XI 地下鉄サリン事件
第1 事実経過
1 サリン等の廃棄処分
(1) 平成6年11月頃の強制捜査の噂
1994年(平成6年)11月頃、強制捜査が入るという情報が教団に入った。教団内では強制捜査に備えての対応がなされたが、特に、村井の指示のもとで、小銃部品の隠匿作業が行われ、豊田ら科学技術省の者の他、井上、早川らが隠匿作業に関与した。
(2) サリン等の廃棄処分指示
ア 廃棄処分の状況
1995年(平成7年、以下断りのない限り同年を指す)1月1日、同日付けの読売新聞が、「上九一色村の教団施設付近からサリン残留物が検出された」と報じた。
これを知って、被告人は、村井に対して、サリン、VX、その他教団で生成した生物化学兵器類やその他の薬物及びこれらの関連物質をすべて廃棄するよう指示した。村井は、遠藤に同様の指示をし、遠藤は、同日午前中、土谷に対して、新聞記事のことを説明したうえで同様の指示をした。土谷は、遠藤に対して不信感を抱いていたため、すぐには廃棄作業をしなかった。しかし、村井からも同様の指示を受けたため、同日、クシティガルバ棟内の自分の勉強部屋の中2階にあったサリン、VX、ソマン等及び実験室の冷蔵庫にあったメチルホスホン酸ジフロライド(以下「ジフロ」と言う)、メチルホスホン酸ジクロライド(以下「ジクロ」と言う)等をスーパーハウス内に持ち込み、アルカリ水溶液を使って加水分解する廃棄処分を開始した。
中川は、同日夕方頃、第一上九の路上で偶然井上と会ったところ、井上から読売新聞の記事のコピーを見せられた。中川は、驚き、強制捜査に備えて、クシティガルバ棟内のサリン等の物質を中和しなければならないと考えた。また、井上から、「遠藤に記事を見せたら震えだした、顔を青ざめて震えだした」ということも聞かされた。そこで、中川は、様子を見るため、ひとまず第7サティアンに行った。滝澤と話をしたところ、「ここは大丈夫だ」と言われたため、クシティガルバ棟の様子を見に行った。同日夕方頃だった。
クシティガルバ棟ではすでに土谷がサリンや中間生成物の中和作業を行っており、森脇佳子が土谷を手伝っていた。土谷は疲労が重なっていたうえ、軽症ではあったが、中和作業による有機リン中毒症状が出たため、中川が土谷にパムを打ち、土谷は休憩することにした。中川は、土谷に申し出て、サリンその他の物質及び関連物質等の中和作業を引き継いだ。その時点では中和が必要なサリンは15リットル弱あり、ジクロ、ジフロ等中間物質もあった。森脇が最初中川を手伝ったが、森脇にも中毒症状が出た。クシティガルバ棟内にはその他にも鉄井晶子等がいたが、皆中毒症状が出た。中川にも症状が出たため、林郁夫に来てもらい、パムを打った。
その後、中川が一人で作業を続け、同月3日夜ないし4日午前中頃には、ドラフト内の物については中和作業は終了した。中川は、中和後の液体は富士山の焼却炉で灯油をかけて燃やすなどして処分した。また、中川は、ドラフトの解体を渡部和実に依頼し、中和作業をしているそばで待機していてもらい、中和作業が終わった段階で、渡部に解体を始めてもらい、渡部は、スーパーハウス内のドラフトに付属する吸引装置の解体を始めた。中川は、中和作業が完了した旨を村井及び滝澤に伝えた。
なお、中川が中和作業をしている前後頃、クシティガルバ棟から薬品等の持ち出しが行われた。メチルホスホン酸ジメチル、ジクロ、フッ化ナトリウム、三塩化リン、五塩化リン等であり、それらは、その後、教団関連施設等に保管された後の同年4月上旬頃に日光山中に埋められ、1995年(平成7年)6月か7月頃に警察に押収された。
イ ジフロ等の持出し及び保管状況
その後、同月4日夜か5日に、中川が第6サテイアンの自室で横になっていたところ、村井がやって来て、「もうまずい薬品はクシテイガルバ棟にはないだろうな」と言った。中川は、「ドラフト内のものはすべて中和した」旨述べたところ、村井は「ドラフト外のものはどうなのか」と尋ねた。中川は、中和すべき物はすべてスーパーハウス内のドラフトに運びこまれ、それ以外には中和すべき物はないものと考えていた。中川が、「見ていない」と答えたところ、村井が、「一緒に見よう」と言った。村井及び中川は、クシティガルバ棟に行き、ドラフトの外を点検した。しかし、中川の体調が悪くふらついていたため、中川は外に出て車の中で待機していたが、その間、村井はVXを2本見つけた。村井は待機していた中川を呼び、VXがあった旨伝えた。VXは50シーシーないしは100シーシーくらいの耐熱ねじ口瓶2本に入っていた。
村井は、中川に対し、「中和できるか」と尋ねたが、その時点ではクシティガルバ棟のドラフトはすでに一部を解体しており、中和作業に使う防護服もなくなっていたため、中和作業をすることはできず、中川はその旨村井に話した。また、中和作業を行っていた者らは中毒症状が出ており、人手がないこともあった。そのまま置いておくわけにはいかず、村井は、その場で「(VXを)持ち出すか」「さっきアーナンダ師(井上)が来てたから、アーナンダ師に持ち出してもらおうか」と言った。
中川が井上に連絡を取ったところ、井上は上九一色村あるいはその近辺におり、井上に車のところまで来てもらった。中川が井上に事情を説明し、「中和できないからVXを持ち出してほしい」と依頼した。その間にも、村井はクシティガルバ棟でさらに薬品を探していた。井上は検問を怖れて持ち出しを嫌がっていたため、中川は、「マンジュシュリー正大師(村井)の話を聞いてほしい」と言って、クシティガルバ棟内に村井を呼びに行って、井上が来ていることを伝えた。すると、ジフロがあったということだった。ジフロは1リットルくらいの白い半透明の円筒形の容器1本に入っていた。そこで、ジフロもVXと一緒に井上に持ち出してもらうことになった。こうして、ジフロ1本とVX2本を発泡スチロールの箱に入れて井上に渡し、井上はこれを持ち出し、諜報省の東京での拠点の一つである杉並区今川の家の冷蔵庫に保管した。
この点につき、井上は、「平成7年1月の強制捜査の情報の時に中川から聞いたところによると、サリンを処分した、全部処分したということだった。1月初め頃、中川が一部をどこかに隠していると聞いたことがある。中川から頼まれ、VXを私が預かって今川の冷蔵庫に入れたが、その時に聞いた。私は中川からサリンの材料を受け取ったことはない」旨証言しているが事実ではない。
その後、1月上旬には、スーパーハウス内のドラフトは撤去された。撤去したのはサリン製造を行う予定がなかったからであった。その後、遅くとも3月初めまでにスーパーハウス自体も撤去された。
なお、1月6日か7日頃、中川は、上九一色村で、井上から、井上が持ち出したジフロ及びVXは今川の家で保管していることを聞かされた。また、同年1月10日頃、中川が今川の家を訪れた際、井上は納戸の前まで中川を案内し、「あれ、ここにあるから」と言った。1月下旬にも、中川は今川の家に行ったことがあったが、その際、冷蔵庫の中にジフロがあるのを見た。納戸の扉と壁の隙間にガムテープで目張りがしてあり、扉には「絶対あけるな」と書いた紙が張ってあった。
検察官は、「中川は、土谷から引き継ぎを受けて、サリン及びその関連物質等を加水分解するなどして処分していたが、後日、サリンを使用する必要が生じた際にすぐさま生成できるようにと考えて、サリンの前駆物質である『ジフロ』約1リットルが入った容器をひそかに持ち出して教団施設内に隠匿保管した」と主張するが(論告174丁)、事実と異なる。
(3) その他の対応
上記のとおり、読売新聞の記事を契機として、教団にあったサリン・VX等は村井が井上に預けたジフロ及びVXを除き、すベて廃棄されたが、その他にも、対応策として、第7サテイアンのサリンプラントを一部解体したり、シヴァ神の像を設置する等の作業が行われた。
サリン等の処分、サリンプラントの解体等は、村井、井上、中川以外の本件に関与した林泰男その他の教団幹部らも知るところであり、林泰男においては、村井から、「サリンの生成物質は全部捨てた。すべては仕切直し。全部これで打ち切りにして終わりにしてやり直さなければいけない」というようなことを聞かされていた。
また、教団信者らのうち多くの者らは、前年11月頃の強制捜査が入るとの噂があったうえ、読売新聞の記事が出たことで、強制捜査の可能性がより強まったとの認識を抱いていた。
【林泰男尋問速記録(第71回32丁裏〜33丁裏)、第72回21丁表〜23丁表、第76回6丁裏〜7丁裏、98丁裏〜101丁裏)、廣瀬尋問速記録(第16回22丁裏〜23丁表)、林郁夫尋問速記録(第12回110丁表〜112丁表、第22回64丁裏〜66丁表)、杉本尋問速記録(第23回55丁表)、豊田尋問速記録(第16回2丁裏〜3丁表、第23回5丁裏〜8丁表、10丁裏〜13丁表、18丁裏、20丁表〜21丁表、22丁裏〜27丁裏、34丁表〜37丁裏、46丁裏〜47丁表)、井上尋問速記録(第9回30丁裏〜31丁表、第15回40丁裏〜53丁裏、第20回10丁裏〜11丁表、第22回30丁裏〜33丁裏、36丁裏〜37丁表)、中川尋問速記録(第184厨4丁〜5丁、27丁〜28丁、第189回1丁〜31丁、第190回1丁〜48丁、第194回1丁〜14丁)、土谷尋問速記録(第245回63丁〜75丁)、遠藤尋問速記録(第216回33丁〜34丁、第217回124丁〜126丁)など】
2 假谷事件後の経緯
(1) マスコミ報道及びその対応等
すでに述べたとおり、村井、井上が発案し、井上が指揮をとって假谷事件が行われた。拉致行為の直後頃から警察が捜査に乗り出していたが、事件直後頃、犯行現場等での井上の独断・突出ぶりにつき、実行行為を行った平田信が、親しかった林泰男に対して、「行為自体がひどい。昼間の誰でも分かるような所で犯行を行ってしまった」等と井上の行動を批判するほどであった。
また、3月1日に假谷が死亡したが、その直後頃、井上、中村及び中川の三人は、一緒に第6サテイアンの被告人の部屋に行き、假谷の遺体焼却について相談したところ、被告人は、「何でお前ら勝手にやったんだ」、「お前たち、関わった者でやるしかないじゃないか」などと井上らを強く叱責した。その後、中村らは、假谷の遺体の焼却作秦をしたが、その間、警察から教団に電話が入るなどの情報が入ってきた。
3月4日頃に、死体の焼却が終わったが、その頃から、マスコミ等が假谷拉致についての報道を始めた。そして、その2日くらい後から、假谷事件に関係した者のうち、平田悟、加賀原、井田、林武について、中川がポリグラフにかけた。警察から連絡があったということでスパイがいるとの話があった。また、假谷事件の実行行為者や関係者について、ナルコ又はニューナルコを実施した。井上や飯田らから「記憶を消してくれ」との依頼を受けて、林郁夫が林武らにつき実施した。
また、ナルコ又はニューナルコを実施した後頃、井上、飯田、中村らがいるところで、被告人が、「警察が動いている。大変だ」「今度の失敗は井上の責任だ」などと井上らを叱責した。
このように、假谷事件後の警察の動き、マスコミ報道によって、教団の多くの者は強制捜査が近いとの受け止め方をしていた。そして、假谷事件を発案し、指揮をした村井、井上、特に井上は、このような事態を招いたことで責任を感じ、焦りを感じており、名誉挽回の機会をうかがっていた。
【中村尋問速記録(第122回66丁裏〜67丁裏、72丁裏〜81丁表)、林泰男尋問速記録(第66回7丁表〜7丁裏、第72回34丁裏〜52丁裏、第84回38丁表〜39丁裏)、廣瀬尋問速記録(第11回10丁裏〜11丁裏)、林郁夫尋問速記録(第12回121丁裏〜124丁表、第22回91丁裏〜97丁表)、井上尋問速記録(第15回27丁表〜33丁表、第22回20丁表〜22丁表)、中川尋問速記録(第189回39丁、41丁〜43丁、第194同18丁、第195回(1)5丁〜6丁)、土谷尋問速記録(第246回44丁)、遠藤尋問速記録(第217回101丁〜105丁)など】
(2) アタッシュケース事件
假谷事件がマスコミ等で報道されるようになって後の3月上旬頃、焦りを感じていた村井及び井上は、遠藤が研究しているボツリヌス菌を使って騒ぎを起こすことを考えた。村井から、小型の機械にボツリヌストキシンを入れて噴霧するとの案が出された。そして、同月10日頃には、霞ヶ関の地下鉄駅構内に装置を置いて警視庁を狙うということになった。ボツリヌス菌については井上が入手して遠藤に渡した。
現場指揮は假谷事件と同様、井上であり、井上は、地下鉄のガイドマップ等を見て警視庁近くを通過する地下鉄有楽町線桜田門駅、日比谷線及び丸ノ内線の霞ヶ関駅の乗降者数や各駅の空気の流通状況等を仔細に研究した。また、井上は、平田信、松本剛とともに、実際に地下鉄駅構内に行き、松本剛にたばこを吸わせて、空気の流れを調べたりした。
アタッシュケースに仕込んだのは振動子式の装置であったが、これは村井が、科学技術省の強瀬に指示して作らせたものであった。犯行の1、2日前、林泰男は清流精舎にいたところ、井上から、強瀬を手伝って、アタッシュケースに装置を取り付ける作業をしてほしいと依頼された。林泰男は、アタッシュケースを使って何をするのか、何の目的のために仕掛けるのかはわからなかったが、井上の言葉の端々から上司の指示がなく、井上独自の判断で指示しているものと思い、これを拒否した。そのため、井上は、高橋克也を呼んで手伝わせた。
3月15日午前8時頃、井上、山形明及び高橋克也が、地下鉄霞ヶ関駅構内の3か所に遠藤が生成したボツリヌス菌トキシンを仕込んだアタッシュケースを各1個ずつ置いたが、失敗した。
なお、このアタッシュケース事件があった頃、井上は、中村に対して、「警察が動いているので何かしなきゃいけない。大変だ」などと愚痴をこぼしたことがあった。また、井上は、中川に対して、「自分がちゃんとしたボツリヌス菌をわざわざ手に入れたのに、どうしてできないのか。こっちが危ない目をして撒きに行っているんだから、造った人が撒けばいい」などと生成に失敗した遠藤に対する不満を述べたことがあった。
【井上尋問速記録(第15回102丁裏〜103丁表、第17回52丁裏〜66丁裏)、林泰男尋問速記録(第72回52丁裏〜64丁裏、第73回26丁表〜26丁裏、第76回102丁裏〜105丁表、第84回28丁表〜29丁表)、中村尋問速記録(第122回66丁裏〜67丁裏、72丁裏〜81丁表)、中川尋問速記録(第195回(1)7丁〜11丁)、弁118号証のノートなど】
3 指紋除去
3月16日、中川が今川の家にいたところ、井上から、假谷拉致に使用したワゴン車が警察に押収され、車内から事件関係者の指紋が検出されたことが報じられている読売新聞の記事を見せられた。井上は、「大丈夫だと思うが、自分とマツ(松本剛)の指紋を取る手術はできるか」と中川に尋ねた。中川は、以前指紋除去の手術を行ったことがあったため、「取れないことはないけど、大手術だよ。何日も風呂に入れないよ」などと答え、「松本君はどこにいるのか」と聞いたところ、「大川隆法の拠点を片づけている。今日の夕方まで帰って来ない」とのことだった。
一方、松本剛は、同16日に、『夕刊フジ』又は『日刊ゲンダイ』を読んで、ワゴン車から指紋が検出されたことを知ったが、今川の家に行ったところ、井上から同内容の記事を見せられ、「誰かの指紋が出たかもしれない。捕まったらオウムは大打撃だ」、「指紋が出るかもしれない。指紋を取る手術ができるが、どうする?いずれ俺も指紋を取る」などと言われたため、「お任せします」と答えた。
翌3月17日正午頃、松本剛及び林武が今川の家に呼ばれた。井上は、松本らに対して、「これから指紋を消す手術を受けに一緒に第6サティアンに行ってくれ。クリシュナナンダ師(林郁夫)が待っている。行けばわかる」と指示した。また、井上が、「手術を受けると1週間以上は風呂にも入れない」と言ったため、松本らは風呂に入った。その後、井上、松本剛及び林武に中川も加わって、一緒に上九一色村の第6サテイアンに行った。着いたのは午後3時頃から夕方頃にかけてであった。
井上らは、3階の治療室に行き、林郁夫に会って、指紋除去を依頼した。井上は、松本については、「例の件で使ったから」、林武については、「いろいろなことで使った」というようなことを説明した。林郁夫が、「指紋消しはやったことがない」旨言ったところ、中川が、「まだらに指紋を取ればいい。前にやったことがあってうまくいった」などと答えた。林郁夫は、松本剛らに対して、「手術の6時間前くらい前から食べ物をとってはだめなのだが、どのくらい前に食べたのか」と聞いたところ、松本らは、「3,4時間くらい前に食べた」と答えたので、待つように指示した。また、林郁夫は、ナルコ又はニューナルコを実施していたところだったが、井上の依頼が假谷事件のからみだとは思わず、急ぎだとは思っていなかつたこともあって、ナルコ又はニューナルコが終わってからやろうと考えた。指紋除去につき、この時点で井上はすでに被告人の許可を取っており、井上は中川にその旨話していた。
松本らはかなり待たされ、実際に手術が行われたのは3月19日になってからのことであったが、待っている間、井上が来て、松本剛らに、「がんばれよ。いずれ俺もやるから」などと言って励ました。
この指紋除去につき、井上は、3月18日午前7時頃に、被告人から許可をもらった旨証言しているが、事実と異なる。井上は意図的に虚偽の証言をしている。この点については後記で詳述する。
【中川尋問速記録(第24回24丁裏〜27丁表、第190回49頁〜50頁、第249回52頁〜58頁)、林郁夫尋問速記録(第12回119丁裏、124丁裏〜129丁表、第18回1丁表〜5丁裏、第22回91丁裏〜97丁表)、井上尋問速記録(第15回32丁裏〜40丁裏、78丁表〜80丁表)、J甲154号証の松本剛の検面調書、A甲11878の報告書添付の読売新聞・夕刊フジ・日刊ゲンダイ記事など】
4 食事会
3月17日、尊師通達が出て、同日付けで正悟師に昇格した者及び後日付けで正悟師に昇格する予定の者の名前が発表された。各部署の責任者を昇格させるもので、責任者のほぼ全員が同日付けで正悟師となるか、後日の日付けで正悟師になる予定とされていた。
この点、検察官は、「被告人は、3月16日に假谷拉致に使用された車から事件関係者の者と思われる指紋が検出された旨の報道がなされるなどしたことから、近く、教団施設に対し警視庁の大掛かりな強制捜査が実施されるのではないかという危機感をこれまで以上に強く抱くようになった」として、「被告人は、警察の強制捜査に対処できるよう、ヴァジラヤーナ要員を中心にステージを昇格させ各自の奮起を促すこととし、同月17日、尊師通達を出し、同日付けで、井上、石川、渡部及び越川らを正悟師に昇格させ、林泰男、廣瀬、横山、豊田及び林郁夫らをそれぞれ一定期間経過後、正悟師に昇格させる旨発表した」旨主張する(論告31丁〜32丁)。
しかし、各部署の責任者を昇格させることに決まったのは、3月15日の段階であり(遠藤尋問速記録第217回28丁〜29丁)、また、実際に昇格したのは、検察官が言う「ヴァジラヤーナ要員」だけではなく、本件には関わりのない者らもいたのであって、「警察の強制捜査に対処できるよう」にするためではなかった。
通達が出た同日から18日にかけての深夜、昇格祝いの食事会が識華で行われた。被告人及び村井の他、昇格した者ないしは昇格予定者である、井上、青山、石川、遠藤、野田成人らが出席し、被告人の妻である松本知子や子供達も出席した。
食事会では、食事をしながら、被告人が指名した昇格した者が皆の前で体験談を語ったりした。食事会は約2時間続いたが、指名を受けた者が話をするというだけで、被告人が個別的に誰かと話をするというようなことはなかった。
井上は、その場で、被告人が、井上及び越川に対して、「Xデーが来るみたいだぞ」、「アパーヤージャハ(青山)、さっきマスコミの動きが波野村の強制捜査の時と一緒だって言ったよな」と尋ね、それに対して、青山が、「やっぱりXデーは来るんじゃないでしょうか」と答えた旨証言しているが(井上尋問速記録第9回32丁裏〜33丁麦)、遠藤や石川が明確に否定しているとおり(遠藤尋問速記録第217回52丁〜53丁、石川尋問速記録第234回25丁〜26丁)、そのような事実はなく、「Xデー」という言葉自体も出なかった。また、被告人が井上、青山に話しかけたことはなく、青山が被告人に話しかけたこともなかった。
こうして、食事会が終わったが、井上が被告人に申し出て、その結果、被告人のリムジンに乗り換え、村井、井上、青山、遠藤、石川がリムジンに同乗することとなった。
【石川尋問速記録(第233回141丁〜152丁、第239回7丁〜36丁)、遠藤尋問速記録(第208回2丁〜4丁、第216回3丁〜12丁、第217回21丁〜78丁)、井上尋問速記録(第9回31丁裏〜33丁裏、第15回60丁裏〜65丁表、第17回4丁裏〜22丁表、27丁裏〜30丁裏、40丁表)など】
5 リムジン車内での会話
リムジン車内では、強制捜査の話題が出た。石川が、間近には強制捜査は来ないとは思っていたものの、批判の多い教団の立場を有利に向かわせたいと思い、捨身供養という気持ちから、「私を撃ってほしい」と被告人に申し出た。しかし、同人では知名度が低く世間にアピールするのには効果がないということで、この提案は受け入れられなかった。
その後、道場とか、教団のシンパに対して反教団的立場の者が何か嫌がらせをすることを装ったらどうかという話が出たが、具体的に、いつ誰がどこで何をするという話はなかった。被告人は、教団以外の者が嫌がらせを行ったかのように見せるビラを作るよう指示したが、いつ作る等の具体的な指示はなかった。
この自作自演の話が出た後、阪神大震災が起きたために強制捜査が遅れたという話があり、その後、強制捜査を阻止するために大規模な授乱作戦を起こせばいいという話が誰かから出た。
井上証言の「いつになったら四つになって戦えるでんしょう・・」という会話はなかった。同じく、アタッシュケース云々の話は出なかった。「T」とか「妖術」の話も出なかった。「お前総指揮でやれ」との言葉も聞いていない。廣瀬らの名前も出なかった。サリンを撒いたら強制捜査が来るか聞いたということもなかった。石川がそれに答えだということもなかった。
検察官は、リムジン内において、「被告人は、村井に本件サリン撤布計画の総指揮を、井上には一連のVX暗殺事件、假谷拉致事件等と同様の現場指揮を、遠藤にはサリンの生成を命じ、村井ら3名はいずれもこれを了承した結果、被告人と村井、井上及び遠藤との間に本件犯行の共謀が成立した」旨主張するが(論告175丁〜177丁)、事実ではない。この点については後記で詳述する。
【石川尋問速記録(第239回36丁〜55丁、82丁〜126丁)、遠藤尋問速記録(第208回4丁〜9丁、第216回1丁〜3丁、13丁〜28丁、78丁〜133丁)。井上尋問速記録(第9回35丁裏〜49丁裏)など】
6 準備状況
(1) 村井の最初のサリン撤布指示等
ア 上記のとおり、3月17目、村井は、強制捜査があるとのことで、廣瀬に対して、小銃部品等を隠匿する作業を指示し、廣瀬はこれに従事していたが、18日午前1時か2時頃に作業が終了した。廣瀬は第6サティアン3階の自室で休んでいたところ、同日午前4時頃、村井が来て、「君達4人にやってもらいたいことがある」と伝えた。4人とは、廣瀬、横山、豊田及び林泰男のことだった。廣瀬は何をやるのか尋ねたが、村井は教えず、「どうだ嬉しいだろう」などと言った。村井は、非常に興奮している様子で、廣瀬の部屋を2,3回出たり入ったりして同様のことを繰り返し言った。
また、村井は、同じ頃、豊田に対しても、同様のことを伝えたうえ、強制捜査に備えて、小銃部品を隠匿するよう指示した。村井は切迫している様子で、隠匿場所は井上と相談しろと命じた。豊田は、井上とも相談し、相模原の倉庫に隠すことになり、同日午後1時に八王子インターを降りたところで、井上と待ち合わせ、倉庫の鍵を受け取ることになった。豊田は、科学技術省の部下に指示して部品を運び出す作業を行わせた。
豊田は、同日午後1時頃、八王子インターを降りたところで、井上から倉庫の鍵を受け取った。井上の車を運転していたのは高橋克也だった。豊田は、相模原の倉庫に行って隠匿作業を指揮した。豊田が第6サティアンに戻ったのは同日夕方頃だった。
イ 村井は、3月18日午前8時か9時頃、第6サティアン3階の自室に廣瀬、横山、林泰男及ぴ林郁夫を呼び集め、「強制捜査の矛先を変えるために地下鉄にサリンを撒く。警視庁がある霞ヶ関を狙う」、「霞ヶ関を通る3つの路線で行う」、「衆生のカルマを背負うのは我々の修行だ。君たちにやってもらいたい」、「断りたかったら断ってもいいんだよ」などと指示した。皆しばらく黙っていたところ、村井が一人一人答えを促したため、皆は承諾した。
村井はアタッシュケース事件についても話をし、仕組んだ装置が複雑で、村井のアイデアだったからだめだったというような話が出て、笑いが出た。そして、村井は、3月20日の朝の通勤時間帯に撤くこと、サリンは今準備させていて、明日までには東京に届けさせるということ、サリンの量は全部で1リットル、一人につき200ccということ等を説明し、メンバーについては、そこにいた者の他に、井上と豊田が加わることを伝えた。役割分担について、井上は、地下鉄の時刻の調査、車の調達、林泰男は井上との連絡役、林郁夫はサリンの解毒剤の準備、廣瀬と横山は地下鉄の路線図と道路地図の用意、それとサリンを撒く容器の準備であった。村井はジュースか何かの容器を使うことを言っていたが、どのような方法で撒くかはその場では決まらなかった。村井は、強制捜査が切迫している状況下で、できればなるべく早くやりたいという様子を見せ、しかも、被害を大きくしたい、騒ぎも大きくしたいということで、人の多い平日にしたいが、一番早い平日である20日の月曜日ということで、20日に撒くことに決まった。
村井の指示について、廣瀬は、承諾したものの、假谷事件でマスコミが騒ぎ、前日の隠匿作業の際にも強制捜査も近いというような話を聞いていたため、このようなことをするとかえって強制捜査が行われるのではないか、サリン生成や自動小銃密造等が明らかになって教団が壊減するのではないかと思った。
また、林泰男も、承諾したものの、第7サティアンのサリンプラントは1994年(平成6年)5月か6月頃から稼働を始めたが、半年くらい経ってもまだ5段階の工程のうち3段階までしかできていないと聞いており、サリン製造は長時間かかるものだろうと思っていたため、3月20日にサリンを撒くと言われても、それまでにサリンが作れるはずがないこと、仮にできたとしても実行の効果はないだろうと思った。
ウ ところで、検察官は、村井が指示する際に、「村井が、『これは』と言いながら顔を上向きにして視線を上げ、『…からだね』と言いながら視線を戻す動作をして、本件サリン撒布計画が教祖である被告人の指示に基づくものであることを示した」と主張し(論告180丁)、これは林郁夫の証言を根拠としていると思われるが、廣瀬と林泰男が共に、村井のそのような動作については明確に否定する証言をしていること、他の点では被告人の名前を出したうえで、被告人の指示だと言いながら、この場面だけは敢えて被告人の名前を出さないというのはいかにも不合理であること、被告人の自室は第6サティアン1階にあり、村井はもちろんその場にいた林郁夫らも当然そのことを承知していながら、顔を上方に上げて、被告人の指示だとするのはいかにも不自然であること等からすると、林郁夫の証言が虚偽であることは明らかである。村井がそのような動作をした事実はなかった。
【廣瀬尋問速記録(第11回4丁裏〜8丁表、10丁裏〜12丁表、27丁裏〜31丁表、第14回1丁表〜84丁裏)、豊田尋問速記録(第16回2丁裏〜3丁表、第23回5丁裏〜8丁表、1OT裏〜13丁表、18丁裏、20丁表〜21丁表、22丁裏〜27丁裏、34丁表〜37丁裏、46丁裏〜47丁表)、林泰男(第66回7丁裏〜12丁表、第73回28丁表〜48丁表、第76回15丁裏〜21丁裏、89丁裏〜90丁表、95丁裏〜96丁表、第84回40丁裏〜41丁裏、第84回51丁表〜53丁表、58丁表〜59丁裏、第85回54丁裏〜55丁表、64丁表〜66丁裏)、林郁夫(第8回9丁表〜24丁裏、第18回17丁裏〜75丁表)など】
(2) 上九一色村到着後の井上の行動
ア リムジンが上九一色村に到着してからの井上の行動について、井上自身は以下のとおり、証言している。
午前4時頃上九一色村に着いた。イニシェーションを予定している人(自衛官)の確認に行った。その後、第2サティアン3階の被告人の部屋に行った。最初は鍵がかかっていて会えなかったが、しばらくして、また行ったところ会えた。松本剛の指紋除去の許可をもらった。運転手に井田を使うことの許可ももらった。さっと話してすぐ出た。サリン等の話は一切でなかった。
午前5時頃から第2サティアン2階で、イニシエーションを始めた。二人を予定しており、当日の午後10時までかかる予定だった。午前7時頃、第2サティアンの2階で村井と会った。村井は私を探しているような感じだった。村井は「科学技術省のメンバーでサリンをやる」と言い、自分は、自作自演の爆弾と火炎瓶のことを指示された。サリンに関しての指示はなかつた。
その後、午前7時〜8時頃、第6サティアン3階のAHIの部屋に行って林郁夫に指紋除去の依頼をした。
その後すぐに、第6サティアン3階で、村井と豊田に会った。村井から「科学技術省の荷物を八王子の倉庫に隠すから八王子の倉庫の鍵を豊岡に渡してくれ」と指示された。イニシエーションを中断して、今川の家(今川アジト)に戻って鍵を取りに行って、18日の午後1時過ぎに八王子インターを降りたところで豊田に渡すことになった。
その後、第5サティアン3階の青山のところに行った。島田の住所を聞くためだった。青山から住所を書いたメモを受け取り、第2サティアンに行って、イニシエーションの中継ぎを依頼した。
今川の家に行く目的は、倉庫の鍵を取りに行くこと、松本剛らに大川隆法の監視ビデオを撤去するよう指示すること、松本剛と林武に指紋除去をするよう指示すること、強制捜査に備えて押収されたらまずいものを処分することだった。
午前8時か9時頃、今川に向かった。着いたのは午前11時前後頃だった。松本剛らに大川隆法の監視ビデオ撤去を指示し、同人と林武に指紋除去のため夜上九一色村に行くように指示した。また、押収されたらまずい書類等を処分した。
午後1時前後、八王子インターを降りたところで、約束どおり、豊田に鍵を渡した。午後3時頃第2サティアンに戻った。イニシエーションの続きをするためだった。二人ともぐっすり眠っていた(以上、第9回49丁裏〜60丁裏、第17回78丁裏〜86丁表、121丁表〜161丁表、第21回50丁表〜51丁裏)。
イ 上記の証言のうち、井上が第2サテイアンの被告人の部屋を訪れて、松本剛の指紋除去の許可をもらったとする点は明らかな虚偽証言である。井上は前日の3月17日の段階ですでに指紋除去の許可は得ている。井上は、リムジンに乗り込んだ動機を指紋除去の許可であったとして虚偽を述べたため、必然的にこのような嘘を言わざるを得なかったのである。この点の井上証言がまったくの嘘であり信用できないことについては、後に詳述する。
また、上記のとおり、豊田は、同日午後1時頃、八王子インターを降りたところで、井上から倉庫の鍵を受け取ったが、その際、井上の車を運転していたのは高橋克也であると証言しており(高橋克也を見間違えることはない。井田とは面識はない)、運転手の交替の許可をもらうことも虚偽である可能性が極めて高い。
井上は、イニシエーションを中断してまで、今川の家に行き、大川隆法の監視ビデオの撤去を指示し、強制捜査に備えて押収されたらまずいものを処分したというのであるから、井上自身、強制捜査が間近に迫っているとの危機感を有していたと言うべきである。井上は、「教団」が強制捜査の危機感を持っていたのであって、自分自身は、「教団の方針」に沿って行動をしたのであり、危機感はなかった旨繰り返し証言しているが、井上が諜報省長官として情報収集を担当していたこと、1994年(平成6年)11月頃の強制捜査の情報があったこと、1995年(平成7年)1月の読売新聞記事のこと、假谷事件で警察が動き出して、マスコミ報道が始まり、ナルコ等の対策を行っていたこと、3月18日も村井が豊田に小銃部品の隠匿を指示し、井上も協力して倉庫の鍵を豊田に渡していること等を考え併せると、井上が強制捜査が間近に迫っていて、危機意識を抱いていたことは疑いようがない。
上記のとおり、1月初め頃、井上は、中川からジフロを預かり、今川の家で保管していたこと、保管してある冷蔵庫には開けるな等と張り紙がしてあり、今川の家の管理者である井上しか自由に持ち出せる者がいないこと、井上自身が、リムジン内において、「中川が保管しているサリンの材料があることを自分からも話をした」旨証言していること、その後のサリン生成の準備状況等からすると、3月18日夕方頃までに、ジフロが上九一色村内に持ち込まれていたこと、中川は同日夕方頃、村井から「ジフロがここにある」と言われて受け取ったこと、井上自身、同日夕方に、第6サテイアン3階で村井に会った旨証言していること(第20回24丁裏)等からすると、井上は、上記の3月18日に今川の家に戻った際にジフロを取り出し(むしろジフロを取りに行くのが目的であった)、同日夕方頃までに上九一色村に運び、村井に渡したことが容易に推認される。
この井上がジフロを持ち込んだ点については、後に詳述する。
(3) 村井の中川らへのサリン生成指示及び生成状況
ア 3月18日午後2時頃、村井は、第6サティアン3階の村井の部屋に遠藤を呼び、「中川が後から行くからよろしく」と言った。遠藤は、「中川がCMI棟に来たらわかるから従ってくれという意味だ」と思い、CMI棟に戻ったが、中川は来なかった。
一方、井上は、同日午後3時か3時30分頃、遠藤に電話をし、「中川がそっちに行くから、彼は知っているから」と伝えるとともに、上述のとおり、自ら保管していたジフロを上九一色村に持ち込んで村井に渡した。
イ 村井は、同日夕方頃、第6サティアン2階の中川の部屋に行き、同人に対し、「ジフロからサリンを造る」ことを指示した。中川は、1月にジフロを井上に預けたままだったので、井上がまだ保管しているのだと思っており、「(ジフロは)まだ東京にあるんじゃないですか」あるいは「アーナンダ師(井上)のところにあるんじゃないですか」という趣旨のことを言ったところ、村井は、「今日移動した。今、ここにある」と言って、ジフロ入りのクーラーボックスを中川に見せて、それを手渡した。そして、村井は、「ジーヴァカ正悟師(遠藤)の指示に従ってくれ。ジーヴァカ正悟師がCMI棟で待っている」と伝えた。中川は、遠藤がそれまでサリン生成に関与したことがないため、「自分や土谷ではなく、なぜ遠藤なのだろう」と違和感を持った。また、それまで、ジフロとジクロにイソプロピルアルコールを滴下するという方法でサリンを生成していたため、中川は、村井に「ジフロから(サリンを)造ったことはないですよ」と言ったところ、村井は、「イソプロピルアルコールを加えればできる」と答えた。村井が自信ありげに言うので、中川はジフロだけからでもサリンができるのかと思った。
この点につき、検察官は、「村井は、同日(18日)午前4時頃、上九一色村に到着後、第6サティアン2階の中川の部屋に行き、同人に対し、遠藤らと共に、隠匿保管中のジア回を使って東京の地下鉄電車内で撒布するサリンを早急に生成するよう指示し、中川はこれを了承した上、隠匿保管場所からジフロを持ち出して、ジーヴァカ棟まで行き、遠藤にこれを引き渡した」旨主張する(論告177丁)。
しかし、上述したとおり、村井が中川の部屋に行ってサリン生成を指示したのは、3月18日夕方頃であつた。「同日(18日)午前4時頃」とする証拠はない。検察官は、いかにも、サリン撤布計画がすでに確定し、計画を急いだことにしたいと思っているようであるが、そのような事実はない。その際、村井が「東京の地下鉄電車内でサリンを撒布する」という趣旨のことを言った事実はないし、「早急に生成するよう」指示した事実もなかった。村井が「隠匿保管中のジフロを使え」と指示した事実もなく、中川が、隠匿保管場所からジフロを持ち出した事実もなかった。井上から受け取ったジフロを村井が中川に渡したのである。
なお、論告は中川の検面調書に依拠していると思われるが、中川検面調書に信用性がないことは後に詳述する。
ウ 中川は、その後、まもなく、CMI棟の遠藤のところに行き、ジフロ入りのクーラーボックスを遠藤に渡した。遠藤はクーラーボックスを開けると、「どうして1本しかないのか」と聞き、また、「ジクロないの?」と驚いた。遠藤は「できるのか?」と中川に尋ねたので、中川は、「イソプロピルアルコールがあれぱできるんじゃないですか」と村井に言われたことを答えた。遠藤は「クシテイガルバ師(土谷)に相談してみる。また、連絡する」などと言ったが、遠藤も急いでいる様子はなかった。
エ その後、遠藤は、土谷をCMI棟に呼び、「ジフロからサリンを造る」との趣旨を述べた。土谷は、遠藤がジフロを持っていたため、何故ジフロがあるのかと驚き、また、前年12月8日に決められた被告人の意思に反して遠藤がコカイン等いろいろな薬物を田下ら部下に造らせていたことは知ってはいたが、遠藤がサリン合成まで手を出しているのかと驚いた。また、土谷は、同年2月の段階で、被告人が遠藤のことで手を焼き、ぼやいていることを知っていたこともあって、遠藤の依頼が被告人の指示に基づくものであるなどとは考えもしなかった。
土谷は「ジクロがあれば」と言いかけたところ、遠藤は「ジクロはないんだ。ジフロから造らねばいけないんだ。合成方法を教えてくれ」、「ジフロであるかどうか分析して確認してくれ」と依頼した。土谷の認識としては、遠藤の依頼はサリン合成の方法を教えてくれというもので、実際にサリンを生成する依頼とは考えなかった。
検察官は、「遠藤及び中川は、直ちに生成に着手することはせず、翌19日の朝、強制捜査がないことを見定めてから着手することとし、ジフロはひとまず土谷に預けて成分検査をしてもらうこととした」と主張するが(論告177丁)、直ちに生成に着手しなかったというのが事実であるが、強制捜査がないことを見定めてから着手することにしたのではない。これは遠藤証言に依拠していると思われるが、それが誤りであること、この点での遠藤証言も信用できないことは後述する。
オ 土谷はGC/MSの分析を行った結果、ジフロであることがわかった。土谷はジフロ入りの容器を遠藤のところに持って行った。その際、土谷は、それまでの実験の経験から、遠藤に、「N,Nジエチルアニリンを使うと失敗しますよ」などと伝えた。
その後、遠藤が土谷のところに行って、「君の棟でできるか」と尋ねた。土谷はサリンを造るつもりなのかと思ったが、やりたくなかったことと、スーパーハウスがすでに解体してなかったことから、「無理です」と答えた。そこで、遠藤はそのまま帰った。
検察官は、「被告人は、今回は強制廃棄装置が撤去されていないジーヴァカ棟でサリン生成を行わなければならず、そのためには遠藤が中心となって生成作業を進める必要があると考えていた」と主張するが(論告177丁〜178丁)、事実ではないうえ、これを裏付ける証拠はまったくない。
カ その後、3月19日未明、中川が遠藤に呼ばれてCMI棟に行ったところ、遠藤は、ジフロとN,Nジエチルアニリンとヘキサンを混ぜて、それにイソプロピルアルコールを滴下する方法で造るということを話した。中川は、イソプロピルアルコールを加えるだけでできるんではないかと言ったところ、土谷に相談することになり、両名は土谷がいるクシティガルバ棟に行って土谷と相談した。その結果、中川が主張するイソプロピルアルコールを加えるだけの方法ではだめだということになった。この時点でも遠藤は生成を急ぐ様子はなかった。
キ 遠藤と中川は、CMI棟に帰ったが、中川は遠藤に対し、「N,Nジエチルアニリンは教団で大量に購入している薬品なので、それを使ってサリンを造ったら、押収されたらすぐに教団で造ったものだとわかりますよ」と話した。それは、中川が第7サティアンのサリンプラントでN,Nジエチルアニリンを大量に購入していたことを知っていたためだった。そこで、トリエチルアミンを使ったらどうかということになり、遠藤及び中川は、再度土谷を訪ねて相談したが、土谷は、VX生成時の経験からN,Nジエチルアニリンは塩基性が低く、反応が起き難いことから、トリエチルアミンを勧めた。なお、トリエチルアミンはすぐには調達できないということだった。
ク その後、遠藤は、CMI棟からいなくなったが、19日朝方、再び中川を訪ねてきた。結局、N,Nジエチルアニリンを使う方法でやるということだった。しかし、この時点でも、遠藤はサリン生成を急ぐ様子はまったくなかった。
ケ 19日昼頃、遠藤が中川のところに来て、「サリンを造るから来てくれ」と伝えた。CMI棟で造るということを聞かされ、中川は、それまでCMI棟でサリンを造ったことはなく、ドラフトの能力の点から作れるのか疑問を抱いたが、クシティガルバ棟のスーパーハウスがすでに解体されていたため、それが理由なのかと思った。
コ 中川はCMI棟に行き、遠藤及び中川らは滴下装置の組立等サリン生成の準備を始めたが、遠藤も中川も格別作業を急ぐということはなかった。同日午後2時か3時頃には準備作業は完了し、同日夕方頃、サリン生成作業に着手した。この時点でも、遠藤、中川らも格別急ぐことはなかった。
なお、実際のサリン生成の過程は、遠藤及び中川が行い、土谷が関与したことはほとんどなかった。土谷は、遠藤に生成に必要な物質及びその量を教えたが、実際に遠藤がその教えに従ったどうかは、後述するとおり大きな疑問がある。
サ 19日午後7時から8時頃、一応サリンと思われるものができた。ただし、実際にできあがったものが、いわゆる「サリン」かどうかについては疑問がある。この点については後に詳述する(なお、以下では、便宜上「サリン」と呼称することとする)。
しかし、一応生成したサリンは不純物が入って、二層に別れていた。遠藤は土谷に「サリンだけ取り出すことはできないか」と尋ねた。土谷は「分留すれば取り出すことができますよ」、「分留には1日くらいは見ておいたほうがいいですね」と答えたところ、遠藤は「今日中には無理だ。もういい」と言った。
一方、中川は、村井の指示に従って、遠藤のところに行き、遠藤からサリンを袋詰めにするよう指示された。中川はビニール袋を十数個作り、各袋にサリンを詰める作業を行った、途中で遠藤が袋は二重にしろと指示し、二重にしたサリン入りの袋約10個ができた。
検察官は、「遠藤が被告人に分留の要否について判断を仰いだが、被告人は分留していては翌20日朝の犯行に間に合わないと考えた」とし、分留しないままで使用することを了承したと主張するが(論告178丁)、被告人と遠藤との間でそのような会話をした事実はなかったし、そのような被告人の意思を裏付ける証拠もない。
また、検察官は、サリン生成の過程で、上述した以外にも、被告人が遠藤に対して、サリンの生成を指示したり、進捗状況を確認したり、生成を催促したりした旨主張し(論告177丁〜178丁)、これは遠藤の証言に依拠しているとするが、そのような事実はなかった。この点についても、後記に詳述する。
【中川尋問速記録(第184回1丁〜38丁、第189回31丁〜51丁、第190回47丁〜48丁、54丁〜103丁、第191回1丁〜125丁、128丁〜141丁、第192回1丁〜62丁、第193回67丁〜78丁、第194回14丁〜15丁、32丁〜58丁、第195(1)回3丁〜4丁、11丁〜18丁)、土谷尋問速記録(第245回88丁〜128丁、第246回2丁〜52丁、第247回1丁〜12丁)、遠藤尋問速記録(第208回10丁〜15丁、第216回29丁〜57丁、第2t7回1丁〜20丁、136丁〜144丁、第218回1丁〜114丁二136丁〜)など】
(4) 井上の林泰男への指示等
ア 林泰男は、村井の上記指示を受け、同日午前中、第5サティアン3階の杉本の自室に赴き、「今日か明日運転してほしい」旨伝え、杉本はこれを了解した。
同日夕刻頃、林泰男が、自室にいたところ、井上がやって来た。井上は、林泰男に対して、「もうマンジュシュリー正大師又はマンちゃん(村井)から聞いた?」と尋ねた。林泰男としては、先の村井からの指示の際には、井上はおらず、このような重要なことを井上に話していいものか疑問もあったが、井上は教団内ではそれなりに力があり、それまでも、他の省庁の次官クラスの者を使える立場にあったため、サリンを撒く話を井上にしないという選択肢はなかった。そこで、林泰男は、「聞いた」という趣旨のことを答えた。
井上は、「この計画を村井に任せておいたら、うまくいかないから、自分が面倒をみなきゃいけない。自分でないと車の手配ができない。車は東京又は東京近辺のナンバーをそろえないといけないが、5台必要になる。自分でないとできない。こんなことは村井にはできない」などと言った。林泰男は、井上と親しい関係にあったが、井上がそのように言い訳じみたことを言うことについて、当時強制捜査が入るという情報の発端となったのが假谷拉致事件であって、その事件に中心的に関わったのが井上であり、そのため、井上が強制捜査の原因を作ったこと、直前のアタッシュケース事件でも井上が中心的役割を担っていたが、それについても井上が責任を感じていたことから、そのようなことをわざわざ言ったのではないかと考えた。
車については犯行に使うということではなかったが、井上は、運転手役として、平田信、寺嶋敬司、杉本繁郎を使うことを林泰男に話した。林泰男は、この3名とも親しかったため、巻き込むのは嫌だと考えた。寺嶋については、その直前くらいに、杉本から寺嶋はちゃらんぽらんになっていることを聞いていたので、それを話し、平田については、假谷事件あるいはアタッシュケース事件のことを出して、平田が非常に否定的になっていて、もうそういうことはしたくないと言っている旨の話をして、この二人は精神的状況からしてふさわしくないのではないかと言って、反対した。井上は、林泰男に対し、3人とも教団でのサリン生成のことを知っていること等を挙げ、「反対するなら他に誰がいいのか」などと言ってきた。上述した井上の教団内での地位・実績からすると、井上が他の省庁所属の杉本(自治省)、寺嶋(自治省)、平田(車両省)を使うことは許されており、林としては、沈黙するしかなく、杉本については名前を出して反対することもできなかった。
その他、井上は、「東京で集まる場所が必要である」旨の話をし、また、サリンを撤く方法については、「VXを注射器に入れて被害者の会の永岡会長を狙ったが、今回もそれでいいんじゃないか」などと言った。撒く方法については先の村井からの指示で一応は決まっていたが、林泰男は、運転手について反対したときの井上の反応で、これ以上あまり口を挟まないほうがいいと思ったこと、また、井上が実際に注射器を使って犯行を行ったという実績があることから、村井の指示のことは言わず、反対もしなかった。井上は、「今回は200ccになるので大きな注射が必要になる。浣腸器のようなものがあったらいいんじゃないか」、「そういう注射器があるなら林郁夫のところに行って聞いてみよう」ということになり、二人で林郁夫の所に行くことになった。
イ 以上の点についての井上の証言は、次のようなものである。
林泰男のところに行ったのは一緒に食事をするためだった。林泰男から、村井からサリンを撒くことを指示されたことを聞いた。林泰男は、「マンジュシュリー正大師からサリンを撤くように指示されたんだが、まだ具体的な撒き方の方法が決まってないし、悩んでいる。運転手についてもまだ指示もなくてどうしようか悩んでいる」と言った。林泰男は、「運転手については、教団でサリンを生成していることを知っている杉本、平田信、寺嶋に頼もうと考えているんだ」と言った。また、「東京でどこか集まる場所でいいところはないかな」と言った。私は、「場合によっては今川の家を使ってもいいよ。その代わり使うんだったら事前に連絡してくれ」と言った。
林泰男が村井からどういう指示を受けたかは分からなかった。サリンを撒くことと、撒き方について考えておくようにと言われて悩んでいたのだろうということの二つは分かった。撒き方とは何を意味するかも分からなかった。林泰男から聞いたことは、サリンを撒くことだった。地下鉄に撒くのか、車両に撒くのか、何カ所に撒くのかということについて林泰男から聞いたかどうかは断言できない。撒く人を送り迎えするということは、林泰男自身はその必要性を考えているだろうことは伺えた。
