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「弁護側法廷資料」の紹介&三浦解説



「麻原彰晃(松本智津夫)第一審公判弁論要旨」
2003年10月30日





麻原彰晃(松本智津夫)第一審公判弁論要旨
         2003年(平成15年)10月30日)

目次

はじめに
第1章 総論
  T 宗教家としての確立過程
  U 違法証拠の排除
第2章 各論
  T 田口事件
  U 坂本事件
  V サリンプラント事件
  W 武器等製造法違反
  X 落田事件
  Y 滝本サリン事件
  Z 松本サリン事件
  [ 富田事件
  \ VX三事件
  ] 假谷事件
  XI 地下鉄サリン事件
おわりに

解説 (三浦執筆)


今回、弁護側弁論要旨に書かれている問題点を、松本サリン事件、地下鉄サリン事件についていくつか取り上げてみたい。

●地下鉄サリン事件ポイント1
現場遺留物の押収の流れに不備が多い

まず大事な一点は、地下鉄サリン事件で、現場で撒かれたものの、かなりのものが法廷に出されていないことである。
整理してみよう。

犯罪事件が発覚すると、通常以下の手順で、捜査が進められる。
1、 事件現場の保存
2、 鑑識による現場の証拠採集
3、 現場の実況見分(実況見分調書)
4、 証拠物押収(差押調書・領置調書)
5、 鑑定作業または鑑定嘱託
6、 鑑定作業(鑑定書)
7、 各種の聞き込み

現場遺留品が押収されたのは、以下の五駅である。
A千代田線霞ヶ関駅(林郁夫氏が実行)、
B日比谷線小伝馬町駅(林泰男氏が実行)、
C日比谷線霞ヶ関駅(豊田亨氏が実行)、
D丸ノ内線中野坂上駅(広瀬健一氏が実行)、
E丸ノ内線本郷三丁目駅(横山真人氏が実行)

路線駅別に順番に見てみよう。

A千代田線霞ヶ関駅の場合

1、事件現場の保存は行われなかった。
その理由として弁護団は、乗客の避難・毒物の除去・運転の打ち切り・毒物撒布車両の隔離などをあげている。

2、鑑識による現場の証拠採集は行われなかった。
その理由として弁護団は、乗客の避難・毒物の除去・運転の打ち切り・毒物撒布車両の隔離などをあげている。

3、現場遺留品の実況見分(実況見分調書)は、3通(4月17日付久當調書、4月30日付東条調書、5月25日付岡沢調書) があったが、検察は撤回してしまった。
しかも、3人を証人に呼んで証言さえもさせなかった。
豊田助役は、駅ホームの柱の根元に置いてあったビニール袋を休憩室に運んだ。だから電車の中は見ていなかった。
これで「現場遺留品」が、電車車両のどの位置に、どのように残されていたのか不明となった。
「現場遺留品」がはたして林郁夫が残したものか否かの立証がされていない、と弁護団は主張する。

4、証拠物押収(差押調書・領置調書)は、領置調書を一旦は出しながら、引っ込めてしまった。
引っ込めたのは、領置調書を作成した堀之内巡査部長が証人として証言した後のことである。
検察にとって、何がまずかったのだろうか。
証言内容で重要な一つ目は、写真説明と証言では、ビニール袋の中身はぐちゃぐちゃにぬれた新聞紙と新聞紙に包まれたものと2種類が入っていた。
ところが「領置調書」には、「ビニール袋内はぬれた新聞紙様の在中のもの」と書いてあるだけだった。
具体的に何を領置したのか、どうも内容がはっきりしないのである。
二つ目は、領置後の保管状況は、ビニール袋をジュラルミンケースの箱に入れ、それをさらに大きなビニール袋に入れたことである。
これが、その後大きく食い違ってくるのである。

