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「書籍・論文のサリン資料」の概要紹介&三浦評価


脇本直樹・太尾田正彦(陸上自衛隊化学学校研究部)
「神経剤―その特性と診断・治療の現況」
防衛衛生(National Defense Medical Journal)42巻12号507−516頁1995年12月号(社団法人防衛衛生協会)

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重要度は三浦の独断

概要


■はじめに

神経剤とは、主として抹消神経シナプスにおける信号伝達に影響を及ぼすことにより障害を起こす、一連の有機リン化合物である。 イランーイラク戦争、イラクによるクルド人弾圧において使用された可能性が指摘されている。
平成6年6月27日長野県松本市において発生した松本サリン事件、および平成7年3月20日東京の地下鉄霞ヶ関駅において発生した東京地下鉄サリン事件は、非軍事組織によって神経剤が生産され、テロリズムに使用された初めてのケースであり、世界に類をみない事件であった。

この事件は、従来の常識、つまり化学兵器をテロリズムに使用することへの抵抗感やタブー視を打ち破るできごとであった。 この事件をある特定の組織による特異な例とみる向きもあるが、この事件の意味を問い、何らかの方針や対策を打ちださなければ、我々は多くの犠牲者を出しながら何も学ばなかったことのなる。そこで本稿では、サリンを含む神経剤の特性を示し、それらによる中毒時の診断・治療法などの現況について概説する。


■ 神経剤の種類と特性

神経剤の開発は1930年代にはじまる。
ドイツの化学工業企業トラスト・IGファルベン社のGerhard Schraderらは新規農薬の開発に力をそそぎ、種々の有機リン化合物を合成し、テストしていた。
1936年にタブン、1938年にサリン、1944年にソマンが次々と合成された。
これらは、最初にドイツで開発されたため、German gasの頭文字をとってG剤とよばれ、開発順にGA、GB、GDというコードネームがつけられた。
最近公表されたGVという物質は、旧チェコスロバキア軍が開発したもので、現在物性に関する研究が進められている。
1950年代にDDTに代わる新規農薬の開発に取り組んでいた英国ICI植物保護研究所の Ranajit Ghoshらは、イオウを含む新規有機リン化合物を見出した。
揮発性は低いが、きわめて毒性の強いこの物質は、毒(venom)の頭文字をとってVXとよばれ、その後、種々のV剤が開発された。
【図にG剤であるタブン、サリン、ソマン、エチルサリン、ベンゼンーサリン、GV(GP)の構造式、V剤であるVX、VE、VG(アミトン)、VM、VSの構造式が載せられている】

農薬は、神経剤のようにメチル基CH3、エチル基C2H5などのアルキル基がリン原子に直接結合したものはきわめて少ない。これが神経剤と農薬の大きな相違点である。

大部分のG剤は、アルカリ溶液によって容易に加水分解される。
サリンのときの反応式は、
CH3P(O)FOCH(CH32(サリン)+H2O(水)
→CH3P(O)OCH(CH3)2OH(メチルホスホン酸モノイソプロピル)+HF(フッ化水素)
(サリンと水の反応は、アルカリがさらに触媒として加わると反応が早まる)

(次の反応はきわめてゆっくりで長時間を要する)
CH3P(O)OCH(CH3)2OH(メチルホスホン酸モノイソプロピル)+H2O
→CH3P(O)(OH)2(メチルホスホン酸)+(CH32CHOH((イソプロピルアルコール)

サリンは25℃においてpH4.0-6.5では半分になるのに175時間、pH7.0では54時間、
pH8.0では5.4時間、pH9.0では0.54時間となる。

通常、神経剤は気体として使用されることを前提として開発されたので、「神経ガス」とよばれているが、純粋な神経剤はいずれも常温においては無色の液体である。この意味では、「神経ガス」という呼称は必ずしも適当ではない。


■ 神経剤中毒の診断・治療の現況

神経接合部(シナプス)、神経筋接合部などにおいては、主にアセチルコリンが信号伝達物質となって命令を伝えているが、命令の伝達が終わるとアセチルコリンは速やかにアセチルコリンエステラーゼ(AchE)によって分解され、次の信号伝達に備える。
神経剤は、このAchEと不可逆的に結合し、アセチルコリン過剰状態を作り出す。
その結果、筋肉のけいれん・ひきつり・虚脱・麻痺や縮瞳・気管分泌物の増加・鼻汁・流涙・尿失禁・腹痛・嘔吐などの症状が出る。さらに、アセチルコリンは中枢神経にもあるので不安・興奮・不眠・悪夢などの症状が現れる。
これらは有機リン系化合物中毒一般にみられる症状であるが、神経剤では縮瞳がきわめて顕著に現れる。