そこで、「そんなに悩んでいるのなら村井のところに聞きに行ったらいいんじゃないか」と林泰男に言った。以前から、林泰男から村井のことで愚痴を聞かされており、かわいそうになったためだった。林泰男は行くことを決めかねていたので、「僕も一緒に行くから行こうよ」と言った(以上、第9回59丁裏〜62丁裏、第17回161丁表〜178丁表、第20回72丁表)。
ウ 検察官がいみじくも言うように、井上は、自己の役割を少しでも小さくするため、林泰男が逃亡中で同人の供述がないことをいいことに、1、運転手の3名は自ら名前を出したにもかかわらず、林泰男が言い出したこととし、送り迎えの必要も林が考えていることが伺えたとし、また、2、自ら、東京で集まる場所が必要であることを言い出したにもかかわらず、林泰男から、集まる場所がないかと聞かれたこととし、さらに、3、サリンの撒き方についても、自ら永岡VX事件を引き合いに出して具体案を出したにもかかわらず、林泰男が悩んでいたので、村井に相談したらいいなどと、自分の言動をすべて林泰男に押しつけているのである。後述するとおり、林泰男の証言は、他の点でも、廣瀬ら他の共犯者らの証言とも一致していること、教団内における井上と林泰男の地位等からは、林泰男の証言の方が自然かつ合理的であること等からすると、この点では林泰男証言の方が信用でき、その反面、井上証言は全く信用できず明らかな虚偽証言である。
なお、井上証言の全般的な信用性については、後記「争点」で詳述する。
【林泰男尋問速記録(第66回13丁表〜18丁表、第73回26丁裏〜27丁裏、49丁表〜66丁表、第74回27丁表〜27丁裏、第76回27丁表〜28丁表、第84回35丁裏〜37丁表、第85回58丁裏)、杉本尋問速記録(第19回1丁裏〜2丁表、第23回2丁裏〜3丁表)、井上尋問速記録(第9回59丁裏〜62丁裏、第17回161丁表〜178丁表、第20回72丁表)など】
(5) 井上、林泰男及び林郁夫の打合せ
ア その後、井上と林泰男は、一緒に第6サテイアン3階にある治療省の林郁夫のところに赴き、浣腸器の話等をしたところ、林郁夫から、点滴の袋にサリンを入れて管を伸ばして足下から垂らす方法が提案された。それに対して、井上は、「それじゃ自分の足にかかってしまうから危険だ」と言い出し、結論は出なかった。
井上は、林泰男に対して、車のこと、運転手のこと、撒き方についての林郁夫の案を村井に伝えること等を指示した。自分は林郁夫に話があるとのことだった。林泰男は、村井のところに行くため、先に出た。井上は、林郁夫に対して、「19日の午後の9時に渋谷に来るように。来たら電話をするように」と言って、井上の携帯電話の番号を教えた。
イ 上記のとおり、井上は、林泰男がサリンの撒き方について悩んでいて、村井に相談したがっていたが、林泰男はためらっているようなので、自分が一緒に「行きましょう」と言った旨の証言をし、また、「林泰男と一緒に村井を探しに行った。第6サティアン3階に行ったところ、林郁夫に会った。AHIのシールドルームで話をすることになった。村井のところに撒き方を聞きに行くにあたって具体的な方法が少しでもあったほうがいいだろうと思ったから、三人で話をすることになった。林郁夫と相談した。数分間いた。私と林泰男が村井の部屋に行くことになって話は終わった。林郁夫はAHIのワークに戻るようなことを言っていた」(第9回62丁裏〜64丁裏)旨証言している。いかにも、林郁夫とは偶然会ってたまたま話をしたかのような証言であるが、本当は、井上自らが注射器を使う方法を考え、大きな注射器が必要となるので林郁夫のところに行こうと言い出したのであって、井上の上記証言は、全くの虚偽である。
井上は、「自分は村井から爆弾と火炎瓶をやれと言われていた。本来林泰男に対して、サリンのことを口出しする必要はない。林泰男があまりにも悩んでいたのでお節介をやいた」(第20回88丁裏〜89丁裏)等と証言しているが、井上の上記の言動からすると、この証言も全く信用できない。
また、「林郁夫に対して、夜の9時までに渋谷アジトに来いと言い、携帯の電話番号を教えたということは一切ない。19日の夜渋谷ホームズで自分の携帯に林郁夫から電話があったことは認めるが、林郁夫は村井から自分の電話番号を聞いたのではないか」(第20回73丁表〜74丁表)、「林郁夫を渋谷ホームズに集めるのは村井だと考えていた」(第20回88丁表)等と証言しているが、林郁夫がこの点で嘘を言う必要は微塵もなく、井上のこの証言は全くの出鱈目である。
【林泰男尋問速記録(第66回18丁表〜19丁裏、第73回66丁表〜68丁裏、第84回59丁裏〜62丁裏)、林郁夫尋問速記録第8回(25丁裏〜26丁表、第18回75丁表〜82丁表)、井上尋問速記録(第17回178丁表〜裏)など】
(6) 村井の2回目のサリン撒布の指示等
ア ところで、上記のとおり、村井の指示を受けた廣瀬及び横山は、18日午前11時過ぎ頃、地図・サリンを入れる容器等を買いに行き、地下鉄路線図2部・道路地図1冊・ポリエチレン製の瓶等を購入し、同日午後3時頃か4時頃、上九一色村に戻って来た。そして、廣瀬及び横山は、同日夕刻頃、第6サティアン3階の村井の部屋に行き、村井に購入してきたものを見せ、3人で話し合いをしていた。
そこに、林郁夫の部屋を出て来た井上及び林泰男が加わった。井上は部屋に入ると、廣瀬らが広げていた地下鉄路線図を見て、「こんなのではだめだ」と言って、自分の鞄から地下鉄の資料(地下鉄最新ガイドマップ等)を出して村井に見せた。各駅の乗降者数やホームの詳しい図が載っているものであった。その後は、これらの地図を見ながら具体的な事項を決めていった。
村井が、「何時頃が一番混むのか」と井上に聞き、井上が、「午前8時10分くらいじゃないか」と答えた。村井が「8時だとちょうどきりがいいので8時にするか」ということで犯行時間は午前8時になった。「本当は桜田門に撒ければいいんだがな」というような話も出た。
一斉に撒くことも決まったが、そうしないと、他の者ができなくなってしまうからということで、実際に撤くのはそれぞれの路線の車内で撒くということだった。各自が担当する路線もこの時決められた。その他、下見に行くこと、スーツを購入すること、乗る電車の車両の位置等の話があった。車の話、運転手役の話も出た。井上が、東京で集まる場所は、諜報省で借りている部屋を使えると言った。井上は、「車が5台必要になる、運転手が5人必要になる」との意見も出した。これに対して、村井は、最初「何で車が必要なのか、電車で行けばいいじゃないか」と言ったところ、井上が、「電車だと犯行後電車が止まってしまって逃げられなくなる」という趣旨のことを言った。村井は、一瞬考えて「あ、そうか」と納得した。また、井上が、「東京近辺のナンバーの車を5台調達する」と言った。
井上と林泰男が先に部屋を出て、廣瀬と横山が残った。容器については村井が持っていた白色のポリエチレン製の広口瓶を6,7個使うことになった。村井は、廣瀬らに対し、徐々に撒けるように穴をあけて調節して実験してみろと指示した。
井上は、林泰男を誘って、ファミリーレストランで食事をしたが、その際、井上は、林泰男に対して、「準備ができたら、東京杉並にある諜報省の家に来るように」と指示した。そこにはカツラが多数置いてあるので犯行に使えるかどうか検討するようにとのことだった。また、来る時は、実行役、運転手役と一緒に来るようにと指示した。レストランを出た後、井上と林泰男は第5サティアンに戻り、そこで別れた。
他方、廣瀬は、村井からの上記の指示を受けた後、第11サティアンに行き、容器に穴をあけ、第6サティアンの横山の自室に戻って実験をした後、途中で退去して休息のため自室に戻った。同日午後7時頃、豊田が廣瀬の部屋を訪ねてきて、「正大師の言うワークとは何か」と聞いて来た。廣瀬は、「地下鉄にサリンを撒くという話です」と答えたところ、豊田は、一瞬身体がこわばって直立不動の姿勢になって驚いていた。
その後、廣瀬、豊田、林泰男が横山の部屋に集まって、容器や撒き方についての話をした。容器が目立つということで明日東京で買えばいいのじゃないかということになった。同日午後9時頃、横山の部屋の前の廊下で村井に報告した。
イ 上記の村井の部屋での打合せについての井上証言は、次のとおりである。私と林泰男は村井の部屋に行った。村井、廣瀬、横山がいた。鞄の中から2冊本を出して村井に渡した。地下鉄の路線図の本と地下鉄の各駅の乗降客が載っている本である。気を利かせて自分の持っていた地図を出した。「そんなものは使えない。もっといいものがある」というような言葉まで言った記憶はない。村井から本の見方を聞かれた。村井は、本を見ながら、廣瀬、横山、林泰男に対して、「この路線はこの駅で乗ってこの駅で降りたらいいな」等と説明していた。自分は、グラフの見方は説明したが、どこで乗ってどこで降りるということは話してない。村井が決めた。
誰がその路線を担当するかについては覚えていない。サリンを撒く時間について言ったかどうかは覚えていない。その本には地下鉄の各路線の乗降客のピーク時間は書かれていなかった。
話が一段落した後、林泰男が、「サリンを撒く方法はどうするのか」と村井に尋ねた。村井は、「私の方で考えておくから」と言っていた。話は10分ほどで終わった。私と林泰男は部屋を出た(第9回64丁裏〜67丁裏、第17回178丁裏〜182丁表)というものである。
ウ この場面でも、井上の証言は廣瀬、林泰男の証言とは相当食い違いがあり、井上証言はまったく信用できない。井上が、この場で、積極的に自分が持っていた地図を見せて、乗降客の数字を説明し、ピーク時を村井に教えたこと、そのため8時に実行することが決まったこと、実行犯の担当路線と車内で撤くことが決まったこと、井上が、東京で集まる場所を提供すると言ったこと、井上が車が5台必要で運転手も5名必要となる、東京ナンバーの車を5台井上が用意すると言ったこと等は明らかである。
【廣瀬尋問速記録(第11回31丁表〜39丁表、第14回114丁裏〜120丁裏、第16回1丁表〜7丁表)、林泰男尋問速記録(第66回19丁裏〜27丁裏、第73回64丁表〜64丁裏、68丁裏〜72丁裏、79丁表〜80丁表、82丁裏〜96丁表、第76回21丁裏〜24丁裏、27丁表〜34丁表、第84回61丁裏〜62丁表、第85回56丁裏〜58丁裏)、豊田尋問速記録(第16回2丁表〜3丁裏、7丁表〜8丁裏、第23回5丁裏〜8丁裏、15丁表〜15丁裏、18丁表〜22丁裏)井上尋問速記録(第9回67丁裏〜68丁表)など】
(7) 林泰男と別れた後の井上の行動
ア 第5サテイアンで林泰男と別れた後の井上の行動について、井上は以下のとおり、証言している。林泰男と別れた後、第2サティアン2階に行った。イニシエーションの仕上げをするためだった。実際に仕上げを行った。午後7時頃から始めた。その後、午後10時頃から自衛隊員のイニシェーションを行った。二人をする予定だったが、そのうちの一人の白井については、自作自演を手伝ってもらうつもりだった。イニシエーションには最初の2時間立ち会った。
島田宅の下見に行くため、19日午前O時頃、東京に向かって上九一色村を出た。井田運転のマスターエースで、白井も同乗していた。島田宅の下見をした。その前後頃、阿佐ヶ谷の「うまかろうやすかろう亭」に行って、白井と食事をした。19日午前3時頃、今川の家に着いた。5時間くらい仮眠をとり、その後、白井に対し、再度島田宅の下見に行くことと変装用具を買うことを指示し、同日午前9時前後頃、上九一色村に向かった。白井は今川の家に残った。上九一色村に向かったのは、イニシエーションの仕上げをするためと村井から爆弾と火炎瓶を受け取るためだった。爆弾は昼過ぎに取りに来いということだった。
同日午前11時頃、上九一色村に着き、第2サティアン2階のシールドルームに行って、イニシエーションの仕上げを行った。午後1時を過ぎた頃、村井を探しに第6サティアンに行った。第6サティアンの玄関で村井とばったり会った。村井から、「尊師のところに行こう」と誘われた。村井と被告人のところに向かっていた時、私が、村井に、「林泰男たちは運転手の件で悩んでいたそうですが、どうなってんでしょうか」と聞いたところ、村井は、「とりあえず決めて、今下見に行っているんだが、尊師の許可をもらうつもりでいるんだ」ということを言った。
被告人の部屋に入ったところ、いきなり、被告人から、「お前らやる気があるのか。今回はやめにしようか」と言われた。「やめにしようか」という意味は、村井に関しては地下鉄サリン、私に関しては自作自演のことだと思った。被告人は、「アーナンダどうだ」と聞いてきた。「お前たちに任せる」と言われた。「やれ」という意味だと理解した。村井が、「サンジャヤ師(廣瀬)たちもやる気満々で、みんな下見に出かけています」と答えた。
村井が、「運転手は誰にしましょうか」と被告人に尋ねたところ、被告人が、運転手役として、平田、寺嶋に代わって外崎と北村が加わるよう指示した。
その後、被告人の部屋を出たが、村井から、「私が上九一色村に残っているメンバーと林郁夫に連絡をとる。アーナンダ師(井上)は東京に行くんだから、東京に下見に行っているメンバーとスマンガラ師(高橋克也)に連絡をとってくれ」と言われた。また、村井から、「どこか東京で集まる場所はないか」と言われた。実行メンバーと運転手の集まる場所であると理解した。渋谷ホームズのことを話した。10人集まることを被告人の部屋で聞いたが、10人集まるには渋谷の方がいいと思ったからだった。「何時に集まればいいか」と聞かれたので、「午後8時頃だったら可能だと思います」と答えた。さらに、村井から、「運転手が使う車を5台用意してくれ。できれば東京ナンバーがいい」と言われた。
その後、村井と別々の車で第七上九の駐車場に向かった。村井から爆弾と火炎瓶を受け取るためだった。滝澤がタイマーの実験をやったが失敗した。1時間以内に作れるということなので、1時間後にもう一度集まることになった。
村井から、石川のところに自作自演の声明文を取りに行くように指示されたので、第6サティアン2階の石川の部屋に行った。石川から受け取った後、第七上九に行った。再度実験したら成功した。爆弾と火炎瓶を受け取って、19日午後3時半過ぎ頃、今川に向かった。白井が運転した。
今川に向かう途中、白井に対して、自作自演を手伝うよう指示した。その際、白井を使えとの被告人の指示がないにもかかわらず、「被告人の指示だ」と言って、白井に指示を出した(以上、第9回73丁表〜74丁裏、74丁裏〜80丁裏、83丁裏〜87丁裏、第17回167丁表〜177丁裏、第20回18丁表〜31丁裏、43丁裏〜53丁裏、74丁裏〜)。
イ 上記の井上証言のうち、井上が被告人から叱責を受けた等とする部分は不自然かつ不合理であってまったく信用できない。井上は、被告人から、いきなり「お前らやる気があるのか。今回やめにしようか」と言われたとし、「やめにしようか」という意味は、村井に関しては地下鉄サリン、私に関しては自作自演のことだと思ったと証言している。しかし、自作自演については、井上は下見もし、やるべきことはやっているのであるから、「やる気がない」と言われる筋合いはないはずである。
また、被告人から「アーナンダどうだ」と聞かれたと証言しているが、地下鉄サリンが村井担当で、井上は自作自演だけが担当であるなら、被告人としては、まず村井に「どうだ」と聞くのが筋である。被告人が井上に「どうだ」と聞いたとするのが事実であるとするなら、井上が地下鉄サリンを担当する中心人物であるからに相違ない。
次に、「お前たちに任せる」と言われたとする点については、「やれ」という意味だと理解したとし、その後、「村井が運転手はどうするのか、ペアはどうするのか」と被告人に聞いたと証言しているが、「任せる」と言うのであれば、運転手役や実行役とのペア等の細部まで村井がどうするかを聞く必要はないはずである。外崎は、同日正午頃、村井から運転手をするよう指示された、その際、村井から井上の携帯電話の番号を教えてもらった旨供述している。被告人秘外崎を指名する前に村井から指示されているのである。したがって、この場面で、被告人が運転手役について指名するはずがないのである。
さらに、村井が、『サンジャヤ師(廣瀬)たちもやる気満々でみんな下見に出かけています』と答えた旨証言しているが、この時点では林郁夫はまだ第6サティアンにおり、下見には行っておらず、客観的事実に反している。
このように井上証言は、極めて不自然かつ不合理であるが、井上は、捜査段階では被告人の部屋に行ったとは供述しておらず、村井の部屋に行ってペアを伝えるように言われた旨供述しているのである。
ウ また、村井から、「どこか東京で集まる場所はないか」と言われたが、被告人の部屋で10人集まることを聞いたので、渋谷ホームズの方がいいと思い、渋谷ホームズのことを話したこと、村井から「運転手が使う車を5台用意してくれ。できれば東京ナンバーがいい」と言われたこと等の証言もまったくの虚偽である。
すでに述べてきたとおり、東京で集合する場所が必要であること、車も5台必要であること、それも東京ナンバーのものが必要であることを考え、提案し、用意をしたのは井上である。自らの不都合な言動はすべて死んだ村井の言動とするもので、まったく信用できない。
(8) 今川の家への集合
ア 林泰男、廣瀬、横山、豊田、杉本、寺嶋及び平田信は、3月19日午前8時から10時の間、普通乗用自動車2台に分乗して第6サティアンを出発し、今川の家に午前10時から正午頃に着いた。井上が待っているはずだったが、井上はおらず、林泰男が「アーナンダ師は人を呼びつけておいて自分が時間までに来ないからな」などと言った。
1〜2時間井上を待ったが来なかったので、林泰男を中心に廣瀬、横山、豊田の4人で打合せをした。路線と各担当、各乗降車駅の確認等をし、地図等を見ながら、撒き方についても話をした。この段階では、乗降車駅等、村井の部屋で決まっていたことの確認だけだった。実行役と運転手役の組
合せについては林泰男が決めた。
林泰男から、午前8時10分くらいに霞ヶ関駅を通過する電車に乗り、8時くらいに一斉に撒くという話があった。林泰男が午前8時頃に着く電車を読み上げて、乗るべき電車の時刻が決まった。乗車する位置も決まった。官庁街か警視庁の出口に通じる階段の近くに止まる車両ということだった。
下見の話をしている時に話題になったことがあった。平田から、「数日前のアタッシュケース事件の時は、駅の近くのホテルをとって、そこから犯行に行ったが、時間どおりにやれるかどうかが危倶されるんだったら、今回も駅の近くのホテルをとってそこから行くようにしたら間題はないんではないか」という趣旨の意見が出た。これ以前には村井との間でも、井上との間でもホテルのことは出ていなかった。この時点応も現実味は感じなかった。
イ 午後1時頃、林泰男らは、新宿に行って食事をし、その後、カツラ等を購入した。その後、廣瀬、横山、杉本、寺嶋が地下鉄四ツ谷駅と御茶ノ水駅の下見に行った。林泰男、豊田、平田が残った。
林泰男は、村井の性格や実績等や直前のアタッシュケース事件でも失敗していることを知っており、現実性のない計画だと考えており、そのため、下見にも行かなかったが、平田との間で、「サリンができるはずがない。こんなことやっても、どうせうまくいかない」等と話し合い、意見が一致した。
また、廣瀬らは下見に行ったものの、横山らが四ツ谷駅の下見をしている間、廣瀬と杉本は車中で待っている際、杉本が、「何でこんなことをするのか」、「本当にやるのか」などと廣瀬に尋ねたことがあった。廣瀬は、「強制捜査の矛先を変えるためだ」という趣旨のことを答えた。杉本は、教団がやったことがすぐわかる、強制捜査の矛先を変えるどころか、強制捜査を招くことになると思い、「招き猫になるのではないか」と廣瀬に言った。廣瀬も同感したものの、口には出さなかった。
ウ 同日午後6時から7時にかけて、林泰男、廣瀬らはそれぞれ今川の家に戻ったところ、しばらくすると、井上が来た。
井上は、最初に「強制捜査を妨害するために警視庁を狙って犯行を行なう」という趣旨の話をした。そして、実行役の担当路線と乗降駅などを確認した。その後、運転手役の平田と寺嶋が変わって、新實、外崎、北村克也、高橋克也、杉本の5名になったことを伝えた。
その後、井上は、渋谷ホームズに移動するように指示し、皆が移動した。
エ 以上の点に関する井上証言は、次のとおりである。
午後7時ちょっと前に今川の家に着いた。着く直前に廣瀬から電話があった。林泰男らがいた。前日、泰男に会った時、「場合によっては使ってもいいよ」というふうに言っていたので来たのかなと思った。林泰男から事前に今川の家に行くという連絡はなかった。
サリンの運転手とは関係のない寺嶋や平田がいた。林泰男が頼もうかなと言っていたが、村井が言っていた「とりあえずの運転手役として決めた」というメンバーとしているのかなと思った。誰が指示したかはわからないが、少なくとも村井が指示しているか、確認をとっているとは思っていた。
林泰男に村井の指示の一部のみを伝えた。林泰男から聞かれたので「運転手はこの5人だ」と言って5人の名前を挙げた。林泰男は、「村井から指示を受けた内容と違うんだが」と言った。私は、「尊師の指示で決まった」と言った。林泰男から「俺は誰とペアなんだ」と聞かれたので、「杉本だ」と答えた。組合せについては伝えなかった。全員そろっていなかったからである。教団では伝聞の指示は極力控えるよう言われていた。その後、渋谷ホームズに移るよう指示した。
今川の家では運転手のペアを伝えただけである。サリンを撒布する時間、乗車駅、降車駅についても一切話していない。杉本、豊田証言は知っているが、ないものはない。そんな余裕もない。
林泰男らに伝達した後、島田宅の爆弾の件で出た。井田の運転で私と白井が行った。林泰男と平田にも確認役を頼んだ。実際は爆弾は自分でしかけ爆発した。声明文は白井がポストに入れた。その後、今川の家に火炎瓶を取りに戻った。それを持って青山道場に向かった。井田の運転で、私と白井が行った。確認役は寺嶋、平田、山形明だった。白井が実行し、私と白井、井田は渋谷ホームズに向かった。
白井には、上九一色村から島田宅の下見に行くときに爆弾事件を手伝うことを指示した。「強制捜査が近いから手伝ってもらいたい」、「尊師の意思だから」と言ったかも知れない。それまでの侵入事件でも被告人の指示がなくとも、「尊師の指示だ」ということを言ったことがあった。白井に対しても、言ったことがあった。白井にやる気を起こさせるためだった(第9回87丁裏〜96丁裏、第20回33丁裏、84丁裏〜86丁表、92丁裏〜122丁裏、151丁表〜152丁表、第21回85丁裏〜)。
オ 井上が、今川の家で林泰男らと約束をしていたことは他の証人との供述からも明らかである。井上は、「約束はしていない。約束していたら私は約束は破りません。約束していない。断言できます」などと証言しているが、まったくの虚偽である。
平田、寺嶋が来ていることについても、意外だとしているが、上記のとおり、そもそも、平田、寺嶋の名前を出したのは井上であった。
また、今川の家での指示内容についても、井上とその他の者の証言はまったく異なっている。廣瀬らがこの点で格別井上の責任を重くしようなどと考える理由はまったくなく、この点でも井上証言が虚偽であることは明白である。
【廣瀬尋問速記録(第11回39丁裏〜49丁裏、第16回7丁裏〜14丁表)、林泰男尋問速記録(第66回29丁裏〜41丁表、96丁表〜112丁裏、第73回112丁裏〜123丁裏、第74回1丁表〜22丁表、第76回1丁表〜6丁裏、87丁表〜、第84回50丁裏〜51丁表、63丁表〜64丁表)、豊田尋問速記録(第16回8丁裏〜16丁裏、第23回15丁裏〜16丁表、38丁裏〜39丁裏)、杉本尋問速記録(第19回2丁表〜12丁裏、16丁表〜19丁裏、第23回3丁表〜16丁裏、55丁表〜58丁裏)など】
(9) 渋谷ホームズ集合
ア 林泰男らは、3月19日午後8時〜9時頃、渋谷ホームズに着いた。新實、外崎、北村が合流し、後に林郁夫も合流した。
午後9時頃、井上が来たが、井上はとてもはしゃいだ様子で「やった、やった。これは新聞に出るような事件になるよ」と少し大きな声を上げて部屋に入って来た。杉本は、「林泰男らが今川から渋谷に移動する時に、何かやろうとしていた。平田信と寺嶋を使いたいと言っていたので、いわゆる自作自演のことだろう」と思った。
その後、井上が中心になって打合せをした。井上は、計画の目的を再度説明し、実行役・運転手役の担当路線、組合せ、車が変更したこと、乗降車駅)乗車する位置、乗車後に立つ場所、サリンを撒く量が増えて一人1リットルになったこと、犯行時間帯、一斉にやること、そうしないと電車が止まってしまうこと、容器については、向こう(上九一色村)で用意すること、再度下見に行くこと等を指示した。
また、井上は、運転手役の者に緊急の場合の自分の携帯電話の番号を教えた。使う車とペアが変更になり、廣瀬の運転手役が杉本から北村に変わり、横山の運転手役は寺鳴から外崎に変わった。井上は現金5万円ずつを配った。
その後、同日午後10時頃、廣瀬らは、地下鉄の下見に出かけた。同じ頃、井上も渋谷ホームズを出た。同日午後11時30分か翌日午前0時少し前に廣瀬らは渋谷ホームズに戻った。
皆が渋谷ホームズにいたところ、村井から林泰男の携帯電話に電話がかかってきた。早く上九一色村に戻れということだった。林泰男が、「井上がそちらに向かっている」ということを答えたが、しばらくしてまた電話があった。村井は、「何やってんだ。すぐ戻って来い。アーナンダは関係ないんだ。私の言うことを聞け。そんなことでは失敗するぞ」などと怒っていた。林泰男らは、20日午前2時頃渋谷ホームズを出発した。
林泰男らは、同日午前3時頃、第7サティアンに到着した。村井は、井上立会のもと、林泰男らに対して、先端を尖らせたビニール傘を使って、水入りの袋を突く練習をさせ、また、撒布する方法や注意事項を指示した。林泰男らはサリン入りのビニール袋11袋、ビニール傘5本を受け取り、上九一色村を出発し、同日午前5時頃、渋谷ホームズに戻った。
なお、3月19日午後9時頃、教団大阪支部に警察の強制捜査が入ったが、林泰男らは、第7サティアンでの傘で突く練習の際に、村井から、大阪支部に強制捜査が入ったことを聞かされた。
イ 上記の点についての井上証言は、次のとおりである。
19日午後9時過ぎ頃、渋谷ホームズに着いた。林泰男らがいた。林郁夫から私の携帯に電話があった。林郁夫が私の携帯の電話番号を知っているのは、村井から聞いたとしか思えない。自分が林郁夫に教えたということはない。断言できる。外崎が林郁夫を迎えに行き、林郁夫が来た。
皆が集まったところで、村井の指示を伝えた。ペアは誰と誰という話だった。林泰男が、「俺はガンポパ師(杉本)だね」と聞いたので、「そうだ」と答えた。組合せを伝えた後、各ペアが自分たちは何線だと言い合っていたような気がする。各ペアがどの路線を担当するかがどのように決まったのかは私にはわからない。どのペアがどの路線を担当するかは知らなかった。5つの路線に撒くというのがいつ決まったかは知らない。私がその話をはっきり認識したのは、19日の深夜、ペアを伝えに行った時の渋谷ホームズでのことだった。
林郁夫が私に、「私はどうしたらいいんでしょうか」と尋ねてきたので、林泰男に、「クリシュナナンダ師(林郁夫)は何線だったんですか」と聞いたところ、林泰男は、「千代田線だ」と答えた。私はかばんから地図を出して林郁夫の前に見せ、説明した。すると、廣瀬らが寄って来て、「もう一度見せてくれ」と言った。それで、廣瀬らにその地図を渡した。
その後、新實、杉本、林泰男のところに行った。車が3台しか手配できなかったので、それを言ってあと2台をどうしようかと相談した。新實か杉本かが、「中村昇の東京ナンバーがある」と言っていた。あと1台については、私が富永昌宏の車のことを言い、それを使うことになった。
誰かが渋谷ホームズの電話番号を聞いてきたので、とりあえず私の携帯の番号を教えた、自分の携帯の番号を教えたのは皆のブーイングがあったから、仕方なしに教えた(第9回96丁裏〜105丁表、117丁表〜120丁裏、第20回124丁表〜136丁裏、142丁裏〜151丁表、153丁表、159丁裏〜160丁表、第21回29丁裏〜32丁表)。
ウ これまでに述べてきたところからも、この点についての井上証言が虚偽に充ちたものであることは明らかである。まったく信用できない。井上は、反対尋問で、廣瀬証言、林泰男証言、林郁夫証言、杉本証言、豊田証言が皆一致しており、井上のみが異なっていることを指摘されても、自分の記憶は記憶だとして開き直っている。
本件の計画・立案者・現場指揮者である井上が、最後の詰めとして、実行犯らを集めて最終の指示を与えたことは、それまでの井上の行動からも明白である。
【廣瀬尋問速記録(第11回50丁表〜67丁表、第16回14丁表〜30丁裏)、林泰男尋問遠記録(第66回42丁裏〜48丁表、54丁表〜56丁表、64丁表〜64丁裏、第74回22丁表〜35丁裏、第76回34丁表〜53丁裏、第84回16丁表〜18丁裏、47丁表〜49丁裏、64丁表〜65丁裏、第85回39丁表〜39丁裏、55丁表〜56丁裏)、豊田尋問速記録(第16回16丁裏〜31丁裏、第23回16丁表〜17丁表、39丁裏〜40丁表、41丁表)、杉本尋問速記録(第19回19丁裏〜37丁表、第23回16丁裏〜31丁裏)、林郁夫尋問速記録(第8回26丁裏〜51丁裏、第18回82丁表〜129丁裏)、井上尋問速記録(第9回117丁表〜120丁裏、第21回135丁表〜154丁表)など】
(10) 渋谷ホームズを出てからの井上の行動
ア 渋谷ホームズを出てからの井上の行動について、井上は以下のとおり証言している。 石川から電話があり、19日午後10時頃にハチ公前で待ち合わせることになった。声明文についての相談ということだった。渋谷ホームズの部屋を出るとき、林泰男らは下見に行こうとしていた。同日午後10時半に信徒と新宿で待ち合わせをしていた。強制捜査があった場合に備えて、教団幹部らが避難できる場所としてホテルを確保しようと考えていた。19日の午後にはホテルを予約することを考えていた。誰からの指示もなかった。白分で決めた。ヒルトンホテルは以前予約したことがあった。後で解約したが、これも自分の裁量でやった。
ホテルを取る前に大阪に強制捜査が入っていたことを知っていた。教団の認識として強制捜査が入っておかしくない状況だった。強制捜査が来るという前提でサリンの動きがある。とりあえず準備した。しかし、これは私自身の認識ではなかった。
石川と一緒に新宿に行き、信徒と会った。信徒に新宿のヒルトンホテルのツインルーム3部屋をとってもらい、チェックインもしてもらった。ホテルの部屋の鍵を受け取って、石川と一緒に渋谷ホームズに戻った。高橋克也らに信徒から車を借りて来るよう指示するためだった。同午後11時過ぎ頃、渋谷ホームズに戻った。
下見のメンバーが何人か戻ってきていた。車手配の指示をし、その後、上九一色村に戻るつもりだった。自作自演の報告をするためだった。林泰男に、「上九に行って報告に行って来るから」と言った。林泰男は、「モノがまだ届けられない。村井の話では村井が持って来ることになっているんだが、さっぱりわからない。どうなっているのか聞いてくれ」と言われた。モノとはサリンのことだと思った。
20日午前0時頃、出発し、牛前2時頃、第6サティアンに着いた。村井を探した。村井に会って、村井と一緒に被告人に撮告しようと思ったからだった。
第6サティアン1階の被告人の部屋に行った。自作自演の報告をしたところ、被告人からは、「それは青山から聞いてる」と言われた。被告人は怒っていた。「何でお前は勝手に動くんだ」と言われた。村井が来た。村井は、「やっと連絡がとれた。彼らは後1時間ちょっとで第7サティアンにやってくる。しかし、まだ、傘を買ってないようです」などと報告した。被告人は、私に、「人間は同時にたくさんのことはできない。サリンはマンジュシュリーに任せておけ」と言った、私は、それを聞いてサリンには絶対かかわるなという趣旨に取った。さらに、被告人は、「マンジュシュリー、お前しっかりしないと失敗するぞ」などと言っていた。
私が部屋を出ようとしたところ、遠藤が部屋に入って来た。ダンボール箱を持っていた。私は部屋の外から見ていた。被告人が遠藤が持った箱の下に手をあてて修法をしていた。ダンボール箱は蓋がついていた。色はついていたが、白とか赤ではない。
今川に帰ろうと思っていたが、第6サティアンの1階の駐車場で村井と会った。傘を買って来てくれと頼まれて買ってきた。第7サテイアン2階で村井に渡した。その際、爆弾が爆発したことを村井に報告した。村井が3階の滝澤のところに行って、傘の先をバインダーで削ってくれと依頼していた。村井から、「彼ら(林泰男ら)が来たみたいだから、実験をするから来ないか」と言われて付いて行った。林泰男らが傘で水入りの袋を突く練習をしていた(第9回106丁表〜117丁表、第15回23丁裏〜27丁表、第20回160丁裏〜172丁裏、第21回1丁表〜132丁表)。
イ 井上は、サリンは村井が担当で、自分は自作自演を担当としていると主張しているのであるから、そうだとすると、被告人が「サリンはすべて村井に任せておけ」との言葉が出るはずがなく、また、仮にこのような言葉が実際にあったとすれば、サリンについて井上が深く関与していることの証左とも言えるのである。
井上は、「サリンはすべてマンジュシュリーに任せておけ」と被告人から言われ、それを聞いてサリンには絶対かかわるなという趣旨に取った旨の証言をしているが、井上は、その後も、ビニール傘を購入していること、車の手配していること、渋谷ホームズでテレビを見ながら情報収集をしていること、傘等の処分をしていること等からすると、まったく信用できない。
また、修法の場面についても、遠藤が真っ向からこれを否定していること、被告人が修法をする際、弟子が触れているものをすることはあり得ないこと(石川証言等)、林郁夫は、第7サティアンで傘で突く練習をした際にサリン入りの袋を詰めたものを見たが、ダンボールではなく、紙袋であり、しかも、白色だったと証言していること等からすると、井上証言が虚偽であることは明白である。
なお、井上は、大阪支部に強制捜査が入っていたことを知っており、自分の判断で強制捜査に備えてホテルを確保したことを自認しているが、このことだけからも、井上は、強制捜査が間近に迫っていることを十分認識し、危機感を持っていたことは間違いないことである。強制捜査が来るというのは「教団の認識」であって「自分の認識」ではないとの井上証言はまったくの嘘である。
7 実行前後の状況
(1) 渋谷ホームズ集合・実行等
ア 林泰男らは、第7サティアンから戻り、20日午前5時から5時半頃、渋谷ホームズに戻った。そして、同日午前6時頃、サリン撤布のため、渋谷ホームズを出発した。
その後、井上が指示したとおり、林泰男、林郁夫、廣瀬、豊田及び横山らは、各自が担当する路線の電車に乗り込み、同日午前8時頃、電車内にサリンを漏出させた。
イ 実行後、実行犯や運転手役の者らは、午前9時から10時くらいの間に渋谷ホームズに戻った。井上が来ており、井上が持ち込んだテレビで事件についての報道がされていた。地下鉄でガスが発生して大勢の人が倒れているという内容だった。井上と新實が、特に井上が熱心に長い時間テレビを見ており、互いに顔を見合わせる感じで笑いながら見ていた。
また、井上が事前の犯行声明文を出し損ねたということで、その場に来ていた石川を怒っていた。
その後、廣瀬らは上九一色村に戻り、井上、林泰男、新實及び杉本は、犯行に使用したビニール傘や衣類等を焼却するために、多摩川河川敷に行くことにした。井上が中心となってゴミ等を集めさせた。
出がけに、林泰男は、新實から、「これで強制捜査は1か月延びますかねえ」などと聞かれた。林泰男は、内心では、強制捜査が避けられるということはない、そんなばかなことはない、強制捜査が逆に早くなるだろうと思っていたが、口では、「よくても1週間くらいじゃないですか」と答えた。
井上らが多摩川に向かう途中の車中でラジオから、大勢の人が病院に運ばれ、死亡者が出たこと等が報道されていた。
多摩川河川敷で衣類等を焼却している間、新實が、「今回のことは警察の目をそらせるためである」と発言した。他に、犯行声明文を出すこと、小沢一郎と関係するところの犯行と思わせること等についても話をしていた。杉本は、これを聞きながら、「松本サリン事件の関係で、薬品購入のための会社に警察の捜査が入っていて、今回の事件を起こすとすぐに教団が疑われる。ばかじゃないか。地下鉄にサリンを撤いて捜査の目を教団からそらせることはできない。招き猫になる」などと考えていた。
その後、食事をしたが、井上は満足した様子だった。
(2) 第7サティアンを出てからの井上の行動等
ア 第7サテイアンを出てからの井上の行動について、井上は次のとおり証言している。
20日午前3時半前後頃上九一色村を出て、同日午前5時半過ぎ頃、今川の家に着いた。シャワーを浴びて渋谷ホームズに行くことにした。行こうと思ったのは、何かあったらまずいと思ったからで、自主的に行った。午前6時過ぎに出て、渋谷ホームズには午前6時半から7時頃に着いた。誰もいなかった。
鞄の中に入っていた携帯の液晶テレビをつけた。前日の夜、大阪支部に強制捜査が入ったが、波野村の時は午前7時に入ったから、強制捜査が来るかもしれない、来たらテレビに映るだろうと思ったからだった。午前7時前からテレビを見ていた。実行の時間を午前8時としているのは犯行前には知らなかった。
液晶テレビのコネクターがずれたので、諜報省のサマナに連絡して小型テレビを持って来させて見ていた。午前7時を過ぎても強制捜査がないので、ヒルトンホテルのチェックインを解除しようと思い、鍵を返して来るようにサマナに指示をした。
その後、実行メンバーが帰ってきた。林郁夫が彼らにパムを打っていた。テレビでサリンのことが映され始めたが、パニック状態となっていた。
傘等を捨てに行くことになった。林泰男、新實、杉本、私が行くことになったが、私が最初から行くつもりはなかった。ゴミ袋が車に入りきらなかったので、私の車に入れ、付いて行くことにしたためであった(第9回120丁裏〜126丁表、第20回136丁裏〜138丁丁裏、第21回155丁表〜163丁裏、第21回156丁裏)。
イ ここでも井上は自分の関与の度合いを薄めるため嘘を重ねている。「犯行が午前8時であることを知らなかった」など、早い段階から午前8時に散布することは決まっており、しかも、井上が参考に供した地下鉄路線図を見て村井がその場で決めたのであった。
自分は地下鉄サリン事件とは関係ないが、「自主的に」渋谷ホームズに行ったというが、まったく信用できない。関係ない者がわざわざテレビを用意し、しかも、故障すると別のテレビを持って来させたのである。また、犯行時刻が、午前8時だからこそ、その時間に合わせて渋谷ホームズに運び込んだのである。
【廣瀬尋問速記録(第11回67丁表〜92丁表、第16回31丁表〜52丁表、59丁裏〜73丁裏)、林泰男尋問速記録(第66回78丁表〜78丁裏∴82丁表〜82丁裏、第76回75丁裏〜78丁表、第80回12丁表〜67丁表、第84回29丁裏〜、68丁裏〜73丁裏、75丁裏〜、104丁裏〜115丁表、第85回1丁表〜22丁裏、40丁表〜53丁裏、73丁裏〜75丁裏)、豊田尋問速記録(第16回31丁裏〜44丁表、第23回40丁裏、41丁裏〜44丁裏)、杉本尋問速記録(第19回38丁裏〜61丁表、第23回31丁裏〜52丁表)、林郁夫尋問速記録(第8回51丁裏〜83丁裏、第22回1丁表〜64丁裏、66丁表〜66丁裏)など】
8 事件後の井上らの行動等
(1) 本件犯行後、3月22日に教団施設には強制捜査が入った。本件関与者らも逃亡するなどしたが、本件後も、井上を中心として、中川、林泰男らは、新宿青酸ガス事件、都庁爆破事件等をおこし、また、ダイオキシンを撒く件、石油コンビナートを爆破する件を計画したが、これらについても被告人の指示はなく、首謀者である井上自身も被告人の指示がなく行ったものがある旨証言しており、被告人が逮捕された後に行われたものもあった。
(2) 同月23日か24日頃、林泰男が、井上と逃亡している際、長静温泉で新たに被害者が出たというテレビ報道があった。井田や山形明もその場にいたが、それを見て井上が喜んだため、林泰男は、「テレビの中で警察官の出勤時間は9時頃という話があった。もっと早い時間に犯行を行ったので、関係ない人たちに被害が及んだ」などと言って、井上をたしなめたことがあった。
(3) 同月29日か30日の深夜、早川、井上、端本悟、林泰男が集まったところで、早川が、「『今回強制捜査が入ったのはアーナンダの責任だ』と尊師が言っていた」と言ったことがあった。そこに集まった者らで、假谷事件がきっかけとなって強制捜査が入ったので、そのことを言っているのではないかなどと話をした。
(4) 同年4月初旬頃、井上と中川が、川越のウィークリーマンションあるいは八王子のマンションで話をしていた際、本件のことが話題となったところ、井上が、「サリンのことは私が話をした」などと話し、また、原料(ジフロあるいはジクロ)が教団にあることも井上が話をしたとし、自分がサリンを撒くことを提案した趣旨のことを述べた。
また、4月上旬頃、井上が中川に対して、本件に関して、「マンちゃん(村井)なんて何もしていないんだよ。『私が車が要るんじゃないですか』と言ったら、マンちゃんなんて『新幹線で帰ってくればいいんじゃないか』と言ったんだよ。車を用意したのは全部私がしたんだ」などと本件での自分が果たした役割を自慢げに話したことがあった。
【廣瀬尋問速記録(第16回54丁表〜55丁裏)、林泰男尋問速記録(第76回24丁裏〜26丁裏、第77回9丁表〜10丁裏、第80回57丁裏〜59丁表、第82回4丁裏〜14丁表)、中川尋問速記録(第24回31丁裏〜36丁表、第194回16丁〜20丁、23丁)など】
9 村井・井上の本件における役割
(1) 他の関与者の井上についての評価
本件における井上の役割等について、林泰男は、「假谷事件の失敗で強制捜査が入るかもしれない状況になって、井上が責任を感じて、地下鉄サリン事件で指導者的立場で加わったと感じている。假谷事件については事件直後、平田からかなり詳しいことを聞いていた。井上からも聞いていた。中村からも少し聞いたことがある」(第84回38丁表〜39丁裏)と証言している。
同様に、中川は、「假谷事件の前、井上から、『私、飯田、岐部の3人が被告人から怒られた。ものすごく怖かった』という話を聞いたことがある。実績を残そうと焦ったのはないか」(第180回66丁〜72丁)と証言し、杉本は、「今回、新實が非常におとなしかった。ほとんど口を出さなかった。私にとっては意外なことだった。それまでは新實の方が上。それまでの行動も新實が中心だった。新實と一緒に来た者は自治省所属。主に運転手役。今回はサポート的。自治省がサポート的。いろいろな指示、命令系統を伝えるのが井上。しかも、新實を差し置いていろいろ指示を出していた。今回は諜報省が中心になってやっていると思った。一連の動きからそう思った」(第23回21丁表〜21丁裏、第23回58丁裏〜59丁表)と証言している。
さらに、新實は、「VX事件をきっかけとして、私がナンバー3となり、井上がナンバー2となった。地下鉄サリン事件は、村井と井上が車の両輸となって行ったものだ」旨の証言をしている(第204回7丁)。これらの本件関与者の証言からしても、本件における井上の役割が単なる「お手伝い」だとすることは到底できない。
(2) 井上の危機意識
井上自身が、「教団施設に強制捜査が入るという話は何回かあつた。平成6年11月頃の対応は、早川が借りている都内のアジトに科学技術省の荷物を運んだこと、平成7年1月に入ってすぐの頃、警察官の小杉から情報を聞いていた」、「平成6年2月以降の強制捜査を受ける原因としては、松本サリン事件との関わり、第7サティアンの異臭事件、平成7年1月1日の読売新聞の記事、平成6年秋の上九周辺の住民の盗聴が発覚して新聞に出たこと、そして、假谷事件」を挙げ(第9回30丁裏〜31丁表、第15回40丁裏〜53丁裏)、「假谷事件はちょっとまずかったな」と思ったことも認めている(第15回27丁表〜33丁表、第22回20丁表〜22丁表)。
また、上記のとおり、自分の判断で強制捜査に備えて、3月19日の夜にホテルを確保していること、林泰男が「井上は警察に情報源を持っていた。地下鉄サリン事件の少し前頃、信徒の中に警察官がいて、その警察官から何らかの情報を得ているということを井上から直接聞いた」(第72回113丁表〜114丁裏)と証言していることからしても、井上が何らかの情報を得て強制捜査が間近であるとの認識を本件当時抱いていたことは明瞭である。
(3) 村井の危機意識
上記のとおり、村井は強制捜査に備え、サリン等の処分を命じ、また、3月17日から18日にかけては、小銃部品の隠匿を指示しているのであり、村井も強制捜査について切迫していることを十分に認識していた。また、井上は、「リムジン内でのサリン撒布の総指揮を命じられた際、嬉しそうな顔をしたが、村井は、第7サティアンのプラントの失敗、平成7年2月の大川のポアの計画のためのマイクロ波照射器失敗、アタッシュケース事件の失敗等失敗続きだったため、取り返そうというつもりがあったのかなと思った」旨証言している(第9回41丁表〜41丁裏)。リムジン車中でサリン撒布命令があったとする井上の証言は信用できないが、村井が失敗続きであって焦りを感じていたとする部分は、他の者の証言とも合致し、信用できる。
(4) 村井・井上の役割
これらに加え、これまで各所で述べてきた村井及び井上の言動を考えあわせると、本件は、強制捜査が迫ったことに危機感を抱いた村井及び井上が、被告人を差し置いて、相談し企画・立案したうえで、指揮をとった事件であることが明らかである。
第2 争点
1 被告人による指示の不存在
(1) ジフロの保管について
ア ジフロ保管に関する井上証言
検察官は、1995年(平成7年)1月1日の読売新聞の記事が掲載されたことから、サリン関連物質を処分した際、中川が、「後日、サリンを使用する必要が生じた際にすぐさま生成できるようにと考えて、サリンの前駆物質である『ジフロ』約1リットルが入った容器を密かに持ち出して教団施設内に隠匿保管した」とし同年3月18日午後4時頃、村井が中川に対し、隠匿保管中のジフロを使って東京の地下鉄電車内で散布するサリンを早急に生成するように指示し、中川は、これを了承した上、隠匿保管場所からジフロを持ち出して第3上九所在の遠藤専用の実験施設(ジーヴァカ棟)まで行き、遠藤にこれを引き渡した」旨主張する(論告174丁)。
これは、井上の「1月1日の強制捜査の情報に対しては、1月の初めに中川からサリンを処分したことを聞いた。VXを私が預かって今川の冷蔵庫に入れたが、預かった時に、中川がサリンの材料を一部どこかに隠したことを聞いた。1月初め頃のことである」旨の証言(第15回46丁裏〜51丁裏)及び同趣旨の中川検面調書(A甲12080,A甲12081)を根拠としていると思われる。
地下鉄サリン事件における井上の中心的な役割をめぐる重要問題の一つが、本件サリン生成の原料となったジフロ(「メチルホスホン酸ジフロライド」を以降は「ジフロ」と表記する)について誰が保管していたかということにある。中川は、公判廷では井上にジフロを渡したと証言したが、井上は、保管していたのは中川であると述べ、中川証言を真っ向から否定する(井上尋問速記録第20回10丁裏〜11丁表、第22回30丁裏〜33丁裏、36丁裏〜37丁表)。
検察官は、この中川証言についてはまったく触れることもなく、論証もなく、中川がジフロを隠匿・保管していた旨主張するのである。
現場指揮者としての井上は、サリン生成の段階から決定的に重要な位置を占めていたのであり、ジフロ保管に関する中川証言の真実性が明らかになることによって、自分の役割を過小なものとしてきた一連の井上証言の虚偽性がより明白になる。そこで、以下では、この点に関する中川検面調書が信用できず、法廷での証言の方がはるかに信用性が高いことを述べる。
なお、このジフロの保管以外の点についての中川の検面調書と公判廷の証言の信用性の間題については、後に詳述する。
イ ジフロ保管に関する中川証言
(ア) 中川検面調書
a 供述自体の矛盾