5、鑑定嘱託は、3月24日「現場遺留品」と「鑑定嘱託書」が警視庁科学捜査研究所に運び込まれ、行われた。
3月24日、直ちに大宮の陸上自衛隊化学学校実験室で、「仕分作業」された。「仕分作業」とは、「鑑定作業」 の対象となる資料を抽出する準備段階にあたる。
証言では、堀之内氏は、3月20日に警視庁科学捜査研究所に鑑定嘱託した、と述べている。
ところが、「鑑定嘱託書」の日付は3月24日だった。
この日付の違いについて、堀之内氏は説明できなかった。
3月20日から24日まで、当の領置物がどこにあったのだろうか? 
警察は明らかにしていない。
鑑定嘱託では、「鑑定資料の具体的な特定」「鑑定資料の鑑定人への送付手続き・日時」「鑑定人の鑑定資料受領の場所・日時」が記録されなければならない。
ところが、鑑定人自身が「鑑定依頼に伴う証拠物の移動に関する記録は必要」と証言しているにもかかわらず、記録していないのである。
仕分作業の前に、科捜研の安藤証人は、デシケーター(ガラスの蓋つきの容器)から大型ビニール袋を出している。
これは、先ほど領置のところで述べた「ビニール袋をジュラルミンケースの箱に入れ、それをさらに大きなビニール袋に入れた」とする証言と大きく異なっている。
デシケータとジュラミンケースとは違うものである。
安藤証人は、屋上で処理した、と証言するが、入れ替えたというような記録は一切残していない。記録に残さなかった理由は不明。

6、「仕分作業」は3月24・25日、鑑定書は5月31日作成だった。
鑑定作業(鑑定書)は、まず大宮の陸上自衛隊化学学校実験室で、「仕分作業」からはじまった。
仕分作業に必要な記録として、「仕分作業の責任者・担当者の特定」「仕分作業への持ち出し年月日・時刻」
「仕分作業の場所の特定」「仕分作業の設備・器具・用法などの説明」「仕分作業開始前の遺留物の形状・色調・状態」
「仕分作業の進行状況と分類の経過」「仕分作業の最終的な状態」が必須だが、「写真撮影報告書」があるだけである。
弁護団は、写真だけでは、たとえば、濡れているのか、濡れていないのか、どのような大きさであり、どのくらい重いのか、
容積がどのくらいあるのかなど、その証拠物に関する肝腎なことは何も分からない、と指摘する。


B日比谷線小伝馬町駅の場合

1、事件現場の保存は、行われなかった。
その理由として弁護団は、乗客の避難・毒物の除去・運転の打ち切り・毒物撒布車両の隔離などをあげている。

2、鑑識による現場の証拠採集は、行われなかった。
その理由として弁護団は、乗客の避難・毒物の除去・運転の打ち切り・毒物撒布車両の隔離などをあげている。

3、現場の実況見分(実況見分調書)は、「新聞紙に包まれたもの」という表現が、武田巡査部長から明らかにされている。
しかし電車内での遺留状況ははっきりしない。

4、証拠物押収(差押調書・領置調書)は、千代田線霞ヶ関駅と同じように、武田巡査部長が作成した「新聞紙に包まれたもの」
という領置調書を引っ込めてしまった。

5、鑑定嘱託は、3月20日付で、「仕分作業」も20日大宮の陸上自衛隊化学学校で行われた。

6、鑑定作業(鑑定書)は、科捜研・安藤による「鑑定書」提出は4月13日だった。

C日比谷線霞ヶ関駅の場合を見ていこう。
1、事件現場の保存は、行われなかった。
その理由として弁護団は、乗客の避難・毒物の除去・運転の打ち切り・毒物撒布車両の隔離などをあげている。

2、鑑識による現場の証拠採集は、行われなかった。
その理由として弁護団は、乗客の避難・毒物の除去・運転の打ち切り・毒物撒布車両の隔離などをあげている。

3、現場の実況見分(実況見分調書)は、現場遺留品の電車内での状況ははっきりしない。

4、証拠物押収(差押調書・領置調書)は、中野警部補が作成した「大型ビニール袋、但し、ぬれた新聞紙様のもの在中のもの」
という領置調書を一度、提出したが、検察は引っ込めてしまった。
この領置調書が作成された後、特別捜査本部の指示で、「透明大型ビニール袋」と書き直している。
なぜ書き直しの指示を出したのだろうか。

