戻る
『救援』1996年2月掲載

人権運動の原点めざし
オウム裁判対策協議会発足

          
山際 永三


 別掲声明(1996年1月付)のとおり私たちは「オウム裁判対策協議会」を発足させた。 昨年以来のオウム真理教団関係の事件で逮捕・起訴された人々の側に立って、その関係当事者とともに救援にあたるためである。
 私たちは、オウム真理教団の全体(一万人からの出家者や在家信徒)がすべて犯罪者集団などと考えることは到底できない。問題の「犯罪」がどのようにして、どのような 人によって敢行されたかの事実関係さえ、いまだ不明確であり、報道されていることを 信用することは、とてもできない。
 不可知論でそう言っているのではない。「犯行」の動機・証拠など納得できないこと が多く、公表されていない裏の動きがあったことが確実である。この鬱屈した日本社会 に、陰謀的な動きや、情念の凶悪な噴出が起こっても不思議ではなく当然だという意味 で、何があったにしても多かれ少なかれ社会全体の責任だと考えているだけである。
 一般論として、どのような凶悪犯人にも人権がある繙繧サれ以外に人権運動の原点は ない。
 少なくとも私個人は、政治至上主義が大嫌いである。だから、オウムを「反人民」と か「ファシズム」などと既成の言葉で定義づけて“排除”し、自分たちの正当性を主張 する人に賛成することは全くできない。
 オウム問題については、オウムの信者とそうでない人々、また、一般の論者それぞれ の間で言葉の違いがあり過ぎることを痛感する。言葉に込められる意味内容の違いは、 日常的なレベルから思想的・宗教的なレベルまで、ほとんど外国語同様の翻訳が必要と 考えざるを得ないほどだ。よく調べもしないで、面と向かっての人間関係も作らずに、 他人にレッテルを張って否定するのは卑怯だ。
 しょせん、この日本という社会の、自分自身の状況をどう受けとめるか、今回の「事 件」以前からの、論者のもつ感受性の問題になってくる。「犯罪者」とされた人にレッ テルを張って自分を高みに置く人に、救援や人権を語ってほしくない。
 今の日本は、歪んだ情報化社会であり、巧妙な管理社会である。マインドコントロー ルはオウムの専売特許ではない。多くの日本人がマインドコントロールされている。マ スメディアの役割を過小評価してはいけない。裁判の傍聴券を求めて日比谷公園に列を 作る数千人の大部分がテレビ局などが雇ったアルバイトという前代未聞の異常な状況の なかでオウム裁判が始まっている。その滑稽ともみえる実態の裏側に、この日本社会が ウミにまみれている。
 弁護士から「国選弁護は公務だが、私選は公務ではない」「私選ではパブリックの度 合いが低くなる」などという発言(東弁新聞11月10日・号外)がなされている。憲法37 条3項は、被告人が私選を望んでも「できないとき」(つまり被告人ができないとき) に国選をつけるとしている。本来は私選が当然ではないか。私選弁護こそ、パブリック だという近代的な発想に、どうして立てないのか。むろん、私選弁護でありさえすれば 良いのでないことは当然である。弁護の質が問われることになるが、それ以前の問題が 多すぎる。
 かつて司法界に“過激派の弁護はしない”という風潮が(というよりも明らかに政治 的方針が)蔓延したことがあった。そのときに断固として“過激派”の弁護にあたった 一群の弁護士がいた。あらゆる逆風の中での苦闘は、刑事弁護の基本的なあり方をめぐ って貴重な功績を残し、さまざまな分野に展開しつつ受け継がれている。それら刑事弁 護に熱心な弁護士の実戦的・職人的なノウハウこそ、もっと正統に評価されるべきだと 私は思ってきた。ところが、その時代について“弁護人抜き法案をつぶした時代”とい う程度の受け身の位置づけしかされていないのが残念でたまらない(季刊『刑事弁護』 創刊号座談会「刑事弁護はどこまで到達したか」参照)。こんなことだから再び“弁護 排除”の風潮が繰り返されるのである。
 だいたい“オウム叩き”に狂奔してきたテレビタレントたち(弁護士も含む)は、元 “過激派弁護排除”の方針を打ち出した政治主義者の流れをくむ人々ではないか。それ をわかっていながらオウムに「反人民」のレッテルを張って“オウム叩き”にくみし、 一方で破防法反対を叫んでもぜんぜん説得力がない。むろんオウムを批判するのは自由 だ。しかし国家権力からマスメディアから世論から目の敵にされてボロボロになってい るオウムに、追い打ちをかけるのは、“しり馬にのる”以外のなにものでもない。
 オウム「反人民」論者は、オウムが武器をもって一定の勢力として「人民」に敵対す る具体的可能性を想定しているのだろう。しかし私はそうは思わない。この情報化・管 理社会の権力とそれを支える勢力は、それほどヤワではない。オウムにナチスの台頭を 重ねてイメージするよりも、今日の日本のマスメディア状況にジョージ・オーウェルの 『一九八四年』を重ねてみるべきだ。現に日本の権力とマスメディアは、ほとんど超法 規的・謀略的にオウムをつぶしてしまったではないか。
 まさに「いじめ」の構造のなかで、レッテルを張られた多くの信者や家族は、疎外さ れ苦悩している。その現実を政治主義者はみることができないのだ。「あれだけの大事 件を起こしたのだから、家族や仲間がいじめられても仕方がない」と、少しでも思う人 がいたら、私は問いたい。サリン事件と薬害や交通戦争と、どこがどう違うのか、はっ きり返答しろと!
 サリン事件さえなかったら、繙繝Iウムさえなかったら、それほど日本は平和で幸せ だったのか?

(山際永三)



戻る