(a) A甲12080号証の平成7年6月3日付けの中川検面調書では、サリン等の廃棄処分についでは、「麻原尊師や科学技術省長官のマンジュシュリーこと村井秀夫さんの承諾なしに、大金を投じて生成したサリンを勝手に廃棄処分することなど、当時の状況からして到底できないことでした。ですから、土谷君が、サリン等の中和処理作業を既に始めていたということは、当然、麻原尊師や村井さんの了解を得た上でやっていることと思いました」(4項)となっているが、この点、中川証言も、「包括的な指示はあったんだと思いますね。包括的な指示というか許可というか、その辺はちょっとあいまいですけれども、話としては、麻原氏から話が出ていたんだと思います」(第189回2丁)、「だから、じゃ、そう考えたかと言われると、もうほとんど考えていないんですけれども、ただ、それは、前提なわけですよね。あそこまでのことをしているというのは」(同19丁)というものである。すなわち、中川は、被告人や村井の了解があることを当然の前提として中和処理を行ったのであり、これは、それ以後のジフロの保管に関する中川らの行動経過を把握するための大前提である。
同検面調書は、「それで、作業を引き継いだ私もサリンを中和処理することに何の疑問も感ずることなく、作業を進めたのでした。このときは、サリンをどこかに隠すという発想はなく、とにかく残っていたサリンや中間生成物を全部中和処理しようと思って始めました」(4項)と続く。
ところが、その後、同検面調書は、「この処理の途中、私は、先程のジフロ約1リットルが入った容器1個をどこかに隠して保管しておこうと考えました。というのは、ジフロを作るのは大変手間がかかるし、新聞報道によれば松本サリン事件のからみで捜索も予想されたことから、第7サテイアン等のサリン生成設備も使えなくなり、もうサリンが作れなくなるかも知れないとも思ったからです。それで、このジフロまで捨ててしまうのはもったいないと思ったのです。サリン自体を保管しようと考えなかったのは、サリンそのものが見つかったら困ることと、人が触れたりしたら危険なので、ジフロの形で保管した方がよいと思ったからです」(6項)となっているのである。
しかし、この部分は、次のとおり、上記のサリン等の処分経過と明らかに矛盾しており、この矛盾は致命的なものである。
すなわち、中川は、1、近々警察の捜索が行われるのではないかと思い、保管してあるサリン等を処分するなど何とかしなければならないと思って、クシティガルバ棟へ行き、2、土谷が倒れた後も自分が引き続いて中和処理しなければならないと考えながら、3、当然、被告人や村井の了解を得たものとして、4、何の疑問も感ずることなく、作業を進め、サリンをどこかに隠すという発想はなく、とにかく残っていたサリンや中間生成物を全部中和処理しようと思って始めたのであった。
その中川が、なぜ、その作業の途中で、突然、ジフロ約1リットルをどこかに隠して保管しておこうと考えたのか、その思考変化の過程が同検面調書には何一つ示されていない。「サリン等関連物質の残りを全部中和処理しよう」と思って始めたという中川供述と「ジフロをどこかに隠して保管しておこう」と考えたという中川供述が、検面調書には、何の説明もなく併存しているのである。根本的に矛盾する供述が併存しているのであり、これは中川検面調書の構造的な矛盾と言うべきである。
(b) また、中川は、被告人や村井の承諾なしに、大金を投じて生成したサリンを勝手に廃棄処分することなど、当時の状況からして到底できないことと思っていたところ、近々の警察の捜索に備え、教団の生き残りをかけて、被告人と村井が、土谷に対し、サリン等の廃棄処分を了解したものと思っていたのである。それにもかかわらず、中川が、独断で、ジフロ約1リットルをどこかに隠して保管しておこうと考えることは、被告人と村井の承諾・了解の方針に反することになるはずである。同検面調書には、この間題についての説明も一切ない。この点でも、中川検面調書は重大な構造的な矛盾を抱えている。
(C) 同検面調書は、「もうサリンが作れなくなるかも知れないとも思った」となっているが、中川は、教団による将来のサリン生成やそのことを予定して準備を決定できる立場になかった。
「サリン自体を保管しようと考えなかった」理由として、「サリンそのものが見つかったら困ること」を挙げているが、ジフロも自然界で生成しうる合成物質ではなく、サリン生成の中間生成物質であることは容易に判明するのであるから、サリンは保管しようとは思わず、ジフロは保管を考えたとすることは極めて不自然な供述である。まして、中川は、サリン生成に携わったメンバーの一人であるから、そのことを理解しているはずであり、また、本心から、そのような理由を供述したものとも思われない。
中川証言は、この平成7年1月のサリン中間生成物等の大量廃棄によって、教団のサリン大量生成の計画などは金部ご破算になったと感じていたことを認め、「少なくとも、第7サティアンに関しては、もう完全に駄目になったと、前から駄目だろうと思っていましたけど、もうこれで完全に駄目になったということは考えましたけど」と言うものであり(第189回13丁)、このことは当時の教団を巡る客観的状況に適合しており、「ジフロを発見したから、廃棄処分するのはもったいないから隠して持っておこうと保管した」ことを明確に否定した中川証言の方が自然かつ合理的であることは明らかである。
「ジフロの形で保管した方がよいと思った」という中川の供述部分は、本検面調書における根本的な矛盾を示すものであり、その虚偽性を明白に露呈しているのであるが、この矛盾と虚偽性は、必然的に次のように拡大再生産されていく。
b 矛盾の拡大
同検面調書は、「この後、私は、このジフロ入りクーラーボックスを第二上九の敷地内に隠しました」、「隠した場所は、第二上九の敷地内の塩化ナトリウムの袋が積み上げられてある場所で」、「ここへ隠したのが、平成7年1月3,4日ころだったと思います。ここに、ジフロが入ったクーラーボックスを置き、その上に塩化ナトリウムの袋を置いて隠し、更に、その上にシートをかけておきました」となっている(6項)。
しかし、中川は、上述したとおり、「近々警察の捜索が行われるのではないかと思い、保管してあるサリン等を処分するなど何とかしなければならないと思って」いたのである。そうであれば、このような隠し方をするわけがない。このような隠し方で警察の捜索を免れることは不可能であり、「隠した」ことにならないのは明白である。
さらに、同検面調書は、「しかし、ここは人の出入りが比較的多くあり、見つかるのではないかと心配になって、2,3日後、科学技術省のプレハブ横の間の図2にクーラーボックスを移動し、ビニールシ一トをかぶせておきました。ここは、幅1メートル位の隙間しかなく、ほとんど人の通らないところでしたので、見つかる心配はありませんでした」(6項)と続いている。
この「ほとんど人の通らないところでしたので、見つかる心配はありませんでした」という部分は、教団内部の人間を意識し、内部の者が発見する心配はないとの供述であることは明らかである。
しかし、問題は、「近々警察の捜索が行われるのではないか」という事態に対して、教団として、どう準備・対応するのかということである。警察の捜索によって発見されないように隠すことができたのかどうかが本来の課題であるはずである。上九一色村に隠匿物を置く限り、警察の捜索を免れることなど不可能である。本来、警察の捜索の間題であったにもかかわらず、辻棲合わせのために、教団内の人目の間題にしてしまったのであり、そのため致命的な矛盾を露呈したのである。本当に警察の捜索を恐れていたとすれば、このような隠し方はするはずがないのである。中川検面調書はまったくの虚偽であり、その虚偽性は、逆に中川がジフロを上九一色村には隠さなかったということを自ずから裏付けているものと言わなければならない。
以上のとおり、中川検面調書の矛盾点と虚偽性は、あらゆる点において明白である。中川検面調書は信用性がないというだけでなく、その内容自体によって、虚偽であることが鮮明に示されているのである。
C 証言との齟齬の理由
(a) では、なぜ中川の検面調書がこのような内容となったのか、その理由について、中川は概ね次のように証言している。
第1の理由は、VX事件が発覚するのが嫌だと思っていたからである。この検面調書が作成された時点では、VX事件はまだ発覚していなかった。自分の関与の有無を問わず教団のことはあまり言いたくなかった。VXもジフロと一緒に井上に預けたので、井上がVXも一緒に預かったと供述するかもしれない。そうするとVX事件のことがわかってしまう。
私が、サリンを造ったこと、地下鉄サリン事件、松本サリン事件に関係していたことは捜査側にはわかっていたことで、自分は死刑になると思っていた。だから、VX事件で自分が関与したことがわかると自分の罪がさらに重くなるから発覚を怖れていたのではない。
また、井上を庇うという気持ちもあって、自分がかぶってやろうと思った。
それで、自分が敷地内に隠したということを言った。
刑事から、「サリンを中和しているところで隠すというのは、惜しかったからとしか考えられないんじゃないか」と言われた。そう言われたのでそう認めざるを得なかった。「上の者からの指示でサリンを中和してるんだから、お前の独断でやるしかないじゃないか」と言われた。それで、自分の単独の判断で隠したという趣旨の調書になった。しかし、辻棲が合わないので、検事はそこを聞いてきた。それで、別の件で村井に話をしたということにした。検事が辻棲合わせのために作った。
地下鉄サリン事件の取調べが終わった後、井上から手紙が来た。その時は、VX事件はすでに発覚していたが、本当のことは言いづらかった。だから訂正を求めることもしなかった。
検面調書では、「ジフロを保管しようと考えた理由」の一つとして、ジフロを造るのは大変な手間がかかる」ことが挙げられているのは、ジフロを造るのに手間がかかるのは事実であるが、それをジフロを保管しようと考えた理由としたのは検事であった。「一から造るのは大変じゃないのか。こういう理由ではないのか」などと検事に言われてそうなった。
その理由として、「新聞報道等によれば松本サリン事件での捜索が予想されることから、第7サティアンのサリンの生成設備も使えなくなるかもしれないと思った」ことも挙げられているが、ジフロだけを隠す理由がないからということで、これも検事が考えたことである。「サリンが造れなくなるかもしれない」と思ったのは事実だが、「設備がなければできないんじゃないか」と検事に言われ、
私が、「確かにそうですね」と補足してこうなった。このジフロを残した理由については警察の調書にはない。検事の調書ではじめて付け加えられた。「ジフロを捨ててしまうのはもったいない」というのは、刑事が言ったことであるが、それがそのまま検面調書にも残った。
「サリン自体を保管しようと考えなかったのは、サリンそのものが見つからなかったら困ることと、人が触れたりしたら危険なので、ジフロの形で保管した方がよいと思ったからだ」との部分についても、検事が考えた。私も「そういうこともあるでしょうね」と言ったが、実際には、ジフロは前年11月に土谷が中毒していることでもわかるとおり、安全ではない。検事はサリン生成のプロセス自体は知っていたが、ジフロの段階で危険であることは知らなかった。
上記検面調書では、ジフロを隠した場所は「敷地内の塩化ナトリウムが積んであった場所」となっているが、そうなっているのは、そこしか思いつかなかったからである。以前実際にそこに塩化ナトリウムが積んであったことがあったから、その場所を言ったが、1月時点ではどうなっていたかは本当は知らなかった。
その場所について、同検面調書では、「人の出入りが比較的多くあり、見つかるのではないかと心配になった」とあるが、なぜそんなすぐわかるようなところに隠したのか、検事はそのことは聞かなかった。聞いて当然のことであるが、供述期間が短かったせいもあるが、検事はかなり急いでいた。
同検面調書では、「その後2、3日してから、別のところに隠した」となっているが、最初に刑事に話した場所を警察が現場検証して、本当にそこかと問われた。それで場所を変えたことにした。その場所につき、同検面調書は、「科学技術省のプレハブ横に移動して、ビニールシートをかぶせておいた。その幅は1メートルくらいしかないところだった」となっており、これは実際ある場所であるが、その場所もそこしか思いつかなかったからそう言った。クーラーボックスは幅25センチないし30センチ、横30センチないし35センチ、高さが25センチないし30センチで、かなり大きいもので、それを隠してシートをかぶせるだけではすぐ見つかりそうなものだが、検事はそのことも聞かなかった。
「人の出入りが比較的多いので別の場所に移し替えた」というのは、「どうして移し替えた」と聞かれて、嘘を言わざるを得なかったためである。最初の場所にしろ、移し替えた場所にしろ、強制捜査が入ったらすぐに見付かるような場所である。だから、刑事は本当かと聞いてきたが、検事からは追及されなかった。「見つかる心配はなかった」と調書にはあるが、心配がなければサリンそのもの
を隠してもおかしくないが、検事からはそれも追及されなかった。
地下鉄サリン事件について「陳述書」を書いたが、それを書いたからといって、真実をすべて話したわけではなかった。ジフロ保管についても取調べの段階で本当のことを話したわけではなかった(第194回3丁〜13丁、24丁〜32丁)。
(b) 以上であるが、同検面調書がなぜこのような矛盾したものになったのかが明瞭にわかる。中川の公判廷での説明は詳細で、自然かつ合理的であり、1月初旬のサリン等の処分の経緯に照らしても、説得力に富むものである。この点からも、中川の検面調書がまったく信用できないことは明らかである。
(イ) 中川証言の信用性
そこで、ジフロの保管に関する中川の公判廷の証言そのものの信用性について述べる。
a 中川証言の概要
この点についての中川証言は、以下とおりである。
(a) ジフロ発見の経緯について
「(平成7年1月4日夜か5日未明、クシティガルバ棟で)村井さんがそれを見付けて、私もそれを見たという形になります」、「(村井が見付けることになったのは)1月4日夜に、クシティガルバ棟を1回点検したんですね。まずい薬品がないかということで点検して、その際に出てきたものです」、「村井さんから、もうまずい薬品は、クシティガルバ棟にないだろうねということを言われたんです」、「私が答えたのは、要するに、ドラフトの中のものは全部中和したという趣旨のことを言ったんです。そしたら、ドラフト外のものはどうなっているんだと、村井さんから確認する趣旨の質問があって、それはもう見ていないというお話をしたんです。そしたら一緒に見に行きましょうという話になりました。それで、村井さんと一緒に見に行きました」、「ドラフト外ということなんですが、クシティガノレバ棟のスーパーハウスのドラフトよりも外ということなんですけれども。それは大丈夫かと言われて、私は分からんというか見ていないということを言ったんです」、「(その結果)いっぺんに見付かったものではないんで、最初はVX2本、それから遅れてジフロが一本出てきました」(以上、第189回2丁、6丁〜7丁)。
(b) 廃棄の不能について
「(「なぜ、中和しなかったの」との質問に対し)出てきた時点でですか、ドラフトの解体を始めていたんです。クシティガルバ棟のドラフトの一部解体していて、ドラフトが使えなかったんです。それから、もう一つは、宇宙服がもうなかったんです」、「(ドラフト外で発見後)村井さんが言ったのは、中和できるかという話をしたんです。(中略)それで、私は、すぐにはできないと言ったんです。それで、その理由として宇宙服がないという話と、あともう一つは、ドラフトが吸っていないでしょうということを言ったんです。そしたら、あっ気付かなかったと言って、村井さんが言ったんです」、「(スーパーハウスについて)壊した。正確に言うと、スーパーハウスじゃなくて、スーパーハウスの中のドラフトに附属している吸引装置を分解した」、「まあ、4日の間に分解したことは確かです」、「私が依頼したのは渡部さんです。それで、実際に(解体)作業をしたのは、ちょっとはっきりわかりません」、「ですから、3日の夜か4日の午前中まで中和作業を続けますよね、私が。そのときは、ドラフトはまだ生きているんです。で、いったん終わって、私の作業が終わった段階で、渡部さんに一応終わったということを言って、渡部さんは解体を始めたんです、即。もう渡部さん、待っていたんですよ、そこで」、「(「その渡部さんに頼んだドラフトの分解作業の後に、村井さんに会うことになったわけ」
との質問に対し)そうですね、そうそう」(以上、第189回9丁〜11丁、24丁〜25丁)。
(C) 井上の保管について
「(VXを)最終的には、ジフロと一緒に井上君に預けました」、「(村井に宇宙服がないし、ドラフトを使用できないから、ドラフト外で発見されたメチルホスホン酸ジフロライド等をすぐには中和できないと話したら)あっ気付かなかったと言って、村井さんが言ったんです。それで、その後に村井さんのほうから、持ち出すかという話を言ってきたんです」、「(持ち出そうと言ったのは)村井さんです」、「(「どこへ持ち出すという意味か」との質問に対し)さっきアーナンダ師がきていたから、アーナンダ師に持ち出してもらおうということになりました」、「取りあえず持ち出してもらおうかということですよ、このときは。そうそう、上九にあってはまずいということです」、「最終的には、今川の家に置いていたんですけれども、まあ、その渡した時点では、取りあえず持ち出してくれということで送り出したんですけど」、「(井上は「文句を言わずに引き受けてくれた」のかとの質間に対し)いやいや、ですから、最終的には村井さんが話をして、持って出てくれたんですけど。だから、僕が最初に話を、最初に出てきたのVXなんですけど、VXが2本出てきて、で、VX2本出てきた時点で井上君を捜しに行ったんです。で、VXを持ち出してくれという趣旨の話を井上君にしたら、井上君は嫌がっていました。で、村井がおるから話を聞いてくれということで、村井さんと話をしてもらったんです」(以上、第189回8丁、10丁〜14丁)。
b 証言の特徴
以上の中川証言の内容を総合すると、その主眼は、「地下鉄サリン事件で使用されたサリンの生成に用いたサリンの原料であるジフロを保管していたのは井上である」という点にあったわけではない。ジフロを井上が保管していたというのは、一連の経過の結果に過ぎないのであって、中川証言の主眼は、次の3点にあった。
1、中川が、スーパーハウスの中のドラフト内のサリン・中間生成物等残留物全部を中和処理し終わった後、村井からドラフト外に「まずい薬品はないか」と聞かれ、「分からない」と答えて、ドラフト外を一緒に探したところ、VXとともに本件ジフロを発見したこと
2、本件ジフロ発見時には、すでに、ドラフトに附属している吸引装置が渡部によって解体され、使えなくなっていた上に、防護のための宇宙服もなかったため、本件ジフロを中和処理することができなくなったこと
3、そのため、村井は、本件ジフロを上九一色村から持ち出す必要があると判断し、中川も、これに同調して、井上に対し、その持ち出しを村井から話をして依頼したこと
以上であるが、この3点は、上記のサリン・中間生成物等の廃棄処分過程に関する上記中川検面調書の記述にも、実に自然に適合している。そして、その反面で、この3点は、「ジフロの隠匿・保管を考えた」ということで、ドラフト内残留物の中和処理作業の途中で、「もうサリンが作れなくなるかも知れない」と思い、「このジフロまで捨ててしまうのはもったいない」などと思って、それを「どこかに隠して保管しておこう」と考え、第二上九の敷地内で第6サティアン付近に隠したという前記の「矛盾の拡大」の経過を決定的に否定するものであり、そのような経過が絶対に存在しえなかった事実を合理的に解明したものである。
C 内容の合理性
中川証言は上記のとおり、自然かつ合理的であるが、以下の2点につき、特に述べておく。
(a) 中川が最初にジフロ等を発見できなかった点中川のサリン等の中和処理の過程は次のようなものであった。
上記中川検面調書では、「中和処理作業は私一人で行いましたが、森脇さんが、苛性ソーダを溶かす等の作業を手伝ってくれたような記憶もあります。(中略)中和処理作業が、全部終了したのは、平成7年1月3日か4日ころでした。この間、作業中に、私自身の体の調子がかなり悪くなり、自分でPAMを注射したこともありました。処理方法は、加水分解処理という方法で、容器に苛性ソーダを入れ、それに少量ずつサリン等を入れていくので非常に時間がかかりました。苛性ソーダヘ大量のサリンを入れると危険なので、少量ずつしか入れることができなかったのです」となっており(5項)、
また、公判廷での証言でも、「終わったときということであれば、仕事ができる人はいませんでした。仕事というのは中和という意味ですよね。中和できる人は、もう僕しかいませんでした」(第189回5丁)と述べている。このように、中川は、ドラフト内の中和処理作業で、中毒症状で体調を崩すなどということもあり、疲労困懲の状態であって、ドラフト外のことまで思い及ばなかったとしても、無理はない。その中川が、村井からドラフト外のことを質問されて、「分からない」と答え、村井と一緒にドラフト外を探索することになったのである。中川証言のこの経緯の説明は、何の不自然性もなく、極めて合理的である。
(b) 中川のジフロやVXの識別可能性
i 中川は、村井がドラフト外で発見した物について、その見つかったものがジフロだということはなぜわかったかとの質問に対して、以下のように証言している。
「そこがちょっとはっきりしないんです。(見ただけでは分からないかというと)そこもはっきりしないんです。ラベルが貼ってあった可能性もあるし、人に聞いた可能性もあるんですけれども、はっきりしないんです。(だれかに聞くとすれば)土谷君か森脇佳子さん、生きている人の中では。見ただけでは分からないかも知れません、確かに。ただ、どこにどういう状態であったかということが分かってれば、それは分かる可能性もある。こういうものだったらジフロだろうと。ただね、絶対ジフロだと確信できていたかと言われると…」(第189回8丁〜9丁)、「(6月3日付検面調書5項に、『この4がジフロと分かったのは、容器にサインペンか何かで、メチルホスホン酸ジフロライドと書いてあったか、土谷君に聞いて知ったかのどちらかだったと思います』と記載されていることについて)だから、その供述のときの記憶もそうなんです。どちらか、要するに、何か書いてあったか、あるいはひょっとしたらシールかもしれませんけれども、シールであったか、あるいは人に聞いたか」(同23丁〜24丁)。
また、VXの識別についての中川証言は、次のとおりであった。
「それも、はっきりしないんです。話を聞いたのか何か書いてあったのか、はっきりしないんです。ただ、VXは見た感じで、それまでも何回も同じような瓶に入っているのを見たことがありますから、色とかありますから、そういう可能性もなきにしもあらずだと思うんですが、それもちょっとはっきりしない。(VXではないかと思ったことは思ったのかとの質問に対し)いや、そうではなくて、見たときにはもう断定的に分かったんですね。だから、どうして分かったのか分からないんですよ」(同9丁)。
A 現に、中川は、前記の通り、ドラフト内のサリン・中間生成物等の中和処理作業を進めていた土谷がサリン中毒で倒れたため、その症状の手当をした後、土谷の作業を引き継いで、自らも中毒症状に悩まされながら、それを完了させたのであるから、サリン及び中間生成物の形状・状態・容器等をよく知っていたのである。また、それらの形状・状態・容器等は、ドラフトの内外で違いのあるはずもなかった。
なお、中川証言は、「後に出てくるジフロというのは、そのスーパーハウスの中に1月1日の段階であったジフロとは違うもの」であることを明瞭に認めているが、これは、後の発見物がドラフト内の物と別物であつたという趣旨であることが証言内容から明瞭であり、識別に関する形状・状態・容器等の間題とは関係がない。
B 以上から、中川は、村井が発見した物が、VX及びジフロであることについては明確に認識したうえで(識別の根拠については分からないとしているが)、井上に対し、「ジフロとVXである」と説明して預けたことは明らかである。
iv なお、ジフロか否かについての「確信」を問われるのであれば、科学的実験でもしない限り、確答はできないのであるから、上記のような問答になるのも当然であり、問題になっている現場での識別可能性には直接的な関係がない。識別可能性の間題と記憶の根拠をめぐる問題とを混同してはならない。
もともと、村井の発見物を「ジフロとVXである」と説明して井上に預けたという中川証言については、次の二つの場合しかありえない。第一は、中川が、「ジフロとVXである」ことを識別・認識することができていたので、その自分の認識に基づく説明をしていたという場合である。
第二は、中川が、「ジフロとVXである」ことを識別・認識することができていないのに、その認識状況に反して、嘘の話をしたという場合である。
上記の中川証言と現場での経緯を総合すると、実際は、第一の場合であったことが明らかである。この点について、中川が虚偽を証言する必要もない。第二の場合であれば、証言自体不自然ということになるであろうが、そうなると、何よりも、「このジフロまで捨ててしまうのはもったいないと思った」という中川検面調書も不自然ということになる。
d 取調状況
中川検面調書がこのようなものとなったことについては、捜査段階の取調状況における間題と関連するが、この点については前記滝本サリン事件で述べたとおりであり、中川証言は本件を含め、各事件を通じて、捜査段階の供述よりも、公判廷証言の方がより信用できる
(ウ) 結論
以上の点を総合すると、次の結論が明白である。
第1に、ジフロ保管に関する中川証言は、それ自体、高度の信用性が認められ、その真実性は堅固なものと言うべきである。
第2に、井上のジフロ保管を庇った中川検面調書等の供述には解消しがたい矛盾点があって、真実に反する。
第3に虚偽性が明白となった中川検面調書に沿う供述に終始し、真実性の明らかな中川証言と衝突している井上証言は虚偽である。
ウ ジフロの持ち込みに関する中川証言
上記のとおり、ジフロ保管に関する中川証言は高度の信用性があるが、では、井上が今川の家にジフロを保管していたとして、3月18日にジフロを上九一色村に持ち込んだのは誰か。
この点につき、中川は、「今川の家の冷蔵庫にジフロを保管していることを知っていたのは、私、井上、村井だけ。土谷は知らなかった。村井は今川の家のどこにあるかは知らなかった。村井が持ってきたという可能性はあるが、保管場所を知らない。私は村井に保管場所は教えていない。持ち込んだのは井上の可能性が高い。当時の村井の立場からは、村井はあまりフットワークは軽くはない。わざわざ東京まで出向くということはあまりしない人である。直前の假谷事件等を見ても井上が一番フットワークが軽い。可能性としてはやはり井上の方が大きい」旨の証言をしている(第194回14丁〜16丁、第195回(1)3丁〜5丁)。
ジフロ保管に関する中川の証言は高度の信用性があること、そのことを前提とすれば、ジフロを上九一色村に持ち込んだのは井上であるとの上記の中川の推測は高度の確実性があり、井上が今川の家からジフロを運び、上九一色村に持ち込んだことに疑問はない。
エ ジフロ保管に関する被告人の認識
ここで、重視しなければならないのは、被告人が、村井、中川及び井上らが相談して、ジフロを保管したことを知らなかったということである。この点については、検察官も、冒頭陳述書でも認め、証拠調べの全過程でも争わなかった事実であり、被告人が、いつか、どこかで、ジフロ保管を知ったかとの立証がないのである。
検察官が主張する3月18日の車中謀議は、あくまでも、残存したジフロの存在を前提にしているのであるから、被告人が、そのジフロ残存を知らなかったという一点でも、車中謀議は成立せず、また、それ以後のいかなる謀議も成立し得ない。すなわち、被告人には、いかなる意味においても、本件の謀議を実行するのに必要な前提を欠いていたのである。
この点に関連して、土谷は、(第245回公判の「平成7年3月、第6サティアン1階の尊師の部屋で麻原さんはオウムは崩壊するとおっしゃっていたという具合に述べておられますけれども、その尊師の話があった時期というのは、地下鉄サリン事件の前ですか、後ですか」との質間に対し、「当然、事件の前です。3月2日から1週間以内ですから。…それは…私が大臣や長官たちに権限を与え過ぎている、その危倶について私は述べたわけですよね。…そういう危倶を述べたことに対して、尊師がオウムは崩壊するとおっしゃったわけですから、だからもう、そういう具体的に、そのころにはオウムが崩壊する兆しというのが尊師は分かっていたということだと私は思いますけどね」(第250回81丁)と証言している。
被告人は、ジフロの残存を知らなかった上、「教団が崩壊する」との心境にあったのであり、そのような被告人にとっては、本件を謀議できるような余地は客観的にも存在していなかったのである。現に、被告人の謀議参加の証拠は皆無である。
(2) リムジン車中謀議について
ア 論告の間題点
以下では、「リムジン車中謀議」が存在しなかったことを明らかにしていくが、まず、論告の概要と間題の所在を整理する。
(ア) 前提事実
検察官は、本件に至るまでの経緯として、次の2点を主張している(論告174丁〜175丁)。
1、1995年(平成7年)1月、被告人は、『読売新聞』の記事から、教団施設に対する警察の強制捜査が迫っていると考え、教団内のサリン生成に関する証拠を隠滅するため、村井を介して土谷に、クシティガルバ棟に保管中のサリン及びその関連物質をすべて処分または隠匿するよう指示し、土谷と中川が、それを実行した。
2、被告人は、同月17日の阪神大震災の発生によって、間近に迫っていた警察による強制捜査は回避されたものと見て、同年2月初めころには自動小銃の製造を再開させるなどし、同月28日、井上らに指示して実行させた假谷拉致事件発生直後から教団の犯行と疑われる事態となり、にわかに警視庁による大掛かりな強制捜査の可能性が高まってきたため、同年3月15日、警視庁の動きを牽制又は阻止するため、村井、井上及び遠藤らに指示して、警視庁に近い地下鉄霞ケ関駅構内にアタッシュケース型噴霧器を設置してボツリヌス毒素様の液体を噴霧させ、人を殺傷することができず失敗に終わった。
(イ) 論告には、車中謀議があったとの主張の前提となる伏線が含まれているので、少なくとも、以下の点を指摘しておかなければならない。
a 上記1の「証拠隠滅」の「サリン処分」のうち、被告人が「処分」を指示したことは間違いないが、「隠匿」の指示をしたとする主張は初めてである。「隠匿指示」の証拠はなく、廃棄処分を実行した土谷及び中川の認識も、サリン等の全部の完全な中和作業であった。被告人は、「処分」を指示したものであるが、村井、中川、井上によるジフロ隠匿・保管については知らなかったとの点については、検察官は、冒頭陳述においても、その後の証人尋間においても一切争わなかった。
しかし、それでは、残存ジフロによるサリン生成を前提とする本件について、その車中謀議に被告人を結びつけ難くなる。検察官は、被告人の「サリン処分指示」と中川・井上らのジフロ隠匿・保管を衝突させないようにするために、証拠もないのに、被告人の指示に「隠匿」を潜入させたのである。公正な態度ではない。
b 上記2における2月の自動小銃の製造再開や3月15日のアタッシュケース事件の被告人指示なども、正面から論議されたことのない問題であるのに、論告の段階で主張された。これについても、やはりサリン処分の被告人の指示とリムジン車中謀議が結びつかないので、それを結びつける緒節点として、位置づけられたものと考えられる。
c すなわち、この2点は、論告における車中謀議の前提ないし基になるものであり、検察官立証の対象にもなっていなかった主張であり、論告にとって、不可欠の構成要素になっている。このように、被告人が車中謀議を行うべき前提・土台を築き上げるには、無理をしてでも、穴埋めする必要があったのである。このことは、車中謀議成立を合理的に立証するにはいかに無理があるかをはっきり物語っている。
イ 井上証言の信用性
検察官は、リムジン車中で地下鉄にサリンを撒く謀議が成立したとし、その多くを井上の証言に依拠している。しかし、後記で詳述するとおり、井上は、リムジン車内に乗ったのは被告人から松本剛らの指紋除去の許可を得るためであるとリムジン乗車の動機からして虚偽の証言をし、また、リムジン車に乗車する前の食事会で被告人が強制捜査の話をした旨の虚偽の証言をしている。これら証言はリムジン車内での話の真偽にも大きく影響するので、これらの点に関する井上証言がいかに信用できないかをまず述べる。
(ア) 指紋除去について
a 井上証言
井上が被告人から松本剛の指紋の除去の許可をもらおうと考えた動機や許可を得た経緯等についての井上の証言は次のとおりである。
3月18日未明の識華での食事会で強制捜査の話を聞かされて、これは指紋を消しておかなければならないと私なりに決意した。18日午前4時頃、リムジンが第2サティアンに着いてから、指紋除去の許可をもらいに第2サティアン3階の被告人の部屋に行った。井田を新しく運転手につけてもらうことの許可ももらおうと考えていた。実際に被告人に会って、許可をもらった。同日午前7時か8時頃、第6サティアン3階のAHIの部屋に行って林郁夫に指紋除去を依頼した。3月18日午前11時頃に今川の家に着いた。目的は、倉庫の鍵を取りにいくこと、大川隆法方のビデオ監視の撤去の指示をすること、松本に指紋除去を指示することだった。今川の家で、実際に松本剛らに大川隆法監視ビデオ撤去を指示し、松本剛と林武に指紋除去のため夜行くように指示をした(第9回49丁裏〜54丁表、第15回32丁裏〜40丁裏、第17回40丁表、78丁表〜86丁表、121丁表〜161丁表、第21回50丁表〜51丁)。
b 他の者の供述
(a) この点につき、中川は、「3月15日、アタッシュケース事件の後、用事があって今川の家に泊まった。井上と最初に指紋除去の話をしたのは3月16日である。今川の家で。読売の記事が出てその記事を井上から見せられた。井上から『大丈夫だと思うが、自分とマツ(松本剛のこと)の指紋を取る手術はできるか』と聞かれた。私は、偽造免許証を使っているから分かることはないだろう、指紋は残してないから大丈夫だろうという趣旨に受け取った。指紋除去は以前やったことがあったので、『取れないことはないけど大手術だよ』『何日も風呂に入れないよ』と言った。私が『松本君はどこにいるのか』と聞いたら『大川隆法の拠点を片づけている』『今日の夕方まで帰って来ない』とのことだった。翌3月17日、私は、松本剛、林武と一緒に林郁夫のところに行った。着いたのは夕方頃だったが、あるいは午後3時頃だったかで、林郁夫に依頼した。その日は戒誓行で食事をとれず、すぐに手術はできなかった。この時点で井上はすでに被告人の許可を取っていた。井上がそう言っていた」旨の証言をしている。
(b) また、指紋除去手術を井上から命じられた松本剛自身も、「3月中頃新聞で車の指紋の件を知った。その頃、井上から『指紋をとる手術ができる。いずれ俺も指紋をとる』と言われ、『お任せします』と答えた。その次の日の昼正午頃、今川の家で井上から林武と一緒に呼ばれた。『これから指紋を消す手術をうけに、一緒に第6サティアンに行ってくれ。クリシュナナンダ師長が待っている』と言われた。時計を見るとすでに時刻は正午に近かった。林武も嫌と言わずすぐに私と車で第6サティアンに向かった。第6サティアンで林郁夫と会った。林郁夫は私たちをみて『手術の6時間くらい前から食べ物をとってはだめなのだが、どのくらい前に食べたのか』と言われた。私達は3,4時間くらい前に食べたと答えた。そしたら、林郁夫が『ちょっとここで待っていて』と言った」旨供述している(J甲154号証の松本剛の検面調書)。
(c) さらに、井上から手術の依頼を受け、実際に手術を行った林郁夫は、「3月17日、井上から指紋除去を依頼された。依頼された場所は、第6サティアン3階の瞑想室を出たところ。井上のそばに松本剛と林武がいた。中川もいた。井上は、松本については、『例の件で使ったから』、林武については、『いろいろなことで使った』というようなことを話していた。3月17日に尊師通達が出たが、指紋除去の依頼との前後関係はわからないが、指紋の話は村井からのサリン散布の指示の話よりは前のことには間違いない。どのくらい前かははっきりしないが、30分とか40分とかそういうことではなくて時間単位の前だと思う」旨証言している(尋問速記録第12回、第18回)。
c 中川、松本剛及び林郁夫の各供述はそれぞれが具体的で詳細であるうえ、細部でも合致していること、中川らがこの点で虚偽を言う必要はいささかもないこと等からすると、井上は、3月17日の段階では、すでに指紋除去の許可を取っており、遅くとも、3月17日の夕方には、松本剛及び林武を連れて、林郁夫のところに行って手術の依頼をしていたのである。井上の証言はまったくの虚偽である。
すなわち、井上証言は、「車中謀議」の出発点であるリムジン乗車の理由について、すでに虚偽を述べているのである。しかし、検察官は、この重大な疑問の解明に全く触れていないのである。
(イ) 食事会について
a 井上証言
井上は、識華での食事会において、被告人が強制捜査の話題を持ち出したとの証言をしているが、識華での食事会の様子についての井上の証言は次のとおりである。
3月17日の午後9時から11時過ぎくらいまでの間、村井から電話があった。私が今川の家にいる時だった。識華に集まるよう言われた。「今度正悟師になった人たちの食事会を尊師が開くから、夜(12時から1時くらいの間)に来るように」と言われた。私は「自衛隊員のイニシエーションがあるから」と言ったら、「尊師が呼んでいるから」とかなり強く怒られたので、「わかりました」と答えた。
何時に着いたか記億はない。特に遅れたという記憶はない。何人かは来ていた。被告人はまだ来ていなかった。食事会は1時頃から始まった。満月の日は戒誓行で一応食事はしていけない。なぜ深夜に集まったかはわからない。私が着いた時越川が食事の用意をサマナに指示していた。石川も自分より先にいた。最後に尊師らがどどっと来た。メニューが出されるかどうかのくらいのときに、Xデーの話を聞いた。
被告人が、私と越川に、「Xデーが来るみたいだぞ」と話しかけ、青山には、「アパーヤージャハ(青山)、さっきマスコミの動きが波野村の強制捜査のときと一緒だって言ったよな」と聞いたところ、青山が「やっぱりXデーは来るんじゃないでしょうか」と答えた。Xテーの話は食事会の最初の頃出た。私は座って聞いていた。被告人の声は小さな部屋なので注意して聞けば聞ける。私と越川の名前はあがった。話しかけたというのではない。越川がどこにいたかはわからない。動き回っていたわけではない。青山は被告人の向かい側にいた。飯田エリ子はその場にはいなかった。強制捜査の話は突然出てそれで終わった。強制捜査の話を聞かされて、これは指紋を消しておかなければならないと私なりに決意した。その後食事会の最中に強制捜査の話は出なかった。
その後、食事が運ばれた。渡部と名倉が正悟師になったことで話をして被告人がコメントした。誰がどういう理由で正悟師になったという話があった。最後のほうは、とにかく急いで帰りたいという被告人の雰囲気が見えて、どたどたと食事が運ばれた。
食事会が終わり、帰る時、識華の中で、被告人が、青山、村井、遠藤、石川と4人の名前を挙げて、「リムジンに乗れ、話があるから」と言った。強制捜査について話すんだろうと思った。私は呼ばれなかったが、被告人に指紋除去の許可をとりたいと思っていたので、被告人に近づいて行って、「上九に着いてからでいいんですが、お話があるんですが」と言ったら、「じゃあおまえも乗ったら」と言われた。被告人が立ち上がるか立ち上がらない出る直前に話しかけた。被告人が座っていた位置の近くだった。指紋の話を食事会の中でしなかったのは識華は盗聴されていると思っていたからである。私は青梅街道の方に松本剛を待たせていた。そこまで走って行って、ついて行くようにと伝えてすぐ戻った。そして、リムジンに乗った(以上、第9回31丁裏〜33丁裏、第15回60丁裏〜65丁表、第17回4丁裏〜22丁表、27丁裏〜30丁裏、40丁表)。
b 指紋除去の点についての井上証言がまったくの虚偽であることはすでに詳述したとおりである。すでに指紋除去の許可をとっているのであり、「強制捜査の話を聞いたから指紋除去を考えた」との証言が嘘であることは明らかである。強制捜査の話はまったく出なかった。遠藤及び石川とも強制捜査の話は出なかった旨証言しており、井上証言はまったく信用できない。
(ウ) リムジン車内での会話
a 井上証言
リムジン車内での会話についての、井上の証言は以下のとおりである。
最初に本件に関する話が出たのは、3月18日の午前2時過ぎから4時過ぎまでの間、リムジンの車内の中である。私はマスターエースで現役自衛官のイニシェーションの誘導のため上九に向かう予定だったが、結果的にはリムジンに乗った。先ほど強制捜査が来るという話があったので、假谷事件とのかかわりでCHSとして教団に迷惑をかける、ばれるおそれがある。レンタカーを借りていた松本剛の指紋のことだと思ったので、その指紋除去の許可をもらおうと思って、被告人に近づいて「上九に着いてからでいいですから、ちょっとご相談があるんですが」と言った。リムジンに乗るように言われ乗り込んだ。
リムジンでの会話の内容は全部はわからない。前日も徹夜でこの日も徹夜でうつらうつらしていたことがあったからである。
青山が、被告人に対して、「いつになったら四つになって戦えるんでしょうか」と尋ねていた。被告人は、「なあ、マンジュシュリー、11月頃かな」と村井に聞くと、村井は、「やはり11月にもなると輸宝もある程度できるでしょう」と答えた。「輸宝」とは当時教団で研究していた高出力レーザー照射器のことである。村井は、「今年の1月関西大地震があったから強制捜査が来なかったと以前尊師がおっしゃっていたので、今回のアタッシュケースが成功していたら、強制捜査はなかったということなんでしょうか」、「アタッシュはやはりメッシュが悪かったのかなあ」と言うと、被告人が「そうかもしれないなあ」と答えた。被告人が、私に対して「なあ、アーナンダ、何かないか」と聞くので、私が、「T(ボツリヌストキシン)じゃなくて妖術(サリン)だったらなかったということなんでしょうか」と言うと、村井が、「地下鉄にサリンをまけばいいんじゃないか」と言い、被告人は「それはパニックになるかもしれないなあ」と言った。
その後も被告人と村井との間で会話が続いたが、内容はわからない。覚えている言葉としては、村井と被告人がサリンの揮発性について会話をしていたことである。その後、被告人が、私に対して、「アーナンダ、この方法でいけるか」と尋ねた。私は意味はわからなかったが、被告人の口調の雰囲気からサリンを撒くことを考えているのかなと感じた。「尊師が言われるようにパニックになるかもしれませんが、私には判断できません。1月1日の新聞であったように、山梨県警と長野県警が動いているようですから、おそらく薬品の購入ルートはすべてばれているでしょう。ということは、こちらからサリン70トン造ろうとしていることは向こうも気づいていると思います。だから、向こうが、こちらがサリン70トン造りきったと思っているなら怖くて入って来れないでしょう。反対に、こちらがサリン70トン造りきっていないということを気づいているならば、堂々と入って来るでしょう。だとするならば、牽制の意味で硫酸か何かを撒いたらいいんじゃないでしょうか」というふうに答えた。
すると、被告人は、「サリンじゃないとダメだ。アーナンダ、お前はもういい。マンジュシュリー、お前総指揮でやれ」と言った。村井は「はい」と答えた。村井は嬉しそうな感じだった。
村井は、「今度正悟師になる4人を使いましょうか」と被告人に尋ねていた。村井は4人の名を挙げた(豊田、林泰男、廣瀬、横山)。被告人は、「クリシュナナンダ(林郁夫)も加えればいいんじゃないか」と言った。
また、被告人は、遠藤に、「サリンは作れるか」と尋ねた。遠藤は、「条件が整えば作れるのではないでしょうか」と答えていた。被告人は、「新進党と創価学会がやったように見せかけたらいいんじゃないか」と言った。被告人は、そこにいるメンバーに「サリンを撒いたら強制捜査が来るか来ないかどうなると思う」ということを聞いた。石川は、「関係なしに来るでしょう」と答え、井上は、「少しは遅れるかもしれませんが、来ると決まってるなら来るんじゃないでしょうか」と答えた。
石川が、被告人に対して、「強制捜査が入ったら私が演説をしますので足などをピストルで撃ってもらって、そうすれば世間の同情が買えるのではないでしょうか」と言った。被告人は、私に対して、「く一ちゃん(習志野空挺団員)にやらせられるか」と聞いた。私は、「可能だと思います」と答えた。被告人は、石川に対して、「お前がそこまでやる必要はない」と言った。
青山が、「島田さんのところに爆弾を仕掛けたら世間の同情が買えるのではないでしょうか」と言った。私が、「それだったら青山(青山総本部道場)に(爆弾を)仕掛けたらいいんじゃないでしょうか」と言った。被告人が、「島田のところには爆弾をしかけて青山には火炎瓶を投げたらいいんじゃないか」ということを言った。
石川が、「イニシエーション(法皇官房が行っていた幻覚剤を使ったもの)はどうしましょうか」と被告人に尋ねていた。私は、強制捜査がくるからどうしようかという意味だと思った。被告人は、「やっぱりそれはやめるしかないんじゃないか」と言った。私が「今日から明日の夜にかけて4人の自衛隊員が来るんですが、どうしましょう」と尋ねたところ、被告人は、「く一ちゃんはやるしかないんじゃないか」と答えた。石川が、強制捜査が入ったらどのようにしてビラを撒くかについて被告人と話し合っていた。
上九一色村に着いてから、被告人は「第2にしてくれ」といって第2サティアンに着いた。午前4時前後。車を降りる前に被告人が「瞑想して考える」と言った。
(あなた自身サリンだったら云々というふうにサリンの話をしたということは、原材料があるから簡単にできるというふうにあなた自身もその話の前提として認識にあったんじゃないですか)全くなかったかと言えば嘘になります。
もしかしたら遠藤さんが条件ができたら(サリンが)作れるかというところで、中川さんが隠してるサリンがあるというか、そういう話は私はした可能性はあります。
ジーヴァカ、サリン作れるかというポイントについては、ああ中川さんが隠しているサリンがありますねというか、そういう話は私も何となくしたような記憶がある(以上、第9回33丁裏〜50丁裏、第15回57丁裏〜60丁表、第17回22丁表〜26丁裏、30丁裏〜31丁裏、33丁表〜36丁裏、44丁表〜45丁裏、67丁表〜73丁裏、86丁〜121丁表、第20回8丁裏〜)。
以上である。
b 論告の概要
検察官は、このリムジン車中謀議において、被告人、村井、井上、遠藤との間に謀議が成立したと主張し、その根拠として、上記の井上の証言を基礎として遠藤証言で補強しているものと思われるが、論告は、車中での会話につき、以下の点を摘示している(論告175丁〜177丁)。
1、 村井が阪神大震災の話とともに、アタッシュケース事件が成功していたら強制捜査はなかったんじゃないか等と話した。
2、 被告人が、「アーナンダ、何かないのか」と言ったので、井上が、「Tじゃなくて妖術だったら、アタッシュケース事件の失敗はなかったということなんでしょうか」と言った。
3、 村井が、「地下鉄にサリンを撒けばいいじゃないか」と言った。
4、 被告人は、村井の意見に賛成して、村井に、「総指揮でやれ」と命じ、即座に了承した。
5、 村井は、実行役として、正悟師昇格が内定していた林泰男、広瀬、横山及び豊田の4人を挙げた。
6、 被告人は、それを了承するとともに、同じく正悟師昇格内定の林郁夫を加えるよう指示した。
7、 車内では、中川が隠匿していたジフロからサリンを生成する方法について話題が発展した。