5、鑑定嘱託は、3月20日で、「仕分作業」も20日大宮の陸上自衛隊化学学校で行われた。

6、鑑定作業(鑑定書)は、科捜研・安藤による「鑑定書」提出は4月13日だった。

D丸ノ内線中野坂上駅の場合

1、事件現場の保存は、行われなかった。
その理由として弁護団は、乗客の避難・毒物の除去・運転の打ち切り・毒物撒布車両の隔離などをあげている。

2、鑑識による現場の証拠採集は、行われなかった。
その理由として弁護団は、乗客の避難・毒物の除去・運転の打ち切り・毒物撒布車両の隔離などをあげている。

3、現場の実況見分(実況見分調書)は、長山助役が、先頭から3両目進行方向1番前のドアの前に「ビニールのパック状の袋が二つ置いてあった」と証言した。

4、証拠物押収(差押調書・領置調書)は、菅原警部が領置手続をしたのは3月20日だった。ところが領置調書を作成したのは4月12日ころだった。

5、鑑定嘱託は、3月20日だった。「仕分作業」は3月20日と3月24日に行われた。

6、鑑定作業(鑑定書)の作成日は4月13日だった。

E丸ノ内線本郷三丁目駅の場合

1、事件現場の保存は、行われなかった。
その理由として弁護団は、乗客の避難・毒物の除去・運転の打ち切り・毒物撒布車両の隔離などをあげている。

2、鑑識による現場の証拠採集は、行われなかった。
その理由として弁護団は、乗客の避難・毒物の除去・運転の打ち切り・毒物撒布車両の隔離などをあげている。

3、現場の実況見分(実況見分調書)は、鈴木助役が先頭から2両目進行方向右側一番前のドア近くの座席下の床に新聞紙があるのを見つけ、任意提出した。

4、証拠物押収(差押調書・領置調書)は、石塚巡査部長が作成した。しかし、これも他の4駅と同じように、引っ込めてしまった。

5、鑑定嘱託は、3月25日だった。「仕分作業」は3月25日に行われた。

6、鑑定作業(鑑定書)は、科捜研・安藤らによって5月31日に作成された。


●地下鉄サリン事件ポイント2
オウム「サリン」と事件の矛盾点

オウム真理教が「サリン」をつくったのは、それはそれで事実だろう。
しかし問題なのは、その毒性がどの程度だったのかということと、はたしてこの「サリン」だけが地下鉄に撒かれたのかという最大の疑問がある。

矛盾点を箇条書きにして列挙してみよう。
1、現場遺留品からメチルホスホン酸モノフロライドが検出された。
しかしオウムがつくったサリンの生成方法では、メチルホスホン酸モノフロライドが生成されることはない。
メチルホスホン酸モノフロライドは、メチルホスホン酸ジフロライドに水を加えるとできるが、土谷氏が遠藤氏に教えたサリンの生成方法には、
水を加える過程はなく、メチルホスホン酸モノフロライドが生成されることはない。
2、現場遺留品から不純物の多い工業用ヘキサンが検出されている。
ところがオウムが準備していたのは純品のノルマルヘキサンだった。
これは重要な証拠である。すなわちオウムがつくったサリンではないということである。

3、科捜研が遺留品から検査した結果、30%前後のサリンが含まれているとわかった。
そうすると11袋600グラムなので、1袋180グラムのサリンが含まれており、11袋で計1980グラムのサリンが存在していたことになる。 この量のサリンを合成するのに必要なメチルホスホン酸ジフロライドの量は1414グラムである。しかし事件が起きる2日前(平成7年3月18日)、 オウムが持っていたメチルホスホン酸ジフロライドの量は約800グラムだった。
遠藤らが生成した際のジフロの量では、遺留品のサリンの量に足りないのである。