身体に付着した液が残っていれば、これを分析することにより原因物質が特定され、診断につながる。
だが、通常は神経剤中毒に特異的な診断法はなく、神経剤を浴びたという情報が不可欠である。
鼻汁や血液中に、メチルホスホン酸モノイソプロピルが検出されれば、サリン中毒の重要な傍証となる。
ただし、これらを検出するためには、ガスクロマトグラフ質量分析計(GC−MS)が必要であり、臨床の現場では実用的でない。
従って、現実的には縮瞳、分泌亢進、筋肉のけいれん・虚脱などの症状と血中コリンエステラーゼ値の低下が有機リン系化合物中毒を推定する根拠となる。

神経剤中毒の治療法は、アトロピンの大量静脈注射と2−PAMなどのピリジニウムオキシム(オキシム剤)の投与に限られる。
アトロピンは、縮瞳・分泌亢進・嘔吐などの症状を緩和する。
オキシム剤は、アセチルコリンに結合した神経剤の分子を切り離して再賦活させる根本的な治療法である。しかし、神経剤がアセチルコリンに結合して一定時間がたつと、エイジングとよばれる不可逆変化が起こり、もはやオキシム剤は効かなくなる。
サリンの1/2エイジング時間は約5時間なので、浴びてから5時間以内に2−PAMを投与しなければならない。

神経剤中毒の予防としては、臭化ピリドスチグミンがあげられることがある。
湾岸戦争では、米軍が兵士に配備、使用していたものである。
しかし、これは、サリンやVXには有効でないとされている。
臭化ピリドスチグミンは、作用時間が約8時間と短いため、1日3回の定時内服が必要な上に、神経剤中毒を十分に予防できる投与量では、軽度だが高率の消化器症状を中心とする副作用を覚悟しなければならない。

注目点 (三浦執筆)


自衛隊関係者による論文なので貴重である。自衛隊関係者によって書かれた論文は、ほかにもあるかもしれないが、現在手に入れているのは、これだけである。

この論文を読むと、いろいろな神経ガスがあることがわかる。
その上、構造式を示しているのでありがたい。
地下鉄サリン事件とよばれているが、ほかのものも使われた可能性が高いので、あとでさらに調るときの参考になる。
サリンが加水分解してメチルホスホン酸モノイソプロピルとフッ化水素になり、さらにメチルホスホン酸とイソプロピルアルコールになる化学反応式がはっきり書いているので、理解しやすい。

臭化ピリドスチグミンのことも最後に触れいてる。
湾岸戦争では、米軍がサリンを想定して、神経剤中毒予防としてピリドスチグミンブロマイド(臭化ピリドスチグミン)を兵士に配布、強制的に呑ませたことがよく知られている。
具体的には、メスチノンを呑ませている。
メスチノンは、スイス・ロシュ社が製造しているピリドスチグミンブロマイド(臭化ピリドスチグミン)の商品名である。
ところが、ピリドスチグミンブロマイド(臭化ピリドスチグミン、メスチノン)はサリンには有効でない、という。
湾岸戦争で使用された臭化ピリドスチグミンは、劣化ウラン弾とならんで、湾岸戦争症候群のもっとも重要な原因の一つであると指摘されている。
なぜ有効ではないのに「予防」と称して呑ませるのか?
米軍の判断は間違っていたのか?
しかし、こんなレベルで間違いを犯すとは考えづらい。
ひとつの見方として、湾岸戦争では、人体実験のために兵士を利用し、わざとこれを投与したのではないかという見解がある。
人体実験を疑う根拠は他にもある。
詳しくはコラムで書いたことがあるので、興味があればそれも参照していただきたい。

ところで、サリン事件では、オウムの中川智正が、ほかの実行犯に、サリン中毒の予防薬としてメスチノンを渡している。
推測ではあるが、湾岸戦争で米軍が使用したというだけで真似してしまったのではないか。




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