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Y 滝本サリン事件

第1事実経過
1教団におけるサリン生成及び使用状況
(1)村井の教団内での地位及び権限濫用
村井秀夫が独自に目指した「科学と信仰世界との融合」、村井の中でのハルマゲドンの捉え方、村井がハルマゲドンという言葉を持ち出して、教団の救済計画を切羽詰った雰囲気に持ち込んだこと、その前後の村井のCSIでの行動経過から認められる村井の人物像、村井と被告人からの乖離、村井の独断専行、村井に対する幹部や信徒活動を担当する部署からの反発、被告人の村井に対する叱責等の経過は、すでに総論(第6の1〜4)において記載したとおりである。
 また、教団のサマナ、さらには幹部にあっても、上祐史浩らをグルと仰ぐなど被告人以外の自分より宗教的により高い「ステージ」にある者の言動を、被告人の指示と同一視して無分別に追従するという姿勢があり、特に村井については、CSIの部下の中には、心底村井に心酔していた渡部和実など、村井の指示であればためらうことなく従ってきた人物が存在していたこと、また、1993年(平成5年)頃には、被告人は、例えば、「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」の放送など以外は現場に姿を現すことがなくなっており、現場のワークを指揮するものは正大師である村井または正悟師とよばれる幹部であって、現場のサマナにとってはその言葉は被告人の言葉と同一視するしかなくなっていたこと、このような状況をよしとして、被告人の知らないところで、村井が無断で濫費を行なっていたこと等についても併せて指摘したとおりである。
 (2)村井の土谷に対する指示
 このような状況の中で、村井は、1993年(平成5年)4月以降、土谷に対し、LSD,Vガス、ソマン、サリン等の研究を指示し、さらに、同6月初め、サリン70トンの製造方法の研究を指示したことは、サリンプラント事件において詳述したとおりである。村井としては、被告人が予言したハルマゲドン(最終戦争)に備えて教団を防衛するために化学兵器を持つ必要がある旨を土谷に説き、「ファーストストライクはない」と述べて、土谷に指示したのであった。
 (3)サリンの生成と中川の関与
 ア その後、土谷がサリンプラントにおけるサリンの生成方法を研究するため、少量のサリンを合成していったことも、サリンプラント事件において述べたとおりである。なお、土谷が生成した物質が、本当にサリンであるかに関しては疑問の余地もあるが、以下これを「サリン」として述べることとする。
 イ 中川は、1993年(平成5年)10月半ば過ぎ頃、村井から指示を受け、土谷によるサリン生成方法の研究を手伝うようになった。ただ、村井は、中川に対して生成目的についての説明等はしなかった。
 ところで、土谷はサリンに関してはある程度の知識は有していたが、中川の当時のサリンに関する知識は、高校生か大学生の頃漫画の解説を読んでサリンという言葉を知ったという程度で、一般のサリンが強い殺傷力を持っていることは知らなかった。実際にサリンの生成を始めた頃は化学兵器の一種だということはわかっていたが、格別文献を読んで正確な知識を持ったわけではなく、サリンが強い殺傷力を有するか否かについては疑問を持っていた。
 ウ 具体的な作業については、化学者である土谷が進め、これに村井及び中川が加わって生成方法を決定するなどして進めた。生成作業は、土谷の研究棟であるクシテイガルバ棟で行ったが、土谷は、このクシテイガルバ棟内のサリンを生成している場所のすぐ横にベニヤ板で間仕切りしただけの居室に常時寝泊まりしていたが、土谷は、格別危険を感じることはなかった。生成作業中についても、土谷、中川その他作業従事者らは、特に危険を感じることもなかったため、マスクをつけずに生成作業を行うことすらあった。作業中に煙が出て目や喉をやられることはあったが、これは、サリン物質ではなく、第2段階の生成工程で生じる塩素が原因だった。土谷、中川も他の作業従事者らの死の危険を感じるようなことはまったくなかった。
 エ また、1993年(平成5年)11月頃、土谷はメチルホスホン酸ジクロライドを合成後、体が目常的にだるくなってきた。また、メチルホスホン酸ジフロライドを作った後、毒性を確かめてみようと臭いを嗅いだところ、土谷に縮瞳が生じたため、中川がパムと硫酸アトロピンで治療したことがあった。
 また、土谷は、20gを合成した際、できたものの臭いを嗅いだところ、ガスマスでは、サリンが生成されていると確認できていた物質であったにもかかわらず、縮瞳がおこったが、呼吸は多少しづらいという程度で、特に治療も受けなかったが、30分ほどで自然に回復した。
 オ 第4段階の生成過程で薬品が突沸したことがあり、土谷及び中川はクシティガルバ棟をいったん出たが、土谷が忘れ物を取りに中に戻ったが、土谷には何ら異常も生じなかった。また、中川も、突沸後に部屋に入って残った物質の反応を終了させ、さらにドラフトの中に入って瓶に移し替える作業を行ったが、この作業も、密閉した箱の中で安全を期して行ったというものではなく、装着したマスクについても、酸素を吸入するようなものではなく、活性炭がついただけの簡易であった。この突沸で約400ccの生成中のサリン物質がクシティガルバ棟に飛び散ったが、このときは、土谷、中川らには何らの症状も出なかった。その後、土谷は宇宙服と呼んでいた気密服をきて中に入ったが、空気がこなかったため、20グラムのにおいを嗅いだときたいしたことがなかったことから、服を脱いで、サリンができたかどうかの分析を続けた。ガスマスではサリンの反応は出ていた。その間5〜10分間、作業中はそのサリンにさらされていたところ、視界が暗くなる、呼吸が困難になる、という症状が出た。しかし、その後、自分で車を運転して三角屋根とよばれていた建物に行き、佐々木から治療を受けた。到着後パムの注射による治療を受けたが、到着したころには、呼吸困難はすでに回復し始め、被爆から1時間後には、ほぼ呼吸は回復していた。パムを打たれてから、その作用によって意識が朦朧としてきた。