8、 被告人は、遠藤に対し、「ジーヴァカ、サリン造れるか」と聞いたら、遠藤は、「条件が整えば造れると思います」と答えた。
9、 サリン撒布の実行を前提として、教団の犯行を隠蔽するための自作自演も話し合われ、青山の提案(島田宅爆破)及び井上の提案(教団東京総本部爆破)を被告人が指示した。
そして、以上の1〜9をもつて、
10、被告人は、村井にサリン撒布計画の総指揮、井上に一連のVX暗殺事件・假谷拉致事件等と同様の現場指揮、遠藤にはサリン生成を命じ、村井ら3名はいずれも了承して本件犯行の謀議が成立したとする。
c 論告の架空性
しかし、以下のとおり、リムジン車中謀議の架空性は疑う余地がない。
第1に、1〜7については、井上証言しか証拠がない。井上の証言が信用できないことは後述するが、そのことは措くとしても、井上自身が、「松本智津夫氏が、瞑想して考えるという内容のことを言っていました。車を降りる前だったと記憶しています」と証言している。
さらに言えば、井上は、弁護人の反対尋間に対して、「常識からみると、空想的、絵空事の話はオウムではよくあった。被告人と弟子との間でよくそういう話がされていた。村井や早川がいるところでよくそういう話を見聞きしたことがある。ほとんどが空想的な話を何とか現実にしたいなという願望が混じった話が多かった。リムジンでの青山の『いつになったら四つになって戦えるんでしょうか』と言う言葉自体が非常に現実離れをしている。いつもの話が始まったのかなと思ったのは事実。自分もそのぺ一スに合わせた。リムジンの中ではサリンを撒く話は現実問題となっていない。指示がなかったから。」旨証言しているのである(第15回57丁裏〜60丁表)。
すなわち、リムジン車内で、被告人が本件の実行を決意したという事実は、検察立証の柱となっている井上証言によっても、認めることができないのである。
第2に、遠藤証言も、8を認めているだけで、それ以上の話はなかったというのであり、@〜Fを全面的に否定している。検察官が井上証言を補強しようとした遠藤証言も、実質的には井上証言を否定する内容になっている。
第3に、石川証言は、後記のとおり、強制捜査、阪神大震災、自作自演の点を除いて、すべて否定している。
井上証言が信用できないことは、検察官も認め、ジフロ保管の点以外にも、数々あり、これまで指摘してきたとおりであるが、このような同乗者である遠藤及び石川の各証言に照らすと、井上証言だけで、上記1〜8を認定し、10が成立するとすることは不可能である。
このように、論告の車中謀議は雲散霧消し、車中謀議を立証する証人は、「護もいなくなった」のである。リムジン車中謀議の架空性は明白である。
d 井上証言の矛盾・非合理性等
井上証言が信用できないことはすでに各所で述べてきたが、このリムジン内での証言も不自然かつ不合理で到底信用し難いものである。
以下、箇条書きにする。
1、 井上自身、弁護人の反対尋問に対して、リムジン内での会話につき、「常識からみると、空想的、絵空事の話はオウムではよくあった。被告人と弟子との間でよくそういう話がされていた。村井や早川がいるところでよくそういう話を見聞きしたことがある。ほとんどが空想的な話を何とか現実にしたいなという願望が混じった話が多かった。リムジンでの青山の「いつになったら四つになって戦えるんでしょうか」と言う言葉自体が非常に現実離れをしている。いつもの話が始まったのかなと思ったのは事実。自分もそのぺ一スに合わせた。リムジンの中では現実間題となっていない。指示がなかったから。」(第15回57丁裏〜60丁表)と証言している。そうであれば、その後の「サリンを撒け」という趣旨の被告人らの言葉が仮に事実であったとしても、「非現実的」な話になるはずである。井上自身が矛盾したことを証言しているのである。
2、 また、サリンが作れるかどうか確認できてはじめて、「サリンでなければだめだ」ということになるはずである。サリンを捨ててしまった、あるいは出来ないのにそんなことを言うはずがない。いかにも不自然で合理性のない証言である。しかも、井上は、捜査段階ではこのようなことは供述していないのである。
3、 「総指揮でやれ」とは「地下鉄にサリンを撒くことだと思った」と言うが、このリムジンの中では決定していないのである。決定していないのに「総指揮でやれ」というはずがない。まったく不自然な証言である。
4、 「イニシエーションはやめるしかない」という話になったと言うが、強制捜査が入ったら危険であるとして用心する者が、一方でサリンを撒けということは極めて不自然であり得ない話である。
5、 指紋除去の許可を得るためにリムジンに乗ったというにもかかわらず、井上はリムジン内で被告人に対し、その件についてまったく話をしていない。「ぼおっとしていた。言いそびれた」と言うが、説得力がない。検面調書にも指紋除去が乗車の理由だということは出ていない。
6、 「ジーヴァカ、サリン作れるか」と聞いた時、私も「ああ中川が隠しているサリンがありますね」と話を何となくしたような記憶がある。遠藤は中川が隠したサリンの材料があることを知っていたようだった。被告人が知っていたかどうかはわからない」と証言しているが、遠藤は中川からジフロを預かるまではジフロがあることは知らなかったので、これに反しており、信用できない。
なお、被告人が知っていたら「材料があるだろう」という話があってもおかしくない。これは知らなかったことを意味する。
7、 乗車位置について、「被告人の真ん前には座らなかった。遠藤が私の真ん前になる」と証言しているが、遠藤及び石川証言に反していて、信用できない。また、rうたたね寝していたこともあってリムジンの中での話は、はっきりとは覚えていない。四つになって戦うというところまでうたた寝をしていた」などと証言しているが、うたた寝したというのは捜査段階の調書には出て来ない。都合の悪いことは聞いていなかったことにするためうたた寝をしていたと証言しているとしか考えられない。
8、 捜査段階の調書では、「ボツリヌス菌かサリンか硫酸か」「サリンでないとだめだ」という話は出てこない。
以上、証言それ自体が不自然で不合理なものであって、到底信用できるものではない。
ウ 石川証言との関係
(ア) これまでに検討してきた通り、車中謀議を立証する柱としての井上証言は、ジフロ保管やリムジン乗車の理由など、重要な点で虚偽性が明らかになり、その井上証言によっても、車中謀議の最終的な成立・決定を立証することができないのである。
そこで、さらに、そのリムジン車内では、いったい、どのような論議が行われていたのかについて、もう一つの重要証拠である石川証言(第233・234回)を整理しておく。
なお、石川の検面調書の信用性の間題については後記であらためて述べる。
(イ) 石川証言の概要
石川証言の主な内容を拾い出すと、大要、次のとおりである。
1、 識華では強制捜査の話は出なかった。
2、 リムジン内で、強制捜査があると言ったのか、近いと言ったのか、その話があった。
3、 私のほうから、自分を撃ってくださいというような話をして、その話が立ち消えみたいな形になった。調書では捨身供養という言葉がでてくる。足を撃ってくださいというふうなことを言ったんじゃないかと思う。小銃で撃ってくださいということだった。言葉として小銃というのは出てないと思う。頭の中のイメージであったのは、その元旦の目に見せられた小銃。それは最終的には、没というか、立ち消えになった。私が対外的に当時無名であったというふうなことが麻原からあった。麻原自身か、若しくは妻の松本知子さんでないとそれは意味がない。意味がないというのは私とオウムが結びついていないわけでわけですから。
4、 さらにどうするかということで、教団の道場か、あるいは、教団に対するシンパの人に対して、反オウムというか、オウムに対して敵対的な感情を持っているものが、何か嫌がらせをしたように装えば、オウムが被害者であるという流れができるんじゃないかという話があった。そして自分はそれに関して、ビラを作りなさいという話が麻原のほうからあった。ビラを撒くこと、作ること自体については、リムジンの段階で、確かなものだったというふうには思っている。創価学会がやったように見せかけろと、創価学会の仕業と分かるようなビラを作るような話があったのは間違いない。創価学会という名前は出ている。杜会を混乱させるというビラの内容は全然漠然としていた。
5、 その後、順番がここははっきりしないが、阪神大震災があって、強制捜査が延期になったというふうな話があった。その阪神大震災のような混乱があれば、強制捜査がまた延期になるんじゃないかというふうな話があったと思う。
6、 大規模な援乱を起こせばということ。それは言葉として出てると思う。その前に阪神大震災の話があったと思う。阪神大震災の話があって、そのために強制捜査が遅れたというのはリムジンの中でも出てきてると思う。それを受けて、自分としては地震兵器を思い浮かべた。
7、 地震兵器自体の存在は、当時、僕もほんとに阪神大震災というのは地震兵器で起こったもんだというふうに思ってた。地震兵器があるということ自体は、サマナの間で、地震兵器で阪神大震災が起こったというふうにかなりの人が思ってたと思う。サマナの中で。阪神大震災というような話があったんで、僕としては混乱を起こさせるというその話というのは、麻原が考えているのはその地震兵器のことで考えているのかなというふうな僕の認識だった。
8、 (車中で)寝たという記憶はない。ただ、記憶が飛びそうになったことはあったと思う。
9、 車に乗り込んで、何か雑談があったような気がする。
10、 今記憶に残っているのは、習志野に自衛隊が集まっているというのかな、そういう話があって、それは強制捜査が近く行われるという、まあ証拠であるというか、そういうふうな趣旨の話があったと思う。(麻原から)あったと思う。
(ウ) 井上証言及び遠藤証言との対比
石川の証言の概要は上記のとおりであるが、井上又は遠藤が証言している、1青山から「いつになったら四つになって戦えるのでしょうか」との言葉、2アタッシュケース事件についての、村井や被告人の会話、3T又は妖術等サリンを意味する言葉とその会話、4被告人がサリンを撒いたら強制捜査がくるかなどと尋ねたこと、5廣瀬、横山、豊田、林泰男及び林郁夫の人名及び彼らをサリン撤布に使らとの話、6被告人が遠藤に対して、「サリンを造れるか」と聞き、遠藤が答えたとする部分等、リムジン車中謀議に関する井上証言も、遠藤証言も、それらの供述内容は存在していなかったことになるのであり、「被告人は、村井にサリン撒布計画の総指揮、井上に一連のVX暗殺事件・假谷拉致事件等と同様の現場指揮、遠藤にはサリン生成を命じ、村井ら3名はいずれも了承して本件犯行の謀議が成立した」と評価しうる話は一切なかった。
井上及び遠藤とも、検察側に迎合する必要がある立場にいること、殊に、検察官立証の主柱としての井上証言がすでに重要な点で虚偽性を暴露していることを考えると、現在は、完全な第三者の立場にいて、何を述べても自分に不利益になることのない石川証言の方がはるかに信用できるのであり、強い真実性を有している。石川の検面調書も基本的には証言と異なるところはなく、石川供述は一貫していることからすると、石川証言の信用性は高い。したがって、石川証言に反する車中謀議に関する井上証言及び遠藤証言が虚偽であることは明白である。
(エ) 事件後の石川の証言
ところで、石川は、1995年(平成7年)1月1日以降、教団でサリンを作っているとは思っていなかったと述べているが、その石川証言の真実性をひときわ顕著に示している証言がある。以下の検察官の反対尋問が、それである。
検察官 証人は、その井上から証人の携帯電話にかかってきた電話のあと、車のラジオ放送で地下鉄サリン事件を知ったと。
石川 はい。
検察官 それで、そのラジオ放送で地下鉄サリン事件の発生を知ったときに、その地下鉄サリン事件、ラジオ放送で放送しているその事件が、そのリムジンの中で、被告人らが話し合っていたその事件のことだな、そういうふうに分かったわけですね。
石川 そうですね。そのとおりです。
検察官 それで、地下鉄サリン事件の発生を聞いた最初の印象、瞬間に、どういう印象というか、感じを抱きましたか。
石川 正に、ああ、これ、今検事さんがおっしゃったことなんですけれども、ああ、これだなと、これがリムジンの中で言っていたことなんだなというふうに思いました。
検察官 あなたの中ではすぐ結びついたと、こういうことですね。
石川 はい。
仮に、石川が、リムジン車中で、「サリン」の一言でも聞いていれば、こういう証言にはならなかったであろう。この石川証言は、疑いもなく、石川が、地下鉄サリン事件が現実に発生するまで、教団幹部が地下鉄にサリンを撒布することを全く知らなかったという事実をごく自然にかつ明確に示している。リムジン車中謀議に関する井上証言及び遠藤証言の虚偽性は、ますます明白であると言うべきである。
(3) その他の井上証言の信用性
ア 論告が指摘する井上証言の間題点
リムジン車中謀議についての検察官の主張は、井上証言を基礎とし、遠藤証言を補強的な根拠としていると思われるが、上記のとおり、リムジン車内での会話を巡る井上の証言の虚偽性は明白であるが、その他の点についても、井上証言の信用性については多大な疑問がある。検察官も、敢えて「井上証言の信用性」と題する項目を設けて、井上証言の信用性について触れているくらいである。
すなわち、「確かに、リムジン車内での話合いに関する井上証言は、強制捜査を牽制するため硫酸の撒布を提案したとする点、村井が総指揮者に指名されて自分は本件から外されたとする点など」については、「本件当時の井上の地位、本件前後の井上の行動等からすると不自然で、既に死亡している村井に責任転嫁して、本件において村井に次ぐ現場指揮者という重要な立場にあった事実を隠蔽あるいは歪曲化しようとしている感を否めない」として、(被告人及び弁護人が指摘するように)これらの点についての井上証言が信用できないことを認めながらも、「本件に関する井上の証言を関係各証拠と照らし合わせつぶさに検討すると、同証言中の不自然で信用できない部分は、@地下鉄サリン事件と本体と自作自演事件とを分断し、前者は村井の担当であり、後者は井上の担当であり、地下鉄サリン事件本体には消極的な関与しかしていないとする点、A東京における実行役及び運転手役の統率は林泰男の担当であって、井上自身は、村井の指示を受けて、渋谷アジトで実行役と運転手役の組合せを伝達したにすぎないとする2点に集約できる」とする。
そして、「要するに、本件における自己の役割を倭小化して、死刑判決を回避するために、1については、既に死亡して反論できない村井に責任を転嫁し、2については、証言時点では逃亡中であった林泰男に責任転嫁しようとしたもの」であるとしながらも、井上証言中の「上記2点に関する部分を除けば、その余の証言部分は、他の共犯者の証言や客観的証拠とも合致しており、むしろ信用性が高いと評価できる。殊に、被告人との共謀に関する証言部分については、十分な信用性が認められる」とする(以上、論告209丁〜210丁)。
しかし、検察官が信用できないと指摘する部分はまったくそのとおりであるが、信用できない部分は上記2点紅集約されるとする点及びその他の点についてはむしろ信用性が高いとする点は根本的に誤っている。井上証言は全般的に信用できないものであり、そのことはすでに詳述したとおりである。
井上証言が信用できず、自己の責任を転嫁しようとしていることは、上記「事実経過」でも詳細に述べたところであり、井上は、すでに述べたところ以外の部分でも虚偽を述べているが、次項で、いわゆる修法の場面についてのみ述べておく。
イ 修法場面の目撃について
検察官は、「車中謀議」の補強事実の一つとして、「(3月20日午前2時前頃)被告人は、村井に対し、『お前がしっかりやればそれでいい』と答えた。また、この時、遠藤が前記サリン入りビニール袋11袋を収納した段ボール箱を持って入室し、被告人に『修法』(被告人がエネルギーを注入することによって物を浄化し効果を高める儀式)を求めて来たので、被告人は、同段ボール箱の底に手を当てながら瞑想し『修法』を行った」と主張するが(論告188丁)、これは、次の井上証言(第9回114丁裏〜116丁表)に依拠するものである。
「(被告人の)部屋を出て行こうとしました。遠藤誠一さんが入ってきたので、それを見ていました。段ボールの箱を持っていたようでした。私が玄関から見ていた様子では、松本智津夫氏のほうに近づいて行きました。…(遠藤は)「ええ、中にサリンが入っていますよ」と言っていました。(被告人は)私が聞こえた言葉では、「ジーヴァカ、それちょっと持っとけ」というふうに聞こえました。(被告人は)私が玄関から見ていた様子では、段ボールの箱の下に手を触れて、瞑想されていました」というものである。
しかし、この井上証言も、「弟子が持っているものを、麻原さんが…弟子に持たせたまま修法すること」はありえないという、次の石川証言(第234回142丁)によって明確に否定されている。
「つまり、修法した後弟子が触るというのは、これはあり得る話なんです。その修法されたものを高弟が持ってそれでまた下のステージの人に渡すというのは、もう既に修法された後なので、僕の理解ではね、エネルギーが固定化されてるような状態だったというふうに理解してるんです。ただ、修法の最中に弟子が持てば、これはグルのイニシェーションの意味がなくなるんじゃないか」。
弟子に物を持たせたままの「修法」では、「宗教的な意味がなくなる」ということであり、石川は、そのことを、「イニシェーションを担当してた経験から」分かるというのである。この石川証言は、教団の教義とルーティンに合致しており、この石川証言を合理的な根拠と理由で否定する証拠はない。井上証言の虚偽性がここでも明らかとなったのである。
(4) 遠藤証言の信用性
ア 論告の根拠
検察官は、リムジン車中謀議を補強する事実として、被告人が遠藤にサリンの生成を指示したことを挙げる。すなわち、「被告人は、今回は強制廃棄装置が撤去されていないジーヴァカ棟でサリン生成を行わなければならず、そのためには遠藤が中心となって生成作業を進める必要があると考えていたところ、同月18日午後11時頃、第6サティアン1階の自室に遠藤が村井に連れられてやって来たことから、遠藤に対し、『お前もやるんだろ。ジーヴァカ(遠藤)、サリン造れよ』などと言って、中川や土谷に任せきりにせず遠藤自身も責任をもってサリン生成に取り組むよう注意した」、「被告人は、同月19日昼前頃、自室に遠藤を呼んで、同人に対し、サリンの進捗状況を尋ねたところ、まだ生成に着手していなかったため、早急にサリンの生成に着手するよう命じた」、「遠藤が同日午後10時30分頃、被告人の部屋に行き、被告人に対し、『できたみたいです。ただし、まだ純粋な形ではなく、混合物です』と報告した上、分留の要否について被告人の判断を仰いだところ、被告人は、分留していては翌20日朝の犯行に間に合わないと考え、遠藤に対し、『ジーヴァカ、それでいいよ。それ以上やらなくていいから』と言って、サリンを分留せずに混合液のままで使用することを了承した」等と主張するのであるが(論告177丁〜178丁)、この被告人の遠藤に対する指示の部分は遠藤の証言に依拠している。
しかし、遠藤は、サリン生成は中川や土谷が主導的な立場で進め、自己の役割をできるだけ小さくしようとしており、その証言は信用し難く、また、生成の進捗に応じて被告人から指示があったとする点についての証言も信用し難い。被告人からの指示の場面及び生成過程でのいくつかの場面を挙げて、以下のとおり、遠藤証言が信用できないことを指摘する。
イ 中川からジフロを受け取った場面
中川が村井から受け取ったジフロを遠藤に渡した場面について、中川の証言は、「遠藤はクーラーボックスを開けると、『どうして1本しかないのか』と聞き、また、『ジクロないの?』と驚いた。遠藤は『できるのか?』と中川に尋ねたので、中川は、『イソプロピルアルコールがあればできるんじゃないですか』と村井に言われたことを答えた。すると、遠藤は『クシティガルバ師(土谷)に相談してみる。また、連絡する』などと言った。遠藤は急いでいる様子はなかった」というものである(中川尋問速記録第184回3丁、5丁〜6丁、第190回63丁〜67丁)。
この場面での遠藤証言は、「中川は『持ってきましたよ。サリン造らないと、ただ、ジクロがないんですよね』と言った。『ジクロなしでサリンを造れるのか』と私が聞いたら、今度は別のやり方でやるから、ジフロからサリンを造るやり方は何通りかあるんですよ』と言った。中川は、ジフロから造るやり方に関して、ジフロにイソプロピルアルコールのみを入れるやり方、ジフロにトリエチルアミンを入れて、イソプロピルアルコールを加えるやり方、この2通りのやり方がある、と言っていた。中川はすぐ造ろうという感じがあったが、私は本当なのかなという気持ちがあった。私が中川に、どれくらい時間がかかるのか聞いたら、中川は、『ちゃんとやったことはないが、半日はかからないだろう、だから明日の朝、強制捜査が来るとしてもそれまでには終わっているんじゃないか』と言った。私が時間のことを気にしたら、翌朝、強制捜査がないことを確認してからやろうということになった。強制捜査は朝来なかったら入らないだろうと教団では前から言われていた」というものである(第216回31丁〜33丁、35丁、第218回1丁〜3丁)。
遠藤は、いかにも、自分がサリン生成方法についてはまったく無知であったかを装っているが、それまで生成には関与していないものの、クシティガルバ棟には出入りし、サリン生成についての知識はある程度あり、教団ではジフロとジクロを使用して生成していたことは承知していた(土谷尋問速記録第245回93丁)。それ故、自分から「ジクロないの?」と中川に尋ねたのである。遠藤が「ジクロなしでサリンを造れるのか」と聞く事自体あり得ないことである。
また、後記のとおり、サリン生成方法については、遠藤も意見を出していたのであり、上記「2通り」のやり方のうち、ジフロにトリエチルアミンを入れて、イソプロピルアルコールを加えるやり方については、遠藤が、ジフロとNNジエチルアニリンとヘキサンを混ぜて、それにイソプロピルアルコールを滴下する方法を中川に提案したが、NNジエチルアニリンは教団で大量に購入している薬品なので、それを使ってサリンを造ったら、押収されたらすぐに教団で造ったものだとわかるとの懸念があり、中川がそのことを言ったところ、遠藤がジフロにトリエチルアミンを入れて、イソプロピルアルコールを加えるやり方を提案したのであった。自分が発言したことを他人が言ったことにして責任を軽くしようするための虚偽証言である。
次に、中川は、上記のとおり、村井からジフロを受け取った際に、目的や期限を言われたわけではなく、中川自身急いで造ろうなどと考えていたこともなく、中川も、遠藤が急いでいたようには見えなかった旨証言しているのであり、そうだとすると、「中川はすぐ造ろうという感じがあった」というのも中川に責任を転嫁するための虚偽証言である。
「強制捜査が来ないことがわかってから生成をする」というのも極めて不自然である。遠藤自身、この頃は強制捜査が近いとの認識を持っていたのであり(遠藤尋問速記録第218回2丁)、強制捜査が翌朝来ずに生成を始めたとしても、その最中に、あるいは生成後に強制捜査が来ることは容易に予測できるのである。しかも、中川が言ったというのであるが、このような不自然で非常識なことを中川であれ誰であれ言うとは考えられない。遠藤は、弁護人の「できた後に、強制捜査が入る可能性がある。サリンの現物そのものが見つかったほうがもっと具合が悪いのではないか」との質問に対して、「そこまでは考えてなかった」旨答えているが(第218回3丁)、このようなことを考えない方が不自然である。まったく不合理な証言であって、信用できない。
ウ 土谷への依頼の場面
遠藤は、中川からジフロを受け取った後、土谷をCMI棟に呼んだが、この場面での土谷証言は、「遠藤から『ジフロからサリンを造る』との趣旨のことを言われた。遠藤はジフロを持っていたので、私は何でジフロがあるのかと驚いた。合成方法を尋ねられたので、『ジクロがあれば』と言いかけたところ、遠藤は『ジクロはないんだ。ジフロから造らねぱいけないんだ。合成方法を教えてくれ』と言い、さらに、『ジフロであるかどうか分析して確認してくれ』と土谷に依頼し、ジフロ入りのポリ容器を土谷に渡した」というものである(土谷尋問速記録第245回88丁〜95丁)。
この場面での遠藤の証言は、「『これジフロなんだけど、君らの方でやるんだろう。とりあえず分析してみたら』と言った。土谷がやると思っていた」というものである(第216回35丁〜36丁、第218回11丁)。そして、遠藤は、「中川がジフロからサリンの生成方法を調査していた。中川がサリンの専門家である以上、中川を差し置いて、土谷には聞かない」などとして、遠藤から土谷に対してジフロからサリンを造れるかと聞いたことを否定する(第218回51丁〜52丁)。
しかし、土谷がこのような点で嘘を言う必要は少しもない。遠藤は中川からジフロを受け取ったことは認めていること、中川はジフロからサリンを生成したことがなかったが、村井から言われたとおり、ジフロから造ると伝えたこと、遠藤も知識としてはジフロとジクロから通常は生成することは知っていたこと等からすると、遠藤が、中川以上にサリン生成に詳しい土谷に聞くのは当然のことである。
また、リムジン車内で、一般論だとしても、被告人からサリンを造れるかと聞かれたというのであり、その後、村井からも話があり、井上からも電話があり、中川からジフロを受け取ったという流れの中で、それでもサリン生成は「土谷がやると思っていた」との証言は極めて不自然である。
エ 3月18日午後11時頃の被告人の指示場面
(ア) 遠藤は、「3月18日午後11時頃、第6サティアン1階の被告人の部屋で被告人から、サリンを造るよう指示された」旨証言する(第208回10丁〜11丁)。
しかし、被告人の部屋に行った経緯についての遠藤の証言は、「はっきりしないが、呼ばれて行った可能性もあるし、被告人以外の用件で第6サティアンの1階に行ったときに、ちょうど村井がリビングにいたので、村井と顔が合って、そのまま被告人の部屋に連れて行かれたという印象もある」というもので(同10丁)、極めて暖味である。
そこで、この点について、検討するが、この経緯に関する弁護人の質間に対する遠藤の答えを整理すると、要点は次のとおりである(第218回27丁〜28丁、136丁〜140丁)。
1、 遠藤が、自分の用件で被告人の部屋を訪れたことはない。
2、 被告人に呼ばれたのと村井に連れて行かれたのは、五分五分若しくは後者の可能性が大きい。
3、 呼ばれたとしても、被告人ではなく、村井に呼ばれた可能性はある。被告人に呼ばれた記憶はない。
4、 平成7年5月31日付検察官調書で、遠藤が、被告人の自宅に行った時、村井は、被告人の寝室にいたと述べているとしても、今の記憶では、村井はリビングにいて、顔が合って、被告人の部屋に連れていかれたという記憶である。
5、 第6サティアンの1階に行って、村井の顔を見た記憶がある。そしたら、いきなり被告人の部屋に連れて行かれた。
6、 被告人宅を訪れた村井のもともとの用事は分からない。
7、 被告人と村井と遠藤の3人で、被告人が、「ジーヴァカ、おまえもやるんだろう」と言ったほかは、話が出た記憶がない。
8、 村井が何のために遠藤を被告人のところへ連れて行ったのかというと、「サリン」のことじゃないかと思う。
9、 そういう大事な用件だとすれば、たまたま出会ったという話ではなくなるので、恐らく村井は遠藤を捜していたかもしれないとは思う。
以上である。
上記のうち、6と8及び9は完全に矛盾している。4については、検面調書が2か月余の後に作成されているのに対し、この遠藤証言は、平成14年1月10日であるから、6年半も経過した後のものである。検察官が常用する論法に従うと、文句なしに検面調書の方に信用性があることになる。そうだとすると、遠藤が第6サティアン1階に行ったとき、村井は被告人の部屋にいたことになり、「ちょうど村井と顔が合ったので」被告人の部屋に連れて行かれたということはあり得ない。
被告人からのサリン生成指示という最も重要な場面で、何故遠藤が被告人の部屋に行ったかという点で、まったく異なる内容の供述をしているということは、そのいずれをも真実として認めることはできないということである。いずれも信用できないと言うべきである。すなわち、この遠藤証言では、遠藤が被告人の部屋に行った経緯も目的もまったく説明できていないということになる。
しかも、遠藤は午後11時頃に被告人の部屋に行ったと言うが、弁護人の質間に対しては、「2時間から3時間の幅がある、すなわち、3月18日午後8時頃から19日午前2時頃までの幅がある」というのであり(第218回16丁〜24丁)、捜査段階における供述でもこの点は極めて暖味となっており、遠藤は意図的にこの時間を暖味にしている可能性が高い。
以上からすると、被告人の遠藤に対する指示の内容を吟味する前に、そもそも、遠藤が被告人の部屋に行ったとの事実そのものがあったかは大いに疑わしい。
(イ) 遠藤は、第6サティアン1階で村井と会ったと言うが、被告人の部屋に入る前も後も、中川からジフロを預かったこと等については村井に一切報告しなかった旨証言する(第218回28丁〜30丁)。
しかし、遠藤は、同日午後2時頃、村井から、「中川が後から行くからよろしく」と言われ、「中川がCMI棟に来たらわかるから従ってくれという意味だ」と認識し、その後、同日午後3時か3時30分頃、井上からの電話で、「中川がそっちに行くから、彼は知っているから」と言われ、その後同日夕方中川からジフロを預かり、土谷のところに行ってサリン合成の方法を尋ね、ジフロの分析を依頼しているのである。遠藤によれば、同日午後2時頃の村井からの指示の後、初めて村井に会ったのである。その遠藤が、村井に対して、サリン生成方法等を含めてこのジフロの件を報告することも、質問することもなく、まったく話さなかったということは考えられないことである。 すなわち、遠藤が第6サティアン1階で村井に会ったというのは嘘であり、したがって、その村井に被告人の部屋に連れていかれたとの証言もまったくの嘘である。
(ウ) 次に、被告人からの指示の場面について遠藤の証言は、「『ジーヴァカ』というような、どこかにそういう言葉は入っていると思います。『お前もやるんだろう』と、だから、『お前もやるんだろう、ジーヴァカ、サリン作れよ』とこんな感じの言葉だった印象はあるんですけれども」(第208回10丁)というものである。「この、『ジーヴァカ、サリン造れよ』という言葉の印象はあるんですか」という弁護人の質問に対しても、「こうだったような気がするんですけど、そう思いますけど」とやはり曖昧で意味不明の証言をするだけで、明確に答えていない(第216回40丁、第218回32丁)。
この「お前もやるんだろう」という被告人の言葉については、遠藤の検面調書にはまったく出ていないが、この点につき、遠藤は、「調書作成の段階では、覚えていなかった。言ったかもしれないが、結局、そういう調書になってしまった」と(第218回33丁〜34丁)、ここでも、曖昧な証言をしており、信用性に乏しい。
何とも漢然とした証言と言う他はなく、このような暖味な証言をもって、被告人がサリン生成を指示したとする根拠とすることは到底できない。
また、遠藤は、被告人の指示は、「お前もやるんだろう」というもので、「お前はやるんだろう」というものではなかったと言うが(同34丁)、一般論だとしても、リムジン車内で遠藤に対してサリンを造れるかと言われたと遠藤は言うのであるから、そのことが事実だとすると、「お前も」という言い方をするのはいかにも不自然である。
さらに、被告人の指示に対して、遠藤は「はい」と答えたと言うのであるが(第208回15丁)、遠藤は、すぐには取りかからなかったというのである。「もともと中川が朝やろうと言っていた。この時はもう夜中で朝まで数時間で、造り始めて強制捜査があったら困る。朝、強制捜査がないことがわかってから中川が来るということが頭にあったので、それからやればいいという感じでしか受け止めていなかった。また、教団の指示は途中で取り消されることがよくあったので、この時もそうかもしれないと思った。それで、すぐにはやらなかった」と証言する(第216回41丁)。
しかし、朝に強制捜査が来るという点については、上記のとおり、サリン生成を遅らせる理由とはなり得ず、指示が取り消される可能性についても、教祖たる被告人の指示であることや取消の可能性を言えぱきりがないこと、現実に遠藤はその後生成を行っていること等からすると、調弁としか言いようがない。そもそも被告人からこのような指示はなかったと考えるのが合理的なのである。
(エ) 以上のとおり、遠藤が被告人の部屋に行ったという経緯、被告人からの指示内容等は極めて不自然であって、およそあり得ないものである。遠藤証言はまったく虚偽の事実を述べたもので、到底信用できるものではない。
オ 生成方法についての中川との会話
次に、中川証言によれぱ、「3月19日未明、私は遠藤に呼ばれてCMI棟に行ったところ、遠藤は、『ジフロとN,Nジエチルアニリンとヘキサンを混ぜて、それにイソプロピルアルコールを滴下する方法で造る』ということを話した。私は、『イソプロピルアルコールを加えるだけでできるんではないか』と言ったところ、土谷に相談することになり、私と遠藤は土谷がいるクシテイガルバ棟に行って土谷と相談した。その結果、私が主張するイソプロピルアルコールを加えるだけの方法ではだめだということになった。この時点でも遠藤は生成を急ぐ様子はなかった」、次に、「私と遠藤は、CMI棟に帰った。私は遠藤に対し、『N,Nジエチルアニリンは教団で大量に購入している薬品なので、それを使ってサリンを造ったら、押収されたらすぐに教団で造ったものだとわかりますよ』と話した。第7サティアンのサリンプラントでN,Nジエチルアニリンを大量に購入していたことを知っていたためだった。そこで、トリエチルアミンを使ったらどうかということになり、私と遠藤は再度土谷を訪ねて、相談したが、トリエチルアミンはすぐには調達できないということだった。その後、遠藤はCMI棟からいなくなったが、19日朝方、私を訪ねてきた。結局、N,Nジエチルアニリンを使う方法でやるということだった」というものである(中川尋問速記録第184回7丁〜10丁、第190回70丁〜87丁)。
遠藤は、これら中川証言についても全面的に否定する(第218回45丁〜49丁)。しかし、中川証言は、遠藤に責任を押しつけるという内容のものではなく、自ら提案したことをも率直に述べている。しかも、この中川証言は土谷証言によっても裏付けられている。
中川証言と土谷証言には食い違いはあるものの、土谷も、合成方法を記載したメモとジフロ入りの容器を遠藤のところに持って行って渡した際に、遠藤に対して、「N,Nジェチルアニリンを使うと失敗する可能性がある」と話したこと、VX合成の実験でNNジエチルアニリンを使って失敗したことは生成に関与したサマナの共通認識であったことから、上司である遠藤が中川に対して、N,Nジェチルアニリンを使うよう指示したと思ったこと、中川が「ジーヴァカ正悟師に言われた」と言って、土谷にサリンを合成する場合の原料の量を聞きに来たこと、その際、土谷が中川に対しトリエチルアミンを使わなければだめだと伝え、トリエチルアミンは第3サティアンにあると言って鍵を渡したこと、その後、遠藤の指示で、試薬、すなわち、イソプロピルアルコールとN,Nジェチルアニリン等を準備したこと、中川が土谷のところに来て、トリエチルアミンは使わないと言ったこと、遠藤及び中川が、クシティガルバ棟にN,Nジエチルアニリンとヘキサン、イソプロピルアルコールを取りに来たこと等を認めている(第245回101丁〜124丁)。
したがって、中川証言は、些末な部分はともかく、大筋では土谷証言とも合致し、信用できる。遠藤と中川との間で上記のようなサリン生成方法についての会話がまったくなかったとする遠藤証言は到底信用できない。
カ 中川へのサリン生成の指示
中川は、「3月19日昼頃、遠藤が私のところに来て、『サリンを造るから来てくれ』と言われた。CMI棟で造るということを言われたが、それまでCMI棟でサリンを造ったことはなく、ドラフトの能力の点から造れるのか疑問を抱いたが、クシティガルバ棟のスーパーハウスがすでに解体されていてため、それが理由なのかと思った。CMI棟に行き、滴下装置の組立等サリン生成の準備を始めたが、遠藤も私も格別作業を急ぐということはなかった。同日午後2時か3時頃、準備は終了した。生成を開始出来る状態だった」と証言している(中川尋問速記録第184回11丁〜13丁、第190回97丁〜103丁、第191回1丁〜18丁)。
遠藤は、同人が中川を呼びに行ったとのこの中川証言も嘘だと言うが(第218回50丁〜51丁)、この点でも中川が嘘を言う理由はまったくない。上記のとおり、遠藤も、合成方法について中川や土谷らと相談をして準備をしていたこと、クシティガルバ棟は使えず、CMI棟でやるしかないこと、CMI棟は遠藤が管理していたこと等からすると、サリン生成の準備をするに際して、遠藤が中川を呼びに来ることは極めて自然かつ合理的である。ここでも、遠藤は自分が少しでも消極的であったと言いたいがため、虚偽の証言をしているのである。
キ 3月19日昼前頃の被告人の指示の場面
(ア) 遠藤は、「3月19日昼前後頃、第6サテイアン1階の被告人の部屋で被告人からサリン生成の指示を受けた」旨の証言をする(第208回1丁〜14丁)。
遠藤が、被告人の部屋に行った経緯についての遠藤証言は、「翌朝午前11時前に中川が来た。『早くやれ』と言われた。『早くやらないと』と言った。中川からCMI棟にどういう器具があるか聞かれた。中川はさらに『防毒マスクがあるか』と聞いてきた。95年の1月1日の段階で村井がCMI棟の防毒マスクを全部回収した。どこかに隠したらしい。『防毒マスクはCMI棟にはない』と言ったら、中川は『必要だから探さなくちゃ』と言った。それで、私は回収した防毒マスクを村井がどこに隠したかを聞きに行こうと思った。中川は、防毒マスクの代わりになるものを探して来るということだった。この段階でも製法は間題となっていない。村井は当時第7サティアンに結構いたから、第7サティアンの村井のところに行ったら、警備の人から、村井は第6サティアンに行っていると言われた。それで私は、第6サティアンに行った。第6サティアンの外で、村井は被告人の部屋に行っていると言われたので、私は第6サティアン1階のリビングの方に行った。ちょうど村井がいた。被告人の部屋から出てきた直後だったかもしれない。村井が『ちょっと聞け』というようなことを言ったような気がする。その段階で防毒マスクのことを聞いた可能性もある。聞いたとしたら、上九一色村にはないということだった。上九一色村以外のどこかに隠したという意味で言った。具体的な場所は何も言わなかった。また村井に連れられるような感じで被告人の部屋に入った」というものである(第208回11丁、第216回42丁〜45丁)。
(イ) この「防毒マスク探し」に関する弁護人と遠藤とのやりとりは次のとおりであった。
1 弁護人 5月31日付けの調書を見ますと、3月18日の夜、つまり、麻原さんの部屋からあなたがジーヴァカ棟に戻った後、そこにマンジュシュリーミトラ正大師が来て、早くやってくれ、20日の夜中までに造ってくれと言ったと、こう書いてあるの。20日というのは、19日の間違いだろうと思いますけれども、いいんでしょうね、そういうことで。
遠藤 だから、それが、間の時間が全く抜かされていて、3月19日の本当は昼なんだけれども、3月18日の夜、すぐ後のことのように書かれているんで、そこが違うと言っているわけです。
弁護人 そうすると、このとき村井さんか早くやってくれ、20日の夜中までに造ってくれと言われたというのは、3月19日の昼ごろになるわけ。
遠藤 そうです(検察官調書の目時を修正し、場所は修正なし)。
2 弁護人 続いて、そこで私は早速作業に取り掛かるため、まず防毒マスクを捜した。私はヴァジラテッサ師とサリンを造る作業をやり遂げなければならないと考えた。そして、フラスコなどで造ったサリンを何かの容器に必ず移し替えることになるし、作業中何かあった場合、私やヴァジラテッサ師が誤ってサリンを吸ってはいけないと考え、防毒マスクを捜した。こういう具合に供述記載がありますが、これは正しいんですか。
遠藤 だから、村井さんが早くやれという前に、既に防毒マスクの在りかはどこなのかというのは村井さんに聞いています。ただし、村井さんと会った後で、防毒マスクの未回収の分がないかどうかというのは…捜しています。そういう意味では、それは正しいんです。
3 弁護人 この5月31日付けの調書と6月4日付けの検事調書をまとめてみますと、要するに、村井さんから、今日中に造れと言われたり、あるいは、20日ごろの午前0時まで造れと、そういう具合に言われたと理解して、もう半日しかないというせっぱ詰まった気持になってサリン生成の作業に取り掛かったと。で、その最初が防毒マスク捜しだったと、こういう具合に調書で述べているんですけれども、その経過自体はそれでいいんですか。
遠藤 せっぱ詰まったというのは、19日の昼ぐらいというよりは、昼から夕方にかけてはそういう気持になったのは確かですよ…昼から夕方にかけてですね…」(第218回141丁〜142丁)
1の遠藤証言によれば、3月19日の昼頃、村井は、ジーヴァカ棟に遠藤を訪ねてきて、「早くやってくれ」と催促したと言うのである。そして、2の遠藤証言によれば、村井がその催促をする前に、遠藤は防毒マスクの在処を村井に聞いたと言うのである。3遠藤証言によれぱ、この村井の催促によって、遠藤は「せっぱ詰まった」という気持ちになった。それは19日の昼以降夕方であったというのである。
そうだとすれば、同日同時刻頃に、遠藤が、防毒マスクの在処を聞くために第6サティアンまで村井を探しに行き、そこで、村井に連れられて被告人の部屋に入ったということはあり得ないことである。遠藤が村井を捜して、被告人の部屋まで行く必要も機会もなかったのである。すなわち、3月19日昼前頃、被告人の部屋に行ったとの遠藤証言はまったくの虚偽である。これは遠藤証言の致命的な矛盾であり、遠藤証言の信用性は完全に否定された。
(ウ) また、中川はこの防毒マスクについて、「マスクがいるというのは遠藤から言われた。遠藤から言われたのは、生成の準備が終わった3月19日の午後2時か3時前後頃である。それで、私と遠藤とで土谷のところに宇宙服を探しに行ったが、ないということだった。それで、それに代わるものを作ろうということになって、ビニール袋を被って中に空気を送り込むという装置をCMI棟の中で作った。滴下を始めたのと装置(マスク)を作り始めたのがどちらが先だったかはわからない。滴下するだけならマスクはいらない。密閉した非常に限定したところでサリンができるから要らない。マスクがなくてもできる。遠藤がマスクが必要な段階としてはサリンを取り出す時を念頭に置いたと思う」旨の証言をしている(第191回22丁〜26丁)。
この点に関して中川が敢えて虚偽の証言をする必要は豪もないが、遠藤がマスクがいると言い出したのは、19日の午後2時か3時前後頃であること、しかも、中川から言い出したのではなく、遠藤自らが言い出したことからすると、中川から防毒マスクのことを言われて、村井を探しに行き、同日昼頃に被告人の部屋に行ったという証言がまったくのでたらめであることは、この中川証言からも明らかである。
(エ) 次に、被告人からの指示の場面についての遠藤の証言は、「被告人から『まだやっていないんだろう』と、こう言われました。それで、私が、『はい、やってません』と言ったら、麻原さんが、『そうか』と、こう言いました」「前日の流れ及び午前11時頃中川が来た段階で、中川が『早く始めなければいけない』と言っていたので、これはサリンのことだと思った」、「サリンという言葉は出ていない」、「この時もこれだけの会話だった」というものである(第208回11丁〜12丁)。
そして、被告人の部屋を出た後、「村井に『回収した防毒マスクはどうなったのか』と聞いた。村井はその防毒マスクに関する返事もしたが、それ以外に『早くやってくれ、今日中にやってくれ』、『中川は知っているから、彼に従えぱいいから』、『中川は前々からCMI棟しかないと言っているんだ』と言った。村井が言った『今日中』というのは、3月20日の午前O時という意味で受け取った」と証言している(同12丁〜13丁)。
しかし、上記したとおり、遠藤が防毒マスクのことで村井を探しに行き、その流れで被告人の部屋に行ったとの事実はなく、したがって、遠藤が被告人の部屋で被告人から上記のようなことを聞かれたという事実もない。遠藤証言はまったくの虚偽である。
検察官は、「同月19日昼前頃、被告人は自室に遠藤を呼んで、同人に対し、サリン生成の進捗状況を尋ねたところ、まだ生成に着手していなかったため、早急にサリンの生成に着手するよう命じた」と主張するが(論告178丁)、仮に遠藤証言が事実であったとして、遠藤証言には検察官が主張するような「命じた」要素は微塵もない。
また、平成7年6月5日付の検察官調書7項には、「被告人の部屋での話として、実はこの時、尊師から『今日じゅうに造れ』と言われた」旨の記載があるが、これについては、遠藤は「それは完全に間違いだ」と断定した(同14丁)。遠藤は、検面調書がこのような内容となった理由について、「調書作成当時も、被告人から言われたという記憶はなかったが、調書作成前に、ショートケーキをもらったため、曖昧なまま署名した」というものである(第218回41丁)。
上記論告は、遠藤証言に依拠しているが、その遠藤も、「被告人が早急にサリンの生成に着手するよう命じた」点は真っ向から否定しているのである。論告はまったく理由がない。
ク 製法の検討について
遠藤は、「上記の3月19日昼前後頃の被告人からの指示までの間、サリン製法について自分の頭の中ではまったく問題になっていなかった。村井、中川、土谷との間でも製法についてはまったく話はしていない。製法自体を考えていたのは中川だ」と証言している(第218回44丁〜45丁)。
しかし、これまで引用してきた中川及び土谷の証言に照らしても、この遠藤証言は明らかに虚偽である。
遠藤が、3月18日夕方に中川からジフロを受け取ってから、土谷のところに行って相談に行き、その後も、中川及び土谷と製法について意見交換していたことは疑いようのない事実である。
土谷証言については、教団で昼夜区別のない生活をしていたこともあって、日時に関しての記憶は不正確であるが、同人がサリン生成の経緯で虚偽を述べる必要はまったくなく、そのことは土谷の証言態度からも十分納得できることであること、中川についても、同人は本件だけでなく多数の事件に共犯として関与し、極刑は免れないと覚悟していることからしても、このサリン生成の経過に関してのみ虚偽を述べる理由が些かもないこと、土谷及び中川の証言は、細部についてはともかく、大筋では合致していること、以上からすると、遠藤は、土谷や中川の意見を聴き、両名とも相談しながら、サリン生成の製法を検討していたことは明白である。遠藤は少しでも自己の役割を卑小化するために、ここでも虚偽を述べているのであり、まったく信用性できない。
ケ 田下供述について
遠藤の指示で滴下作業をしていた田下は、「私が、ドラフト室の廊下に出て顕微鏡室に行った帰り際、外からCMI棟に帰ってきた感じの丸山一男さんと会い、彼が、『今、第2上九に警察が来ているようだと警備の人が言っていた』と言われ、第2上九は麻原尊師がいる第6サテイアンがあるところで、第10サティアン近くのCMI棟のあるところは離れていますが、慌ててジーヴァカ正悟師に伝えたのです。私は、警察が近くまで来ているのにサリンを造っているのを発見されたら大変なことになると思い、当然ジーヴァカ正悟師は作業を止めると思ったのですが、同人はサリン製造をやめようとするどころか、滴下漏斗のつまみを更にゆるめ、滴下の量を更に増やしたのです。私はなぜそんなに無理をするのかと思い、ジーヴァカ正悟師に、『何時までに造るんですか、明日の朝までですか』と聞くと、彼は『それじゃ遅いんだ、今日中なんだ』と言うので、その時8時過ぎくらいでしたので、あと3,4時間でサリンを造るのかと思い、そんなに急がされているということは、近々どこかに撒いて使う予定があるのかなと嫌な感じを受けたのです」