4、現場遺留品の検査の過程で、M9という試験紙が赤くなった。
科捜研の安藤証人は、このことはイペリットが検出された可能性がある、と認めている。
もしそうだとすると、オウムが生成したものではないことになる。

5、科捜研が発表した検査結果の一報はアセトニトリルの検出だった。
科捜研の安藤氏や野中氏はこれを否定する。
しかしアセトニトリルが検出されたとの警察発表があったのは動かしがたい事実である。
科捜研は単にアセトニトリルが検出されたことはないと否定するにとどまるが、この重大な場面においてこのような報道がなされたという 事実に対する説明としては不十分である、と弁護団は指摘する。
我々としては、どのような経緯でこのような報道がなされたのかという具体的な説明がほしいのである。

6、日本医科大の南正康らが、4人の患者を検査した結果、尿からメチルホスホン酸モノエチル、エチルアルコールが検出された。
このことは、少なくとも4人が、エチルサリンを吸引した可能性があると見ることができる。
エチルサリンをオウムがつくったとの情報はないので、これもオウムがつくったものではないものが撒かれたという証拠である。
このことは、「オウム裁判対策協議会」のサイトでも指摘していたことである。

7、 また同じ日本医科大の南正康氏らは、4人の尿からN,Nジエチルアニリンやその代謝物は検出さ
れなかった、と報告した。
ということは少なくともこの4人はオウムのつくったサリンを吸っていないことになる。

8、現場に残っていたものがなんであったかを知ることは、真相解明には欠かせない。
それには現場にあったものを押収されたものをきちんと押収する必要がある。
押収し、しっかりと現物を領置するのである。
しかし、検察は押収物を領置した記録である「領置調書」を一切出してこなかった。
いや、一旦は出して来たのだが、その後引っ込めてしまったのである。

9、3月20日から24日まで、現場遺留物の行方を、警察は明らかにしていない。

10、科捜研が行った鑑定の「鑑定資料」は、
「丸の内鑑第53−1号」が日比谷線霞ヶ関駅現場のもの、
「丸の内鑑第53−3号その1、その2」が千代田線霞ヶ関駅現場のもの、
「丸の内鑑第53−4号」が千代田線霞ヶ関駅現場のビニール袋である。
しかし「丸の内鑑第53−2号」が抜けているのである。
弁護団が、科捜研・安藤氏に公判で尋問したが、それがなんであったのか、鑑定の依頼があったのかどうか、
「覚えていません」「分かりません」と証言するだけだった。
弁護団は、弁論で「この問題は、どこの現場で何が押収されたのか、何について鑑定が嘱託されたのかなどの点が
全体的に明確になっていなかったという状況を物語っている」と指摘している。

このような警察のやり方に対し、弁護団は次のように指摘する。
すなわち、「地下鉄サリン事件」は、警視庁全体が「毒物はサリンではないか」という予測のもとに、
本来実行されるべき捜査上の正常業務を怠り、予断の末、「一体、何を鑑定したのか訳がわからない」
という一連の経緯を生み出し、と推測している。
「オウム真理教がやったこと」「麻原彰晃のやったこと」などと言いさえすれば、何でも通用するという
社会的な雰囲気が捜査と証拠収集の面での大きな手抜きを生み出したのではないか、と言うのである。
そういう面も確かにあるのかなと認めるものの、本当にそれしかないのかと疑問を持つのも事実である。
とりあえず言えることは、オウムがつくったものと、そうでないものが混在しているようなのである。
特にアセトニトリル、イペリット、エチルサリンがあったのではないかという可能性はかなり高い。
これらはオウムとの関連は極めて薄い。
警察の捜査について、弁護団は「予断」「怠慢」を理由にあげているが、警察も計画に関与しているのではないかという疑いが捨てきれない。