 カ こうして、1993年(平成5年)11月中旬頃には一応サリン約600グラムの生成に成功したが、作業中のこのような経験等から、土谷、中川らは、サリンは化学兵器と言われているとはいえ、教団で生成したこのサリンが強い殺傷力を持っているとの認識はなかった。
 キ また、1994年(平成6年)5月か6月ころ、サリンによる腐食実験を手伝っていた佐々木は、約30kg造ったサリンで腐食実験をしようとした際、容器を持ち上げた時に誤って蓋が開いてしまい、サリンをまともに見てしまったという経験をした。中には透明な青い液体があり、白い湯気のようなものがあがった。しかし、視界が暗くなることもなく、呼吸も苦しくならなかった。文献には一呼吸で死ぬ、とのサリンの毒性についての記載があるのを見たが、そのような状態にはならなかった。
   【土谷尋問速記録第(236回20丁〜44丁)、佐々木香代子尋問速記録(1丁〜18丁)、中川尋間速記録(第151回(1)27丁表〜28丁裏、第162回7丁表〜13丁裏、16丁裏〜25丁裏、42丁裏〜44丁表、89丁裏〜90丁裏)など】
(4) 第1次池田事件
 ア 噴霧状況及び被曝の程度
 村井は、1993年(平成5年)11月中旬頃、遠藤誠一、新實智光、中川及び滝澤和義らに対して、創価学会名誉会長池田大作に、教団で生成した上記サリンをかけるよう指示した。池田が対象となったのは、創価学会信者による被告人の説法会の妨害行為や1990年(平成2年)の総選挙の際の選挙活動妨害行為があり、また、教団を攻撃した『サンデー毎目』を発刊している毎目新聞杜と創価学会とが緊密な関係にあると考えたこと等から、村井が噴霧実験の対象としたのであった。
 村井は、指示するにあたって、噴霧の目的も、噴霧によって池田をどうするのかの具体的なことは一切説明せず、「殺害」を意味する言葉も使わなかった。中川らとしても、村井からサリンを生成しろと指示された際に目的は言われず、トン単位のサリンを作るということを聞いていたため、その予備的な実験かと思った程度であった。中川らは、創価学会の妨害活動等があったことは知っていたが、池田を殺害しなければならないほどの対立感情を抱いていたわけではなく、実際に教団と創価学会とはそこまでの対立関係にはなかった。
 村井らは、農薬用噴霧器「霧どんどん」を普通乗用自動車に取り付けて噴霧する方法を考え、同月中旬頃、村井、新實、中川及び滝澤は、噴霧するため、八王子市内の創価学会施設付近まで赴いた。近くの路上で噴霧器にサリンを注入したが、実際に注入作業をした村井も中川も危険を感じることはまったくなく、両人ともマスクはせずに注入し、まわりで人垣をつくっていた他の者らもマスクはしていなかった(そもそもマスクは現場には持ってきておらず、初めから持って行く予定もなかった)。また、村井や中川は、注入する際、顔面の間近にサリンがあるにもかかわらず、顔をそむけることもなく、また、手袋はせず素手で行った。注入するのに3〜4分かかったが、途中で何回も呼吸をした。吸入したり、手等に付着した場合の心配もしてなかったのである。
 村井らは、事前にサリンの予防薬とされるメスチノン(臭化ピリドスチグミン)を飲んでいたが、メスチノンは池田攻撃のためにわざわざ準備したわけではなかった。メスチノンは、重症筋無力症の治療薬であり、当時教団に同病の患者がいたため、治療薬として保管してあったものである。この池田攻撃の当目に村井が、サリン中毒の予防薬ということで中川らに渡したのであった。ただし、村井がメスチノンを配った時は、新實はいなかったため、新實はメスチノンを服用していなかった。
 こうして、村井らは、上記普通乗用自動車で創価学会施設周辺を走行しつつ、車の後方から外に向けて噴霧した。車の真後ろにはバイクでついて来る者がいて、この者が噴霧したサリンを浴びたのは明らかであり、また、創価学会施設の警備員らも噴霧したサリンを浴びたのは明らかであったが、何らの影響も現れなかった。注入したものをすべて噴霧し切ったにもかかわらず、何事も起こらなかったため、車の中で、そのことが話題となり、新實が村井に「できてるんですかね」と言ったところ、村井は「う一ん」と首をかしげた。
 この第1回の池田攻撃に際して、上記のサリン注入や噴霧中に噴霧したものが車内に逆流して来たことが原因となってか、村井、中川、新實及び滝澤らは、「手が震える、息が苦しい、目の前が暗くなる」という症状が出た。そこで、中川は、村井及び滝澤にパムを注射したが、これらの症状はいずれも軽いもので、死の危険性があるようなものではまったくなかった。中川は、当時、サリン中毒の症状については詳しく勉強したことはなかったが、筋肉が痙撃するとか、呼吸が苦しくなるとかの症状は出るのではないかと考えており、このときに何人かに出た症状は中川が理解していたサリン中毒の症状とは矛盾するとは考えなかったが、死の危険はまったく感じなかった。中川自身は何の治療も施さなかった。また、現場近くまで行った者として、遠藤の他、井上嘉浩、岐部哲也、谷村圭史、井上の運転手の都築らもいたが、遠藤らには何らの症状も出なかった。