この点につき、遠藤は全面的に記憶がない旨証言したが(第218回65丁〜68丁)、田下がこのようなところで、嘘を言う理由はないこと、警察が来ているという事実は極めて印象的なことであり、遠藤自身が強制捜査のことを意識し、3月19日の朝になって強制捜査が来なかったらサリンの生成をしようとの中川の提案にしたがったと証言していること、上記のとおり、3月19日の昼から夕方頃からせっぱ詰まった気持ちになったと証言していること、しかも、まさしくサリン生成中のできごとであること等からすると、記憶がないはずがない。ここでも、自己の役割を卑小化するために露骨な虚偽証言をしているのである。
コ 3月19日午後10時30分頃の被告人の指示の場面
(ア) 遠藤は、「3月19日午後10時半から11時の間に第6サティアン1階の被告人の部屋で、サリン生成についての指示があった」旨証言し(第208回14丁)、被告人の部屋に行った経緯については、概ね次のとおり証言している。
「サリンがある程度できたような状態だったが、混合物が3割程度あった。中川が分留することにこだわっていた。中川が土谷に分留について聞いていた。中川は分留するかどうか村井に聞きに行っていて、『今、回答待ちだ』と言っていた。この頃、青山道場に火炎瓶が投げられたという情報が入ってきた。午後10時頃、大阪支部に強制捜査が入ったという情報も知った。それで、クシティガルバ棟に行った。土谷に分留にどのくらい時間がかかるか聞いたら、『半日か1日かかる』ということだった。中川は村井の回答待ちだと言っていたが、事情が変わった。大阪支部に強制捜査が入ったのでいつまでもCMI棟にサリンを置いておけないと思った。第7サティアンはクシティガルバ棟のすぐそばなので、外に出たついでに、村井にどうしたらいいか聞こうと思って、第7サティアンに行った。午後10時過ぎだった。村井の部屋に行ったら、村井がいた。『分留の件どうするんですか』『土谷に聞いたら半日か1日かかると言っているんですけど』と聞いたら、『ちょっと待ってくれ』と言われたので、CMI棟に戻った。CMI棟に戻って、中川に二層できていることと土谷のチャートの結果を伝えたら、中川はやっぱり分留にこだわっていた。それで、中川が、『お伺いしに行くしかないんじゃないか』と言った。いっ警察が入ってくるかどうかわからないから、CMI棟には私か中川のどちらかが残っていなくてはならない。中川は運転が下手なので、私が第6サティアンに行くことになった」(第208回14丁、第217回1丁〜11丁)以上である。
この点について、中川は、遠藤からサリンを分留するかどうか相談を受けたことはないと証言し(第184回18丁)、また、土谷は、「遠藤に呼ばれてCMI棟に行った。できたサリンは不純物が入って、二層に分かれていた。同日午後10時頃のことだった。私は遠藤にどうして二層になったかを説明した。遠藤は私に『サリンだけ取り出すことはできないか』と尋ねた。私が『分留すれば取り出すことができますよ』と答えたところ、中川が『どのくら時間がかかるのか』と聞いたので、『1日くらいは見ておいたほうがいいですね』と答えた。すると、遠藤は、『今日中には無理だ。もういい』と言った。それを聞いて私は、遠藤が実験そのものをやめるのかなと思った」旨の証言をしている(第246回32丁〜40丁)。
中川は、「土谷とはその前日にジエチルアニリンを分留する話をした」旨の証言をしており(第191回57丁〜58丁)、中川が遠藤に続いてこの時に分留の時間を聞いたとの土谷証言は、前日の中川との会話と混乱している可能性がある。また、遠藤自身が土谷に分留の時間がどのくらいかかるのか聞いた旨認めているのである(第217回8丁)。いずれにしろ、「中川が分留にこだわって、被告人にお伺いに行こうと言った」との遠藤証言は虚偽である。
分留にこだわったのは、遠藤自身であり、遠藤が当日中(3月20日午前0時まで)に分留を終えたいと考えたため、土谷に対して、「今日中には無理だ。もういい」と言ったのである。
また、「いつ警察が入るかわからないから、CMI棟に自分か中川のどちらかが残っていなければならないが、中川が運転が下手なので自分が言行った」とするのも詭弁である。どちらが残ろうと警察の捜査が入ればサリン生成が露呈することは明白であり、どちらか一方が残る必要はまったくない。中川の運転が下手だとしても、中川は運転できないわけではなく、現に3月19日の昼頃、遠藤から来てくれと言われて、中川は自分で運転してCMI棟まで行っており(第190回101丁)、しかも近距離であり、そのことでわざわざ遠藤が行かねぱならない理由にはならない。
なお、中川がビニール袋のシーリング作業をしていた時間帯につき、遠藤は、「3月20日午前0時過ぎ頃」とするが(第217回11丁)、中川は、19日午後9時台にシーリング作業及び袋詰め作業をしており(第192回28丁)、この点でも、中川の運転を理由とした遠藤証言は信用できない。
以上から、中川が「お伺いをたてよう」と言ったため、遠藤が被告人のところに行ったという経緯はまったくの嘘であり、遠藤が被告人のところに行ったという事実自体本当かどうか疑間がある。
(イ) 次に、遠藤が第6サティアンの被告人の部屋に行った点につき、遠藤は、「3月19日午後10時半から11時の間に第6サティアンに行った。村井の車がその辺りに多分あったと思う。家族用玄関から入った。尊師警備から確認されたどうかは覚えていない。村井が中から出てきた。外で村井と若干話をした。分留の話はした。村井は『そのままでいいみたいだけれど、もう一度尊師に確認してみて』と言った。また、『中川から何か聞いてる?』と言った。私が『いや、何も』と答えたら、『ああ、そう、中川は今CMI棟だよね』と言って、すぐに車の方に向かった。村井が『そのままでいい』と言って、『もう1回確認したら』と言ったのは、せっかく来たんだから聞いてみたらどうかという意味だと思った」、「被告人の部屋には被告人以外誰もいなかった。私は『できたみたいです。ただし、まだ、純粋な形ではなく、混合液です』と言った。被告人は『ジーヴァカ、いいよ、それ以上やらなくていいから』と言った」、「この時、最初の段階で、分留という単語が出ていた可能性はあるが、分留したらどれくらい時間がかかるかというのは説明した記憶はない」、「また、被告人は、『土谷はちゃんとやってんだろうな』と言った。おそらく直前に土谷は被告人のところに来てたんだと思った。その理由は、土谷はその後上九を離れているが、何らかの指示が出ていたんだろうし、何らかの報告は被告人にしているのは当然だからで、不思議はなかった。被告人は、『中川もやっているからな』というようなことも言った。中川もやっているから、おそらく大丈夫なんだろうという意味だと思った。土谷がいい加減な報告をしたが、中川がいるから大丈夫だろうなという意味だと思う」と証言している(第208回14丁〜15丁、第217回11丁〜19丁)。
まず、第1に、被告人の部屋の入り口から直接入るだから尊師警備が確認するのは当然のことであり、その点の記憶がないということ自体、実際に被告人の部屋に入ったか大きな疑念を抱かせる。
第2に、「村井さんは、そのままでいいみたいだけれども、もう1度尊師に確認してみてと言ったので中に入った」というが、そうであれば、「そのままでいい」という村井の言葉で用が足りていたのであって、被告人に聞く必要はない。
第3に、遠藤は、被告人が土谷と中川のことを話題にした旨の証言をしたが、これは捜査段階でも供述しておらず、主尋間でも証言していないことであり、いかにも取って付けたような証言である。遠藤は、「取調では聞かれなかった、主尋間では(検事は)敢えて聞かなかった」旨証言するが(第218回69丁〜70丁)、このような重要な場面につき、捜査官ないしは検察官が質間しないわけがなく、虚偽証言であることは明白である。
第4に、特に、土谷に関する証言は、後に土谷が上九一色村を離れていることと結びつけているが、土谷が被告人に対して何らかの報告をしたことも、被告人が土谷に何らかの指示をしたことも全くなく、そのことだけでも、遠藤証言に信用性がないことは明らかである。土谷が上九一色村を離れることになったことについては、土谷は、「『分留に1日くらいかかる』と遠藤に答えたところ、遠藤が、『今日中には無理だ。もういい』と言った。その後、私は、遠藤から、『君はもういい』と言われたので、CMI棟から出よ.うとしたところ、遠藤から『これからどうするのか』と聞かれた。私は『出張します』と答えた。『出張』とは、教団施設から出ることを意味した。1994年(平成6年)11月に、遠藤の指示で浜松方面に行つている。だから遠藤には出張で意味が通じる」と証言しているが(第246回40丁〜41丁)、土谷が「出張」することは遠藤もその必要を当然了解しているのであり、この「出張」を被告人から土谷に対して何らかの指示があったことと結びつけること、殊に、「土谷がいい加減な報告をした」ことと被告人がここで土谷のことを出したこととを結びつけることは全く不自然である。しかも、遠藤は土谷とのこのやりとりについてもなかった旨証言しているが(第218回73丁〜74丁)、土谷がこのようなことで嘘を言う必要はなく、また、詳細で印象的な場面であるから、記憶が曖昧と言うこともない。遠藤の虚偽証言であることはここでも明白である。
第5に、3月19日午後9時頃に大阪支部に強制捜査が入つたとの情報が流れ、遠藤も、午後10時頃には知ったと言うのであるから、被告人の部屋でも当然そのことが話題となってしかるべきである。ところが、遠藤は、被告人は大阪支部に強制捜査が入ったことを知っていたとしながらも、「話題になったかと」の弁護人の質問に対して、「なったんじゃないかと思います」と曖昧なことを答え、その後、弁護人がさらに追求すると、「もうこれでいいよ」と被告人から言われた後に、大阪支部の強制捜査のことが話に出たとはっきり証言し、その順序に間違いないと断言した。強制捜査が入ったことが極めて重要な事実であるにもかかわらず、何にも話題にならなかったら、「作り話」に真実性がないと思い、その場しのぎで答えたのであるが、しかし、そうだとしても、強制捜査が入ったにもかかわらず、「それでいい」などと言うはずがない。被告人からやめようという話も出なかったと言うのである(第218回76丁〜81丁)。サリンの生成を中止して、処分するなりしないと強制捜査が入ってサリン生成が判明し、教団が大打撃を受けることは誰にもわかることであり、遠藤自身もそのことは認めている。そうであれば、被告人が「そのままでいい」などと言うことはおよそ考えられないことである。
第6に、また、分留の要否の間題が残っているとはいえ、一応サリンは完成しているのであり、そのことを前提とした報告なのだから、そこで、「土谷はちゃんとやっているか」という話が出るはずがない。
第7に、遠藤は被告人から「もういいよ」と言われたと証言したにもかかわらず、その後に、濾過をした旨認めている(第218回110丁〜111丁)。「もういい」と言われた後にもサリン生成の作業をしていたのである。そうだとすると、そもそも、被告人が「もういい」などと指示をしたとする遠藤証言が虚偽であることはますます明白になろう。
そして、第8に、そもそも、この場面での被告人の遠藤に対する指示は、3月18日午後11時頃及び3月19日昼頃の被告人の遠藤に対する指示を前提とするものである。しかし、そのどちらの場面についても遠藤の証言は虚偽であり、まったく信用できないものであることはすでに述べたとおりである。そうだとすると、この虚偽証言を前提とした、この被告人の指示場面での遠藤証言も到底信用することはできない。仮に、この日時頃に、遠藤が、被告人の部屋を訪れたことが事実であったとしても、被告人と遠藤との話は、サリンの分留問題以外の話題だったとの可能性が高いのである。
(ウ) 以上のとおり、被告人が遠藤に対して、サリンは分留する必要はなく「そのままでいい」などと指示をしたとする遠藤証言は全くの虚偽である。
シ 被告人と遠藤の関係
(ア) ところで、被告人の遠藤に対する指示の有無について、その前提となる被告人及び遠藤との関係につき、検察官が主張するような「教祖の絶対的支配権」などは微塵も存在していないことを述べておく。
a このことに関連して、土谷は、次のとおりの証言をしている。
1 「4月18日深夜なのか4月19日になるのかはもうはっきり分からないんですよ。…尊師のお部屋(第6サティアン)に私が入りました。…そこで尊師と私、2人だけになったわけです…私は尊師に…『マンジュシュリー正大師とジーヴァカ正悟師にはもうついていけません』とお話ししました。それに対して尊師が…2つの尊師ご自身の体験を私に教えてくださったんです。まず、1つ目の体験というのは…遠藤さんに30分くらい罵倒され続けるんだと、尊師がですね。…そういうことがもう何度もあると、で、そのうちの1回の場面においては、石川公一さ々もその場にいたと、で、これに対しては尊師がこういうふうにおっしゃいました。『サルニーヴァラナヴィシュカン(石川)がぽかあんと口を開けて、あっけにとられて見ていたんだよ』と…尊師が2番目の体験としておっしゃったことは、その『スメーダー(女性の正悟師)にも30分くらい文句を言われ続けるんだよ』と…この言葉は正確に覚えています。『グルですらじっと我慢しているんだよ』って…」(第248回6丁〜7丁)
2 「…沈黙している私に対して、尊師が…『忍辱とは、手を切り落とされても、足を切り落とされても、耳を切り落とされても、鼻をそぎ落とされても忍辱し続ける、それが忍辱なんだよ、分かるか』とおっしゃいました」(同9丁)
3 「…しばらく間があって、尊師が私に対して…『分かっていないなあ、だいじょうぶかなあ』っておっしゃいました。…尊師がまた私に…『何かあったら私のところに来ればいいよ、ヴァジラパーニー(豊田亨)は私のところに来るよ、マンジュシュリーに苦しめられているようなんだけれどもね、…私のところに来て、何も言わずに黙って座っているんだけれど、私は、おお、どうした、ヴァジラパーニーと言って、酒を出して慰めているんだよ』とおっしゃいました」(同9丁)
4 (平成7年2月尊師から聴いた話)「平成6年12月8日の話合いで、森千太郎さんを分析関係のトップにするという話がありましたよね。まあ、それが尊師の意思なんですけれども、遠藤さんがそれに反発したんですよ…そのときに尊師がおっしゃったのは、『ジーヴァカは全然私の言うことを聴かなくなった』ということをおっしゃって。…いつごろというのは、私の認識としては平成6年の12月8日から…要するに、平成6年12月8日に、第2サティアン3階のダイニング・ルームで私と村井さんと遠藤さんが話し合いまして、第1厚生省と第2厚生省のワークの割り振りを決めたんですよ。その後、尊師はそれを『グルの意思であるよ』というふうにおっしゃったんですよね、村井さん、遠藤さん、私に対して。しかし、その、遠藤さんがグルの意思に完壁に反したことをやっていたというのが、平成7年12月25日よりも前にこれが分かっていたわけなんですよ。…平成7年2月の場面に戻して…ジーヴァカは全然私の言うことを聴かなくなったと。ジーヴァカは分かっていないということを尊師はおっしゃっているんですよ」(第250回77丁)
5 「(遠藤が)平成7年4月18日から19日にかけて尊師を罵倒していたという話を聞いていますよ。(平成7年3月当時、遠藤が尊師の指示は絶対のものだと、そして無条件に従っていたという事実はあるんですかという質問に)ないでしょう。ないですよ、それは。(尊師の意思に反して自由にやってた状況ですかという質問に)私はそう思っていましたよ」(同78丁)
b なお、この点に関連して、中川は次のとおり証言をしている。「(遠藤は)土谷君を使って自分が進出したいということですね。…『尊師の指示だろうと何であろうと僕の部下は僕の許可なしに動かすな』と言ってどなりまして。…だから遠藤さんは自分で決めなきゃ気が済まない人ですから、そんなドラフトを僕が使うことを決めるなんていうのは、とてもとても」(第249回45丁)
(イ) これらの土谷及び中川証言の内容は、実際の経験を経ない限り、証言できない内容であって、作為性が認められないこと、その内容が具体的で一貫しているので、不合理性の批判や疑間が入り込んでくる余地がないこと、検察官はこれらの証言を反駁するための証拠を何一つ提出しておらず、これを否定する根拠が皆無であること等からすると、遠藤が被告人の「絶対的支配下」にいたとは到底言えない。これらの証言によってさらに、サリンの生成に関する遠藤証言の虚偽性が完膚なきまでに明らかにされたと言うべきである。
そして、この人間関係の実態に加えて、上記のとおり、被告人がジフロの存在を知らなかったという事実、被告人が1995年(平成7年)3月2日の段階で「オウムの崩壊」を予測していたという事実等を総合すると、被告人が、遠藤に対して、サリンの生成を指示することなどできることも、その必要もなかったことは明白である。
(5) 結論
ア 検察官は、「1、犯行の目的(強制捜査の阻止)、犯行場所(地下鉄電車内)、犯行方法(サリンを撒布する)、サリン生成者(遠藤)、実行役(林泰男、豊田、廣瀬、林郁夫、横山)及び指揮者(村井及び井上)といった本件犯行の中核部分がすべて決定されており、2、現にこの中核部分の決定に従って犯行が実行されていることからすれば、リムジン車内において本件の共謀が成立したことは明らかである」と主張するが(論告211丁)、すでに述べたとおり、リムジン車内ではこれらのことは何も決まっていなかったことは明らかである。検察官の主張は、1が論証されていないため、2の実行行為があったことから、その内容の共謀が被告人にあったとの一点に帰するのである。証拠は何もない。推認の根拠も存在しておらず、もはや「推論」ですらない。
また、検察官は、「被告人が、村井に本件サリン撒布計画の総指揮を、井上には現場指揮を、遠藤にはサリンの生成を命じ、村井ら3名はいずれもこれを了承した結果、被告人と村井、井上及び遠藤との間に本件犯行の共謀が成立した」と主張するが(論告176丁)、最も肝心な部分についても証拠を欠いている。自白している井上及び遠藤証言さえ、その結論部分の事実を認めていないのである。そして、井上及ぴ遠藤証言の全体も、その虚偽性・架空性が歴然としていている。論告のこの結論部分は、「推認」だけだということになる。
被告人と村井との共謀に関する検察官の推認論(論告44丁)も、その前提を欠くため理由がないことも、すでに述べたとおりである。
こうして、検察官立証と論告は、地下鉄サリン事件における車中謀議がいかに架空の物語であるのかを自ら明らかにしたのである。
イ また、検察官は、リムジン謀議後にも被告人が指示をしたと主張する。すなわち、1、リムジン謀議後も、被告人は、遠藤に対し、中川や土谷に任せきりにせず自らサリン生成に当たるよう注意したり、サリン生成を督促したり、サリンと不純物とを分留する必要はない旨指示したりしていること、2、できあがったサリン入りビニール袋11袋を修法していること、正悟師の新實や被告人専用車の運転手である北村及び外崎を含め5名の運転手役を選抜し、実行役との組合せを決定していること、3、村井と話し合ってサリン入りビニール袋を傘の先端で突き刺して撒布する方法を決定し、予行演習のため実行役全員を上九一色村に呼び戻していること、4、犯行後、実行役及び一部の運転手役を呼んでねぎらい、死亡した被害者はポアされたなどというマントラを唱えるよう命じるなどしていたことを挙げ、被告人は、計画全体を把握して重要な指示を村井、井上及び遠藤に逐次与えていたことが認められると言う(論告187丁、211丁〜212丁)。
しかし、1については、被告人が遠藤に対してサリン生成を指示したとする遠藤証言は信用できないこと、また、最初に遠藤に生成を指示したというにもかかわらず、なぜ、「中川や土谷に任せきりにせず」と被告人が遠藤に指示をしたというのか主張自体が矛盾していること、2については、井上証言は信用できないこと等はすでに述べたとおりである。3については、そもそも裏付けとなる証拠がない。
また、4については、仮にそのようなことがあったとしても、弟子たちが勝手に行ったとはいえ、生じた被害に驚いている弟子達もいたことから、教祖として、慰めの言葉をかけたにすぎない。そのこと自体が被告人の共謀及び殺意を認定する根拠とはならないことは言うまでもない。
なお、検察官は、これらの被告人の指示もすべて車中謀議の成立を前提にしているが、車中謀議が前述のとおり崩壊している以上、これらの事実だけで被告人の謀議責任を立証することはできない。車中謀議の立証がなけれぱ、これら補助的な事実は、前後の脈絡を欠く被告人の行動として浮き上がってしまうだけであり、そのことによって、これらの補助的な事実は単なる断片的な存在となって、それ自体が虚偽性を示すことになる。
ウ 以上のとおり、被告人が地下鉄内にサリンを撒布するよう指示をした事実は一切ない。
2 撒布された物質について
(1) はじめに
ア 検察官は、本件で撤布された物質がサリンであることは疑いの余地がないとした上で、本件における岩田孝子ほか11名の死亡者及び児玉孝一、浅川幸子の2名の重篤者については、各自の事件当時の行動、救護状況、鑑定結果等から、いずれもサリンが撒布された地下鉄電車内等でサリンに被曝した結果、死傷したことは明らかであるとし、また、その余の受傷被害者12名についても、被害者本人又は目撃者が、本件被害に遭った状況等を証言しており、サリンに被曝した結果、サリン中毒症の傷害を負ったことは優に認定できると主張する(論告201丁〜208丁)。
しかしながら、以下に述べるとおり、本件において撒布されたものがサリンであるのかどうかには重大な疑問がある。
また、本事件で発生したとされている死傷の結果の全てが、検察官主張のように、撒布のサリンが原因であるかにも大きな疑問がある。
さらに、重篤者についても、その症状がすべて検察官主張のサリンによるものかは疑問であり、これらの問題に関する検察側の立証はきわめて不備である。数千名の被害者にサリンの症状が出たとの点に至っては、その証拠は極めて杜撰なものであり、公訴事実が取り下げられた以上、これを一切考慮すべきではない。
イ 弁護人は、本裁判の冒頭になした起訴状及び冒頭陳述に対する求釈明の段階から、次のように主張してきた。
すなわち、サリン中毒によって死亡した、あるいはサリン中毒症によって負傷したと言えるためには、
1 サリンの毒性の程度
2 上記毒性が人体に及ぼす影響及びそのメカニズムが明らかになった上で、本件事件において、
3 各車両内に流出されたとされる物質がサリンであったか
4 サリンであったとしても、どれだけの量が、どのような状況の下で流出し、それがどのような時間的、空間的状況の下で気化し、拡散していったのか
5 サリン混合液にはサリン以外にも有害物質も含まれ、それが同時に気化して人体に影響を及ぼした可能性はないか
等の点が厳密に検証されなければならない。
その上で、
6 本件被害者とされる者が、本件被害を受けたとされる当時、どこの場所にいて、どのような状況の下で、どれだけの時間、サリンを吸入し、あるいはサリンに接したのか
7 上記状況は、前記サリンの気化状況に合致するか
8 本件被害者とされる者には、具体的にどのような症状が生じたのか
9 上記症状は、前記サリンの人体に及ぼす症状に合致するか
10 上記症状は、当時存在していた可能性のあるサリン以外の物質、あるいはサリンとは全く関係のない原因によって生じた可能性はないか
等の点が、厳しく検証されなければならない。
他方、サリンの毒性が極めて強いものであるとしても、吸入する量が極めて微量の場合には、人体に対し極めて軽微な影響しかもたらさず、死に至る危険が全く生じないことがあることは言うまでもない。したがって、本件実行行為が、殺人罪の実行行為として人を殺害する危険性がある行為であると言えるためには、大気中のサリンの量が人を殺すに足りる一定濃度以上存在し、あるいは被害者たる人物が一定時間以上その場に留まっていることが必要である。
サリンが地下鉄車両内で漏出されて気化し、同車両内及びその列車が停車する各駅構内にサリンが拡散していくという検察官の主張する本件事件の状況を前提とした場合、サリンが大気中に気化し拡散していく状況の中で、上記の意味で人を殺害するに足りる濃度のサリンが存在する空間は一定の限界があることは明らかである。
また、地下鉄の乗客は特定の目的を持って地下鉄に乗っているものであり、少なくとも終点で折り返して乗車し続けることは通常考えられないことからすれぱ、その場にいる時間にも自ずから限度があることは明らかである。
このように、本件実行行為により人を殺害するに足りるサリンの毒性が波及する範囲には、場所的、時間的な限界があるところ、本件においては、検察官は、サリン中毒と思われる症状を呈した被害者で死亡していない者に関しては、全て殺人未遂罪として起訴しているものである。
ウ 以上の点は、この弁論においてもそのまま引用したい。
弁護人らのこのような指摘にもかかわらず、これらのいずれの点についても、検察官の立証は不十分であった。本件において、被害者とされる者達がサリン中毒の結果死傷したものであるとの立証はなされていない。
エ 本項では、まず、本件において実行行為者によって地下鉄内に撒布された物質がサリンであるか否かについて重大な疑問があることを述べる。
(2) 遠藤らによる「サリン」の生成
ア 検察官の主張によれば、本件サリンの生成は遠藤及び中川が行ったこととされるが、遠藤はそれまでにサリンを生成したことはなく、その経歴、教団内での経験などからしても、十分な化学的知識及び技術を持っておらず、サリンを生成できるような能力を有していなかった。中川も医者であり、それまで土谷を手伝いサリン生成に関与したことはあったものの、十分な化学的知識及び技術を持っていなかった。
土谷が塩基としてトリエチルアミンを用いた方がいいと勧めたにもかかわらず、N,Nジエチルアニリンを用いることになった経緯も極めて不可解である(土谷尋問速記録第245回103丁〜120丁)。
イ 本件サリン生成には土谷も関与しているが、土谷がその生成過程の一部分にしか関与しておらず、実際に遠藤がどのような薬品を用いて、どのように作業をしたのかは分からない。
この点につき、土谷は、次の2点を指摘している(第148回77丁〜82丁)。
(ア) 後述する科捜研の鑑定結果によれぱ、現場遺留品からメチルホスホン酸モノフロライドが検出されたとされているが、メチルホスホン酸モノフロライドを生成するには、メチルホスホン酸ジフロライドに水を加えればよいが、土谷が遠藤に教えたサリンの生成方法では、水を加える過程はなく、メチルホスホン酸モノフロライドが生成されることはない。
(イ) 同じく、科捜研の鑑定結果によれば、現場遺留品からは不純物の多い工業用ヘキサンが検出されたされているが、土谷が遠藤から指示を受け準備したものは純品のノルマルヘキサンであって、工業用ヘキサンではない。
このように、遠藤は、自らはサリンを生成する能力もなく、土谷に生成方法を教えてもらう以外にないはずであるが、土谷が準備した物質を使わず、また勝手に水を入れるなど、土谷の指示内容に従って作業をしていない可能性がある。また、逆に遠藤らが土谷の指示に従って作業をしていたのであれば、本件事件で撤布された物質は、遠藤らが生成した物ではないことになる。
ウ 仮に遠藤らが土谷の指示どおりに作業をしていたとしても、本件サリン生成においては、メチルホスホン酸ジクロライドがなく、メチルホスホン酸ジフロライド、ヘキサン、N,Nジェチルアニリンの溶液にイソプロピルアルコールを滴下するという方法をとっている。これはこれまで土谷も経験したことがない方法であり、本当にサリンができるか否かは分からない。土谷の証言によっても、途中で反応が進んでいなかったので、加熱をしたとされる。これによって、果たしてサリンができることになるのかは、理論上明らかではない。仮に一旦はサリンができたとしても、ヘキサンとジエチルアニリンとの混合液の中でサリンが保持されるのか否かも不明である。
エ 土谷は、最後にサリンができていることを確認した旨証言している。弁護人らとしては、土谷の証言自体は全体に見て信用できるものと考えており、上記の点において土谷自身が自己の認識に反して虚偽を述べているとは考えない。しかしながら、土谷が確認した方法は、ガスマスのみであり、これだけで本当にサリンができていると断定できないことは、後述するとおりである。
(3) 遠藤らの生成した物質との同一性
ア さらに、仮に遠藤らが生成した物質にサリンが含まれていたとしても、本件において実際に撒布された物質が、遠藤らによって生成された物であるかに関しては重大な疑間がある。
すなわち、後述するように、本件事件の遺留品に関しては、警視庁科学捜査研究所及び警察庁科学警察研究所において鑑定がなされ、その結果30%前後のサリンが含有されているとの検査結果が出ている。この検査結果自体が信用できないことは後述するが、仮にこれが事実であるとした場合、遠藤らが生成したサリンの量と次のとおり合致しないことになる。
検察官の主張によれば、サリンが入ったビニール袋は11袋作成され、各袋に約600gのサリンを含む溶液が入っていたとされる。そうすると、それぞれの袋には600gの30%として約180gのサリンが含まれていることになり、それが11袋で1980gのサリンが存在していたことになる。
そして、1980gのサリンを合成するために必要なメチルホスホン酸ジフロライドの量は、1414gである。これは1980gのサリンをその分子量140で割るとサリンのモル数14.14モルが出る。ジフロ1モルからサリン1モルができるので、100%の収率で考えたとしても、上記1980gの生成に必要なジフロの量は上記モル数に、メチルホスホン酸ジフロライドの分子量100を掛けた1414gが得られる。
ところが、土谷が平成7年3月18日に、遠藤が生成した際のジフロの量は約800gしかなかった。この重量は、1リットル入りの容器に8割位のジフロが入っており、ジフロの比重を1.0として計算した数値である。(土谷尋問速記録第248回72丁〜76丁)。
このように、遠藤らが生成した際のジフロの量では、本件事件の遺留品であるサリンの量には到底足りないのである。
なお、科学捜査研究所(土谷の証言する科学警察研究所は誤り)の鑑定結果では35%のサリンが含まれているとの結論が出されているが、それが事実であるとすれぱ、その生成に必要なジフロの量は1650gとなり、ますますその差は広がることになる。
このような客観的な数値からしても、遠藤らが生成した物質が本件地下鉄サリン事件で撒布されたということにはならない。
イ 次に述べる安藤皓章証人も、遺留品の検査の過程で、M9という試験紙が赤くなったので、イペリットが検出された可能性があることを認めている(第29回23丁表、土谷尋問速記録第248回83丁、106丁)。そうすると、本件遺留品にはイペリットが含まれていたことになり、仮にサリンも含まれていたとしても、遠藤らが生成したものではない可能性がある。
ウ 本件遺留品については、科捜研においてまず検査がなされ、後述するとおりの鑑定結果が提出されているしかしながら、科捜研が発表した検査結果の第1報は、アセトニトリルの検出であった。
安藤・野中証人はこれを否定するが、アセトニトリルが検出されたとの警察発表がなされたことは動かしがたい事実である。
土谷は、事件発生後アセトニトリルが検出されたとの報道のなかで、アセトニトリルとサリンとを混ぜて使うことによって化学兵器としての効果が高まるとの趣旨のことが書かれており、そういう使い方もあるのかなと思った、今まで自分が集めたサリン合成方法の文献にはアセトニトリルを使う合成方法があったかは思い出せなかった、直前に造ったサリン合成ではアセトニトリルは使っていなかったと証言している(土谷尋問速記録第247回19丁〜20丁)。
「現代化学」1995年5月号(弁75号証)という化学雑誌においても、次のような文章が掲載されている。「ファックスで送られてきた日本の新聞をみると、地下鉄サリン事件では、アセトニトリル(CH3CN)が発見されたと書かれている。アセトニトリルの沸点は81.6℃でやはり揮発性が高い。またアセトニトリルは体内への侵入性が特に強いので、サリンと混ぜて皮膚からの体内への侵入を促進すために入れたのかもしれない。アセトニトリルはいろいろなものを溶かすので、場合によってはサリン製造の過程で溶媒として使われたのかもしれない。犯人が逮捕されたときには、この疑問も解決されることであろう。」
この著者アンソニー・トゥー氏は、アメリカの化学兵器に関する著名な化学者であるが、この著者がアセトニトリル検出の新聞報道に基づき、土谷の証言に沿う記述をしている。
このようにアセトニトリル検出の報道がなされたことは事実であり、この報道は科捜研の検査結果に基づく以外には考えられない。
安藤・野中証言は、単にアセトニトリルが検出されたことはないと否定するに留まるが、それだけでは、この重大な場面においてこのような報道がなされたという事実に対する説明としては不十分である。
実際には本件遺留品からアセトニトリルが検出されていたのではないかという疑問は未だに払拭できず、そうであるとすれば、遠藤らが生成したというサリンではない可能性が高く、あるいは遠藤が土谷の指示とは全く別の方法でサリンを生成した可能性がある。
エ 日本医科大学病院における検査結果
(ア) 日本医科大学の南正康教授は、同大学病院に搬入された地下鉄サリン事件の被害者30名のうち重症患者4名の尿中から、メチルホスホン酸モノエチル及び大量のエチルアルコールを検出したとし、またN,Nジエチルアニリンあるいはその代謝物は検出されなかったと報告している(弁78,79号証、土谷尋問速記録第249回95丁〜106丁)。
(イ) しかしながら、サリンからはメチルホスホン酸モノエチルとエチルアルコールはできない。この両物質はサリンではなく、エチルサリンに由来するものと考えられる。そうすると、日本医科大学病院に搬入された人達が、エチルサリンを吸引した蓋然性が高い。他方、遠藤らが生成した方法ではエチルサリンはできないのであって、この日本医科大学の報告によれば、少なくとも同病院に搬入された人達は、遠藤らが生成した物質を吸引したのではないことを示すものである。
(ウ) また、遠藤らの生成した物質には、N,Nジエチルアニリンが大量に残っているはずであるが、同病院の患者からN,Nジエチルアニリンあるいはその代謝物は検出されなかったということは、少なくとも同病院に搬入された人達は、遠藤らが生成した物質を吸引したのではないことを示すものである。
(エ) これに対し、検察官は、弁78,79号証の論文は、同病院の入院患者4名のデータのみを取り上げて一般化している点で間題があるうえ、現場に遺留されたビニール袋の液体からはエチルサリンは検出されていないことや、岡田三夫を除く死亡被害者の血液あるいは尿の中からエチルアルコールは検出されなかったとする鑑定結果にも矛盾していることから、客観性、正確性及び信用性に問題があると主張する(論告208丁)。
しかし、後述するように現場に遺留された物質の鑑定についてはそれ自体重大な疑問があるうえに、さらに日本医科大学病院の入院患者が上記のようにエチルサリンを吸引した蓋然性が高いのであれぱ、他の被害者らも同様にエチルサリンを吸引した蓋然性は高いものと考えるべきである。
ところが、捜査、鑑定の過程で、このような観点からの検討は一切なされていない。岡田三夫を除く死亡被害者の血液、尿からはエチルアルコールは検出されていないとの点も、エチルサリンが含有されている可能性を考えて検査を行えば、検出された可能性も十分にある。
また、検察官も認めるとおり、岡田三夫は日本医科大学病院に搬入された被害者の一人であり、まさに前記南教授による報告の対象となつた患者の一人である。検察官は、この点はどう考えているのであろうか。少なくとも岡田三夫に関しては、エチルサリンが吸引された蓋然性が高いことは明らかであって、遠藤らが生成した物質を吸引したものではない可能性が高い。
(4) 安藤皓章・野中弘孝ら作成の各鑑定書
ア 本件事件の遺留品については、警視庁科学捜査研究所の安藤皓章・野中弘孝らによって鑑定がなされている。この鑑定書(A甲11678、同11698、同11734、同11761、同11710、同11733、同11760、以下「安藤鑑定書」、「野中鑑定書」という。)は、いずれも証拠能力を認めるべきでないことはすでに述べたとおりであるが、仮に証拠能力が認められるとしても、その鑑定の内容には、以下のとおり重大なる疑問がある。
イ 一般的な前提間題
犯罪行為による事件が発覚すると、通常、1、事件現場の現状保存、2、鑑識による現場の証拠採集、3、現場の実況見聞(実況見聞調書)と証拠物押収(差押調書・領置調書)、4、鑑識作業または鑑定嘱託(鑑定嘱託書)、5、鑑定作業(鑑定書)、6、各種の聞き込み等の手順で捜査が進められる。
1のもとに、2、3の手順が記録を残しながら進められ、4を経て5の鑑定作業に入るのであるから、通常、公判廷でも、2、3の現場遺留品と5の鑑定資料の同一性は、捜査関係の諸記録によつて半ば自動的・機械的に証明されている(各記録作成者の証人尋間による補充はある)と言ってよい。
つまり、これらの一連の捜査手続と関係諸記録によって、現場遺留品に異物が混入したり、現場遺留品が取り替えられたりする可能性・危険性が自動的・機械的に100%排除されるのである。また、それらの可能性・危険性の排除は100%でなければならないのであって、その立証責任は検察官が負っている。
ところで、「地下鉄サリン事件」は、朝のラッシュアワー時に5路線の地下鉄車両内で発生したのであるから、乗客の避難・毒物の除去・運転の打ち切り・毒物撤布車両の隔離等を先行させなければならなかったために、上記の1、2は不可能となり、3の実況見分・証拠物押収等も現場(電車車両・駅ホーム等を含む)がある程度整理された後に実施され、その意味で、事後的なものにならざるを得なかった。
このような特徴を持っていた「地下鉄サリン事件」の現場の状況をよく示している上に、遺留された物もビニール袋ごと原型のまま残されていたものがあったという点で、最も重要な証拠物が確保されていた現場が、地下鉄千代田線霞ヶ関駅であった。
この証拠物については、警視庁科学捜査研究所研究員の安藤皓章証人も、「一番重要な証拠なんだから、真っ先に仕分けして、真っ先に鑑定されるべきもの」であったことを認めている(安藤尋問速記録第29回)。
第7回公判から開始された検察側立証の証人尋問も、この千代田線霞ヶ関駅の現場からスタートしている。
そこで、この現場をめぐる問題点から検討に入っていくことにしたい。
ウ 遺留現場の状況
千代田線霞ヶ関駅助役の豊田利明証人は、現場遺留品を最初に見たのは、駅ホームの柱の根元に置かれていた状態であって、そこからビニール袋に入った不審物を同駅の休憩室まで運んだとのことであり、「電車の中は全然見ていない」(第7回)のである。
実行犯であったことを自ら認めている林郁夫が現場を離脱した後の現場遺留品の状態については、久當晶子(現娃桜庭)の平成7年4月17日付司法警察員調書、東条敬子の平成7年4月30日付司法警察員調書、岡沢俊光の平成7年5月25日付司法警察員調書の3通が作成されていたが、いずれも、弁護人の不同意により、検察官が請求を撤回したままになっている。
検察官は、この3人について、証人尋問を省略してしまったのである。
したがって、この事件現場の遺留品が電車車両のどの位置に、どのように残されていたのかという状況に関する証拠は何もないのである。
つまり、この事件現場から採取されたという「現場遺留品」が林郁夫の残したものか否かに関する立証がされていないことになる。
エ 領置手続の破綻
(ア) では、この現場遺留品は、どのように押収されたのであろうか。
同駅の菅谷保代助役から任意提出を受けて領置手続をとったという堀之内忠文巡査部長(A甲11728「領置調書」、A甲11729「写真撮影報告書」作成者)の証言(第7回公判)によると、その経緯は、大要、以下のとおりであった。
堀之内証言によると、「地下鉄霞ヶ関駅に行き、駅事務室で駅員から事情聴取した際、日比谷線中目黒発東武動物公園行きの電車内で、先頭車両にぬれた新聞紙包みがあったということでしたが、その際に千代田線の電車にも同じようなものがあると聞いたから…」千代田線の方へ廻ったという。
1 霞ヶ関駅助役の菅野保代から、3月20日午前9時10分ごろ、駅事務室奥の休憩室にあったビニール袋に入った、ぬれた新聞紙包みの任意提出を受けた。
2 菅谷の説明では、その新聞紙包みは、我孫子発代々木上原行きの千代田線電車の先頭車両の床に置いてあったということであった。
3 高橋一正・菱沼恒夫が千代田線の先頭車両の床からホームに下ろして、豊田利明・岡沢俊光がビニール袋に入れて、駅事務室に持ってきたという話を菅谷から聞いた。
4 菅谷は、ぬれた新聞紙包みをホームに下ろしたところは見ていないが、豊田・岡沢がぬれた新聞紙包みをビニール袋に入れて千代田線霞ヶ関駅事務室に運んできたところは見たと言っていた。
5 検察官が新聞紙包みの車両内の状態について尋問を始めたので、弁護人が異議を述べ、裁判長も異議を認める趣旨の発言をしたので、検察官は質問を撤回した。
6 門馬警部補ほか7名の機動隊処理班が、現場に到着したのは午前11時ごろで、領置したのは午前11時27分ごろ。内容物の気化を防ぐために、鑑識資材を入れるジュラルミンケースの箱に入れさせ、そのジュラルミンケースをさらに大きなビニール袋に入れさせたと思う(8丁表)。写真撮影した機動隊処理班の警察官は一人。名前は分からない。
7 事情を聞いたのは菅谷だけ。
8 不審物の中身がぐちゃぐちゃのぬれた新聞紙と新聞紙の包みだったということは、私が扉を開けて、開けたところから中を見たときに見たもの。
9 二種類のものがビニール袋に入っているということは、新聞紙の包みのようなものがあったような気がするが、はっきりは見えなかった。休憩室の中には入っていない。
10 1枚目の写真と2・3枚目の写真は、休憩室の中でビニール袋の場所が動いている。
11 門馬警部補たちにジュラルミンに入れて引き渡すまで、ビニール袋は休憩室から出ていない。午前9時10分ごろから、そのときまで、ほとんど改札口の辺りで待っていた。
12 9時10分ころ、休憩室の入り口からのぞいたときには、ビニール袋を1枚目の写真の状態で見たが、ビニール袋の中身については3枚目のような状態で現認。
13 (写真説明と証言によると、ビニール袋の中身はぐちゃぐちゃにぬれた新聞紙と新聞紙に包まれたものと2種類入っていることがはっきりしているのに、証人が作った領置調書の領置品目は「ビニール袋内はぬれた新聞紙様在中のもの」と書いてあるだけで、「新聞紙に包まれたもの」が領置調書に記載されていないから、それは領置しなかったと読んでいいか」との弁護人の質間に対し、)「いや、その中に含まれていると思います。先ほど説明したとおり、見たときはあるような気がしたんですけど、はっきり見てませんので新聞紙のようなものというふうに、在中という記載をしております。その中には新聞紙の包みも一緒に含まれていると。一つのビニール袋として押さえてますんで。」
14 菅谷から任意提出を受けて領置したものが何であるかは非常に大事な問題だから、自分で確認した場合は、普通領置調書にはいちいち具体的に正確に書く。
15 その後、現場に来ていた捜査一課の警察官に、処理班から渡して、それを真っすぐ科学捜査研究所に持って行かせた。自衛隊で仕分けしたという話をあとで聞いたが、そのあとこの捜査にタッチしていない。3月20日に、科学捜査研究所へ鑑定嘱託をした。「物の鑑定は、その日当日です。書類手続きはその日でやっていると思います。…私が押収したそのものはですね、その日のうちに科学捜査研究所に持っていくと。…その私が押収したものは、その日のうちに警視庁本部の警視庁科学捜査研究所に持ち込んでいますから。」=(堀之内証言は、「鑑定嘱託書」が3月24日付になっていることについて説明できなかった。また、3月24日、大宮の陸上自衛隊化学学校の実験室で仕分けされていることは知らなかったという。結局、3月20日から同月24日までの間、領置物が、どこで、どのように保管されていたのかも全く分からないという。)なお、大宮の陸上自衛隊化学学校で、この証拠物の仕分けに立ち会ったという花田和教警部補は、第7回公判で、この証拠物が科学捜査研究所に持ち込まれたのは3月24日と聞いた旨証言している。
(イ) 以上の一連の経過の中で、特に問題になるのは、領置物の特定は不十分であったということが明らかになった13と、3月20日から3月24日までの間の保管状況は不明になっていたことが露呈した15である。
この15の不明期間は、現場遺留品に関する異物混入・取り替え等を防止するための保障が必要であったという面からみると、隙間が大きすぎる。
これらの問題点が堀之内証人に対する尋問によって浮上してきたので、弁護人らは、その尋問終了7日後の平成8年9月12日、A甲11728「領置調書」に対する従前の「不同意意見」を撤回して「同意する」旨の意見を裁判所に出した。
それに対し、今度は、検察官が、平成8年9月19日の第8回公判で、その領置調書の取調請求自体を撤回してしまったのである。
それ以後、「地下鉄サリン事件」では、他の4現場についても、同様に、領置調書の取調請求が全部撤回され、現場遺留品に関する領置一調書が1通も法廷に提出されていないという異常事態を迎えるに至った。
適法な領置手続がとられたかどうかについては、その手続をとった司法警察員の証言だけでも認定できるという議論があるかも知れない。しかし、「違法収集証拠」が証拠能力を否定される場合もあることを考えると、適法な領置手続が存在したという事実については、どうしても、その担当司法警察員の証言だけではなく、その証言に嘘はないことを裏付ける証拠も必要であろう。何よりも、万一、その担当警察官の証言だけで、差押手続や領置手続が適法に行われたものと認めることが許されるようなことになれぱ、「令状主義」の原則が完全に無視されることなるのである。やはり、差押手続や領置手続の直接的な証拠としての令状や領置調書が不可欠というべきである。
「地下鉄サリン事件」の公判審理では、その領置調書が、最も肝腎な現場遺留品について1通も存在していないということになったのである。これは、通常の公判審理では到底考えられない異常事態である。
オ 鑑定資料の破綻
(ア) 上記のとおり、この現場の遺留品とされる証拠物が、鑑定嘱託書とともに、警視庁科学捜査研究所に運び込まれたのは平成7年3月24日のことであり、この証拠物は、直ちに、大宮の陸上自衛隊化学学校実験室での「仕分作業」に回された(第7回花田証人、第29回安藤証人)。
そして、この「仕分作業」でも、大きな問題が生じていたのである。
安藤らは、司法警察員から、「鑑定嘱託書」とともに、証拠物の送付を受けて、これを陸上自衛隊化学学校に持ち込んだのであるから、この「仕分作業」については、「鑑定作業」の対象となるべき資料を抽出する準備過程であり、鑑定手続の中の一部分に位置づけられるものと認識していた(安藤尋問速記録第29回)。
そのように位置づけられる「仕分作業」である以上、少なくとも、「鑑定嘱託」と「仕分作業」自体については、以下の点が明確に記録として残されていなければならない。
1 鑑定資料の具体的な特定(領置番号等による特定)
2 鑑定資料の鑑定人への送付手続・日時
3 鑑定人の鑑定資料受領の場所・日時
4 仕分作業の責任者・担当者の特定
5 仕分作業への持ち出し年月日・時刻
6 仕分作業の場所の特定
7 仕分作業の設備・器具・用法等の説明
8 仕分作業開始前の遺留物の形状・色調・状態
9 仕分作業の進行状況と分類の経過
10 仕分作業の最終的な状態
(イ) この証拠物についても、確かに「仕分作業」の「写真撮影報告書」(花田作成A甲11757)はある。
しかし、それは、あくまで、上記各項目を含む本来の記録の補助資料に止まるものであり、それだけでは、「仕分作業」の記録とは言えないのである。