●松本サリン事件ポイント1
オウム「サリン」の毒性

1994年(平成6年)1月から生成が開始され、同じ1994年2月中旬か下旬頃に完成した。
このサリン生成の最終工程で、生成作業に従事していた中川氏、滝澤氏がイソプロピルアルコールを過剰に加えてしまったため、 副生成物であるメチルホスホン酸ジイソプロピルが多量にでき、毒性が弱まった。
さらに、イソプロピルアルコールの下でも分解がすすみ、すべてのサリンが分解されていた可能性がある、と弁護団は主張する。
松本サリン事件が発生したのは、1994年6月27日のことであり、サリン生成から丸4か月たっており、確かに徐々に
分解していった可能性は高い、と言える。
これが、オウム「サリン」の毒性がほとんどなかったのではないかという、第一の根拠である。
なお、この「サリン」生成中、フッ化水素ガスが出て、反応釜の内側にあったガラスを溶かし、そのガラスの成分が溶け、
完成した「サリン」は薄い青ないし緑色をしていた。よって、このサリンを「ブルーサリン」と呼ぶようになった。

二つ目の根拠は、より具体的なものである。
もしオウムの「サリン」が毒性の強いものなら、生成中になんらかの兆候が出たはずである。
生成作業は、土谷氏の研究棟・クシティガルバ棟で行ったが、土谷氏は生成している場所のすぐ横のベニヤ板で
間仕切りしただけの居室に寝泊りしていたが、格別危険を感じることはなかった。
作業中でも土谷氏、中川氏らは、特に危険を感じることもなかったため、マスクをつけずに生成作業を行うこともあった。
作業中に煙が出て、眼やのどをやられることはあったが、これは、サリン物質ではなく、第2段階の生成工程で生じる塩素が原因だった。
作業中みな、死の危険を感じるようなことはまったくなかった。
1993年(平成5年)11月ころ、メチルホスホン酸ジクロライドを合成後、身体が日常的にだるくなってきた。 また、メチルホスホン酸ジクロライドをつくった後、毒性を確かめようと、臭いをかいだところ、縮瞳が生じたため、 中川氏がパムと硫酸アトロピンで治療したことがあった。
20グラムを生成し、ガスマスで、サリンが生成されたと確認できた。臭いをかいで、縮瞳がおこったが、呼吸が多少しづらくなった程度で、 特に治療も受けなかった。30分ほどで自然に回復した。
第4段階の生成過程で、薬品が突沸して、約400ccの生成中のサリン物質が、クシティガルバ棟に飛び散ったが、 このときは、土谷氏、中川氏に何らの症状も出なかった。
土谷氏と中川氏が部屋を出てが、土谷氏が忘れ物を取りに中に戻ったが、なんら異常も生じなかった。
中川氏も突沸後に部屋に戻って、残った物質の反応を終了させ、さらにドラフトの中に入って、活性炭がついただけの 簡易マスクで、ビンを移し替える作業を行ったが、異常はなかった。
その後、土谷氏は宇宙服と呼んでいた気密服を着て、部屋の中に入った。空気がこなかったので、20グラムのにおいを嗅いだとき、 たいしたことがなかったので、服を脱いで、サリンができたかどうか、分析をつづけた。
ガスマスでは、サリンの反応は出ていた。
その間、5〜10分間、作業中はサリンにさらされていて、視界が暗くなる、呼吸が困難になる、という症状が出た。
しかし、その後、土谷氏は自分で車を運転して、三角屋根と呼ばれた建物に行き、佐々木氏から治療を受けた。
到着したころには、呼吸困難はすでに回復し始め、被爆1時間後には、ほぼ呼吸は回復していた。
むしろ治療のパムを注射されてから、その作用によって、意識が朦朧としてきた。
こうして、1993年(平成5年)11月中旬ころには、一応「サリン」が約600グラムできた。
1994年(平成6年)5月か6月ころ、佐々木氏が、サリンによる容器の腐食実験を手伝ったことがあった。
約300キログラムつくったサリンで腐食実験をしようとして、容器を持ち上げた際、誤って蓋があいてしまい、 サリンをまともに見てしまう経験をした。中には、透明な青い液体があり、白い湯気のようなものがあがった。
しかし、視界が暗くなることもなく、呼吸も苦しくならなかった。
このように、「サリン」生成中、たいした危険はなかったというのが、事実である。
危険を覚悟しているのは、気密服を用意していた、ことでわかる。
しかし実際には、多少のことはあったが、生命に危険の及ぶような「サリン」でないことが、事実として証明されてしまったようだ。