 第1次池田襲撃事件の結果は以上のとおりであり、村井、土谷、中川ら、生成に従事した者においても、その報告を受けていた被告人においても、そもそもサリンが出来ているのかどうか疑問を持ち、また、仮にサリンが出来ていたとしても、教団で生成したサリンの殺傷能力については、それほどの毒性はないとの認識を持った。ましてや、7トンを撒いて山手線内が壊減するというほどの毒性はまったくないとの認識を抱いた。
 なお、この第1回池田事件の際、遠藤が生成を担当していたボツリヌス菌も同じ噴霧車に備えた別の噴霧器(霧どんどん)で撤こうとしたが、噴霧器が途中で動かなくなり、ほとんど撒くことができなかった。また、上記のとおり、中川は、サリンに備えてメスチノンを用意したが、ボツリヌス菌を一緒に撒くということは八王子に到着してから初めて聞いたため、それに備えての予防薬等の準備はまったくしていなかった。
イ 中川検面調書の信用性
 (ア) 検察官は、「被告人は、かねてより創価学会を敵対視し、同会名誉会長の池田を殺害しようと考えていた。被告人は、池田を暗殺するよう、村井ら教団幹部に指示した」と主張するが(論告92丁)、「被告人がかねてより池田を殺害しようと考えていた」ことを裏付ける証拠はない。また、「被告人が池田殺害を指示した」とする根拠としては、中川の検面調書(L甲99号証)の「約600グラムのサリンを生成している途中、生成の目処がついた段階で、村井から『このサリンは池田大作の暗殺に使う。11月16日までに作ってくれ』ということを言われた記憶がある。池田大作を狙う理由については、被告人や村井から特に説明を受けたことはなかつたが、以前から創価学会は教団と対立関係にあつたので、池田暗殺を計画するのは当然のように思った」という部分(12丁表)を根拠としていると思われる。
 この点についての中川の本公判廷での証言は、「池田をどうするかについては、村井から具体的には聞いていない。池田を殺害するという言葉も出ていない」というものであるが(第162回48丁裏)、当時創価学会の妨害活動があったとしても、池田大作を殺害しなければならないほどの対立関係にあったわけではないこと、村井からサリンを生成しろと指示された際も、目的は言われず、中川としても、「トン単位のサリンを作るということを聞いていたので、その予備的な実験かと思った」こと(同48丁表)等からすると、生成過程で突然村井が「池田大作を暗殺する」というのはいかにも不自然である。また、同検面調書自体が上記のとおり、「池田を狙う理由については、被告人や村井から特に説明を受けたことはなかった」としているのであるから、中川のこの供述部分から、「被告人が、かねてより創価学会を敵対視し、池田を殺害しようと考えていた」とすることはできない。検面調書のこの部分は不自然かつ不合理でまったく信用性はない。この部分は証拠として排除されるべきである。
 なお、中川の検面調書については、信用性がなく、証拠として排除されるべきであるにもかかわらず、検察官が、証拠として挙げている部分が何箇所もあり、以下でも適宜指摘するが、いずれも信用性はなく、証拠排除すべきでる。また、中川の検面調書の間題点、中川の当公判廷における証言の信用性等については後に詳述する。
 (イ) 次に、検察官は、「村井ら4名は、普通乗用自動車に流入したサリンによって縮瞳などのサリン中毒の症状が現れたため、直ちに中川が準備していたパムを注射した」と主張するが(論告92丁)、これは、中川の同検面調書の「防毒マスクをせずに噴霧車に乗っていた私達4人は、視界が暗くなったり、息苦しいなどの症状が出て全員サリン中毒となった。それで、空き地に噴霧車を停め、私が準備していたパムを注射し、何とか4人とも無事に済んだ」との部分(17丁裏〜18丁裏)を根拠としていると思われる。
 この点についての中川の証言は、「私、村井、滝澤に症状が出た。後日、新實からも症状が出たことを聞いた」というもので(第151回(1)6丁裏)、その場でパムを打ったのは村井、中川及び滝澤であり、新實にはパムを注射しなかったというものであるが、新實自身が、「第1次池田事件の際に自分はパムは打ってもらわなかった」旨証言しており(第206回75丁〜76丁)、中川の証言を裏付けている。
 また、中川ら関与者の症状は上記のとおり、極めて軽いものであり、その症状が出たのが噴霧中であるのか、噴霧が終了した後であるのかすら不明であった。したがって、噴霧行為終了後に新實が症状を自覚し、後日中川に伝えたことも容易に推測できることである。中川自身新實に何らの症状も出なかったと供述しているわけではない。
 さらに、検察官が指摘する検面調書の部分の少し前では、中川及び村井がサリンを霧どんどんに注入する場面で、「この当時、私達は、サリンがどのようものか実感としてわかっておらず、今から考えると非常に危険なことをしたと思います」とあり、また、噴霧の効果についても、「『霧どんどん』で撒いたのですが、十分に噴霧できずに、サリンとボツリヌス菌の液体が地面にポタポタと落ちていました。後から考えると、この噴霧の仕方ではあまり効果がなかったと思うのですが」となっている。すなわち、この部分のみでも、当時中川が教団生成のサリンの殺傷能力はたいしたものではないと認識していたことを裏付けるものである。そうだとすれば、「何とか四人とも無事に済みました」と中川が認識するはずがなく、したがって、このようなことを供述するはずもないのである。検面調書自体が矛盾したものであり、不自然かつ不合理なものであり、中川がサリンについて致死性を認識していたと決めつけた検察官が無理に作文をした結果と言うべきである。
