほう  
    146ページ)
(注2)Anthony T.Tu、井上尚英『化学・生物兵器概論』じほう15ページ
(注3)Anthony T.Tu、井上尚英『化学・生物兵器概論』じほう43ページ。
(注4) 共同通信1995年3月20日
    「日比谷線小伝馬町に出動した自衛隊が現場の毒物を中和させる作業中、付近の有毒ガス感
    知で、マスタードガスとみられる「びらん性ガス」を検出した。警視庁科学捜査研究所で鑑
    定を急いでいる。
     小伝馬町などから病院に運ばれた三人の患者は、サリンによる症状のほか、発疹(ほっし
    ん)や気管支炎などびらん性ガスの症状が出ているという。」
     東京新聞1995年3月21日朝刊1面
    「地下鉄サリン殺傷事件二十日、陸上自衛隊が除染のため出動、地下鉄小伝馬町駅でマスタ
    −ド系とみられる有毒ガスを検知した。
     マスタードは皮膚に付着してただれさせる「びらん剤」だが、気化した場合、サリン同様
    の呼吸困難を引き起こすとされる。
     同駅に派遣された第十二師団(群馬・榛東村)化学防護小隊が検知器で検出したが、さら
    に分析中。マスタードは揮発性が低く、構内に残留している可能性があるため、慎重に除染
    作業を行った。」
     日本経済新聞1995年3月21日朝刊1面
    「地下鉄駅構内などの有毒ガス除去作業にあたっていた自衛隊の化学部隊から防衛庁に二十
    日夕入った情報によると、日比谷線小伝馬町駅構内で同部隊のガス検知器が、神経ガスでは
    なくびらん性ガスを検出したという。
     同(警視庁捜査一課特捜)本部は、サリン以外に、びらん性のマスタード・ガスなど複数
    の種類の有毒ガスが使われた可能性もあるとみて、自衛隊と協力して詳しく分析する。マス
    タードガスは、カラシ臭がするほか皮膚のただれや呼吸困難の中毒症状が出る。」
     産経新聞1995年3月21日朝刊3面
    「防衛庁に二十日夜入った情報によると、営団地下鉄日比谷線の小伝馬町駅のガス残留物は
    サリンではなく、化学兵器のびらん性ガスとして用いられるマスタード系の有毒ガスの可能
    性があるという。同庁が汚染の除去活動のため同駅に派遣していた連絡幹部から「未確認の
    現地情報」として寄せられたもの。
     陸上幕僚監部化学室によると、マスタード系のガスはサリンより残留期間が長く、無色無
    臭のサリンに対し、褐色でからし臭があるものが多く、目や呼吸器を痛めたり、皮膚がただ
    れたりする害があるという。」
(注5)「3月20日午後診察中、中毒疹様の発疹が数人に観察されたため、翌日入院中の患者の皮
    膚を診察した。
     観察できた83人のうち25人(男性14、女性11、18〜54歳)に何らかの皮膚症
    状を認めた。
     成書によればサリンが皮膚に付着しても局所症状はないとされ、松本サリン中毒でも皮膚
    に関する障害は報告されていない」
    (「聖路加国際病院サリン患者診察報告会から」日本医事新報3706号1995年5月6
    日51ページ)
          (注6)松本市地域包括医療協議会『松本市有毒ガス中毒調査報告書』
    読売新聞1995年6月25日朝刊31面
    下里正樹『オウムの黒い霧』双葉社
    磯貝陽悟『サリンが来た街 松本サリン事件の真相』データハウス
    磯貝陽悟『推定有罪』データハウス
(注7)朝日新聞1995年3月24日朝刊39面
    




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