写真だけでは、たとえば、濡れているのか、濡れていないのか、どのような大きさであり、どのぐらい重いのか、容積はどのぐらいあるのか等、その証拠物に関する肝腎なことが何も分からないのである。
(ウ) ところで、上記項目のうち、1ないし3の「鑑定嘱託」の段階について、安藤証人は、この証拠物を科学捜査研究所で最初に見たのはいつであったのかはっきりしない(第9回)。
「事件当日の3月20日以後の3月24日か25日であったと思う」と言うのであるから、ここでも、事件当日以後、3月24日ころまでの間、この証拠物の所在と保管状況は謎のままである。
この点について、安藤証人は、「普通だったら鑑定依頼に伴う証拠物の移動に関する記録は作られるんだけれども、この地下鉄サリン事件のときだけは混乱して作れなかった」ことを認め、次のように証言している。
「…この地下鉄サリン事件はともかくとして、通常の鑑定嘱託に際しては、いわゆる鑑定嘱託書と共に資料がまいりまして、確認した上で受理番号をつけていくわけですけれども、この事件のときには、そういった時間的な余裕もなかったということです。したがって、もう混乱していて…そういう状態(注・必要なドキュメントが作られていない状態)だったということです。」
この「混乱」は、必要な書面の記録が存在していないという重大な事実を裏付けているだけであって、書面の記録が存在していないことを少しも合理化するものではないことを強調しておかなけれぱならない。
確かに、前記堀之内証言で述べられていたように、事件当日の現場では、「危険」と「混乱」の状態から、領置物を十分に確認できないまま、その特定が不明瞭になったのも避けがたいところであったと言えよう。
そうであれば、あるほど、「領置調書」における物件特定の不正確性を修正するための絶好の機会が、事件当日から4日経った時期に実施された「仕分作業」だったはずである。
この「仕分作業」について、前記の第7回花田証言は、この証拠物の大宮の陸上自衛隊化学学校到着後の模様について、次のように述べている。
「1、(安藤証人らは)デシケーターから大型ビニール袋を出されまして、はさみでビニール袋を切り、中のものを新聞紙から出して、一枚ずつはがすようにして仕分けされました。2、まず、濡れた新聞紙の大きなのが丸くありまして、その中に『赤旗』の別刷りの半紙分のやつと、その『赤旗』の外側に空のビニール袋、で、『赤旗』の半紙分の別刷りの新聞紙がありまして、その中に液体の入ったビニール袋と、空のビニール袋、それは両方とも変則の五角形のやつです。…3、(換気装置のあるところで仕分作業をすることになったのは)これは科学捜査研究所の方で手配しまして、私は、一応中のものが何が出るか、上司の方から一応確認するために立ち会えということで、その詳細については科学捜査研究所のほうでやっております。」
(エ) では、科学捜査研究所のほうの「詳細」はどうなっていたのか。
それは、以下のとおり、かなりひどいものであった。
安藤証人(第29回)は、「仕分作業」で、「遺留品として、何がそこから出てきたのかということを、いちいち全部記録しておかなければいけないわけでしょう」という弁護人の追及に対し、そのことを否定しないまま、次のように答えている。
「…それはいきなり私どもの部屋に持ち込まれて、それでまあ処理してしまったんですけれども、こういうあれでは、そういった準備もないこともあって、一応どういったものが、はぐっていって、どういうものが出てきたということはメモはしておりますけれども、それ以上のことは…」
「仕分作業」の進行経過について、「メモを取ったんならなぜその記録を作らなかったんですか」という弁護人の質問に、安藤証人は沈黙するしかなかった。
安藤証人は、「いきなり…」などと述べているが、第23回、第29回公判で、松本サリン事件直後の平成6年6月下旬ころ、上司の佐藤刑事部長から、「都内でその種の事案が発生した場合の対応を考えておくように」と指示されていた警視庁科学捜査研究所化学班の責任者であった。また、安藤証人は、平成7年3月15日の「地下鉄で噴霧装置というのが発見」された事件で、「何か予感…」があったとも述べている人物である。
つまり、安藤証人は、もともと、「いきなり…」のことで対応できなかったとか、いつまでも「混乱」が続いていたなどと言える立場にはなかったのである。
安藤証人は、「現場から領置されたとされているものの中身が何であるかを、正確に見聞し、確認するために仕分作業を行っている」こと、「その中から鑑定に必要な資料を選び出すためにやっている」こと、をはっきり認めながら、それでは、「何で記録に残さないんですか」という弁護人の質間に一言も答えることができなかったのである。
(オ) 実際のところ、安藤証人は、上記花田証言の1、2程度のことも、鑑定書には記載していない。
花田証言1の「デシケーター」というのは「ガラスの蓋つきの容器」(第7回花田証言)であるから、前記堀之内の領置後、現場遺留品を収納したという「ジュラルミンケース」(第7回堀之内証言)の容器とは明らかに異なる。
花田は、「堀之内巡査部長が領置した後、遺留品はどこで保管されていたのですか」と問われ、「当時、科学捜査研究所内において…デシケーターに入れて保管しておりました」とも答えている(第7回花田証言)。
堀之内は、「領置後の保管状況」として、「そのジュラルミンケースをさらに大きなビニール袋に入れさせたと思います」と述べている(第7回証言)。
上記1の「デシケーター」が「大きなビニール袋」に入っていた状態だったのかどうかも不明であるが、「領置」の時の容器と科学捜査研究所内の容器は明らかに別物である。
これについて、安藤証人は、「…あとから来た物(注・最初に来たのは小伝馬町の資料で床にこぼれた液体をぬぐった脱脂綿)というか資料については、直ちにその部屋に入れずに、屋上に持って行って屋上のところで処理したわけですけれども…デシケーター類の中に収納して、それで午後(注・3月20日)に自衛隊のほうに施設を借りに行った」と述べている。
つまり、科学捜査研究所では、「領置物件」の容器入れ替えが行われていたことになるが、いつ送られてきた、どのような「領置物件」を、いつ、どのように入れ替えたのかということに関する記録が一切存在していない。
その結果、この「現場遺留品」についても、「ジュラルミンケース」の中身と「デシケーター」の中身との同一性を証明する証拠資料が皆無なのである。
(カ) このように、堀之内は領置・鑑定嘱託後のことは知らないし、花田も両者の同一性を裏付ける立場にはなく、安藤証人は、前記の通り、普通であれば、作られるはずであった「鑑定依頼に伴う証拠物の移動に関する記録」が、「地下鉄サリン事件」では作成されなかったことを認めているのである。
(キ) そこで、「鑑定資料」の状態に関するA甲11734安藤鑑定書の「四鑑定経過1」をみると、次のような記載がある。
「資料は、無色プラスチック製袋内の『赤旗(1995年3月20日付、別刷…』)」に包まれた一隅が切り落とされた様な形の密封型の無色のプラスチック製袋一袋である。このものの内部には、無色(僅かに茶色を帯びた)の液体と薄茶色の液体で二層をなす液体が納められている。」
これは、明らかに、「仕分作業」開始前の状態であり、「仕分作業」開始から終了時までの記録は一切存在していない。
これでは、「鑑定資料」について、一体、何から抽出して、何が出てきたのかが少しも特定できないということになる。
こうして、上記4ないし10に至る必須事項が何一つ記録に残されていないため、一切不明であり、その結果、「鑑定資料」が何であったのかということ自体が著しく不明確になっているのである。
この点は、同じ「鑑定資料」に関するA甲11733野中弘孝鑑定書でも同様であって、安藤証人の前記証言内容を修正・補足する野中供述は何もない。
カ その他の路線の状況
(ア) 日比谷線小伝馬町駅
ここでは、地下鉄日比谷線中目黒行電車の先頭から3両目に乗っていた中村康宏が足で車内からホーム上に出した「新聞紙に包まれたもの」を武田敏文巡査部長が小伝馬町駅のホーム・22番支柱のところで発見し、領置したという経過になる(武田敏文尋問速記録第10回)。
現場遺留品の「鑑定嘱託」は平成7年3月20日付であり(A甲11677「鑑定嘱託書」、「仕分作業」は、平成7年3月20日午後3時ころから午後6時20分ころまで、大宮の陸上自衛隊化学学校で行われた(山口勝久尋問速記録第11回)。
安藤証人らによる「鑑定書」の作成時期は同年4月13日付であった(A甲11678r鑑定書」)。
以上の経過のうち、犯行現場である車内の遺留状況が分からないということも、検察官が現場遺留品に関する領置調書の証拠調請求自体を撤回したということも、「仕分作業」以降「鑑定手続」までの全経過をめぐる間題点も(GC/MS検査と鑑定書作成の時期の点を除き)、千代田線霞ヶ関駅の場合と同じである。
(イ) 日比谷線霞ケ関駅
ここでは、中野静治警部補が、地下鉄日比谷線東武動物公園行電車の先頭車両内に遺留されていた証拠物を発見し、それを領置した。中野警部補は、この「領置調書」の「押収物件」として、「大型ビニール袋、但し、ぬれた新聞紙様のもの在中のもの」と書いたが、1ヶ月後ぐらいに、特別捜査本部の指示で、「透明大型ビニール袋」と書き直した。書き直すこともないと思ったが、特別捜査本部の指示だから書き直したというのが中野の言い分である。「透明大型ビニール袋」は現場遺留品ではなく、中野は、科学捜査研究所に送った形状に合わせるためと思ったという(中野尋問速記録第8回・第10回)。
現場遺留品の「鑑定嘱託」は、平成7年3月20日付であり(A甲11697「鑑定嘱託書」、「仕分作業」は、平成7年3月20日午後6時50分ころから午後8時55分ころにかけて大宮の陸上自衛隊化学学校で行われた(山口尋問速記録第11回)。
安藤証人らによる「鑑定書」の作成時期は、同年4月13日であった(A甲11698「鑑定書」)。
以上の経過のうち、検察官が現場遺留品に関する「領置調書」の証拠調請求自体を撤回したということも、「仕分作業」から「鑑定手続」までの全経過をめぐる問題点も(GC/MS検査と鑑定書作成の時期を除き)、千代田線霞ヶ関駅の場合と同じである。
この日比谷線霞ヶ関駅現場の「鑑定資料」は「丸ノ内鑑第53-1号」であり(A甲11697はその「鑑定嘱託書」)、千代田線霞ヶ関駅の現場の「鑑定資料」は「丸ノ内鑑第53-3号その1・その2」である(A甲11732はその「鑑定嘱託書」)。
なお、「丸ノ内鑑第53-4号」は千代田線霞ヶ関駅現場の「ビニール袋」(材質の鑑定)になってしまう。
では、「丸ノ内鑑第53-2号」というのは一体何であったのか。
安藤証人は、それが何であったのか、鑑定の依頼がなかったのかどうかさえ、「覚えてません」「分かりません」という(第29回)。
この問題は、どこの現場で何が押収されたのか、何について鑑定が嘱託されたのかなどの点が全体的に明確になっていなかったという状況を物語っている。
(ウ) 丸ノ内線中野坂上駅
ここでは、長山静助役が、地下鉄丸ノ内線荻窪行電車の先頭から3両目進行方向1番前のドアの前に「ビニールのようなパック状の袋が二つ置いてあった」状況を現認し(第8回・第10回長山証言)、それを島村光明助役が任意提出し(A甲11706「任意提出書」)、菅原良昭警部が領置した(第10回菅原証言)。
実際に、任意提出と領置手続が行われたのは作成日付の平成7年3月20日であったが、「任意提出書」と「領置調書」が作成されたのは同年4月12日ころであった(第10回菅原証言)。
現場遺留品の「鑑定嘱託」は、平成7年3月20日付であり(A甲11697「鑑定嘱託書)、「仕分作業」は、平成7年3月24日午後4時34分から午後5時25分にかけて実施された(A甲11730「写真撮影報告書」)。
この現場に関しては、「任意提出書」も「領置調書」も作成されないまま、「鑑定嘱託」と「仕分作業」が行われたことになる。
「鑑定書」が作成された時に、「任意提出書」と「領置調書」が間に合っていたのかどうか、かなり微妙である。
以上の経過のうち、検察官が現場遺留品に関する「領置調書」の証拠調請求自体を撤回したことも、「仕分作業」から「鑑定手続」までの全経過をめぐる間題点も、(GC/MS検査の時期と鑑定書作成の時期の問題を除き)、千代田線霞ヶ関駅の場合と同じである。
(エ) 丸ノ内線本郷三丁目駅
ここでは、駅務助役の鈴木良正が、地下鉄丸ノ内線池袋折り返し新宿行電車の先頭から2両目進行方向右側一番前のドア近くの座席下の床に新聞包みがあるのを現認して、任意提出し(鈴木尋問速記録第19回、A甲11755「任意提出書」)、それを石塚英雄巡査部長が領置した(石塚尋問速記録第19回)。
この現場遺留品の「鑑定嘱託」は平成7年3月25日であり(A甲11759「鑑定嘱託書」)、「仕分作業」は、同年3月25日午前9時40分から午後1時10分の間に実施された(A甲11757「写真撮影報告書」)。
安藤証人らによるGC/MS検査は同年5月24日に行われ、「鑑定書」の作成が同年5月31日になったこと(A甲11761「鑑定書」)は、千代田線霞ヶ関駅のところで前述したとおりである。
検察官が現場遺留品に関する「領置調書」の証拠調請求自体を撤回したことも、「仕分作業」から「鑑定手続」までの全行程をめぐる問題点も、すべて、千代田線霞ヶ関駅の場合と全く同じである。
キ 鑑定手続の破綻
(ア) 正常な鑑定と鑑定書が成り立つためには、通常、以下の事項が鑑定書自身の記載によって明確でなけれぱならない。
1 鑑定の具体的な場所(警視庁科学捜査研究所のどこか)
2 鑑定開始の年月日・時刻
3 鑑定終了の年月日・時刻
4 鑑定資料の具体的な特定(領置番号等による特定)
5 鑑定の方法・設備・器具等の説明
6 鑑定の進行経過に関する説明(いつ、何をしたのか)
7 鑑定資料の取扱いに関する説明(採取状況・使用分量等)
(イ) しかし、安藤・野中鑑定では、このような鑑定手続の基礎的な事項さえ記録されていない。
これでは、安藤証人らが、鑑定すべき証拠物を、疑間を容れる余地のない公正・明確な手続と手順で、科学的な調査・分析を正確に進めたということを保障する鑑定作業の土台・枠組みというものが全く存在していなかったことになる。
そのような意味での鑑定手続が成り立っていなかったということは、安藤証人らの鑑定が、本来的に鑑定として成り立っていないということに帰着する。
(ウ) その上で、千代田線霞ヶ関駅事件の現場遺留品とされている証拠物の鑑定経過には重大な疑問がある。その鑑定経過をめぐる疑問は、後記丸ノ内線本郷三丁目駅事件の証拠物についても、全く同じである。
その疑問とは、以下のとおりである。
「地下鉄サリン事件」では、千代田線霞ヶ関駅(前記安藤鑑定書A甲11734)と丸ノ内線本郷三丁目駅(安藤鑑定書A甲11761)の2か所で、「無職と薄茶色の液体で二層をなす液体」の入っている「透明大型ビニール袋」・「半透明大型ビニール袋」(袋は破れていない)が1袋づつ採取・領置されたことになっている。
前記のとおり、安藤証人も、「2つのまるまる残ったと言う資料」が「もともとから言えば、一番重要な証拠なんだから、真っ先に仕分けして、真っ先に鑑定されるべきもの」であったことを明確に認めている証拠物である。
しかし、この2つの袋は、平成7年3月24,25日に仕分作業が行われた後、GC/MSによる検査(チャートG・H・J・K)は同年5月24日になってはじめて実施され、鑑定書は同年5月31日の作成になったのである。
被告人の地下鉄サリン事件を被疑事実とする逮捕が同年5月16日であったから、この「まるまる」の2袋がGC/MSの検査に掛けられたのも、その逮捕後であったということになる。
(エ) 安藤証人は、その間の経緯について、次のように述べている。
「ほかの、つまり袋が破れて中の液体が出た資料と同じ(注・遺留品はサリン)ということを当初考えておりまして、まるまる残った二つの大袋については、事後の証拠品ということで、そのまま保管しようということでありました。しかし、もし中身が違ったらまた問題だということで、4月の末と5月に、それぞれ袋を開けました。」(第29回)。
この場合、「もし中身が違ったらまた問題」というのは、客観的にははじめから鑑定が必要であったということにほかならない。
現場遺留品の1つ1つについて鑑定しなければ、遺留された犯行供用物が1種類なのか複数の種類なのか分からないし、それぞれの物質の特徴をおさえることもできないのであるから、まともな捜査を進めることもできないはずなのである。
この2袋の鑑定が遅れてもよかったのだという理由はどこからみても、絶対にあり得ない。
この2袋は、調べるまでもなくサリンであるという予断があったことだけは、上記の安藤証人の証言から明白である。
(オ) 安藤証人の証言によると、警視庁捜査一課長は、平成7年3月20日午前11時頃、「毒物はサリンである」と公式発表したという(第23回、第29回)。
しかし、この「午前11時頃」というのは、「まだ事件の現場がどんどん増えている段階」で、事件の「全容はまだつかめていない」段階であって、日比谷線・小伝馬町駅(または築地駅)の「液がこぼれたそのふいた脱脂綿だったか」と思われる資料と日比谷線・霞ヶ関駅で採取されたという液体のしみた脱脂綿(安藤鑑定書A甲11698、A甲1193、チャートA・B)のGC/MS検査しか済んでいない段階であった。
そして、最も重要な証拠として位置付けられる、千代田線霞ヶ関駅の「まるまる残った」袋の1つなどが領置されたのは「午前11時27分であった」(堀之内尋問速記録(第7回))。
つまり、捜査一課長の「サリン発表」は、千代田線霞ヶ関駅の現場遺留品が、警察側の証言によっても、まだ領置されていない段階で、早々と行われたということでもあった。
これらの状況を総合すると、警視庁全体が、「現場遺留品はサリンだ」という予断を当初から持っていたことはますます明らかである。
(カ) 「地下鉄サリン事件」の前に、「松本サリン事件」が既に発生していたのであるから、現場に遺留された「毒物」について、「今度もサリンではないか」と推測・予測すること自体はむしろ自然であったと言えよう。
その点では、「サリンであることを予め想定しなかった」ことを強調する安藤証人の証言の方が不自然である。
しかし、そのことと、採るべき捜査手続を適正に履行し、残すべき記録文書をきちんと作成しながら、調べるべきものを的確に調べるということとは全く別個の問題である。
(キ) 「毒物はサリンではないか」という予測のもとに、本来実行されるべき捜査上の正常業務を怠ることは許されない。
「地下鉄サリン事件」については、警視庁全体に当初から、その意味での予断があり、「一体、何を鑑定したのか訳が分からない」という上記の一連の経緯を生み出す結果になったのではないか。
「オウム真理教のやったこと」「麻原彰晃のやったこと」などと言いさえすれば、何でも通用するという社会的な雰囲気が捜査と証拠収集の面での大きな手抜きを生み出してきたのではないか。
これらの疑惑を伴う立証上の不備は、すべて検察官が負担するのである。
裁判所が、このような捜査と立証における警察と検察の責任を厳しく問い詰めていかなければ、厳正・公正な刑事司法の根幹が崩壊することになる。
ク 現場の状況のまとめ
以下、これらの現場遺留品をめぐる各現場の諸状況について、全体的にどう把握するのか、結論をまとめておきたい。
(ア) 安藤証人の基本
まず、各現場遺留品に関する安藤証人の一連の証言(第29回公判)の中から、きわめて象徴的な部分を引用しておきたい。
(弁護人)チャートC,Dを見てください。例えば、丸ノ内線中野坂上駅の関係のチャートC,Dと出てますよね。これ、3月24日に鑑定嘱託書が作られて、3月26日付のチャートになっているわけです。この丸ノ内線中野坂上駅の現場遺留品をあなたが科捜研で最初に見たのは、いつなんですか。どこで見たんですか。
そうですね。これは、中野坂上については私に記憶がありませんので分かりませんけども。
千代田線霞ヶ関駅の遺留品について同じことを聞きましょう。最初にあなたがこの千代田線霞ヶ関駅の遺留品を科捜研でご覧になったのは、いつなんですか、どこで。
中身について見たのはもっとその後、その日ではなくて、その後だと思います。
具体的に言ってください。その後って言ったって分からないんだ。いつですか。
いや、その日は、とにかく初めに先生がおっしゃった小伝馬町と日比谷線の霞ヶ関の資料について、私、作業したのは覚えてますけれども。
だから、20日の後ということですね。
はい。
もう一度聞きますね。千代田線霞ヶ関駅の現場遺留品を、あなたが科捜研で最初にご覧になったのはいつですか。どこで見ましたか。
二袋あるわけですけれども、一袋は完全に袋が破れて中身が出ていた。
で、もう一袋は、完全に残っているわけではないんだけれども、実は穴が開いていたんです。で、その穴開いてたのが分かったのがもっと後なもんですから、ですけれども、それは20…その以後だと思います。ちょっと今ど忘れしてしまったけれども、20日ではない日だと思います。
いや、20日でないことは私も分かったからそれはいいんですよ。いいけど、20日以後の何日目ぐらいに見ているの。
翌日ではなく、24日か25日だと思うんですが、ちょっとはっきり記憶、今記憶を忘れていますので。
これ、大事な遺留品だよね。物が残っているんだから、かなり大量にね、ほかの現場に比べてもね。
はい。
これ、いつまで所轄に置いてあって、いつから科捜研に置いてあったのかは分からないんですか。
いえ、原則として来たと思います。ですから、私がいなくなった後に持ち込まれている可能性があるということを、先ほど来、申しているわけです。
だからね、ちゃんとしたドキュメントがないから、そういう疑問が出てくるわけですよね。どこにいつ置いてあったか分からないんじゃしようがないじゃない、鑑定人が。
……
丸ノ内線本郷三丁目の遺留品は、あなた、最初に見たのはいつですか。
ですから同じことです。
この本郷三丁目も、いわば丸々残っているものの一つだよね。
はい、これは完全に残っておりました。
現場遺留品としては、非常に重要なとこですよね。
はい。
これがいつまで所轄署に置いてあって、いつから科捜研に置いてあったか分からない。
初めの…初めの日かも.しれなかったんですけれども、とにかく初めの日に、大型のデシケーターに何個か持ってきましたんで、その中に入っていたかどうかは、私、不明ながら確認してませんので、申し上げられないんですけれども。
デシケーターそのものは科捜研のものですか。
はい。
(イ) 何を聞いても万事この調子であるから、鑑定人としては、まことに「不明」の至りと言わなければならない。
一体、安藤証人らは、いつ、どこから送られてきた現場遺留品であるのかを確認もしないで、「鑑定」をしたというのであろうか。
安藤証人の態度と記憶は、一体何のために、何を鑑定するのかということについて、ほとんど関心を抱いていなかったようにさえ見える。
それは、「現場遺留品は全部サリンに決まっている」という前記の予断でもない限り、考えられない科捜研の対応であったと言えるのではないか。
これが、安藤証人らによる「サリン鑑定」のスタート時における実態であった。これで、まともな「鑑定」が成り立つはずはないのである。
ケ 状況の要約と結論
こうして、これまで取り上げてきた経過と疑問をまとめると、その要旨は、大体、次の通りになるであろう。
(ア) 安藤鑑定書も野中鑑定書も、その記載自体からは、現場遺留品と鑑定資料の同一性を証明することができないのであって、鑑定資料の具体的な取扱いや鑑定作業の進行も不明である。
(イ) 上記の自衛隊化学学校における仕分作業終了後、GC/MS検査までの間、鑑定資料は、一体、どこで、誰によって保管されていたのかも不明であり、鑑定資料に関する空白期間はますます増大している。
(ウ) その場合、鑑定のための鑑定資料の移動について、他の資料の混合・他の資料との取り替え等、鑑定資料の同一性を保証するために、どのような手続上の保護措置が講じられたのかも不明である。
(エ) 鑑定の手続・作業は、いつ、どこから開始され、いつ、どの時点で終了したことになるのかについても、鑑定書には何の記載もないし、安藤証人は、弁護人の反対尋問にも明確に答えることができなかった。
これらの問題が一切不明であるということは、もはや、鑑定書としては成り立たないということではないのか。
(オ) 平成10年9月17日の前記第90回公判における弁護側の「証拠意見」では、「ここまでくると、鑑定に至る経過と鑑定の経過自体が、安藤・野中両鑑定人らが本当に白分たちで鑑定したのかという重大な疑問を生み出しているものといわなければならない。この点をみるだけでも、安藤鑑定書と野中鑑定書に証拠能力を認めるべき余地はない。」と断定していた。
改めて、この結論を強調しておかなければならない。
以上のような現場遺留品をめぐる諸状況から、この結論は当然の帰結であり、問題は、むしろ、何故、「サリン鑑定」をめぐって、このような事態が発生していたのかという点にあるように思われる。
(カ) 上記のとおり、地下鉄日比谷線霞ヶ関駅のように、「領置調書」の「押収物件」の表示について、「1ヶ月後ぐらい」に、領置手続をとった警察官自身は、その必要がないと思いながらも、「特別捜査本部の指示」で書き直して事例もある。
この事例は、千代田線霞ヶ関駅の場合のように、「領置調書」の「物件特定」に、どのような不備があっても、後日、それを正確なものに修正することがいくらでも可能であったことを示している。
その修正を実行しなかったのは、明らかに、捜査の怠慢であった。
また、丸ノ内線中野坂上駅の場合は、平成7年3月20日付の「任意提出書」と「領置調書」が現実に作成されたのは同年4月12日ころであったのに、「鑑定嘱託」と「仕分作業」は、同年3月20日に実施され、鑑定書の作成は同年4月13日であった。「鑑定嘱託」と「仕分作業」は、「任意提出書」と「領置調書」なしに実施されたものであり、「任意提出書」と「領置調書」の作成が「鑑定書」の完成までに間に合ったのか、際どい状況であったということなる。
この状況は、明らかに、捜査の怠慢にほかならない。
したがって、「領置調書」の「物件特定」が不十分であったり、「鑑定嘱託」・「仕分作業」等における証拠物の移動に関する記録が作成されなかったのも、すべては、「地下鉄サリン事件」による緊急事態や混乱のためではなく、もっぱら、捜査の怠慢に帰すべきものであつた。
(キ) それは、どのような怠慢捜査であったのか。
それは、万が一にも、被告人・弁護人から、被疑事実・公訴事実が争われ、刑訴法321条の不同意意見を提出されようと、そういう事態に万全の備えを期するということのない怠慢捜査であった。
その意味では、本件の起訴そのものが、3800人弱の「被害者」と呼ぱれた人々を包含し、「被害者関係」の検察側証拠が1万1千数百点にのぼるものであり、当初から、争う場合のあることを前提としないで、検察側証拠への全部同意を前提とするものであった。
それは、被告人・弁護人が上記の否認と不同意を選択すれば、社会的な雰囲気のもとで、袋たたきになるぞという脅迫にほかならないものであり、弁護人らは、最初の三者間の打合会で、そのような起訴在り方自体が実に許し難いものであって、全面的に争う方針であることを明確に宣言したのであった。
(ク) このような捜査と起訴は、本質的に、被告人・弁護人の争う権利を根本的に否定する発想であり、刑事司法の根幹と諸原則を破壊するものであった。
この起訴の誤りは、平成10年1月16日の第62回公判における「訴因変更」によって、証明された。
このような本質を有する怠慢捜査も絶対に許されない。
その結果として、安藤証人らが、現場遺留品を適正な鑑定手続で鑑定したという検察官立証が成り立っていない。
検察側は、当然に、その正当な報いを受けるべきである。
以上のとおり、「地下鉄サリン事件」の実行行為が成り立たないことは、既に、歴然としている。
コ 鑑定書の記載内容
本件鑑定書には、鑑定の経過として、前記のとおり仕分け等の状況が明確に記載されていない上、さらに具体的にどのような鑑定方法をとったのか、その結果どのようなデータが得られ、それをどのように評価して結論に至ったのかについて十分な記載がなく、鑑定書としては極めて杜撰なものである。すなわち、
(ア) 本件各鑑定書は、基本的に、「鑑定経過」として、鑑定資料の外観その他の特徴、仕分け等の作業をなした場合にはその状況を示した後、鑑定方法として、大きく次の2種類の検査をした旨記載されている。
1、 鑑定資料から液体を採取し(液体自体が資料となっているものを除く)、ヘキサン等で希釈し、これをガスクロマトグラフィー質量分析法(以下「GC/MS法」という)で分析する方法
2、 水酸化ナトリウム(あるいは水酸化カリウム)溶液を加え密封放置後、その気相についてGC/MS法で分析する方法
そして、各分析の結果、サリンその他の物質のスペクトルとそれぞれ一致するスペクトルが得られたとして、これらの資料内の液体はサリンその他の物質を含有すると結論づけている。
(イ) しかし、鑑定資料の仕分け作業の点については、前項で指摘したとおり、これらをいつ、どこで、誰が行ったのかについて記載がなく、大宮の自衛隊化学学校において自衛官が作業に当たった疑念もある。
例えば、野中証人は、A甲11760の資料について、液量の測定は自衛隊化学学校で野中証人自身が行なったとしながら、その測定に当たりシリンダーに入れたのかビーカーに入れたのかさえ覚えていないと言い、サリンという危険物を扱っているにもかかわらず、具体的証言でそのような生々しい情景が浮かび上がってこない。このような点で、野中証人自身は実際の測定に当たっていないのではないかという強い疑念が生じる。
また、各鑑定書の末尾には鑑定に当たった科捜研の研究員の署名押印があるが、例えば、A甲11933のチャートBには、オペレーターとして「大下」の氏名があるが、これに相当するA甲11698番の鑑定書には「大下」の氏名がない。その理由についての安藤証言も極めて不明確である。その他の資料の分析においても、誰が何を担当したのかという供述が、安藤、野中証人ともに極めて暖昧であり、これらの鑑定書が実際に鑑定に関与した人が作成したものであるかということさえ非常に疑わしい。
(ウ) 鑑定方法については、後に詳述するように、GC/MS法といっても、熱電子衝撃法(EI法)、化学イオン化法(CI法)その他の方法があり、そのどれを行ったのか明らかでないし、そのいずれの方法においても、どのような機械を用い、どのような条件設定をするかによって測定結果も異なるにもかかわらず、これらについての記載もない。
また、鑑定書では、サリンその他の物質のそれぞれのスペクトルと一致するスペクトルが得られたとされているが、具体的にGC/MS法の結果どのようなスペクトルが得られたかについて、資料の添付もないため、鑑定書自体からは明らかではない。なお、この点はA甲11933の報告書によって補完されたが、これも裁判になって弁護人側から開示を求めた結果明らかとなったものである。
さらに、比較対照したサリンその他の物質のスペクトルがどのようなものであるかについて、資料の添付もなく、これとどのように対比したかも全く明らかではない。後述するように、GC/MS法においては、通常対照する標品のスペクトルとの類似性を検討して判断するものであるが、本件において、対照する標品自体を入手あるいは合成してそのスペクトルを得たものであるのか、文献上のスペクトルと比較したものであるのかさえ、鑑定書からでは明らかでない。
また、通常GC/MS法による分析の結果、標品のスペクトルと対比し各フラグメントの相対強度まで全く一致するスペクトルが得られることはないが、本件鑑定書には単に「一致する」としか記載がない。これが「完全に一致する」との意味であるならぱ、それ自体明らかな誤りであり、「類似している」との意味であれば、「一致する」との表現は不正確であり、捜査機関である科学捜査研究所が本件各資料にサリンが含まれることを印象づけようとして作為的に記載したものであるとしか考えられない。
このような点を見ても、本鑑定は、科学者として客観的に判断しようとする基本的姿勢に欠けるものである。
(エ) 本件鑑定は、1及び2の鑑定方法を実施した結果、サリンその他の物質のスペクトルと一致したので、資料中にはサリンその他の物質が含有されると結論する。
しかし、前述のとおり、GC/MS法においてスペクトルが完全に一致するということはなく、類似度を検討する以外にはないうえ、後述するように、そもそもGC/MS法では物質を完全に同定することはできない。現に本件鑑定においても、GC/MS法の外に、核磁気共鳴法や赤外線吸収スペクトルによる分析を行っており(第33回公判・安藤証言)、これはGC/MS法では不十分であることを示すものであるが、本件鑑定書にはこれらの分析については一切記載がない。
このような点において、本件鑑定では、どのような検討をした結果本件鑑定結果が得られたのかについて、理由が十分に記載されておらず、むしろ、サリンが含まれていることを印象づけるために、故意にこれらの記載をしなかった疑いがあり、鑑定書として極めて不適切なものである。
(オ) さらに、すでに述べたように、本件遺留品に関する科捜研の検査結果の第1報は、アセトニトリルの検出であった。
安藤・野中証人は、このアセトニトリルが検出されたということ自体を否定する。しかし、このような証言のみでは、アセトニトリルが検出されたとの第1報が間違いであったことの説明としては極めて不十分であり、依然として本件遺留品にアセトニトリルが含有されていたとの疑いは払拭できない。
安藤・野中証人は、捜査側に都合の悪い情報は隠していると考えざるを得ず、このような証言を信用することはできない。
サ 鑑定内容について
安藤証人及び野中証人の証言に基づき、実際になされた鑑定方法を見ても、以下に述べるとおり、本件鑑定の結論は信用できるものではない。
(ア) GC/MS法
GC/MS法は、物質の同定をする上で十分なものではない。
a GC/MS法においては、ガスクロマトグラフィーと質量分析計が結合された装置を用いる。このうちガスクロマトグラフイーは、カラムを通って出てくる時間(保持時間)が物質ごとに異なることを利用して、資料中の物質を分離するものであるが、カラムの大きさ、温度の上昇のさせ方、その他の条件設定が違えば、同一の物質でも同一の保持時間とはならないもので、逆に言えぱ、保持時間が同一であるとしても、設定条件が全く同じでない限り、その両者が同一の物質であるとは言えるものではない。しかも、同一の設定条件で出てくる物質が単一であるとは限らないのであって、設定条件が同一であるとしても両者が同一の物質であるとは言えない。
本件鑑定においては、ガスクロマトグラフィーの結果は、A甲11933の報告書のAからKまでの各チャートの1番上の段にあるトータルイオンクロマトグラム(TIC)に表れているが、各チャートのピークの状況は完全に一致するとは言い切れず、特にチャートKについては明らかに他のチャートと異なっているにもかかわらず、これらがすべて同一の物質から成っているものとの前提の下に鑑定の作業が進められていることは極めて問題である。
b 質量分析計では、質量分析法の中にも熱電子衝撃法と化学イオン化法、その他の方法があり、本件においても熱電子衝撃法及び化学イオン化法を実施したとのことである。
このうち、熱電子衝撃法は、ガスクロマトグラフィーによって分離された物質にさらに電子を照射し、分子の開裂した質量スペクトルを得、これを標品のスペクトルと比較して、その類似性を判断するものである。
しかし、熱電子衝撃法においては、照射する電子の電圧を如何に設定するかによって開裂の起きる状況も著しく異なってくるうえ、同じ電圧の電子を照射したとしても開裂の仕方が全く同じになることもない。しかも、分析の結果得られたスペクトルは、同じ条件で測定した標品のスペクトルと比較して初めて意味があるのであり、そもそも標品がない場合には、的確なスペクトルとの比較ができない。
本件鑑定では、サリン自体の標品はないまま、NISTのライブラリーデータと比較して、本資料にサリンが含有されているものと結論づけているが、後述するように、NISTのライブラリーデータ自体が極めて暖味なもので、その照合の仕方も不明確であり、本鑑定は通常なされるべき方法さえ採られていないことになる。なお、安藤証人は、平成7年3月20日昼ころ、自衛隊からサリンのスペクトルを入手し照合したと証言するが(第33回22丁〜)、これを見ただけなのか入手したのかについての供述内容も暖昧であり、そのスペクトルの原物がなければ、どのようなスペクトルであったか客観的に判断のしようがない。
また、標品のスペクトルと比較する場合においては、上記のような状況の下で、両スペクトルが完全に一致するということは通常有り得ず、両者がどれだけ似ているかという類似性を判断することになる。そして、通常は「資料のスペクトルと標品のスペクトルは似ているから同一であろう。したがって、資料は標品の物質であろう」との判断がなされるわけであるが、これは逆に言えば、非常に
よく似たスペクトルを示したからと言って、標品と同一であると断言することはできないのであって、GC/MS法の限界がここにある。
さらに、GC/MS法の限界を補完する作業として、安藤証人は、なぜそのような開裂の仕方をするかという解釈を試み、「マクラファティ型転位」が起きていると証言するが、これは単なる解釈に過ぎず、何ら実証されてはいないうえ、解釈としても不十分なことを安藤証人自身が認めている(第29回81丁)。
c 化学イオン化法は、物質に水素イオンを付加し、その物質の分子量を測定することを目的とするものであるが、水素イオン付加の過程で、分子が開裂を起こす可能性があることを否定できず、得られた結果が間違いなく分子量を示しているとまで断言できるものではない。
d 熱電子衝撃法と化学イオン化法によって、その物質の分子量と開裂の仕方が判明したとして、これに相応する物質がある程度推定できたとしても、これによって、厳格な意味でその物質と同定できるわけではない。
本件においても、安藤証人は、サリンの構造異性体については、GC/MS法の結果どのようなスペクトルが得られるかについて資料がないため分からないと証言しており(第33回9丁)、同じ分子量、類似のスペクトルであっても、結合の仕方が若干異なる構造異性体、すなわち他の物質である可能性も否定できない。
本件鑑定においても、後述するように、GC/MS法の外に、核磁気共鳴法や赤外線吸収スペクトル法を用いていることは、GC/MS法では物質の同定に不十分であることを物語るものである。
(イ) NISTのライブラリーデータとの照合
a 本件鑑定においては、先に述べたとおり、本来であれば、ガスクロマトグラフィー質量分析計によって得られた資料のスペクトルと、同じ機械を用い同じ条件の下で測定した標品のスペクトルと照合すべきところ、NISTのライブラリーデータと照合しただけで、結論を導いている。
b このNISTのライブラリーデータがどのようなものであるかについては、本鑑定書に資料が一切添付されていないため不明であり、これ自体本鑑定書は客観性が担保されておらず、鑑定書として極めて間題がある。
しかも、本裁判になって弁護側から求めた結果初めて開示されたNISTライブラリー中のサリンのデータ(同第29回添付のもの)は、原典がどこにあるのかも明らかでない上、どのような機械で、どのようなどれだけのイオン化電圧をかけてスペクトルを得たのかも明らかではない(同第29回71丁〜)。サリンの融点、沸点の記載も明らかに誤りであり、サリンの質量も安藤証言とは微妙に異なっている。したがって、NISTライブラリー中のサリンのスペクトル自体、その信用性に疑問がある。
c 本鑑定書においては、鑑定資料のスペクトルをNISTライブラリーデータと照合し、「スペクトルが一致した」とされているが、その実態は、鑑定資料につきCRT画面上に出てきたスペクトルに、マウスのキーを当ててクリックすると、類似度の高いものから幾つかの物質の名が表示される、その中で類似度の1番高いものが、当該物質であると判断したというに過ぎない(第33回16丁〜)。
通常、コンピュータによる標品スペクトルとの照合においては、スペクトルに表れた幾つものピークのうち何本のピークを照合するのか、また類似度の高いものから何番目までを選び出すのか等につき、条件設定をするものであるが、本件においてはこのような操作はなされず、一体どのような設定の下に照合がなされたのか、全く不明である。
さらに、スペクトルの比較は、どの質量の位置にどれだけの量のピークが表れているかを比較するものであるところ、通常、ピークの位置が一致している場合、各ピークの相対強度を比較する。例えぱ、m/z99,125,81の位置にピークが出ているとして、そのうち99のピークが1番高く、2番目は125のピーク、3番目が81のピークであるとする。そして、それぞれのピークの比率がどの位であるかまで見て、これを標品のスペクトルと比較し、類似度を検証するわけである。
このような作業をコンピュータが行っているものと思われるが、結局は類似度がどの程度かが間題となるところ、安藤証人は、類似度は90パーセント前後であったと証言するのみで(同第33回19丁)、その根拠となる資料自体を示すことがない。しかも、類似度が30ないし40パーセントでも物質の同定ができるかの如き証言をするが(同丁)、このような程度で物質の同定ができるわけではない。同一の物質をGC/MS法で分析した結果、類似度30パーセント程度の異なったスペクトルが得られることがあるとしても、逆に類似度30パーセント程度の物質が同一であるとは到底言えないのである。これは類似度90パーセントでも同様である。
d NISTのライブラリーデータには8万件程度のデータが入っているとのことであるが、一方、化学誌「ケミカルアブストラクツ」には1990年2月の段階で1000万件のデータが登録され、その後も毎年50万件近く新化合物が追加されている状況にあり(第29回63丁)、これと比較した場合に、NISTのライブラリーデータは十分なものではないことは明らかである。したがって、NISTのライブラリーデータと照合して類似度が一番高いものが判明したとしても、このライブラリーに登録されていない物質である可能性は十分にある。
このように、NISTのライブラリーデータとの照合も、本件物質を同定するために十分であることの立証はできていない。
e 本件鑑定において、各鑑定資料をガスクロマトグラフイー質量分析計で測定した結果がA甲11933の報告書のAからKまでのチャートに表れているが、例えば、サリンのスペクトルであると指摘する第2段目の各チャートを比べていっても、特にチャートAではm/z43の位置のピークが他のチャートに比べて低い、すなわち相対強度に著しい違いがあることは一見して明らかである。そして、これらのスペクトルをNISTのライブラリーデータと比較した場合には、むしろチャートAの第2段目のチャートの方が類似しているものと言える。
さらに、メチルホスホン酸ジイソプロピルエステルのものであるとされる第3段目の各チャートを比べると、特に一番左側のピークはチャートによってm/z40から45までのぱらつきがあり、そのピークの高さも明らかに異なっている。このようなスペクトルの違いがある中で、鑑定資料の全てが同一であることさえ言えないことは、安藤証人も認めているところである(第33回15丁)。
(ウ) 核磁気共鳴法(NMR)について
a 本鑑定では、GC/MS法を補完するために、核磁気共鳴法(NMR)の分析を行ったとされる。すでに述べているように、ガスマス分析だけでは物質の同定はできず、その外にNMRやIRなどによる検査が必要であるとしても、その場合ただNMRを使いさえすればよいというわけではなく、NMRによって、炭素原子の骨格がどのように結合されているか、その炭素に幾つの水素原子がついているかという構造決定を行う必要があるためである。本件における検査のように、リンの検査だけでは不十分である。
さらに、このような他の分析も行ったこと自体、GC/MS法のみでは物質の同定が不十分であることを示すものである。
安藤証人は、GC/MS法で100パーセント同定でき、他の方法を行ったのは120,130パーセントの確信を得るためであると証言するが、このような証言をすること自体、科学者として客観的に判断するという基本的姿勢に欠ける。
b 核磁気共鳴法の分析結果についても、安藤証人は具体的な数値を供述するが、これを裏付ける資料の提出はなく、上記数値が真実であるか否かを判断することはできない。
しかも、NMRの装置は科捜研にはなく、他の施設の装置を借りて分析をしたとのことであるが(第33回31丁〜)、名前も明かせないような施設(反対尋問の結果、ようやく東京工業大学、日本電子であることが明らかとなったが)の装置を利用した検査は、鑑定としての公正さ、正確性が保障されるものではない。安藤証人は、NMRの装置の操作方法も分かっていない疑いがあり、上記分析は同証人が行ったものとは言えない。
そもそも本鑑定書には、このような他の分析方法を行ったこと自体の記載がないのであって、仮に証言の結果そのような事実が明らかとなったとしても、これをもって本鑑定書の不備を補完することは許されない。
c 核磁気共鳴法は、磁場の中に入れられた化合物の化学的な違いによって、その核と別の核との吸収振動数の違いを測定する方法と説明され、本件ではリン31につき、ケミカルシフト29PPM、カップリングコンスタント1037ヘルツの測定結果が得られ、メチルホスホン酸型のリン化合物で、リンにはフッ素が付いていることが分かるとされる(第33回46丁)。
しかし、そもそも地下鉄サリン事件における5路線の遺留物が同一のものか否かが判明していないにもかかわらず、この検査は、千代田線霞ヶ関駅に残されたものしか対象とされておらず、この緒果を5路線の遺留物全体に及ばせることは許されない。
測定の結果、ケミカルシフト29PPMの位置に2本の線が現れ、そのカップリングコンスタントを測定したとされるが、安藤証人も、この2本の線がたまたま近くの位置に別々の線が2本現れた可能性があることを否定しておらず(第33回42丁)、この場合にはリンがフッ素原子と結合していることを意味するものではない。
上記測定値は、文献値ケミカルシフト28・9PPM、カップリングコンスタント1036ヘルツとは異なっており、安藤証人は、この違いが測定誤差の範囲内か否かについて明確な説明ができない。
以上のとおり、核磁気共鳴法の結果によっても、本件資料中に、リンにフッ素が付いているメチルホスホン酸型のリン化合物が含まれることが、十分に立証されているわけではない。
(エ) 化学反応検査について
本件鑑定では、1、鑑定各資料に水酸化ナトリウムあるいは水酸化カリウム溶液を加え密封放置後に、気相についてGC/MS法による分析を行ったほか、安藤証人によれば、2、丸ノ内線本郷3丁目駅の遺留物につき水酸化カリウム溶液に鑑定資料を加えたものを、核磁気共鳴法による分析、赤外線吸収スペクトル法による分析等を行い、3、千代田線霞ヶ関駅の遺留物につき、エタノールに金属ナトリウムを溶かしたものに鑑定資料を加え、抽出物をGC/MS法で分析したとされる(第33回49丁〜)。
このうち1の検査については、すでに述べたことと同様に、具体的な資料の添付もなく、ノルマルヘキサンその他の物質のそれぞれのスペクトルと一致するスペクトルが得られたと鑑定書には記載されているが、両スペクトルが完全に「一致する」ということはなく、この記載は誤りであり、基本的にGC/MS法自体が物質を同定するのに十分な方法ではない。
2、3の検査は、鑑定書にも記載されておらず、資料の裏付けのない証言自体信用できるものではなく、また、例えば、水酸化カリウムと反応して発生すると思われるフッ化カリウムの検出について、GC/MS法で得られたスペクトルにつき標品のスペクトルと対比するという基本的な手法もとっていない(第33回55丁)など、鑑定には値しない杜撰な検査方法をとっている疑いがある。
シ 結論
以上のとおり、本件安藤・野中鑑定は、鑑定の経過も不明確であり、鑑定書の記載も不十分であり、鑑定内容も信頼できるものではない。
3 被害との因果関係について
(1) サリンの毒性