 中川の検面調書のこの部分に信用性がないことは明らかである。
 (ウ) 次に、検察官は、「中川らが、被告人にサリンを吸って死にかけたことを報告したところ、被告人は、『死ななくてよかったな』などと言葉をかけた」と主張するが(論告92丁)、これは、上記中川検面調書の「食事の後帰る時に、私は被告人の車の中へ入って、被告人に『サリンを吸って死にかかりました』と言って報告した」との部分(19丁表)を根拠としていると思われる。
 この点についての中川証言は、「死ぬとは思わなかった。死の危険は全然感じなかった」、「私は、被告人に、『サリーちゃんにやられました』というようなことを言った」というものである(第162回36丁裏〜37丁表)。上記のとおり、第1次池田事件で中川に出た症状は、手が震えるとか息がしづらいという程度のもので、その後治療をしたわけでもなく、他の者らに出た症状も同様であり、中川は、自分自身についても他の者らについても死の危険は全く感じなかったのである。したがって、中川が被告人に対して「サリンを吸って死にかかりました」などというはずがない。手が震えるとか息がしづらいという程度の症状が出たことを「サリーちゃんにやられました」という言葉で表現したにすぎないのである。
 また、被告人に対して、「サリーちゃんにやられました」と告げた後、中川は、続けて「キサーゴータミー正悟師がおっしゃっていたのは、このことだったんでしょうかと、予言は外れましたねと、そういうことを言った。そうしたら被告人は、予言が外れて死ななくて良かったなと、そういうことを言った」と証言しているが(第162回40丁裏〜41丁表)、
 これは、平成5年10月の初め頃、中川が、キサーゴータミー正悟師(山本まゆみ)から、同人が瞑想中に中川が死ぬ場面を見たと聞かされていたところ、その予言が外れたので、そのことを話したものであるが、検面調書では、この山本まゆみの「予言」については触れず、単に「死ななくてよかったな」との被告人の言葉のみを記載し、それに対応する形で、中川の供述を「サリンを吸って死にかかりました」としたもので、教団生成のサリンについて中川が致死性を認識していたと決めつけた検察官の作文であることは明らかである。中川が予言のことを持ち出したのは、自分が死にかけたからではないのである。上記検面調書部分は信用性がない。
 また、本検面調書でも、中川の当時の教団生成のサリンの殺傷力についての認識はそれほどのものではなかったなっていることは上記したとおりであり、このことからも、中川のサリンについて致死性の認識はなかったのであるから、中川が本気で「死にかかりました」などと言うはずがない。検面調書は検察官の都合の良いように意図的に作成されたものであり、不自然かつ不合理であって、信用性はない。
   【中川尋問速記録(第151回(1)6丁表〜7丁表、27丁裏〜28丁表、第162回26丁表〜42丁裏、44丁表〜45丁裏、48丁表〜48丁裏、81丁表〜82丁裏、87丁表〜88丁表)、遠藤尋問速記録(第103回15丁表〜17丁裏、第116回76丁、66丁〜65丁、71丁〜72丁、新實尋問速記録(第206回41丁〜79丁)、滝澤尋問速記録(第180回57丁〜58丁)など】
 (5) 第2次池田事件
 ア 噴霧状況及び被曝の程度
 村井は、平成5年11月末ないしは12月初旬頃、土谷及び中川に対し、サリンを5キロ造れと指示した。指示にあたっては、使用目的についての説明はまったくなかった。土谷及び中川らが生成作業を開始した後に、土谷らは、新宿区信濃町で池田大作の講演会があるとの情報が井上からあり、そこで狙うということを聞かされ、その時点で、新たに生成したサリンを使って、再度池田を狙うということを知った。そして、土谷らは、同月中旬頃、サリン約3キログラムの生成を完成した。  しかし、信濃町での講演会は中止となったという情報があり、八王子の創価学会施設で池田の講演会があるということで、その付近で噴霧することとなった。
 村井らは、サリンを加熱して気化させ噴霧する方法を考案し、この方式の噴霧装置を製作して2トンの幌つきトラックに搭載する準備をした。
 しかし、噴霧を予定していた当日に、この講演会も中止となったことがわかったが、村井及び新實は、同月中旬頃、上記サリン3キログラムを噴霧装置に注入した噴霧車に乗車し、中川、遠藤、滝澤はワゴン車に乗車し、八王子市まで行った。中川は、事前にパム、硫酸アトロピン、メスチノンを準備し、中川、新實らはメスチノンを飲んだ。
 噴霧する前に、中川らにおいて、噴霧車が火を噴くんではないかという話が出ていた。そして、実際にサリンを噴霧しようとしたところ、ガスバーナーの火が噴霧装置に燃え移ってトラックの荷台が発火してしまった。創価学会の警備員に察知されて追いかけられ、噴霧は中止した。トラックを運転していた新實は、かなりの量のサリンを直接浴びてしまった。新實は、「視野が狭い、暗い、体が多少痺れる」という症状を訴えたため、新實を収容したワゴン車の中で、中川らが薬を投与したり、人工呼吸を施した。しかし、新實は、待ち合わせ場所である石川パーキングエリアまで、自分でトラックを運転して来ており、目が多少見づらそうだったため、遠藤が新實に肩を貸したものの、自力でワゴン車まで歩いて行った。また、ワゴン車で治療を受けている際も、新實は意識を失うということはなく、遠藤と会話をしていた。新實自身は息が苦しいとは感じなかったが、遠藤らが一応人工呼吸を施した。しかし、人工呼吸をしている際にも、新實が遠藤に対し、「お前は(人工呼吸が)下手だ」などと言っていたほどであった。村井が新實に謝っていたが、新實はあれこれと村井に注文を出し、「気持ちがいい」とすら言っていたほどだった。