3番目の根拠は、オウムは「サリン」を数回に渡って実験した結果である。
オウムは、2回に渡って、創価学会の池田氏を襲った。
1回目は、1993年11月中旬ころである。
八王子市内の創価学会施設付近まで行き、近くの路上で噴霧器に「サリン」を注入した。作業を行った村井氏、 中川氏はともにマスクはせずに注入し、周りにいた人もマスクはしていなかった。
注入する際、顔面の間近にサリンがあるにもかかわらず、顔をそむけることもなく、また、手袋を付けることもなく素手で行った。 注入するのに3〜4分かかったが、途中で何回も呼吸をした。
自動車で、創価学会周辺を走り、車の後方から外に向けて噴霧した。
車の真後ろにはバイクでついて来る人がいて、この人がサリンを浴びたのは明らかだったが、何らの影響も現れなかった。
また、創価学会施設の警備員らも噴霧したサリンを浴びたのは明らかだったが、こちらも影響が現れなかった。
車のなかで、そのことが話題となり、新實氏が村井氏に「できてるんですかね」と聞くと、村井しは「うーん」と首をかしげた。
帰りの車のなかで、村井氏、中川氏、新實氏、滝澤氏は「手が震える、息が苦しい、目の前が暗くなる」という症状が出た。
だが症状はいずれも軽いもので、死の危険性があるようなものではまったくなかった。
2回目の池田氏襲撃は1993年(平成5年)12月中旬ころであった。
土谷氏は、平成5年12月中旬ころ、「サリン」約3キログラムを生成した。
同じころ、八王子まで行った。
実際に「サリン」を噴霧しようとして、ガスバーナーの火が噴霧装置に燃え移ってトラックの荷台が発火した。
創価学会の警備員に察知されて追いかけられ、噴霧は中止した。
トラックを運転していた新實氏は、かなりの量の「サリン」を直接浴びてしまった。
新實氏は「視野が狭い、暗い、身体が多少痺れる」と症状を訴えた。
ワゴン車まで自力で運転し、ワゴン車の中で、中川氏らがクスリを飲ませ、人工呼吸を施した。
その間、新實氏は意識を失うことはなく、遠藤氏と話していた。
その後、新實氏を、中野野方にあるオウム真理教附属病院に運んで、若干の治療を施した。
この時点では、新實は、視野が暗いとか狭いとかという症状はすでになくなっていた。
新實の意識ははっきりしており、痙攣などの症状はなく、治療しようとすると、嫌がって、看護婦の手を払いのけるほどだった。
新實氏は数日で退院し、退院後の新實氏には何らの症状もなかった。
新實氏と一緒にいた村井氏には、何の症状もなかった。
遠藤氏は、目が暗くなったこと、足が若干痙攣した程度だった。
滝澤氏は、若干縮瞳を感じたかどうかの程度だった。
噴霧車を回収して来た者はマスクをつけなかったにもかかわらず、たいした症状も出なかった。
噴霧車を追いかけてきた警備員も噴霧を浴びたはずだったが、なんらの影響もなかった。
新實氏のみこのような症状が出たのは、メスチノンと「サリン」との相乗効果によるためだった。
中川氏は、
「30ミリグラムであれば害はなかったのではないか。
やはり、新實の症状は、メスチノンを60ミリグラムも投与したことが原因だったのではないか。メスチノンはサリンに対しては予防効果はなくて、
害作用の方が大きいのではないか。
メスチノンを飲んで被爆すると、症状が重くなる可能性がある。
メスチノンを飲んでサリンを浴びると、コリンエステラーゼの作用は低下する。
つまり、メスチノンとサリンの相乗効果で、新實氏の症状が重くなったのであり、教団が造ったサ
リンだけでは、そんなに殺傷能力はないのではないか」
との意識を抱き、そのことを村井氏や麻原氏に伝えた。
次に、1994年(平成6年)4月中旬ころ、富士川河川敷で、超音波加湿器を使って、サリンの
噴霧実験を行った。
噴霧車付近で虫が鳴いていたが、噴霧中も噴霧後も変わらず鳴いていた。
もともと有機リン系の物質は殺虫剤に使われているという知識があった中川氏は、変に思い、加湿器を持ち上げたが、底が抜けて中の「サリン」がこぼれていた。
中川氏は、息がしづらい、目の前が暗いという症状が出た。
ところが以前に中毒したときよりも症状は軽く、生命に対する危険はまったく感じなかった。
この実験結果から、中川氏は、「教団が造ったサリンは、近づけば被爆するが、少し離れれば効果はない。
被爆しても死に至るまでの効果はない」との認識を持った。
では「サリン」を造った土谷氏がどう思っているかをみてみよう。 
1994年(平成6年)4月ころ、土谷氏は、村井氏から、「ブルーサリンは化学兵器として評価できるか」と聞かれた。
土谷氏は「ブルーサリンは、不純物のほうが豊富なので、化学兵器として使えるような代物ではない」と回答した。
村井氏は「わかった」と言って、そのまま立ち去った。