ア 滝本サリン事件において述べたとおり、サリンには効力が数千倍も異なる光学異性体が存在し、単にサリンというだけでは、強力な殺傷力をもつものであるか、ほとんど殺傷力のないものであるか不明である。
イ また、被害者にサリン中毒症状類似の症状が出ているとしても、それは有機リン中毒の症状であって、有機リン中のサリンであるということまで特定できるものではなく、有機リン以外でもそのような症状が出るものであって、原因物質が有機リン系のものであるということまでも特定できるものではない。 本件地下鉄サリン事件の被害者らが搬入された日本医科大学病院の南正康教授の論文(弁79号証)によれば、次の点を指摘している(54頁右段落中ほど)。
「…消防庁関係者が都内の病院に搬送したサリン被曝者は5,510人で、そのうち急性の死者は11人という致命率の低いことも考慮しておきましょう。尿中のイソプロピルアルコール(IPA)がサリンのみからくるとすれば、亡くなった方の致命率も考慮すると、サリンの体内へ取り込まれた推定量を多く見積もりすぎてしまいすぎるように思えます。それでは、サリン以外に何が被曝されたのかを推定しましょう。
サリン合成に際して、副生成物として得られる第1の物質はジイソプロピルメチルホスホン酸(DIMP(メチルホスホン酸ジイソプロピル))です。このときIPAの代わりに、サリン合成系にEtOH
(エチルアルコール)を入れればジエチルMPA(DEMP)が生成しますし、IPAにEtOHが混ざっていれぱ、エチルイソプロピルMPA(EIMP)も生成すると考えられます。
いずれのジアルキルエステルもAChEをサリンほどではないが阻害します。特に、エチルイソプロピルMPAが強い阻害をします(図15)。…」
このように、サリン以外でも強い毒性をもつ有機リン系物質は多数存在するのであり、サリンの中毒症とされる症状が出たとしても、それをもって原因物質はサリンであると考えることは断じてできない。
ウ さらに、サリンの予防薬とされるメスチノン(臭化ピリドスチグミン)との相乗効果があり、この予防薬を飲んでいる場合には、サリン中毒の症状が出たとしても、それがサリンを被曝したことによるのか、予防薬自体の効果なのか、あるいはそれらの相乗効果なのかを判断することはできないことは、すでに述べたとおりである。
(2) サリンの気化・払散状況
ア 本件において撒布された物質が仮にサリンであるとしても、被害者とされる人達が実際にサリンを被曝したと言える客観的状況が検証されなければならない。
そのためには、まず、ビニール袋に入っていたとされるサリンが、傘によって穴を開けられた後、地下鉄車両内あるいは地下鉄駅構内にどのように気化し、拡散していったが検討されなけれぱならない。
しかしながら、本件においては、この点に関する立証は何一つなされていない。当初はあったサリンのうちどれだけの量が気化していったのかも分からない。
また、サリンの気化速度も間題である。最終的に気化したサリンの量が分かったとしても、それまでにどの位の時間がかかったかによって、仮に被害者が被曝したとしても、そのときの被曝したサリンの量が著しく異なることは明らかである。
イ 安藤証人は、サリンの揮発性、蒸気圧に関して、水の約7分の1から8分の1の程度と証言をしている(第23回5丁裏)。
なお、安藤証人は、第33回公判においては、「蒸気圧が高ければ気化も遅い」と証言しているが、これは誤りである。
この点につき、土谷は、次のように証言する(第248回72丁〜)。
すなわち、液体の蒸気圧が高いということは、気体分子の数が多いということで、それだけ液体から気体に揮発しやすいことを意味する。そして、水の蒸気圧は室温25℃において23.55o/hgであるのに対し、サリンの蒸気圧は室温25℃において2.86o/hgである。そうすると、水よりもサリンの方が8倍揮発しにくいことになる。
ウ さらに、サリンの拡散速度に関して、土谷は次のように証言している。サリンの分子量は140、空気の平均分子量は28.8であり、サリンの方が空気よりも5借位重い。したがって、サリンが気化したとしても、空気より重いため、拡散しにくい。
エ したがって、サリンは、通常の状態において気化しにくく、拡散しにくい物質であることは明らかである。
(3) 各被害者の被曝の可能性
ア 被曝状況の不明
一方、被害者とされる乗客については、地下鉄車両内あるいは駅構内のどこにいて被曝したのかについての立証も不十分である。
被害者がどの地下鉄の路線で通っていたかが分かったとしても、果たしてサリンが撒布された地下鉄車両に乗っていたのか、あるいは同じ列車としても別の車両なのか、さらには後続車両なのかさえも不明である。
弁護人としては、これらの事案解明のためには事件当日の地下鉄の運行状況を明確にすることが不可欠であると考え、営団地下鉄職員栗原俊明の反対尋問において、この点を尋問しようとしたが、むしろ検察官側から「主尋問の範囲外」との異議が出され、結局運行状況が不明確のままになっている(栗原俊明尋問速記録第36回)。
例えば、日比谷線北千住発中目黒行き車両の後続電車についての運行状況を弁護人が聞こうとしたところ、検察官の異議のために尋間が中途で終わっているが(18丁)、後に述べるように、この路線では、サリンが入ったビニール袋が小伝馬町駅で車内からホームヘ出されたとされているために、サリンが撒布されたという電車自体よりも、その後の後続電車に乗っていた乗客の被害が大きいのではないかと推測される。しかし、このように後続電車の運行状況も明確でない状況の下で、各被害者がどこで、どのようにして被害を受けたのかを明らかにすることは不可能である。
こうした検察官の立証の不備は、検察官が責任を負うべきものである。
イ 日比谷線北千住発中目黒行き車両関係
(ア) この路線では、岩田孝子、和田栄二、坂井津那、小島肇、藤本武夫、田中克明、伊藤愛、岡田三夫が死亡し、児玉孝一、木村昌次、佐藤一雄の3名が傷害を負ったとされる。
他方、林泰男が乗車していた電車(これを「A車」と呼ぶこととする。)は、3月20日午前8時ころ秋葉原駅を発車し、同日午前8時2分ころ小伝馬町駅に到着した。小伝馬町駅では、乗客の中村康宏が液体の漏出している新聞紙の包みを車内からホーム上に足で押し出したとされる(中村康宏尋問速記録(第11回))。そして、A車は、その後小伝馬町駅を発し、人形町駅、茅場町駅、八丁堀駅を経て、築地駅で運転休止となっている。このA車のすぐ次の後続電車(これを「B車」と呼ぶこととする。)は、小伝馬町駅に同日午前8時6分に到着し、人形町駅、茅場町駅を経て、八丁堀駅で運転休止となった。その次の列車(これを「C車」と呼ぶこととする。)は、小伝馬町駅に午前8時8分に到着し、人形町駅を経て、茅場町駅で運転休止となった。さらにその次の列車(これを「D車」と呼ぶこととする。)は、小伝馬町駅に午前8時10分に到着し、人形町駅で運転休止となった。その次の列車(これを「E車」と呼ぶこととする。)は、小伝馬町駅に午前8時12分に到着し、小伝馬町駅で運転休止となったとのことである(以上、栗原俊明尋問速記録(第36回))。
しかし、この最後の列車については、小伝馬町駅で全員を降ろした後に発車して、人形町駅に行く途中で停止したと供述する者もあるが、この点の真偽は栗原証人では判明できない(同証人尋問速記録第36回18丁)。
このように小伝馬町駅に着いた列車はサリンが撒布されたというA車以外にもB,C,D,Eと続いており、各被害者がどの列車に乗ったのか、不明である。
(イ) 岩田孝子について
岩田孝子に関しては、伊藤和男証人が、車で通勤する途中、小伝馬町交差点付近で女性2名、男性1名を乗せ、聖路加国際病院に運んだ中の一人が同人であると証言するのみで(同証人尋間速記録第38回)、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては、一切立証がない。
(ウ) 和田栄二について
和田栄二については、当時小伝馬町駅駅務掛主任であつた大室勉証人が、同駅のA口インフォメーションカウンターで改札業務をしていたところ、奇声を発しながら男性3名に抱えられるようにして連れてこられた男性が同人であり、同証人は同人を駅事務所まで運び、同僚に救急車を呼ぶよう要請したとのことであるが(同証人尋問速記録第35回)、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては、一切立証がない。
(エ) 坂井津那について
坂井津那についても、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては不明である。
検察官は、同人は、通常の通勤は他の路線を経て、日比谷線茅場町駅から八丁堀駅まで利用しており、本件発生後、同人の保険証在中の鞄が八丁堀駅のホーム上で発見され、また同人が八丁堀駅から慶應義塾大学病院まで搬送されていることから、北千住発の本件電車(A車)に乗車していた可能性が高いと主張する(論告203丁)。
しかし、八丁堀駅まで進行した列車は、A車の外にもB車があり、同人がA車に乗ったという認定はできない。しかも、仮に同人がA車に乗車したとしても、A車にあったサリンの入った新聞紙の包みは、すでに小伝馬町駅でホームに出されており、車内には存在していないのである。このような状況の下で、同人が致死量に達するサリンを吸引する可能性は極めて低いものと言わざるを得ない。
(オ) 小島肇について
小島肇に関しても、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては不明である。
検察官は、同人は、通常の通勤は他の路線を経て、日比谷線茅場町駅から六本木駅まで利用しており、本件当日も通常どおり自宅を出ていることから、茅場町駅で本件電車(A車)に乗り換えていた可能性が高いと主張する(論告203丁)。
しかし、上記の間接事実だけで本件の際にもA車に乗ったと認定することができないことは明らかである。しかも、仮に同人がA車に乗車したとしても、A車にあったサリンの入った新聞紙の包みは、すでに小伝馬町駅でホームに出されており、車内には存在せず、このような状況の下で、同人が致死量に達するサリンを吸引する可能性は極めて低いものと言わざるを得ない。
(カ) 藤本武男について
藤本武男に関しても、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては不明である。
検察官は、同人は、通常の通勤は他の路線を経て、日比谷線北千住駅から神谷町駅まで利用しており、本件当日も通常どおり自宅を出ていることから、本件電車(A車)に乗車していた可能性が高いと主張する(論告203,204丁)。
しかし、上記の間接事実だけで本件の際にもA車に乗ったと認定することができないことは明らかである。
(キ) 田中克明について
田中克明に関しても、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては不明である。
検察官は、同人は、通常の通勤は他の路線を経て、日比谷線上野駅から人形町駅まで利用しており、本件当日も通常どおり自宅を出ていることから、本件電車(A車)に乗車していた可能性が十分あり、午前8時35分ころ、小伝馬町駅のホーム上で全身けいれんさせた状態で仰向けに倒れ乗客の介抱を受けていたと主張する(論告204丁)。
しかし、上記の間接事実だけで本件の際にもA車に乗ったと認定することができないことは明らかである。同人が小伝馬町駅でけいれんしていたとのことが事実であるとするならば、なおさらA車ではない可能性が高い。A車は小伝馬町駅では通常の停車時間の後にすぐに発車しているからである。また、同人が小伝馬町駅構内で本件物質を吸引したとしても、同人がなぜ小伝馬町駅で下車していたのか不明であるうえ、駅構内のどの場所にいて、どのような状況の下で吸引したかについての立証はない。
(ク) 伊藤愛について
伊藤愛についても、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては不明である。検察官は、同人は、通常の通勤は他の路線を経て、日比谷線北千住駅から茅場町駅まで利用しており、本件当日も通常どおり自宅を出ていることから、本件電車(A車)に乗車していた可静性が十分あり、また、本件当日、小伝馬町駅の前後の駅から聖路加国際病院まで搬送されたと主張する(論告204丁)。
しかし、上記の間接事実だけで本件の際にもA車に乗ったと認定することができないことは明らかである。しかも、小伝馬町駅の前後の駅から聖路加国際病院に搬送されたとの事実しか分かっていないのであり、同人がどの列車に乗車し、どこでどのような状況のもとに本件物質を吸引したのかについては立証がない。
(ケ) 岡田三夫について
岡田三夫に関しても、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては不明である。
検察官も、同人は、経路は定かでないが中目黒方面に向かう日比谷線を通勤に利用していたとしか主張しておらず(論告204丁)、これをもってA車に乗ったと認定することができないことは明らかである。
(コ) 児玉孝一について
児玉孝一についても、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては不明である。
検察官は、同人が、通常、他の路線を経て、日比谷線秋葉原駅から神谷町駅まで利用していたことから、本件電車(A車)に乗車していた可能性が十分あり、また、本件当日、築地駅で倒れていたと主張する(論告204丁)。
しかし、上記の間接事実だけで本件の際にもA車に乗ったと認定することができないことは明らかであるうえ、築地駅で倒れていたとしても、同人が、どこでどのような状況のもとに本件物質を吸引したのかについては立証がない。
(サ) 木村昌次について
木村昌次については、検察官も、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては何ら述べることもない。
この点に関しては、証人稲村克郎が、本件当日、小伝馬町駅で電車が運転休止となり、次の電車をホームで15分ほど待っていたが、体調が悪くなってきたので、午前8時30分ころ、外に出て喫茶店に入ったところ、身体の具合を悪くしている1人の男性から「救急車を呼んで欲しい」と頼まれ、同人をタクシーで東京医科歯科病院まで連れて行った旨証言する(第195回)。
しかし、それだけでは同人が本件地下鉄に乗っていたことすら証明できるものではない。ましてや、A車に乗車していたこと、小伝馬町駅構内にいたことも立証できているものではない。
なお、稲村証人が乗っていた列車は、小伝馬町駅で運転休止となったのであるから、前記E車であると考えられる。同車は午前8時12分に小伝馬町駅に到着していたのであり、その後、同人は、小伝馬町駅のホームにおいて15分以上もの間次の電車が来るのを待っていたことになる。同証人も体調が悪くなったとのことであるが、それでも症状は軽微であつたことは明白である。このように、サリンとされる物質がホームの片隅におかれていた駅構内においても、致死量に達するほどの同物質が駅構内に蔓延していたわけではないのである。
(シ) 佐藤一雄について
佐藤一雄についても、検察官は、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては何ら述べることもない。
ただ、同人に関しては、同人自身が、本件サリンと思われる物質が撒布された車両と同じ車両に同乗し、秋葉原駅に着いたときにシンナーのような強い臭いを感じ、小伝馬町駅において同物質が床に広がっている状況を見ており、さらに次の人形町駅で下りて一旦会杜に行ったが、症状が悪化していったのでタクシーで茅場町の救護所に行き、さらに東京医科歯科病院に入院した旨証言する(第193回)。
弁護人としても、上記事実自体を否認する根拠は持たないが、このようにサリンと思われる物質を間近に見ている者でさえ、4日間の入院程度で済んでいることに注目すべきである。仮に林泰男によって撒布された物質が、遠藤らが生成した物質であったとしても、その中にはN,Nジエチルアニリンその他の不純物質が多量に含まれ、他方仮にサリンが含有されていたとしても、サリンの気化速度は遅いこと等を考慮すれぱ、佐藤一雄が吸引したサリンの量は、極めて微量であったと考えられ、致死量に達していなかったことが十分伺える。
ウ 日比谷線中目黒発東武動物公園行き電車関係
(ア) この路線においては、渡邊春吉が死亡し、尾山孝治、井田隆三が傷害を負ったとされる。
豊田亨によって撒布が実行された列車は、午前7時59分ころ中目黒駅を発し、午前8時1分ころ恵比寿駅に到着し、午前8時2分ころ同駅を発し、広尾駅、六本木駅を経て、午前8時11分ころ神谷町駅に到着した。そして、サリンと思われる物質が撒布された第1車両を空にした状態で、同駅を約7分遅れで発車し、午前8時20分ころ霞ヶ関駅に到着したが、同駅で運転が中止されたとされている。
(イ) 渡邊春吉について
検察官は、同人は、本件当日、日比谷線恵比寿駅から八丁堀駅近くにある仕事場へ向かうために本件電車(B711T)に乗車中、手足をけいれんさせ、意識不明の状態に陥り、神谷町駅で同電車外に救出されたものの、同駅構内から搬送する時点では死亡していた旨主張する(論告205丁)。
この点に関しては、尾山孝治証人と井田隆三証人が証言している(第190回、第191回)。両証人とも、自分自身がサリン中毒にあったということで公訴も維持されているので、詳しい状況は各証人の項において述べることとするが、両証人とも、サリンと思われる物質の間近にいて、尾山証人に至っては、車内にある不審物の臭いを嗅ごうとして、腰を屈めて50〜60センチメートルまで顔を近づけ、実際に臭いを嗅いだという(尾山孝治尋問速記録(第190回35丁))。それにもかかわらず、両証人の症状は比較的軽微である。
また、車内に置かれた不審物から中の液体が漏出していたが、その液体の広がりは直径10センチメートル程度であったという(尾山尋問速記録(第190回21丁))。そうすると、漏出した液体自体、それほど多量なものとは言えない。
しかも、仮に豊田によって撒布された物質が、遠藤らが生成した物質であったとしても、その中にはN,Nジエチルアニリンその他の不純物質が多量に含まれ、他方仮にサリンが含有されていたとしても、サリンの気化速度は遅いこと等を考慮すれば、渡邊春吉が吸引したサリンの量は、極めて微量であったと考えられ、致死量に達していなかったことが十分伺える。
(ウ) 尾山孝治について
尾山浩治についても、検察官は、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては何ら述べることもない。
同人は、本件当日、他の路線を経て、日比谷線中目黒駅から本件電車の第1車両に乗車し、進行方向左側の先頭から3番目のドア前に立っていたところ、2つ目の駅を過ぎる辺りで車内でせき込む人が現れ、また近くの座席の前の床に液体が漏出している新聞紙の包みを見たという。そして、腰を屈めて50〜60センチメートルまで顔を近づけ、その不審物の臭いを嗅いだという。その後同人は神谷町駅で一旦下車した後、霞ヶ関駅まで行き、同駅からタクシーで新橋駅まで行ったとのことである(第190回)。
上記の点が事実であるとすれば、尾山はサリンと思われる物質に直接触れてはいないが、50〜60センチメートルの距離で気化した物質を吸引しているはずである。
ところが、同人はその後も仕事場まで出かけ、午後1時ころになって病院に行き、入院した。
このような状況から見ると、仮に本件で撤かれた物質にサリンが含まれていたとしても、同人は致死量のサリンを吸引していないことは明らかである。
(エ) 井田隆三について
井田隆三についても、検察官は、同人がどの列車のどの車両に乗っていたのか、どのような状況の下でサリンを吸引したのかについては何ら述べることもない。
同人は、本件当日、他の路線を経て、日比谷線中目黒駅から本件電車の第1車両に乗車し、進行方向右側の先頭から2番目と3番目のドアの間の座席の真ん中辺りに座って眠っていたところ、広尾駅を過ぎた辺りで車内が騒がしくなり、シンナー臭い臭いがし、斜め前の座席の前の床に液体が漏出している新聞紙の包みを見たという。その後同人は神谷町駅で下車し、しぱらくホームで休憩したのち、地上に出て救急車で病院に運ばれたとのことである(第191回)。
他方、サリンが入っているとされるビニール袋はそのまま車内に置かれたまま、前記のとおり、電車は神谷町駅に7分位停車していた後、同駅を発し、霞ヶ関駅まで進んでいる。してみると、仮に本件で撒かれた物質にサリンが含まれていたとしても、同人が致死量のサリンを吸引していないことは明らかである。
エ 丸ノ内線池袋発荻窪行き電車関係
(ア) この路線では、中越辰男が死亡し、浅川幸子、鈴木裕徳及び伊藤健治が傷害を負ったとされる。
廣瀬健一によって撤布が実行された列車は、午前8時ころ御茶ノ水駅を出発し、淡路町駅、大手町駅、東京駅、銀座駅、霞ヶ関駅等の各駅を経て、午前8時25分ころ中野坂上駅に到着した。同駅で車内から男女各1名(中越辰男と浅川幸子)が救助されるとともに不審物が車内から撤去され、その後午前8時30分ころ同駅を発車し、午前8時40分ころ終点の荻窪駅に到着したが、さらに同駅で折り返し、午前8時43分に後楽園行きとなって発車し、午前8時47分ころ、新高円寺駅まで行ったところで運転が中止されたとされる。
(イ) 中越辰男について
中越辰男は、本件当日、丸ノ内線東京駅から本件電車に乗車し、新宿三丁目まで行く途中意識不明となり、中野坂上駅で救助されたという。ただし、車内での同人の状況については、東京駅から銀座駅まで一緒に乗車していた伊藤健治が供述するのみであり(伊藤健治尋問速記録第192回)、伊藤が銀座駅で中越と別れたときは、中越に異常を伺わせる様子は一切見られない。その後の同人の状況は全く不明である。
(ウ) 浅川幸子について
浅川幸子は、本件当日、丸ノ内線霞ヶ関駅から本件電車に乗車し、新高円寺駅へ向かう途中、意識不明となり、中野坂上駅で救助されたとされる。その間の状況は全く不明である。
(エ) 鈴木裕徳について
鈴木裕徳は、本件当日、丸ノ内線東京駅から本件電車に乗車した。進行方向前から3両目の1番後ろのドアの、右側入り口のすぐそばの席に座っていたところ、四谷駅を過ぎた辺りから目の前が暗くなり、新聞が読めなくなり、その後血の気が引くような感じを覚え、頭痛、めまい、吐き気、鼻水、咳が出てきた。新宿御苑前駅で下車し、会社へ行こうとしたが、途中吐き気と便意を催したため、駅前の喫茶店に立ち寄った。会杜に着いた後、病院に行ったとのことである(第193回)。
仮にこの点が事実であるとしても、このような状況からすれば、致死量のサリンを吸引していないことは明らかである。
(オ) 伊藤健治について
伊藤健治は、同人の妻と友人の中越辰男の3人で丸ノ内線東京駅から乗車し、妻と共に銀座駅で下車した。駅から出たときに照明が異常に暗いと感じ、くしゃみと鼻水が出るなどの症状が出たという。しかし、その後も銀座にある会杜に出杜し、すぐに出かけて虎ノ門で商談を済ませたが、目の痛み、頭痛なども重なって、仕事をする気力が無くなり、会杜の近くの眼科医で治療を受けた。その後3月22日になって、病院に行ったところ、サリン中毒との診断を受けたとのことである(第192回)。
しかし、この症状のうち目の痛みや頭痛はサリン中毒の症状ではない。また、縮瞳や鼻水が出る等の症状もサリン以外の有機リンによっても起こるものであり、サリン中毒であると断定することはできない。しかも、このような症状からすれぱ、仮にサリンであるとしても、致死量のサリンを吸引していないことは明らかである。
オ 千代田線我孫子発代々木上原行き電車関係
(ア) この路線では、高橋一正及び菱沼恒夫が死亡し、伊藤由香(当時の姓は「斉藤」)及び櫻庭晶子(当時の姓は「久富」)が負傷したとされる。
林郁夫によって撒布が実行された列車は、午前8時4分ころ新御茶ノ水駅を発車し、大手町駅、二重橋前駅、日比谷駅を経て、午前8時12分ころ霞ヶ関駅に到着した。そして、同駅において、駅員である高橋一正及び菱沼恒夫が不審物が車内から撤去された後、午前8時14分ころ同駅を発車し、午前8時16分ころ、国会議事堂前駅に到着し、同駅で運転が中止されたとされている。
(イ) 高橋一正について
高橋一正は、千代田線霞ケ関駅の役務助役として、同駅に停車していた本件電車の車内からサリンが入っていたとされる遺留晶を撤去し、清掃するなどして意識を失ったとされる。
それ以上に、同人がどの程度本件毒物に直接接したのかは不明である。
(ウ) 菱沼恒夫について
菱沼恒夫は、千代田線霞ヶ関駅の運行管理に勤務中、同駅に停車した本件電車内の清掃をしたり、サリンの入っていたとされる遺留品を駅事務室まで撤去するなどしていて意識を失ったとされる。
それ以上に、同人がどの程度本件毒物に直接接したのかは不明である。
(エ) 伊藤(斉藤)由香について
伊藤(斉藤)由香は、地下鉄霞ヶ関駅で、本件電車の1両目の車両の進行方向左側、先頭から1番目のいすの先頭から2番目のドアに近いところに倒れ込んでいるのを目撃され、その後国会議事堂前駅で救助されて、櫻庭晶子と共にパトカーで病院に運ばれた。その間の状況は分からない。
(オ) 櫻庭(久富)晶子について
櫻庭(久富)晶子は、本件当日、地下鉄千代田線大手町駅から本件電車に乗車した。1番先頭の車両の1番前のドアから乗り、進行方向左側のドアのところに立っていた。二重橋前駅を過ぎた頃から咳が止まらなくなり、霞ヶ関駅で、駅員が不審物を撤去した後、車両を換わるよう指示されたが、視界がセピア色になって、1両目のいすに座り込んだ。その後国会議事堂前駅で下車し、ホームのベンチに座った後地上に出て、パトカーで病院に行ったとのことである。
これが事実であるとしても、この症状からサリン中毒とまで言えるものではないし、仮に にサリンが含まれているとしても、この状況からすれば、同人が致死量のサリンを吸引したとは言えない。
カ 丸ノ内線荻窪発池袋行き電車関係
(ア) この路線では、古川実、横田洋亜、坂井裕明及び冨岡隆文が傷害を負ったとされる。
横山真人によって撒布が実行された列車は、午前8時2分ころ四谷駅を発車し、赤坂見附駅、国会議事堂前駅、霞ケ関駅等の各駅を経て、午前8時30分ころ池袋駅に到着した。そして、同駅で折り返し、午前8時32分ころ同駅を発車し、午前8時42分ころ本郷三丁目駅に到着した。同駅で駅員が不審物を撤去した後、同駅を発車し、午前9時9分ころ新宿駅に到着し、同駅で更に折り返し、午前9時27分ころ、国会議事堂前駅で運転が中止されている。
(イ) 古川実について
古川実は、午前8時32分池袋を発車した本件電車に乗車し、前から2両目の進行方向1番後ろのドアの右側座席に座ったという。本郷三丁目駅で駅員が車内の不審物を撤去するのを見、そのとき言うに言われない臭いを嗅いだという。その後電車が発車して目の前が暗くなってくるとともに、頭痛、吐き気がしたとのことである。それを我慢しながら、霞ヶ関駅まで行き、日比谷線に乗り換えようとしたところ、同線が不通であったので、千代田線に向かったところ、駅員の指示で地上に出、タクシーで職場に向かったとのことである。前記症状は続いており、職場に着いた後、医務室では処置できないとのことで、病院へ向かったとのことである(第192回)。
これが事実であるとしても、この症状からサリン中毒とまで言えるものではないし、仮に本件物質にサリンが含まれているとしても、この状況からすれば、同人が致死量のサリンを吸引したとは言えない。
(ウ) 横田洋亜について
横田洋亜は、本件当日、地下鉄丸ノ内線池袋駅から、折り返し後の本件電車に乗車し、進行方向前から2両目の真ん中左側のドアの付近に立っていたところ、茗荷谷駅付近で風邪をひいたような症状が出始め、本郷三丁目駅で駅員が不審物を撤去するのを目撃し、御茶ノ水駅では駅員が不審物のあったところをモップで拭いていたのを目撃したとのことである。その後大手町駅で下車し、会社に出社して、会議に出た後、病院に行ったとのことである(第192回)。
これが事実であるとしても、この症状からサリン中毒とまで言えるものではないし、仮に本件物質にサリンが含まれているとしても、この状況からすれば、同人が致死量のサリンを吸引したとは言えない。
(エ) 坂井裕明について
坂井裕明は、本件当日、地下鉄丸ノ内線池袋駅から、折り返し後の本件電車に乗車し、進行方向前から2両目の1番前と真ん中のドアの中間辺りに、左側を向いて立っていた。新大塚駅付近で、ナフタリンのような臭いを感じ、茗荷谷駅付近で読んでいた新聞の字が見づらくなってきた。本郷三丁目駅で他の客がほとんど降りたので、同人は前の席に座ったところ、付近に濡れた新聞紙の包みがあるのに気付いた。同駅で駅員が包みを撤去し、同駅を出発してもそのまま乗車していたが、御茶ノ水駅で2両後ろの車両に乗り換えた。その後東京駅で下車し、一旦会社に出社したが、同僚の見送りのために新幹線ホームまで行き、見送りを済ませた後病院に行った(第193回)。
これが事実であるとしても、この症状からサリン中毒とまで言えるものではないし、仮に本件物質にサリンが含まれているとしても、この状況からすれば、同人が致死量のサリンを吸引したとは言えない。
(オ) 冨岡隆文について
冨岡隆文は、本件当日、地下鉄丸ノ内線東京駅から本件電車に乗車し、新大塚駅で下車した。乗った車両は進行方向後ろから2番目の車両の1番後ろの右側の座席に座った。途中後楽園駅付近で濡れた新聞紙の包みに気付いたという。同人自身は咳と鼻水が出、また下車後外に出ると、視界が暗かったという。その後会社に出社した後、病院に行ったとのことである(第194回)。
これが事実であるとしても、この症状からサリン中毒とまで言えるものではないし、仮に本件物質にサリンが含まれているとしても、この状況からすれば、同人が致死量のサリンを吸引したとは言えない。
(4) 瀬戸康雄ら作成の各鑑定書
ア 警察庁科学警察研究所の瀬戸康雄らによる被害者の血液についての鑑定書(A甲11950、同11955、同11960、同11965、同11970、同11975、同11980、同11985、同11990、同11995、同12000)については、まず、資料収集過程において令状主義に反する重大な違法があり、証拠能力を認めるべきではないことはすでに述べたとおりである。仮に証拠能力が認められるとしても、次のとおり、その内容に重大な疑問がある。
イ 鑑定の経過
(ア) 本件鑑定書における鑑定人(鑑定受託者)は、捜査機関の1つである警察庁科学警察研究所の研究員であり、平成6年6月に起きた松本サリン事件のときからサリン及びその関連物質についての鑑定に当たっている。ところが、瀬戸証人は、松本サリン事件に関連した事項について尋間に及ぶと、証言を避けようとする傾向が顕著である。
しかし、地下鉄サリン事件における科警研の鑑定は、松本サリン事件における手法を踏襲したものであり、松本サリン事件における鑑定の手法がどのようであったかが当然間題となる。
ところが、この点についての証言を拒否しようとしたことは、証人が何らかの重大な事実を隠そうとする態度の表れと考えざるを得ない。
瀬戸証人は一体何を隠そうとしているのであろうか。
松本サリン事件の捜査に深く係わり、その後の警察とオウム真理教との対立関係についても深く関わりがあるのか。あるいは、後述するように、実際にはサリンを自ら合成しているにもかかわらず、これを隠そうとしているのか。
いずれにしても、瀬戸証人の証言態度は理解ができず、公平・中立的鑑定は期待できない。
この意味において、本件鑑定の経過自体に重大な疑間がある。
(イ) 鑑定資料を全量消費した点
本件鑑定においては、鑑定書によれば鑑定資料を全量消費したとされているが、瀬戸証言では、残ったものは廃棄したとされる。しかし、本来鑑定資料については、3分の1は最初の分析のために使い、3分の1は再度の分析のために使い、残りの3分の1は、鑑定に疑問が生じたような場合に第3者が後日分析できるよう残しておくのが、鑑定者の心得の基本である。そうでなければ、鑑定の客観性が保てない。本件鑑定においては全量を消費しあるいは残量を廃棄する必要性、合理的理由はなかったのであり、この点においても、本件鑑定の信用性が間題となる。
ウ 鑑定の内容
本件鑑定は、被害者とされる者らの心臓血を鑑定資料とし、1、サリン含有の有無、2、コリンエステラーゼ活性を鑑定事項としている。
そして、コリンエステラーゼ活性の低値から、被害者の死因を有機リン剤等の抗コリンエステラーゼ剤による中毒と推定し(鑑定事項2)、さらに、サリンの分解物質であるメチルホスホン酸モノイソプロピルの含有により、サリン等の神経ガスによる中毒死と推定する(鑑定事項1)、という2段階の判断によって、被害者の死因を考察する作業を行なっている。
ところで、上記鑑定事項2の推定は、鑑定資料につきコリンエステラーゼ活性値を測定して、これを正常人血液のコリンエステラーゼ活性値と比較し、低いかどうかを判断することによってなされている作業である。したがって、まず、鑑定資料についてのコリンエステラーゼ活性値の測定方法の正確性が、ついで、比較の対象である正常人血液のコリンエステラーゼ活性値の測定方法の正確性が、さらに、両数値を比較する作業における手法の正確性・客観性が、それぞれ吟味されなけれぱならない。
また、上記鑑定事項@に基づく推定は、鑑定資料について得られたGC/MSによる検査結果を、「標品」のメチルホスホン酸モノイソプロピルについて得られたGC/MSによる検査結果と比較して両者が一致するかどうかによってなされる作業である。従って、まず、鑑定資料についてのGC/MSの検査の正確性が、ついで、比較の対象である標品のメチルホスホン酸モノイソプロピルについてのGC/MSの検査の正確性が吟味されなければならない。
エ コリンエステラーゼ活性値
瀬戸鑑定に関しては、すでに松本サリン事件において次の点を指摘しており、これは、本件地下鉄サリン事件における上記鑑定にもそのまま当てはまる。
(ア) 本件鑑定において、コリンエステラーゼの酵素活性値の測定方法としていわゆるDTNB法を採用しているものであるが、本件鑑定書においては、いわゆるDTNB法が正確に行われたのか、どのような経過で具体的な数値が導かれたのか、ということを検討する必須の情報が鑑定書上欠落している。
(イ) 比較対照すべき正常人血液の数値につき、正常人の血液か否かさえも明確でなく、その測定方法、コリンエステラーゼの測定条件は何ら示されていない。8検体では到底足りず、8検体の平均値がどれくらいなのか、標準偏差値がいくつなのかの記載がなされていない。
(ウ) 鑑定資料と正常人血液とのコリンエステラーゼ活性値の比較方法につき、A甲12000について、鑑定資料のコリンエステラーゼ活性値が、「若干低い値であった」という記載となっている理由を質問された瀬戸証人は、「正常人8人に関して得られました8検体の平均値から標準偏差として得られた値、シグマを引いた値よりも低ければ、統計的に低いと判断して低かったと記載しております」と明確に述べながら、「平均値引く1シグマよりも高ければあえて書かないんですが、この場合は、平均値引く1シグマよりも少し高かったかもしれませんが、かなり低い、その値に近かったので、まあ、若干という言葉を加味して書いております。」と述べている(同109丁)。このように同証人は、随所で、統計的に厳密な判断のもとに正常人との比較対象を行なったかのように述べながら、肝心の結論にかかわる、「平均値引く1シグマと鑑定資料の示した数値のどちらが高いか」という間違いようのない一義的な判断をする際に、突然、統計学上も何の根拠もない「若干」という概念を持ちだして、本来であれぱ「統計的に平均値より低くない」としか記載しようのない緒論部分を、「若干」という根拠のない文言をつけることで「低い」という結論を強引に記載している。
(エ) 逆にA甲11950を示して質間すると、瀬戸証人は、「0-15というのは、平均値から確か2シグマより低い値だと思います」と一転して述べ、「2シグマ離れた数値はいくらか」という質問には「具体的には覚えていません」と言いつつ、「測定法は別としまして、平均値の値からたとえば半分以下とか20%以下になれぱ中毒になるとかいう文献は知られています。その時のぺ一パーの評価としては決して統計的に2シグマ以下とはいっておりませんので、平均値に比べてこれ1割以下という……10分の1以下程度になりますと、それは測定法によらずに中毒に陥っているというのがもうあからさまに分かりますので…コリンエステラーゼ中毒を研究している人が見れぱ明らかにこれは何かの暴露の結果だと積極的に言えると思います」と述べている(同115丁)。ここに至ると、もはや瀬戸証人は、「専門家が見れぱ経験的に分かると思いますよ」といっているに過ぎず、そこには、客観的に本鑑定書のコリンエステラーゼ活性値の比較が、証人自身の言う「化学者であれば当然行なうべき判断」としての統計的な判断とは到底言えないことを明白に示している。
(オ) そもそも、松本サリン事件における鑑定書(D甲823、同825)では、正常値に関しては、次のように記載されている。
(血漿ブチリルコリンエステラーゼ)
正常値1.84〜4.45
平均(n=8)3.00±0.80
(赤血球アセチルコリンエステラーゼ)
正常値2.21〜7.56
平均(n=8)4.91±1.62
このように、松本サリン事件の鑑定書においては、正常値は一定の範囲で示し、また平均値にも標準偏差の値を示している。
ところが、地下鉄サリン事件では、同じデータを用いながら、このような表示方法を採らなかったこと自体、本鑑定書の恣意性を読みとることができる。
本件鑑定書は、その信用性を担保しうる客観的情況保障が破られていると言わざるを得ない。
(カ) 本件鑑定におけるコリンエステラーゼ活性値は、どこまでが有効数値なのか、不明である。
信州大学医学部教授福島弘文証人は、松本サリン事件において科警研の行ったコリンエステラーゼ活性の測定値について、まず右心室と左心室、全血を分けて調査する意味はないと証言する。また、分光光度計の精度を考えれば、コリンエステラーゼ測定値の誤差の範囲は大きく、小数第2位どころか小数第1位の数値もあまり意味がないと証言する(福島弘文尋問速記録(第96回77丁〜))。
実際の測定結果を見ても、動脈血と静脈血が混じった全血の数値は、動脈血のみと考えられる左心室の血液の数値と、静脈血のみと考えられる右心室の血液の数値との中間値となっていない。この点のみをもってしても、本件鑑定における測定結果の有効数値がどこまでかは厳密に吟味する必要がある。
本鑑定書の内容は、測定誤差が明記されておらず、これを見る者に誤った判断を与える可能性がある。
オ サリン含有の有無
(ア) GC/MS分析
本件鑑定においては、GC/MSによる分析のみを行っているが、GC/MS分析だけでは物質の同定として不十分であることは、すでに滝本サリン事件において述べたとおりである。
この点は、瀬戸証人自身も、EI法(熱電子衝撃法)によるスペクトルが一致した場合に、同一の物質であると言い切れるかとの質問と対して、「一般的には、可能性は非常に高いんですが、まれに、非常に似たスペクトルを示すような化合物もありますし、今回の場合には、非常に微量分析…を行っていますので、…ますます判定が難しくなる可能性があります」(第57回46丁)と答えている。CI法(化学イオン化法)についても、「これで絶対的に分子量がわかるというわけじゃないですよね」との質問に対し、「はい、これは化合物の性質によって変わってきます」と答えている(同丁)。
瀬戸証人は、科学者としてその点は十分に分かっているはずであるが、弁護人が他の物質の可能性を問うと、「もし、そういうものがあったら、弁護士さんが紹介していただけるんであれば、私、評価することはできますが、…」(第57回48丁)、「可能性として、学間的にもあるかといったら、もちろんそれは可能性は少しはありますけども、現時点で、じゃ、そういう化合物があるかどうかというのは、私は知っておりませんので、そういう化合物を御存じであれば、私はそれを調べて評価しますので、お示ししていただけれぱと思いますけれども」(同71丁)と開き直るような言い方でしか答えない。
このような瀬戸証人の供述態度自体を見ても、同証人が科学者として客観的な検査をし、これを報告するという基本的態度に欠けるものと言わざるを得ない。
(イ) 本件鑑定では、GC/MS分析におけるEI,CIスペクトルの対比の外、保持時間(リテンションタイム)の検討を行ったとされる。
しかし、この点についての供述は、次のとおり極めて不合理である。
GC/MS分析においては、通常、同じ機械で同じ条件の下に測定した標品についての保持時間と対比すべきものであるが、瀬戸証人によれば、サリンについては標品がないため、実際の保持時間に代えて文献上の数値である保持指標から計算した数値と対比したとされている。しかし、本件各鑑定書には、この保持指標から計算した数値が2種類あるのである。すなわち、メチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されたとされる和田栄二および坂井津那両名の鑑定書(A甲11955、同11960)の鑑定書においては、保持指標から計算したサリンの保持時間は401秒となっているのに対し、その他の鑑定書においては保持時間は406秒となっている。しかも、この違いが生じた理由は、単なる誤記であると証言するが(第24回55丁)、メチルホスホン酸モノイソプロピルが検出された両名について数値が違うということは、単なる誤記では済まされない何らかの理由があるはずである。この点についても、瀬戸証言は不合理であり、本件鑑定の信用性に著しい疑問がある。
さらに、メチルホスホン酸モノイソプロピルのTBDMS誘導化体の保持時間についても、前記和田栄二および坂井津那両名の鑑定書においては、同証人が合成した標品の保持時間は15.9分とされ、これと鑑定資料の保持時間が一致したとされているのに対し、その他の鑑定書では、鑑定資料において上記TBDMS誘導化体の溶出位置である保持時間16.O分にピークは検出されなかったとされている。このように、本来1つであるべき標品の保持時間が2種類あることになるが、瀬戸証人はこの点についても合理的な説明をしていない。
(ウ) そもそも本件鑑定の手法は、科警研が松本サリン事件において被害者の血液を鑑定した際の手法を踏襲したものであり(同33丁)、地下鉄サリン事件においてもサリンが撒かれたとの思い込みの下に本件鑑定がなされたことが伺える。しかも、本件鑑定における資料の調整の方法を見ると、メチルホスホン酸モノイソプロピルの検出を目的とするものであって、この手法ではそもそもサリンは検出できない。瀬戸証人は、その点は松本サリン事件で十分分かっていながら、同じ手法をとったのである。このように、新たな事件において新たな物質が含有されている可能性を無視して、松本サリン事件の手法を踏襲した姿勢そのものに間題がある。
(エ) 本件鑑定の結果、メチルホスホン酸モノイソプロピルの検出された和田栄二及び坂井津那については、その鑑定書において、「メチルホスホン酸モノイソプロピル骨格を有するサリン等の神経ガスによる中毒死と推定される」と記載されている。しかし、サリン自体は検出されておらず、メチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されたからといって、サリンの存在が推定されるということにはならない。現に、瀬戸証人自身がメチルホスホン酸モノイソプロピルを合成する過程において、サリンの生成を経ずに上記メチルホスホン酸モノイソプロピルを合成しているものであるし、また上記過程で生成したというジクロロサリンも、サリンと同程度のアセチルコリンエステラーゼ活性に対する阻害作用をもつものとされている(同64丁)。
また、メチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されなかった被害者については、瀬戸証人は、検出限界があって、存在しなかったということまでは言えないと証言する(主尋問)が、この証言も、科学者としての公正・中立性を欠くものである。資料に全く含まれていない場合と、含まれているけれども検出限界に至っていないという2つの場合の区別は全くつかないのであり(第24回58丁)、検出されなかったものは検出限界以下であったからなかったとは言えないとの論理が通るのであれば、いかなる物質についてもそう言えるはずである。あるべき結論は、ただ1つ、証人の鑑定方法では分からない、これ以外にはない(同27丁)。
(オ) 瀬戸証人によれば、松本サリン事件の鑑定において、メチルホスホン酸モノイソプロピルの標品を合成したとするが、その合成過程でサリンの合成を行なっているのではないかとの疑いがある。
その根拠については、松本サリン事件の瀬戸鑑定書の項において述べることとするが、仮にサリンを合成しているとすれば、本件鑑定の経過全体に関する証言の信用性が全くなくなることになる。メチルホスホン酸モノイソプロピルの合成方法自体も証言とは異なり、サリンを合成した上でその分解物をとったとも考えられる。
(カ) このように、瀬戸証人の証言内容は、本件鑑定の経過を正確に述べていない疑いが強く、本件鑑定の真正の立証はなされていない。
カ 以上のとおり、本件各鑑定書は、到底信用できるものでないことは明らかである。
(5) 死亡者についての鑑定書
ア 本件事件の被害者らに関しては、さらに次のとおり、医師による鑑定書が提出されている。
支倉逸人作成の鑑定書…田中克明(A甲17)
黒田直人ら作成の鑑定書…岩田孝子(A甲11935)、坂井津那(同11937)、小島肇(同11939)、渡辺春吉(同11943)、中越辰男(同11945)
石山c夫作成の鑑定書…伊藤愛(A甲11941)
高取健彦作成の鑑定書…和田栄二(A甲12003)、藤本武男(同12005)、高橋一正(同12007)、菱沼恒夫(同12009)、岡田三夫(A甲12032)
これらの鑑定書には、いずれも証拠能力がないことはすでに述べたとおりであるが、仮に証拠能力が認められる場合であっても、その内容等には以下のとおり重大な疑問があり、信用できるものではない。
イ 医師支倉逸人作成の鑑定書
(ア) 本鑑定書では、田中克明の死因につき、解剖所見からはこれを特定することはできなかったが、同人の入院中の臨床記録経過症状から、有機リン化合物による中毒死であると判断できるとされている。
しかし、このような判断は、以下のとおり、明らかに誤りである。
(イ) 解剖所見から判断できる死因
解剖所見によれば、血液は流動性のある暗赤色を呈し、眼瞼結膜、心膜内面、腎盤粘膜には複数の蚤刺大の溢血点がみられるとされている。これは、窒息による急性死の典型的な症状である。特に、解剖写真をみると、窒息死の特徴的な症状とされている上胸部の欝血がみられる(この点については、鑑定書に記述されていないが、A甲43検死立会捜査報告書に記述されており、支倉証人も反対尋間において認めている)。他方、肺炎、心臓肥大の病変があるものの、肺炎にあっては、周辺のリンパ節に腫張がなく、また、その病像は硝子膜形成状態となっており、既にこれが鎮圧されている状態にある。心臓肥大にあっても、これが直接死につながる程度のものではない。外傷にあっても、後頭部及び右足背部に擦過打撲傷があるものの、これらはいずれも軽微なものであって、直接死につながるものではない。血液中からは、薬毒物は検出されていない。このように、窒息死以外に死因につながるものは存在しない。従って、解剖所見からは、本屍の死因は、窒息死と判断されるのが当然である。
しかるに、上記鑑定書は、解剖所見からは死因を特定できなかったとする。しかし、上記のとおり、これは明らかに誤りである。
もっとも、支倉証人は、脳が泥状に軟化していたことをもって、本屍は4月2日の解剖時の5日以上前から脳死の状態にあり、死亡時には続発する重篤な肺炎に罹患しており、これが直接の死因であると判断する。