 また、新實と一緒にいた村井には、何の症状もなく、遠藤に出た症状は、目が暗くなったこと、足が若干痙撃した程度であった。滝澤については、若干縮瞳を感じたかどうか程度であった。噴霧車を回収して来た者もマスクはつけなかったにもかかわらず、たいした症状も出なかった。噴霧車を追いかけてきた警備員も噴霧を浴びたはずであったが、何らの影響もなかった。新實にのみこのような症状が出たのは、メスチノンとサリンとの相乗効果によるためであった。
 その後、新實を中野区野方にあるオウム真理教附属医院に運んで、若干の治療を施した。この時点では、親實は視野が暗いとか狭いという症状はすでになくなっていた。林郁夫が中心になって新實の治療をしたが、林は、「どうしてこんなことになったのか教えてくれなければ面倒をみられない」と言ったため、中川は、「農薬中毒と考えて治療して下さい」と頼んだ。被告人が附属医院の近くまで来ていたので、中川は、被告人の車のところまで行き、林が怒っていることを伝えた。新實の状態については説明しなかったが、林が治療をしないと言っていることを話したところ、林を連れて来るようとのことだった。中川は医院に戻り、林を車のところまで連れて行き、林が車に乗り込んた。林は出て来ると、「サリーちゃん?」と言っていたので、中川が「それはサリンのことですよ」と説明した。
 その後、林は新實の治療を引き受けるとのことだったが、治療としては特別なことをすることもなかった。看護婦の佐々木香世子らも治療にあたったが、新實の意識ははっきりしており、痙撃等の症状はなく、治療しようとすると嫌がって看護婦の手等を払いのけたりするほどだった。新實は数日で退院したが、退院後の新實には何らの症状もなかった。
 イ 事件後の中川の調査
 この第2次池田事件の後、中川は、新實に出た症状について、「サリン中毒の症状とは矛盾はしないが、緒局、メスチノンを予防薬として使ったのが間違いだったのではないか。60ミリグラムというのは過剰投与ではないか。メスチノンを飲んでサリンと類似の症状が出たが、メスチノンとサリンの作用が重なることがあるのではないか」等と疑問に思い、事件直後頃、図書館に行き、『中毒百科』(弁80号証)等の文献を調べた。『中毒百科』には、「ピリドスチグミンの投与量が増えるとサリンに対する防御率がかえって下がる」、「この方法の間題点は、タイミングが合わないとアセチルコリンエステラーゼのすべてがカルバミル基とリン酸基に占拠されて活性が完全に失われてしまうことである」等と記載されていた。このことから、中川は、「30ミリグラムであれぱ害はないのではないか。やはり、新實の症状は、メスチノンを60ミリグラムも投与したことが原因だったのではないか。メスチノンはサリンに対しては予防効果がなくて害作用の方が大きいのではないか。メスチノンを飲んで被曝すると症状が重くなる可能性がある。メスチノンを飲んでサリンを浴びるとコリンエステラーゼの作用は低下する。つまり、メスチノンとサリンの相乗効果で新實の症状が重くなったのであり、教団で造ったサリンだけではそんなに殺傷能力はないのではないか」との認識を抱き、そのことを村井や被告人に伝えた。
ウ 中川検面調書の信用性
 (ア) 検察官は、「被告人は、第1次池田事件直後、村井を介して土谷らに対して、池田を暗殺するためのサリンをあらたに生成するよう指示した」と主張するが(論告92丁〜93丁)、これは、中川の上記検面調書(L甲99号証)の「村井から、『次はサリンを5キロ作ってくれ』と指示された。この時、村井から、池田を狙うということを言われたかどうか記憶していないが、池田を殺害することが5キロのサリンを生成する目的であることは当然の前提だった」の部分(20丁表)を根拠としていると思われる。
 この点についての中川の証言は、「平成5年11月の終わり頃から12月の初め頃にかけて、村井からサリンを5キロ造ってくれと言われたが、使用目的については言われなかったが、また池田を狙うのかなという気はした。第1次池田事件は、最初は新宿区信濃町で池田大作の講演会があるとの情報があり、そこで狙うということだった。その講演会の目程を井上から聞いたが、それで池田を狙うことがはっきりわかった。井上からそれを聞いたのは実際にサリンを生成し始めた段階であった」(第162回50丁表〜52丁裏)というものである。
 この部分は、第2次池田事件の経緯について、中川が記憶どおり供述しているものであり、村井からの指示の際のサリン生成目的についての中川の内心について意識して供述したものでない。したがって、中川が、村井からサリンを造るように言われた際に、中川が池田を殺害する目的であることが当然の前提であると認識していたはずがないのであり、上記検面調書部分は不自然かつ不合理であり、信用性はない。
 (イ) 次に、検察官は、「新實は瀕死の状態に陥った」と主張するが(論告93頁)、これは、中川の同検面調書の「新實は本当に生命が危ない状態で、一時、心臓が停止したりした。この時、新實は予防薬のメスチノンを飲んでなかったら死んでいたと思う」との部分(27丁表)を根拠としていると思われる。