以上、3つの根拠をあげてみると、どうやらオウムの「サリン」の毒性はかなり低かったようだ。


●松本サリン事件ポイント2
オウムの「サリン」撒布

オウムが「サリン」を撒布したのは、1994年(平成6年)6月27日午後10時40分ころで、噴霧は15分程度だった。
噴霧車の周りには白い煙が立ちこめ、最後は噴霧車が見えづらくなるほど、真っ白に立ち込めた。
噴霧が終わるまでのあいだ、村井氏は、防毒マスクをかぶらず、手で口を押さえながら操作を行った。
村井氏がマスクを付けたのは、現場から離脱するために、端本が運転を開始したときだった。
ところが、実際には何人かの人が死んだ。
しかし、撒いた当人たちは、なんともなかった。


●松本サリン事件ポイント3
被害発生状況の不思議

『松本市有毒ガス調査報告書』によれば、午後8時から9時の間にすでに5人の人が症状を感じ、
そして、午後9時から10時の間に症状を感じた人が8名いた、と報告されている。
さらに、28日午前6時から午前11時にかけても、多数の人が症状を訴えている。
まず、オウムが「サリン」を撒いた時間より前に症状を訴えている人々は、当然、因果関係を否定される。
またオウムが「サリン」を撒いてから数時間が経過した28日午前6時から10時ころに症状を訴える人たち(もう一つのピーク)は、
すでに7時間以上も経過しており、村井氏らが撒布したものは希薄化していると考えるのが、客観的にみて合理的である、と弁護団は主張する。
ほかの資料でも、オウムが「サリン」を撒く、かなり前から症状が出ていることが報告されている。 
これらから言えることは、オウムの「サリン」とは別の、毒性の強いサリンが撒かれたのではないか、と見ることが可能であろう。
しかし、こうした観点から、事件を見る人は少ない。

弁論要旨から見る地下鉄サリン事件、松本サリン事件は、我々が以前から考えていたことを、さらに補強するものである。

簡潔にいえば、この両事件は、
「オウムだけに犯罪のすべての責任を押し付けた事件」
という疑惑がある。

ただ、オウムの人たちが実際に無関係とは思われないこと、そしてオウム(だけ)がやったんだという世の強いイメージができあがってしまっていることが、 各方面の予断と偏見を助長し、裁判所ですらこの事件の真相を落ち着いて検証しようという法廷での公正さを失し、 それがまた更に一般市民に予断と偏見を与えるという、ひどい悪循環をつくりあげている。




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