しかし、臨床記録によれぱ、3月29日の段階において「脳死の可能性あり。判定のため電解質等チェックを」とされていて、その後、脳死判定が行われたことがうかがえるものの、その後に「脳死」との判定はなく、4月1日午後10時52分の死亡判定時の段階にあっても「脳波平坦。自発呼吸停止、瞳孔散大、対光反射消失。三徴確認」と記述されており、それ以前の段階においては、脳波が平坦ではなかったこと、自発呼吸があったこと、瞳孔が散大していなかったこと、対光反射が消失していなかったことをうかがうことができ、この死亡の直前の段階においても、脳死の状態ではなかったことが推認される(ちなみに、脳死判定の基準として、瞳孔散大は不可欠の要件である)のであって、上記支倉証人の判断は誤りである。ちなみに、支倉証人の判断根拠は、「脳が泥状に軟化していた」ということに尽きるが、同人も認めるとおり、軟化の程度は、「堅い泥」(第63回44丁)といった程度のものであって、これのみから既に数日以上前から脳死の状態にあったと判断するのは、早計である。また肺炎にあっても、前述のとおり、これが死亡時まで継続していたとは認められないし、また、これが直接の死因になったとも認められない。なお、肺周辺のリンパ節に腫張が認められないことについて、支倉証人は、脳死による免疫反応の消失によるものとするが、本屍には免疫反応の1つである薬疹が認められる(同114丁)ことからして誤りである。
(ウ) 臨床記録から判断できる死因
臨床記録の冒頭には、「敗血症→腎不全→死となった症例」と記述されており、腎不全の原因として、「腎臓因子によるものが考えられたが、抗生物質が一番高いと思われる」と記述されている。つまり、臨床記録では、腎不全が直接の死因とされているのである(現に、A甲43検死立会報告書には、主治医原英彦の弁として「急性腎不全で死亡」と記述されている)。
ところが、臨床記録をつぶさにみるに、3月29日の欄には、「家族より。植物状態が続くなら…。回復傾向の見込みないならば、これ以上、生かすだけの治療はしないでほしい…。…とのこと。どこで、線を引くか難しいが、まず回復の見込みゼロで、腎不全になってきている。敗血症でもあり、このままでいくと、黙っていても腎不全または敗血症での死亡必至である」と記入され、4月1日の欄には、「午後7時、家族に連絡し、集まってもらう。もう、長くはない。十分に説明をし、納得していただく。受けいれはよくできている」、「午後9時、家族は疲れてきている」、「午後10時52分死亡宣告」と記述されており、また同日の医師指示表、看護ワークシートには、当初「血圧80以下でドクターコール」であったものが後に変更されて「血圧50以下、脈拍90以下でドクターコール」となり、また昇圧剤の投与についても「50アンプル使用」の指示が「20アンプル使用」に変更され、さらに「10アンプル使用」に変更されて、遂には、「使用せず(キャンセル)」と記述されている。これらの記述は、3月29日の家族の強い要望により、4月1日、医師が生命維持のための治療を停止したことを示している。そして、これに、上記の解剖所見にみられる窒息の典型症状を併せて考えると、4月1日、医師が生命維持装置である人工呼吸装置を外したことにより、僅かながら残されていた自発呼吸では十分に呼吸することができなくなり、結局、窒息により死に至らしめられたことが明白である。
また、敗血症、腎不全の原因も、上記の診療記録冒頭の「抗生物質が一番高い」との記述、並びに当初抗生物質を使用したところ発疹が発現したため、これを停止し、一旦、ペニシリンの投与に変えたものの、後に再度、抗生物質を投与するに至るという治療経過からすると、上記敗血症、腎不全の原因は、抗生物質による副作用によって惹起された疑いが極めて濃厚であり、これに、解剖所見の「胸腺が完全に脂肪組織化している」との記述を併せて考えると、それは、抗生物質の副作用の1つであるアナフラキシーショック症状であった疑いが濃厚である。
しかるに、鑑定書は、脳死によって肺炎を発症させ、これによる呼吸阻害が死因であるとしており、明らかに誤りである。
(エ) 解剖所見及び臨床経過記録から総合的に判断できる死因上記解剖所見及び臨床記録を総合すると、本屍は、心停止、呼吸停止状態で収容されたものの、蘇生術と人工呼吸装置により、呼吸・循環機能を回復し維持することができたが、肺炎を発症し、これに抗生物質を投薬して、重篤な副作用を生じさせ、その結果、敗血症、引き続いて腎不全を発症させ、遂には、医師の手によって人工呼吸装置が外され、ついに窒息死に至らしめられたことが、十分に認められる。
しかるに、鑑定書によれば、本屍の死因は、有機リン化合物による中毒死であるとする。そして、有機リン化合物であることの根拠は、コリンエステラーゼ値の異常な低値と縮瞳であるとする。しかし、上記のとおり、有機リン化合物による中毒は、入院時の症状である呼吸停止及び心臓停止の原因であったとしても、決して死因ではなく、有機リン化合物による中毒死であることを根拠づける資料は全く存在しない。
(オ) 以上のとおり、本鑑定並びにその結果を記載した本鑑定書は明らかに誤りであり、およそ鑑定に値しないものである。本鑑定は、本屍が、地下鉄サリン事件の被害者とされていたことから、解剖所見を客観的に分析することを怠り、また臨床記録を精査することなく、予断と偏見の下に、有機リン化合物による中毒死と安直に誤って判断したものにほかならない。
よって、本鑑定書は、信用できるものでないことは明らかである。
ウ 医師黒田直人ら作成の各鑑定書
(ア) 本件各鑑定書に共通する間題点
中毒死の可能性が高いというときには、その対象について有機リン系農薬かカーバメイト剤か神経ガスを疑い、その摂取経路について皮膚、気道や、目、鼻、口などの粘膜からの吸収ばかりでなく経口ということも考えるべきである。そして、その摂取経路のうち、経口による毒薬由の摂取を調べるためには胃の内容物を検査するのが鑑定の常識である。ところが、これら5件の鑑定は、この検査を怠っていた。
この点に関し、黒田証人は、報道や捜査官の情報から解剖日の前日である1995年(平成7年)3月20日の段階から対象についてサリンという頭になっていたこと(同証人速記録9丁)、及び心臓内血液の生化学検査結果がコリンエステラーゼ値の著しい低下と出ていたこと(同18丁)から、対象についてサリンであるとの予断を抱いていたと考えざるを得ない。
同証人は、胃の内容物を検査しなかった理由として、農薬であれば有機リン系であってもカーバメイト剤であってもすごい臭いがするのにそれがなかったことを挙げているが(同丁)、その点に関する記載が本件各鑑定書には見あたらない。したがって、すごい臭いがなかったかどうかも極めて疑わしい。
その上、同証人も「心臓血だけ検査すればそれで充分とはいえないんではないか」との反対尋問に対して、「そうですね、まあそのように言われればそうかもしれません。」と答えている(同18から19頁)。したがって、これら5件の鑑定は、いずれも、コリンエステラーゼ値の著しい低下が致死の程度にあったとの証明もなされていない上に、他の死因も否定しきれてい庄い点で、死因の鑑定として不十分なものと言わざるを得ない。
(イ) 坂井津那の死因等に関する鑑定書(A甲11937)本鑑定は、科学警察研究所により分析された本死体の血液中からメチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されたことを根拠にして、本死体の死因をサリン中毒による急性呼吸循環不全としている。瀬戸康雄ら作成の鑑定書が信用できないことはすでに述べているとおりであるが、科学警察研究所におけるメチルホスホン酸モノイソプロピルの検出が立証されていない限り、死因の鑑定としては不十分なものと言わざるを得ない。
(ウ) 渡邊春吉の死因等に関する鑑定書(A甲11943)
本死体は、95歳の高齢であり、冠動脈の1部に70パーセントの内腔狭窄を伴う動脈硬化症がみられるなど、加齢に伴う全身動脈硬化症が認められる。しかし、本鑑定は、本死体にはコリンエステラーゼ値の極めて著しい低下が認められるので、急激な呼吸循環障害を起こす直接の原因としては、それの方が冠動脈硬化症より寄与度が大きいとしている。そして、この寄与度という程度の間題に関して、黒田直人証人は、「どちらかと比べてみれば、そちらのほうが大きいということです」(同31頁)とし、「法医学の先生で、先生と違う判断をする可能性もあるんですか」という反対尋問に対して、「分かりません」と答えている。このように法医学者という専門家の間でもどう判断されるかわからない基準を設けて本死体の直接の死因を決めてしまっている本鑑定は、信用性に欠けると言わざるを得ない。
(エ) 以上の間題点を含んでいるこれら5通の鑑定書は、いずれも信用できるものではないことは明らかである。
エ 石山c夫作成の鑑定書
(ア) 医師石山c夫作成のA甲11941の鑑定書(伊藤愛関係)は、証拠能力を認めるべきではないことはすでに述べたが、仮に証拠能力が認められるとしても、同証人の鑑定能力及び鑑定の内容に重大な疑間があり、信用できるものではない。
(イ) 石山証人の鑑定能力
本件鑑定は、病理組織学的検査及び神経病理学、特に有機リン中毒に関する事項が主たるものとなっている。しかるに石山証人はこの点に関する十分な専門的知識、経験を有していない。
すなわち、石山証人は、東大医学部大学院在籍中2年間病理学教室において病理学のトレーニングをしたと供述するが、その時期は昭和31年から33年までの間である。その後約40年間が経過しており、その間実務的経験はあるとしても、その後の病理学の進展に応じた知識、手法を身につけていない。むしろ石山証人は、法医学鑑定においてはパラフィン切片を利用した光学顕微鏡的検査以外に必要はないとして、神経病理学会には積極的に加入しないでいる。
その結果、例えば「神経線維」という文字については、少なくとも現在は「線維」の字を用いるべきところ、本鑑定書には「繊維」という字が用いられている。この点について証人に問い質すと、最初は「ワープロミス」と認めながら、本来の字を「繊毛の繊」「ラインの線ではなくて、シンセンのセン」などと答え、「ラインの線」ではないかと尋ねると、「学生時代は『繊』の字で習ったので誤りではない」旨を答えている(第68回26丁〜)。昔は「繊維」の字であったか否かは不明であるが、仮にそうであるとしても、その後学会においては理由があって「線」の宇を用いるようになっているのである。それにもかかわらず、石山証人は昔の文字を用い、文字が変わっていることさえも知らない状態なのである。この点は、単に文字だけの間題ではなく、鑑定内容全体に亘ることである。
また、弁護人が他の神経学の本に掲載されている神経組織の写真を石山証人に示しても、その写真に異常が認められるかどうかも明快な回答が得られないばかりか、それが軸索か否か、細胞か軸索かの区別も付かず、さらにシュワン細胞、神経周膜等も分からない状態であった(第83回8丁〜、同23丁〜)。このような状態の下で高度の専門的判断を要求される鑑定をすることができるであろうか。
他方において、本件鑑定はサリン中毒という世界でも類例のない症状についての鑑定を行っている。このためには神経病理学、特に有機リン中毒についての知識が不可欠であるが、石山証人はこれまで有機リン中毒の解剖例は1例もないとのことである(第68回1丁、2丁)。ということは、これまで有機リン中毒については、単なる机上の知識、しかも40年前の病理学上の知識しか持ち合わせていない状態で、本件鑑定に臨んだと言っても過言ではない。
もっとも、石山証人も本件鑑定に当たり、知り合いの神経病理学の専門医に相談をしたとのことであるが、病理組織ができて1週間ほどして一般の病理学的所見を見てもらった程度に過ぎず、この程度で本件鑑定内容の正確性が担保されるものではない。
(ウ) 病理組織学上の所見
本鑑定書には、末尾に病理組織標本の写真が添付され、その写真説明がなされている。ところが、以下に述べるとおり、その写真説明には単なる誤記とは言い得ない誤りがあるうえ、写真説明の内容と石山証人の法廷における証言内容との間にも齪齢がある。
a 写真10ないし12は、脊髄の断面組織で、写真10は頚髄、写真11は胸髄、写真12は腰髄である。このうち、写真10(「写真1」とあるが「写真10」の誤り)のXは中心灰白質の壌死像を示す(『鉛筆の芯』壊死)とされるが、この部分は組織標本作成段階で生じたアーチファクト(人工産物。歯磨きのチューブを握った際に内容物がチューブの口から出てくる状況に似ていることから、「歯磨きアーチファクト」と呼ぱれる。)である可能性がある。石山証人自身はこれを否定するが、外部の組織が破壌されているか否かは、この添付された写真からは判別できない。
また、鑑定書の説明では、「胸髄には、肉眼的には脱髄を中心とした病巣をはっきりと捕捉できない」と記載されているが、証言では、「周りの部分に脱髄現象が見られる」(第68回59丁)とする点、鑑定書の説明と証言内容に食い違いがある。
なお、石山証人は、「脱髄現象」とは「髄鞘がなくなっている状態であって、その中には軸索がやられている場合とやられていない場合がある」とする(第68回58丁)。しかし、医学事典によれぱ、「脱髄」とは「軸索が保たれているにもかかわらず、髄鞘の崩壊が超こる状態」と説明されており、この点においても、石山証人の鑑定能力に疑問がある(南山堂医学大辞典「プロメデイカ」)。
b 写真15につき、鑑定書では「脱髄部では軸索が消失。矢印は脱髄周囲の軸索変性部(局所的な軸索の腫脹部)を示す」とあるが、証言では、写真15の異常所見としては・写真中央部分におい下軸索がはっきりしないという点を指摘するだけである(第68回65丁〜)。
c 写真16につき、鑑定書では「薄束や櫻状束には、肉眼的には髄質の変化を認めないが、顕微鏡的には、著しい髄鞘の変性を認める」とあり、写真17につき、鑑定書では「著しい軸索の変性を認める。全体に、軸索の崩壊を伴う腫脹部が存在しているのを認める」とあるが、証言では、「崩壊の前段階の軸索腫大がある」と述べ(第83回5丁外)、崩壊と腫大との明確な区別が付かない。軸索腫大があると指摘する部分も「全体」にわたっているものではない。
しかも、写真17の中央左よりの大きな赤い部分2箇所については、第67回公判では軸索か否かもはっきりしない旨証言していたが、第83回公判において、弁護人が他の神経学の本に掲載された写真(第83回速記録添付図3)を示したのちに改めて尋ねると、軸索の腫大であると証言を訂正している(第83回11丁)。その他の周囲の細かな部分のついては、「腫大していない軸索」であることを認めている(第83回23丁)。
結局、石山証人は、軸索、髄鞘の変性について、これを判断する能力に欠けていると考えざるを得ない。第83回速記録添付図1ないし図3と比較しても、「本鑑定書添付の写真16,17、その他の写真からは、軸索、髄鞘などの変性が認められる」とする石山証言及び本鑑定書の記載は信用できるものではない。
d 写真18,19につき、本鑑定書では「写真10の薄束や襖状束には写真16,17に示したような崩壊部の周囲には、髄鞘染色では病巣の存在がはっきりしない部位が存在しているが、ボディアン染色では、軸索の変性を認める部位が混在している」とあるが、証言では、髄鞘染色(すなわちKB染色)である写真18にも髄鞘の破壊部分が認められるとする。
e 写真22につき、本鑑定書では「重篤な髄鞘の変性像で、各髄鞘は整然とした構築を示さず、泡沫状となっている。」とあるが、証言では、髄鞘のラメラ構造がなくなって、粒々の状態になっている、これを「泡沫状」と表したものと証言する(第68回80丁〜、第83回16丁〜)。
しかし、このような状態を「泡沫状」と表現することは日本語としておかしいものである。むしろ、写真22を見れば、各髄鞘の丸い輸がいくつも散在している状態を「泡沫状」と表現するのが自然である。少なくとも鑑定書作成時においては、石山証人は上記の意味で「泡沫状」と表現した可能性もある。なお、石山証人は、弁護人が示した図4(正常な後根の神経細胞)につき、正常か異常かの判断ができてない(第83回17丁)。
f 写真26につき、鑑定書では「軸索らしい構造物の存在を認めない」とあるが、証言では、軸索が写っているが斜めに写っていることを認めている(第68回84丁〜)。
g 写真27につき、鑑定書では「髄鞘染色」とあるが、証言ではHE染色の誤りであることを認めている(第68回87丁)。
h 写真28は、写真27のボデイアン染色像であり、証言では、右上の部分は軸索が少しは写っているがはっきりせず、左下斜めに線状になっている部分は軸索が写っていないとされる(第68回89丁〜)。本鑑定書にも「後根に認められた所見と同様の変性像」すなわち「腫脹が著しく、正常な軸索構造を示すものは全く認められない」あるいは「軸索らしい構造物の存在を認めない」とされている。しかし、弁護人の示した正常な神経細胞像(第83回速記録添付図6)であっても、細胞の直角の断面ではない場合は軸索は流れたように写っている。また、前述のとおり、写真26については、軸索が斜めに写っていることを証人自身認めている。これらと比較しても、写真28に「軸索らしい構造物を認めない」とは到底言えないものである。
i 写真29につき、本鑑定書では「HE染色」とあるが、「KB染色」の誤りであることを石山証人も認めている(第68回95丁)。
証言では、髄鞘が泡沫状になっている旨述べるが、本鑑定書にはそのような指摘はない。
j 写真30につき、本鑑定書には「繊維中には軸索を認めないものが多い。残存する軸索にも整然とした配列を認めず、走行が乱れ、断裂している模様が認められるものも存在している」とあり・上記「整然と」の意味につき、石山証人は「縦横きちっと並んでいる状態」を言い、「整然と並んでいない」とは「太いのもあるし・細いのもある、消えちゃったものもある」との趣旨であると証言する(第68回98丁〜)。ところが、その後の第83回速記録添付図4を示して尋問した際には、写真30につき、正常な細胞においても図4のように整然とした配列をしていない土とを認めている(第83回19丁)。
k 写真31,32は、大腰筋のボデイアン染色像であり、横紋の消失が指摘されている。しかし、横紋の状態を見る場合には現在ではPTAH染色によるのが一般的であり、ボデイアン染色では不十分であるとされている。石山証人はボデイアン染色で十分であると証言するが、40年前の知識に基づいて答えているだけであり、信用できるものではない(第68回100丁)。横紋が消失しているか否か疑問がある。
(エ) 脳死による影響との混同
本屍は、脳死状態において全身感染症を起こして死亡したものとされている(本鑑定書)。
脳死状態が続けば、脳幹からさらに脊髄にまで次第に変性が生じてくることは明白であり、本屍における精髄の損傷が、脳死に起因している可能性も十分ある。しかるに、石山証人は、この点について十分吟味することなく、本件脊髄損傷の原因を有機リンに結びつけているのである。
また、筋肉の変性については、本屍が死亡までに約1ケ月に及び寝たきり状態であったことを考慮すると、筋肉について廃用性萎縮が生じている可静性が十分あるにもかかわらず、本件鑑定ではこの点を全く考慮していない。
さらに、肛門のし開についても、石山証人は、有機リン中毒による筋肉の弛緩が原因であるかのような証言をするが、高取証人によれぱ、他に外肛門括約筋の部位に関連する末梢神経障害によるとも考えられ、実際にその部位の筋肉などを見なけれぱ判断できない旨証言している(高取尋問速記録第106回73丁)。
このように、石山証人は、脊髄、筋肉の変性、肛門のし開等の所見につき、他の原因を十分に検討することなく、有機リン、特にサリンに結びつけて結論を見いだそうとする姿勢が顕著であって、公正、中立的な意味での鑑定がなされているものとは到底言えない。
(オ) OPIDN
OPIDN(organicphosphateinducetedde1ayedneuropathy)は、「有機リン誘導性遅発性末梢神経障害」と訳されるものである。neuropathyは末梢神経のことで、主として末梢神経の末端部分から侵襲を受けるのを特色としている。これまでに確認されている症状としては、末梢神経の遠部に行くほど軸索の変性が顕著であり、前根、後根の部位は比較的保たれているとされている(高取尋問速記録第106回44丁以下)。
また、石山証人のいうダイイングバック現象というのも、末梢神経の末端部位から次第に死滅が生じて来るというものである。
ところが、本件鑑定において指摘されている所見は、末梢神経に軸索等の変性が認められるだけではなく、脊髄白体にも変性が認められるとされている。この点はこれまで報告されている症例とは明らかに異なるものである。末梢神経の末端部分から次第に死滅しているという所見も不十分である。
本件鑑定は、サリンが暴露されたとの情報の下に、サリン中毒との思いこみをもって、その徴表と考えられそうな所見を集め、それらを都合よく繋ぎ合わせて、「有機リン中毒」であるとの判断を導いているものである。
本件鑑定は、あるべき複数の可能性を1つ1つ検討の上除外していくことによって、残り得たものを「原因」と推定するという、基本的鑑定手法を無視したものである。
(カ) 以上のとおり、本鑑定書はその内容につき全く信用できるものではない。
オ 医師高取健彦作成の和田栄二等に関する鑑定書
(ア) 医師高取健彦作成のA甲12003(和田栄二関係)、同12005(藤本武男関係)、同12007(高橋一正関係)、同12009(菱沼恒夫関係)の各鑑定書は、いずれも証拠能力を認めるべきではないことはすでに述べたが、仮に証拠能力が認められるとしても、次のとおり、その内容には重大な疑間があり、信用性がない。
(イ) 高取自身が鑑定に当たっていない疑い
a 本件鑑定における鑑定受託者は東京大学医学部法医学教室教授高取健彦である。ところが、高取自身は、本件各鑑定のうち高橋一正の死体解剖以外は執刀者とはなっておらず、補助者としてしか解剖に関与していない。鑑定書の第2章検査記録の部分について、「この部分は、執刀した方でないと分からない部分だと思うんですけれども、この4通の鑑定書のそれぞれの部分は、執刀した医師御自身が記載内容を確定されたものなんですか。」との尋問に対し、「そうです。」と答え、さらに「その内容について、証人ご自身が再度チェックするとかいうことはないんですか」との尋問に対し、「これらのケースでは、なかったと思いますね」と答えている(第99回10丁〜11丁)。リン酸化合物の検出においても、高取証人自身は、最新のガスマス機器の操作はできないのであって(第99回5丁)、長尾医師、岩瀬医師ぱかりでなく、法医学教室の他の教官、大学院生、技官などのスタッフの力を借りて行っている(同11丁〜)。分光光度計の測定には、数値を読みとり換算をする作業が伴うが、この作業は中嶋技官が行っていることを高取証人自身認めている(同48丁〜)。
b 鑑定書の作成も、高取自身が作成したものと思われるものは高橋一正にかかるものだけであって、鑑定人として岩瀬博太郎が連名となっているものに関しては上記岩瀬が作成したものであることは高取証人も認めている。
しかも、高橋一正にかかる鑑定書については、主尋問で誤記の訂正がなされているが、高取証人自身が作成したとされるこの鑑定書に限り誤記があるのはどうしてか、合理的な理由が立たない。
C 結局高取証人は、本件鑑定を受託し、これを法医学教室のスタッフだけでなく東大医学部の他のスタッフに依頼し、それぞれその分野における研究をさせ、自らはその結果に目を通しただけに過ぎず、鑑定手続を自ら行っていない疑いがある。
(ウ) 本件各鑑定書では、死因として「急性サリン中毒死」と明記されている。そして、「急性サリン中毒」と判断した根拠として、1急死の所見、2血液及び脳組織のアセチルコリンエステラーゼ活性値の低下、3搬入時に縮瞳・コリンエステラーゼ活性値の低下が記録されていること、4赤血球アセチルコリンエステラーゼに結合するメチルホスホン酸及びメチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されたこと、5上記両物質が同時に検出される神経剤はサリンしかないこと、を挙げている。
しかしながら、この結論を導く推論の過程は、以下に述べるとおり極めて窓意的であり、到底信用できるものではない。
(エ) 急死の所見
a 高取証人によれぱ、急死の所見としては、1眼瞼結膜、眼球結膜などに溢血点が見られること、2血液が暗赤色の流動血であること、3主な臓器に欝血があること、を挙げている(第54回5丁)。
上記溢血点に関しては、A甲12007(高橋一正関係)では、「眼球結膜細血管充盈するが溢血点は認められない。」と記載されている(第99回28丁)。高橋に関しては、他の3名の遺体に比べて、その他の個所においても溢血点は少ない。
主要臓器の欝血の点でも、「欝血」とは「水腫を伴い、重量が増す」とされているが、高橋に関しては、左肺において「割面からは水様成分を漏出しない」とされている(A甲12007鑑定書9頁)。
したがって、高橋に関しては、果たして急死の所見があると言えるのか疑問である。
b 高取証人によれば、急死の所見があり、死に結びつく病変、外傷がない場合には、中毒、ショックが考えられると証言している(第54回7丁裏)。
高橋については、仮に急死の所見が認められるとしても、他方において脳や心臓に動脈硬化症によるアテローム変性が認められるとされており、心筋梗塞も疑われるところ、このような他の病変がないかにつき十分に検討したか疑問がある。高取証人は、心原性ショックの可静性を否定するが、例えぱ心臓に負荷をかけるような場合には心原性ショックが起きることも否定していない。その他の原因によるショックについては、特に検討した形跡は認められないのである。
(オ) 搬入時の症状
a 高取証人によれば、本件4遺体が病院に搬入されたときの状況ついては、カルテや医師の供述調書を見たとするが、本件鑑定書にはそれらのカルテ等の写しは添付されておらず、客観性が担保されていない。
b 高橋に関しては、搬入時にコリンエステラーゼ値の測定もなされておらず、ましてやパム投与の治療行為もなされていない。解剖時の瞳孔は直径3,4ミリで、縮瞳があるとは評価されないことは、高取証人も認めている(第99回21丁裏)。したがって、高橋に関しては、搬入時に縮瞳があり、コリンエステラーゼ値が低かったとは言えないものである。
(カ) 血液及び脳組織中のアセチルコリンエステラーゼ活性検査
a 血液中のアセチルコリンエステラーゼ活性値本件鑑定では、血液及び脳組織中のアセチルコリンエステラーゼ活性検査がなされている。このうち、血液のアセチルコリンエステラーゼ活性検査については、次のような間題がある。
(a) 血液の検査においては、アセチルコリンエステラーゼだけでなく、ブチリルコリンエステラーゼ(偽コリンエステラーゼ)をも併せたコリンエステラーゼ活性値が測定されている。しかし、ブチリルコリンエステラーゼは神経作用に関係がないことは高取証人自身も認めているところである。
(b) 正常値は、法医学教室の助手、大学院生、技官等の教室員8名の血清を採り測定したものとのことであるが、これらの者が正常人であるという検討も十分になされたものではないうえ、この正常値は、血清中のブチリルコリンエステラーゼ値を測定したものである(第99回50丁以下)。これと本遺体に関するコリンエステラーゼ活性値(アセチルコリンエステラーゼとブチリルコリンエステラーゼの混合したもの)とを比較するということ自体、鑑定の手法として重大な誤りがあることは明らかである。
b 脳組織中のアセチルコリンエステラーゼ活性値(a)脳組織中のアセチルコリンエステラーゼ活性値の測定に関しては、本件鑑定では大脳の前頭葉の皮質部分を切除して検査を行ったとされている。
この点について、高取証人は、脳のアセチルコリンエステラーゼ値は、前頭葉よりも小脳の方が10倍くらい高いことが、本鑑定後に文献で調べたり実際にいろいろ測定してみて分かった旨証言する。
その真偽は不明であるが、仮にそれが事実であるとすると、脳組織におけるアセチルコリンエステラーゼ値については、未だ十分な基礎的研究がなされていないものと言わざるを得ない。
先に述べたように、本件鑑定に当たっては高取証人は東京大学医学部法医学教室のスタッフ、その他の専門家の力を借りて行っているはずであり、この点は、脳組織中のアセチルコリンエステラーゼ活性値の測定においても同様であると考えられる。そのスタッフ達が本検査をするに当たっては、それに先立ち脳組織のアセチルコリンエステラーゼ活性値についての基礎的な文献は当然調べているはずである。ところが、その段階では、上記に述べたような脳組織の各部におけるアセチルコリンエステラーゼ活性値についての研究結果は、文献上すぐには確認できなかったに違いない。そして、事後的に外国における文献を調査し、ようやくこの点に関するデータが入手できたに過ぎないと考えられる。これは、その当時の学会における研究がそれ程進んでいないこと端的に示すものと言える。
脳組織におけるアセチルコリンエステラーゼの役割も十分に分かっているのか疑問である。
そのような状況の下で、仮に本件鑑定において前頭葉のアセチルコリンエステラーゼ活性値が正常値よりも低いということが明らかになったとしても、それが何を意味するのかを判断することはできないと言わざるを得ない。正常値との乖離があるとしても、その意味合いを理解することもできない。
(b) さらに、本遺体における値と比較すべき正常値は、本件とは関係のない遺体解剖において、その脳の組織を一部凍結し、それを集めて、10件位になった時点で測定したとのことであるが(第99回55丁)、これらの脳組織が正常であったという保障は何もない。
しかも、後述するように、別件の遺体解剖における脳組織を、その鑑定以外の目的に利用する場合には、遺族の承諾その他法的手続が必要であるところ、このような法的手続は一切なされていないことは明らかである。したがって、この脳組織のアセチルコリンエステラーゼの正常値の測定は違法と言わざるを得ず、これに基づく測定結果を本件鑑定において用いることはできないものである。
(C) よって、脳組織のアセチルコリンエステラーゼ瀞性値の測定結果は、本件鑑定において一切考慮されるべきではない。
(キ) 赤血球アセチルコリンエステラーゼ結合性リン酸化合物の検出
a 本件鑑定においては、赤血球アセチルコリンエステラーゼ結合性リン酸化合物の検出が試みられ、結果として、メチルホスホン酸及びメチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されたとされている。
しかし、その検出の手法は、高取証人独自のものである。高取証人自身、「本件のような特異的に酵素タンパクに結合する、結合したものを検出を試みたというのは、私の知ってる限りでは、なかったと思います」と述べている(第54回13丁)。また、弁護人の「今回のことで画期的なのは、アセチルコリンエステラーゼと結合したサリン分解物を直接検出しようとしたこと自体に大きな意味があるのか」との質問に対し、「はい、そう思います」と答え、さらに、「それに関しては、これまでに行った例がなくて、世界で初めての試みであったことになるか」との質間に対し、「多分、そう思います」と答えている(第106回93丁)。
そして、検出の手法に関しては、特にアルカリホスファターゼでリン酸化合物を切る作業において、従来にはない苦労をしたとされる(第106回92丁)。
このような初めての試みにおいて出された結果については、果たしてその手法自体に誤りはないかとの観点を含め、より一層慎重に検討せざるを得ない。
この点に関し、アメリカの判例において認められているフライ原則があるので、以下紹介する。
b フライ原則
「フライ原則」とは、科学的証拠の許容性の判断基準として、アメリカ合衆国の判例法上認められている原則であり(Fryev.United States.293F.1013(Co1.D.C.1923)、「一般的承認の基準(Genera1AteptanceTest)」ともいう。血圧測定による供述の真偽判定テストは、証拠として許容されるかとの点につき、「ある科学的原理ないし発見がいつの時点で実験段階と確証段階との境界線を越えるのか、定義することは困難である。そのような境界領域のあるところからは、その科学的原理には証明力があることが認識されるに違いない。そして、裁判所には、十分に認識された科学的原理ないし発見から推論された専門家証言を許容すれぱ、大いに役立つものであるが、その推論にかかる事項は、それが属する特定の分野において一般的承認を得ていることが十分に確証されなけれぱならない。」と判示されている。
すなわち、科学的分野に関する専門家の意見については、その推論が、それが属する特定の分野において一般的承認を得ていることが十分に確証されなければ、証拠能力を認めるべきではないとされる。
本件鑑定は、各検体の血液中の赤血球に付着するサリン関連物質を検出したという内容のものであるが、その手法は世界で初めてのことであり、他に検証しようもない手法である。一般的に承認を得ているものではなく、上記のフライ原則に照らし、証拠能力を認めるべきではない。
c GC/MS分析
本件鑑定においては、GC/MS分析により物質の検出がなされている。しかし、物質の同定に当たってGC/MS分析だけでは不十分なことは、すでに随所で述べているとおりである。
しかも、通常GC/MS分析にはEI法とCI法があり、特にEI法は不可欠であるところ、A甲12005の鑑定では、このEI法による分析がなされていない。
このような分析方法のみで、メチルホスホン酸あるいはメチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されたと断言することはできない。
(ク) サリンの推定
a 高取証人によれぱ、コリンエステラーゼ活性値の低下を招く物質としては、有機リン系化合物の外にカーバメイト製剤があるとされる(第54回10丁裏)。ところが、その後の鑑定の経過を見ると、カーバメイト製剤の検出は一切試みられていない。
仮に有機リン化合物が検出されているとしても、カーバメイト製剤との競合も十分あり得るものであり、死因としてはそれぞれの致死量が間題となるはずである。カーバメイト製剤も多量に吸引すれぱ死に至ることは明らかである。
したがって、カーバメイト製剤について何も検討していない本件鑑定は、根本的に不完全なものと言わざるを得ない。本件鑑定はサリンとの予断のもとになされた恣意的なものである。
b 高取証人によれば、メチルホスホン酸とメチルホスホン酸モノイソプロピルの双方が検出される神経剤はサリンしかないとする(第54回21丁)。
確かに、神経剤としてサリン、ソマン、タブンの3物質だけをみれぱ、そのように言えるかも知れない。しかし、本件原因物質は何かを考えるに当たり、兵器としての神経剤に限定されるはずがない。仮に有機リン化合物に限定するとしても、サリン以外の物質である可能性は十分にある。また、メチルホスホン酸とメチルホスホン酸モノイソプロピルの双方が検出されたからといって、その原因物質
が単一であるかどうかも分からない。
しかも、本件鑑定に当たって、高取証人はサリン様の化合物として、ビスイソプロピルメチルホスホネイトという物質を合成したとされる(第99回67丁)。これは全く新しい化合物で、その存在、作用さえも不明確である。ただ、その化学構造からすると、サリンと類似の作用がある可能性もあるが、そうであるならば、逆にサリンと類似する毒性を有する物質が、他に明らかに存在することになる。サリンとは、構造上フッ素原子を有しているか否かが大きな違いであるが、アセチルコリンエステラーゼと結合後に、メチルホスホン酸モノイソプロピルあるいはメチルホスホン酸が残ることなども、サリンと同様である。これが真実であるとすれば、上記のようなサリン分解物質とされる物質が検出されたとしても、そのことからサリンが存在したとは言えないことは明らかである。
(ケ) 脳組織の毒物検出
a 高取証人は、第54回公判において、同証人が本鑑定書を作成し捜査機関に提出した後も、鑑定資料である脳の一部を保管し、上記資料を使用して検査を続けたこと及びその結果を証言した。本件鑑定書がその手法及び推論の過程に重大な疑間があることは前記のとおりであるが、同証人が鑑定作業終了後も検査を行い、その結果を証言せざるを得なかったこと自体が、本件鑑定書そのものに上記の重大な疑間があることの証左となるものである。
すなわち、同証人は、本鑑定書によっては死因を明らかにできなかったため、本鑑定書の不備を補完する目的でさらに検査を行ったものである。
b しかも、同証人の鑑定終了後の資料の保管及び検査は、以下に述べるとおり、違法な行為である。
鑑定受託者は鑑定書の作成・提出によって鑑定作業は終了するのであるから、その後に死体を解剖などの資料として使用するには、あらためて鑑定嘱託及び裁判官の許可を要するが(法223条1項、225条1項)、高取証人にあらためて鑑定嘱託があったわけではないのであるから、同証人の検査行為等は鑑定受託者としてのそれではない。
上記行為は死体解剖保存法によって規律されるが、同法によれば、まず、高取証人が鑑定終了後も死体の一部の保管を継続していたこと自体が違法である。同法は一定の要件のもと、標本として保存することを許しているが、同証人は「何かあったときに見られるようにとっておいた」と証言していることから、標本目的で保管していたわけではない。したがって、この場合は、同法19条によって、死体の一部を保管することにつき、遺族の承諾と都道府県知事の許可を受けなければならないのであり、これに反すれぱ、同法23条によって、2万円以下の罰金に処せられる。
さらに、高取証人は死体の一部を消費して検査行為等を行ったというのであるが、同法7条によれば、鑑定作業終了後は、遺族の承諾なく解剖等の死体の消費行為もすることはできないのであり、仮に同法2条2号の研究者の立場としてやる場合は、遺族の承諾が必要である。
c 以上のとおり、高取証人の死体の保管行為及び検査行為は違法なものであり、違法な行為によって収集した検査結果を証言することによって、追加的に本鑑定書の不備を補完したものであって、結果的に本鑑定書は違法収集証拠に基づいたものと言うべきである。上記観点からも高取鑑定書は到底証拠能力を認めるべきではない。
さらに、この検出過程ならびに結果について証言した、高取証人の第54回速記録24丁から38丁までの部分は、違法収集証拠に基づく違法な証言として、証拠から排除されるべきである。
カ 医師高取健彦作成の岡田三夫にかかる鑑定書
(ア) 医師高取健彦作成の岡田三夫にかかる鑑定書(A甲12032)についても証拠能力を認めるべきでないことはすでに述べたとおりである。仮に証拠能力が認められるとしても、以下のとおり、その内容には重大な疑問がある。
(イ) 自ら鑑定を行っていない疑い
前項においても述べたとおり、高取証人は、本件鑑定を受託し、これを法医学教室のスタッフだけでなく東大医学部の他のスタッフに依頼し、それぞれその分野における研究をさせ、自らはその結果に目を通しただけに過ぎず、鑑定手続を自ら行っていない疑いがある。
特に本件鑑定における病理組織学的検査は、東京大学医学部神経内科の医師のアドバイスを受けていたとされる。そして、鑑定書の病理組織学的検査の内容について尋問した際、高取証人は、鑑定書の記載内容について答えられない箇所が存在した。すなわち、鑑定書(A甲12032)第4「病理組織学的検査」第4項「筋」の項には、「上腕2頭筋、大腿直筋、前頚骨筋、横隔膜には著明な神経原性萎縮を認める」とあるが、この点につき、弁護人が、「組織を見て、萎縮があるということは多分分かるんでしょうけれども、それが神経に由来するものなのかどうかというのは、どうして分かるんでしょうか」と質間したのに対し、高取証人は、「ちょっと私も分かりません」「神経内科の先生に見ていただきました」と答えている(第106回73丁)。
結局、高取証人は、この病理組織学的検査の内容については、自ら行わず、鑑定書自体も神経内科の医師に任せていた疑いが強い。
(ウ) 診療経過
a 本件鑑定書によれば、本件における直接の死因は敗血症であるとされ、その原因として平成7年3月20日の時点で、有機リン系の毒物中毒の状態となり、意識障害、呼吸停止、および低酸素脳症を来たし、それに対する1年以上にわたる医療行為の結果、合併症として細菌感染から細菌性心内膜炎を起こし、最終的に敗血症を起こしたものとされている。
しかし、このうち敗血症白体は解剖の緒果から判断し得る内容であるとしても、その原因として有機リン系の毒物中毒の状態となり、意識障害、呼吸停止および低酸素脳症を来したこと自体は解剖の結果からは分からないことである。高取証人は、この点につき、岡田の入院中のカルテを参照したとする。しかし、鑑定書自体にカルテが添付されているわけではなく、鑑定の客観性が担保されていない。
b 高取証人によれぱ、上記判断の根拠として、カルテの記載によれぱ、縮瞳があったこと、分泌物の尤進があつたこと、血清中のコリンエステラーゼ値が極端に低下していたことを挙げている。
このうち、縮瞳については、高取証人は主尋問で、「搬入時に瞳孔は1ミリ掛ける1ミリ程度」と証言しているが、高取証人が本件鑑定に際して参照したとするカルテの中で右の記載があるのは、診療情報提供書と題する書面だけである。上記書面には、分泌物の充進についても記載がある。
しかし、この診療情報提供書は平成8年1月18日に書かれたものであり、その信用性は疑わしい。高取証人は、この診療情報提供書はカルテのどこかに書いてある内容をまとめたのではないかとの趣旨の証言をしているが、カルテ自体には「ピンポイント」との記載はあっても、「1ミリ掛ける1ミリ」との記載はないことが、反対尋問で明らかとなっている(第106回2丁)。しかも、岡田が日本医大に搬入された平成7年3月20日のカルテには、医師が記載した部分はないのである(第106回17丁)。
むしろ、高取証人は、カルテを十分に検討せず、この診療情報提供書のみを見た上で、前記判断をしたのではないかとの疑いがある。
c 岡田は、平成7年3月20日、日本医科大学付属病院に搬入され、救急治療を受けた。高取証人は、岡田が心肺停止の状態で搬入され、意識状態はJCS皿300のレベルであったと証言するが、前記のとおり、搬入当時の状態を医師が記録した部分はない。
d 搬入時に、縮瞳があり、コリンエステラーゼ値が低下していることから、有機リン系毒物中毒が疑われたのであれば、その治療法としてはパムを用いるべきことは現在の医療の下では当然のことであるにもかかわらず、岡田に対しパムが投与された記録はない(第106回6丁)。高取証人は、日本医大ではパムを使わなかった旨証言するが、その理由は合理性のあるものではない。むしろ、日本医大がパムを用いなかったのは、有機リン中毒を疑っていなかった可能性もあるのであり、「縮瞳と分泌物尤進、コリンエステラーゼ値低下が認められると有機リン中毒が疑われる」と言えるか疑問である。
e 岡田は、3月22日以降意識レベルもJCS200にまで回復し、縮瞳も次第に回復してきている。
ただし、コリンエステラーゼ値は未だに回復しないとされているが、この点につき高取証人は、「縮瞳とか、散瞳のメカニズムと、末梢血の状況というのは、パラレルであるかどうか分かりません。」と証言している(第106回19丁)。この証言は、逆に言えば、縮瞳が認められるからといって必ずしもコリンエステラーゼ値が低下しているとは言えず、両者の関係は未だに解明されていないことを意味する。
f カルテによれば、岡田は、平成7年4月6日の時点で早くもMRSA感染症が起きていることが確認されている(同20丁)。このMRSA感染症はその後一旦回復し、新松戸中央病院に転院してから、最終的に平成8年6月に再びMRSA感染症により敗血症を生じ、死亡したものとされている。
高取証人は、MRSA感染は治療行為に伴い不可避的に生じるものであると証言するが、このように一旦生じた感染症が回復し、約1年後に再び感染して死亡したような場合にも、その死亡の原因をもともと入院治療が開始された原因行為に帰着させることができるのであろうか。
g 岡田は、平成8年2月1日に新松戸中央病院に転院している。このときは、すでに症状もある程度回復していたと思われる。平成7年6月14日には自発呼吸も出現していた(第106回26丁)。
ところが、転院直後の2月4日17時6分、岡田に心肺停止の状態が出現した。カルテの看護記録には、家族に対し、「ナースが発見したときは、全身チアノーゼで心停止の状態でした。実際の停止時間は12〜13分でしたが、その間心臓マッサージをしたり、ボスミンを使用することによって、徐々に回復が見られました」と記載されている(同28丁)。このような重大な事態が生じたことにより、身体へのダメージはかなりあったものと考えられる(同29丁)。そして、その後6月に再びMRSA感染症が生じて死亡するに至るのである。
そうすると、この2月4日に起きた事態は、その後の死亡へと繋がる直接の契機となっていることが分かる。
そして、この2月4日の事態は、新松戸病院の管理体制が万全であれば十分に防げた可能性がある。先にも述べたように、岡田は日本医大においてある程度症状が回復したため転院したのである。しかも、心停止の状態は、カルテによれば12〜13分続いたとされる。もっとも高取証人は12,3分は当てにならず、せいぜい7,8分とするが、いずれにしても転院したぱかりの患者を、数分以上に亘って放置する管理体制に間題があることは明らかである。
さらに、2月4日の事態が生じた原因が何であるかにつき、高取証人は「喀疾の部分が必ずしもうまくいかなかったのかもしれない」と証言するが、当時岡田が人工呼吸器を装着していたか否かさえ、カルテ上明らかではなく(同29丁)、その原因は不明である。そして、高取証人自身、このダメージが原因でさらに院内感染が起きて死亡した可能性がゼロではないことを認めているのである(同30丁、31丁)。
したがって、岡田の死亡原因としては、平成8年2月4日に生じた事態は、因果関係を中断しているものと言わざるを得ない。
h 本件鑑定は、このような診療経過を十分に考察することなく、平成8年6月に生じたMRSA感染の原因を約1年3ヶ月前に生じた事態に帰着させようとするもので、信用できるものではない。
(エ) 病理組織学的検査
a 本件鑑定においては、特に脊髄及び末梢神経の病理組織学的検査の緒果から、dyirbacktype(逆行性死滅型)のaxona1,eur.pathy(軸索末梢神経障害)に一致し、有機リン剤による神経炎の所見とも矛盾しないとされている(鑑定書10,11頁)。
高取証人によれぱ、この軸索末梢神経障害は、石山鑑定に表れたOPIDNと同一であるとされ、OPIDNとは「有機リン誘導性遅発性末梢神経障害」と訳されるとする。具体的症例としては、軸索を中心とした変性が末梢神経から発現して段々に中枢神経に及ぶというものである(第106回45丁〜)。
ところが、本件鑑定においては、多数ある神経の中で、脊髄付近から腓腹神経に至る1本の神経系統しか調べていないものである。しかも、坐骨神経の部位と腓骨神経の部位しか調べておらず、「末梢から発言し段々に中枢に及ぶ」という時間的経過も明らかとなっていない。
このような検査結果のみから、直ちにOPIDNと一致すると言えるのか甚だ疑間である。
b 本鑑定書第4「病理組織学的検査」第4項「筋」には、「上腕二頭筋・大腿直筋、前頚骨筋、横隔膜には著明な神経原性萎縮を認める」とあるが、神経原性萎縮については、高取証人自身も、長期間寝たきり状態が続いたときなどに生じる廃用性萎縮との区別ができない旨認めている(第106回73丁)。
(オ) 以上のとおり、本鑑定書の内容は、到底信用できるものではない。
(6) 以上のとおり、本件被害者らは、サリン中毒により死傷したとの十分な立証はなされていない。
第3 小括
以上のとおり、本件で撒布されたものがサリンであることは立証されておらず、本件被害者らがサリンによる被曝の結果死傷したことも立証されていない。
また、被告人には本件の共謀及び殺意は認められず、殺人罪・殺人未遂罪が成立しないことは明らかである。
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