 この点、中川は、「心臓は完全には停止していない。ただ、脈が触れにくくなって、拍動が少なくなった」、「この時の新實の症状を前提にしても、教団で製造したサリンの殺傷能力には疑問を持っていた。それは、新實に投与したメスチノンが過剰投与だったからである。メスチノンは、臭化ピリドスチグミンが60mgの錠剤であるが、これでは過剰投与となる。メスチノンを飲んでサリンに被曝すると症状が重くなる可能性がある」と証言している(第151回(1)7丁裏、第162回58丁裏〜59丁裏、64丁表)。
 新實の症状及びそれについての中川の認識についてはすでに述べたとおりであり、中川は、新實が死ぬとまでの認識はなかった。遠藤の「第1次池田事件の際、噴霧車の後をついてきたオートバイの人は吸引したはずなのに何ともなさそうだということは中川から聞いた」旨の供述(第116回40丁、50丁〜51丁)、滝澤の「走っていた車等について何か変わった事故とか事件は自分の知る限りではなかった」、「自分は若干縮瞳になったような気がした。あまり明瞭な認識ではなかった」旨の供述(第180回57丁〜58丁、第182回6丁)の他、当の新實が「心臓は止まっていない。意識を失ったことはない。村井が謝っているのも聞こえた。呼吸が苦しいということはなかった。気持ちが良かった。AHIに運ばれたときは自分で呼吸はできた。視野が暗い、狭いという症状はなくなっていた。その後治療は一切受けなかった」旨供述しているが(第207回11丁〜33丁)中川証言はこれらにも合致しており、中川証言の信用性を担保している。
 また、メスチノン投与に関しても、すでに述べたとおりであり、過剰投与によって症状が重くなることは科学的にも裏付けられているところである。仮に、新實が被曝したサリンが一般に言われるサリンと同様の効力を有するものであるとすれば、新實の回復はいかにも早すぎ説明に窮する。メスチノンとの相乗効果であったとすれば、合理的に説明することができる。すなわち、『中毒百科』(157頁)によれぱ、メスチノンもそのひとつであるカーバメイト系の抗コリエステラーゼ剤は、「有機リン系殺虫剤の場合には自然回復に1時間〜1ヶ月かかるのに、カーバメイト系殺虫剤の場合には30〜60分で回復する」というのであって、新實の回復が速やかで、後日障害がなかったことを合理的に説明できるのである。したがって、中川が、新實の被曝の後、その原因に疑間を持ち、調査をし、最終的に、臭化ピリドスチグミンは過量投与するとかえって害がありうること、しかもタイミングが悪いとすべてのコリンエステラーゼ活性が失われるとの認識に立っていたとの証言の信用性は極めて高いものである。
 そもそも、中川が、新實の被曝をみて教団生成のサリンの致死性を認識したというのであれば、中川が文献調査をするはずがないのである。以上のとおり、中川は、新實については、他の者に比べて強い症状が出たものの、それは新實が直接被曝したものであったこととメスチノンとの相乗効果が原因であり、しかも、新實の場合であっても放置しない限りは死ぬとまでの認識は有していなかった。新實以外の他の者に生じた症状からも、やはり中川は、教団生成のサリンについては致死性までは有しないとの認識を持ったのは当然である。
 中川検面調書部分はこれに反して不自然かつ合理であり、信用性はない。
 (ウ) また、検察官は、「被告人は、林郁夫を呼び寄せ、『池田をサリーちゃんでポアしようとした』などとサリンを使用して池田を暗殺しようとしうたことをうち明けた」と主張するが(論告93丁)、これは、中川の同検面調書の「被告人が林郁夫に『池田をサリーちゃんでポアしようとした』と言った」との部分(30丁表)を根拠としていると思われる。しかし、中川は、被告人が林に対して、そのような言葉を言ったのを直接聞いたわけではなく、後から林に聞いたというものであり(第151回(1)9丁裏)、被告人の言葉を否定しているわけではない。この部分のみ被告人を庇う理由はなく、中川が虚偽を供述する必要はない。林からの伝聞ではなく、被告人からの直接の言葉として中川が聞いたこととして、被告人の殺害の指示を確実にしたいためがために、検察官が作文したとしか考えられない。信用性はない。
   【中川尋問速記録(第151回(1)6丁表〜10丁表、第162回48丁裏〜66丁裏、82丁裏〜87丁表、90丁裏〜91丁表)、遠藤尋問速記録(第103回17裏〜24丁裏、第116回76丁、66丁〜65丁、71丁〜72丁、第207回6丁〜14丁)、新實尋問速記録(第206回79丁〜99丁、第207回1丁〜57
丁)、滝澤尋問速記録(第180回57丁〜58丁)、佐々木香代子尋問速記録(23丁〜26丁)、弁80号証の『中毒百科』など】
 (6) 本件で使用されたサリンの生成について
 ア 生成状況
 1993(平成5年)12月末頃、村井は、中川に対し、サリンを50kgを造れと指示した。その際、村井は、「池田に使う」という趣旨のことを言った。前回と同じような形で使うというような趣旨だった。量が増えた理由については、村井は、「サリンの効果が弱い。毒性が弱いから」と説明した。この時に造ったサリンが本件滝本事件で使われたのであるが、生成方法は1回目、2回目(第1次、第2次池田事件で使用された)と同じであった。本格的に生成方法を変えるということはなく、毒性を高めるための工夫等もしなかった。生成作業はクシティガルバ棟で行ったが、最終段階については、第7サティアン3階で行った。
 ところで、1993年(平成5年)11月、被告人らは、ロシアを訪問したが、その際、村井は、ロシアの科学アカデミーの関係者から、サリンには2種類があることを聞き、それを中川に教えた。
 翌年1月にも、被告人らはロシアを訪間したが、この時、村井は、ロシア化学アカデミーの関係者から、光学異性体のことを聞いた。「サリンには毒性の強いものと弱いものと2種類ある。毒性は数千倍違うらしい。選択的に毒性の強いものを造ることができる」というものだった。生成方法等についての資料は渡せないということで、村井は、化学式をメモにとり、後日、中川にそのメモを見せて説明した。中川は、毒性の強いサリンを造る方法は、それまで教団で造っていた方法とまったく違っており、中川の知らない物質の名前が記載されていた。3回目のサリン生成はすでに始まっていたが、村井は、その毒性の非常に強いサリンを造る方法を採用してはどうかと中川に提案したが、中川は、反応式の情報だけしかなかったことと技術的な問題があったため、そのことを指摘したところ、村井は、「考えておく」ということだった。しかし、ロシアから帰国後は、中川も別のワークに従事することとなり、結局その話はそれきりになった。
 この時生成したサリンは、同年2月中旬か下旬頃に完成したが、この3回目のサリン生成の最終工程で、生成作業に従事していた中川及び滝澤がイソプロピルアルコールを過剰に加えてしまった。その結果、フッ化水素ガスが出て、反応釜の内側にあつたガラスを溶かし、そのガラスの成分が溶け、完成したサリンは薄い青ないしは緑色をしていた。そして、この時に生成したサリンは、イソプロピルアルコールを過剰に加えたため、毒性のない副生成物であるメチルホスホン酸ジイソプロピルができ、生成した30kgのうち、メチルホスホン酸ジイソプロピルが3〜4割強も含まれていたため、以前の生成物より毒性は弱まった。また、反応しないままに残っているイソプロピルアルコールもかなりあり、30kgのうち、メチルホスホン酸ジイソプロピルを除いた残りすべてがサリンというわけではなく、サリンはそのうちのさらに何割かでしかなかった。
 しかも、サリンはイソプロピルアルコールの下でも分解が進むものであり、このとき生成されたサリンが、その後2ヶ月以上たった本件時点において、そのまま保存されていたということはあり得ず、全てが分解されていた可能性もある。  このように、本件で使用されたサリンも池田事件で使用されたサリンと同様の生成方法をとったのであるが、生成過程での失敗があったため、本件で使用されたサリンの毒性については池田事件で使用されたものよりはさらに弱まっていたとの認識が中川にあり、中川らから報告を受けた村井、遠藤らも同様の認識であった。
 この時生成したサリンは、20リットルくらい、10リットルくらい、8リットルくらいのテフロン製の容器3本に入れて、第7サティアン3階の小部屋で保管し、同年4月には、クシティガルバ棟に移して保管した。
 イ 中川検面調書の信用性
 検察官は、「被告人は、より大量のサリンを噴霧して池田の殺害を遂げようと考え、平成5年12月下旬頃、村井を介して中川及び土谷に対し、サリン50kgを生成するよう指示した」と主張するが(論告94丁)、これは、中川の検面調書(L甲100号証)の「平成5年12月末だったと思うが、村井が、『次に池田大作を狙うのは、1月5日だ。それまでにサリンを50キロ作ってくれ』と言って、指示してきた」(1丁裏)、「生成するサリンの量が50キロに増えたのは、被告人や村井が、第1回、第2回の池田暗殺計画の失敗の原因の一つをサリンの量の不足と考えたからではないかと思う」(2丁表)を根拠としていると思われる。
 中川は、この点、「村井からサリン50キロを造ってほしいと言われた。村井が言った言葉ははっきりしない。池田に使うという趣旨のことを言われたように思う」、「サリンの量が50キロと増えた理由について、村井はサリンの効果が弱いからと言っていた。サリンの毒性が弱いということである」と証言しているが(第162回66丁裏〜67丁裏)、村井は、サリンの効果が弱い(毒性が弱い)と認識していたからこそ量を増やしたのであり、池田事件の失敗の原因を「量の不足」と村井が考えたことと同一の意味である。村井も池田事件で使ったサリンの殺傷能力についてはそれほどのものではないと認識していたのであるから、中川に対して指示するに際しても、「量」のことを言うよりは「効果が弱い(毒性が弱い)」ことを言ったとする方が自然である。検面調書に信用性はない。
    【中川尋問速記録(第151回(1)27丁表〜29丁裏、第162回46丁表〜48丁表、66丁裏〜72丁表、77丁裏〜81丁表、91丁表〜96丁表、104丁裏〜117丁裏)、遠藤尋問速記録(第103回24丁裏〜27丁表、第116回168丁〜169丁、194丁〜195丁、第157回22丁裏〜31丁表)、土谷尋問速記録など】
 (7) 噴霧実験及び腐食実験
 村井は、1994年(平成6年)4月中旬頃、中川に対して、超音波式の噴霧器を使ってサリンが飛ぶかどうか確認するよう指示をした。これを受けて、中川らは、富士川河川敷において、ナショナル製の超音波加湿器を使って、噴霧実験を行った。3回目に生成して第7サテイアン3階で保管してあったサリンの一部を使用した。
 中川らの教団生成のサリンの殺傷能力についての認識は上記のとおり、それ程強い殺傷力はなく、致死性はないというものだったので、中川らは、実験に際しては、メスチノンは飲まず、マスクも着用しなかった。林郁夫に立ち会ってもらったが、その理由は、それまでは治療役は中川が兼ねていたが、実験に集中するために治療役は林に任せたということ及び被告人から林を裏のワークに積極的に使えと言われていたことである。もっとも、ここで言う「治療」というのは、人が死にそうになったときのための治療にあたるというのではなく、目が暗くなるとか、息が詰まるとかという程度の症状についての治療を想定していたに過ぎない。
 実際にも、噴霧実験開始後、噴霧車の付近で虫が鳴いていたが、噴霧中も噴霧後も変わらず鳴いていた。中川は、もともと有機リン系の物質は殺虫剤に使われるという知識があったので変に思い、加湿器を持ち上げたところ、加湿器の底が抜けて中のサリン溶液がこぼれてしまった。中川には、息がしづらい、目の前が暗いという症状が出たが、以前に中毒した時よりも症状は軽く、生命に対する危険はまったく感じなかった。また、現場にいた他の者には何らの症状も出なかった。
 この実験結果から、教団が造ったサリンの毒性について、中川は、「近づけば被曝するが、少し離れれば効果はない。被曝しても死に至るまでの効果はない」との認識を持った。中川はこの実験結果を村井に報告した。
   【中川尋問速記録(第162回72丁表〜78丁裏、84丁裏〜87丁表、118丁表〜121丁裏)、遠藤尋問遠記録(第103回27丁表)など】
 (8) 教団生成のサリンの名称
 ところで、教団生成のサリンは当初はそのままサリンと呼ばれていたが、1993年(平成5年)10月頃には、「サリーちゃん」と呼ばれるようになった。最初にその呼び方をしたのは谷村圭史であった。サリン生成に関与し、その事実を知っていたのはごく一部の者であり、谷村は、上九一色村で行われた炭疸菌の培養には関与していたが、サリン生成には関与していなかったが、第2上九にある「三角屋根」と呼ぱれる建物に出入りしていたため、そこに出入りしていたサリン生成に関与していた者から、教団でサリンを生成していることを聞いていた。谷村の他、遠藤、岐部哲也らも「三角屋根」に出入りをしており、これらの者も、教団がサリンを生成していることやそれが「サリーちゃん」と呼ばれていることを知っていたが、ごく一部の者に過ぎなかった。それゆえ、上記のとおり、池田事件の時、林郁夫は「サリーちゃん」という言葉の意味がわからなかったのである。
 同年11月上旬頃には、教団生成のサリンは、「魔法」あるいは「魔法使い」という呼び方がされるようになった。最初にその言い方をしたのは滝澤であった。この「魔法」ないしは「魔法使い」という呼称は、やはりサリン生成に関与していた者の他、上記のようなごく一部の者のみが知っていることであった。サリン生成を指示した村井の他、土谷も「魔法」ないしは「魔法使い」という言葉を使用し、もしくは理解していた。サリン生成に関与していた者や上記の例外的な者を除いて、ほとんどの信者は教団でサリンを生成していることは知らず、また、教団で生成しているサリンを「魔法」ないしは「魔法使い」という言葉で呼んでいることも知らなかった。
   【中川尋問速記録(第162回1丁表〜6丁表)など】
2 教団生成のサリンの殺傷力とこれに関する認識
 (1) 本件サリンの殺傷力
 第2,2で詳述するとおりサリンには光学異性体があり、その殺傷力は数千倍異なる。教団で生成したサリンは、これが仮にサリンであったとしても、殺傷力の極めて弱いものであった。
 しかも、本件滝本サリン事件で使用することになる「サリン」は、前述のとおり、1994年(平成6年)2月中旬に滝澤、中川らが第7サティアン3階において生成したものであり、このときは最終工程でイソプロピルアルコールを過剰に投与したため、副生成物としてメチルホスホン酸ジイソプロピルができており、イソプロピルアルコール自体も多量に残存しており、仮にサリンが生成されたとしても理論上全容液の3分の2程度に留まるものである。
 さらに、本件事件が発生する時点では、その生成から2ヶ月半を経過しており、この間にイソプロピルアルコール下においてサリンが全て分解している可能性があった。
 (2) メスチノンとの相乗効果
 サリンの予防薬としては、メスチノン(臭化ピリドスチグミン)があるが、メスチノン自体、アセチルコリンエステラーゼの活性を阻害するというサリンと同様の効果を持つ。しかも、メスチノンを服用している場合には、サリンとの相乗効果がある。したがって、メスチノンを服用している者に前記のようなサリン中毒類似の症状が現れたとしても、それがサリンを被曝したためであるとは到底言えない。重い中毒症状が出たとしてもメスチノンとの相乗効果によると考えられ、サリン自体の殺傷力が高いとは言えないものである。
 (3) 殺傷力についての認識
 上記したサリンの生成過程、2回の池田事件での噴霧結果、噴霧実験等から、これらに関与した村井、中川、土谷、遠藤、新實、滝澤らは、教団で生成されたサリンについては、強い殺傷力はなく、致死性はないものと認識していた。特に、中川については、教団生成のサリンは光学異性体であって一般のサリンより効力は数千倍も低く、また、臭化ピリドスチグミンを過剰投与した場合は、サリンとの相乗効果により、サリンの効果としてではなく、臭化ピリドスチグミンの効果としてサリンと同様の効果が生じるものとの認識を抱いていた。そして、被告人は、村井、中川らから、これらのことの報告を受けており、被告人においても、教団生成のサリンの殺傷力は強いものではなく、致死性はないものとの認識を持っていた。





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