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「書籍・論文のサリン資料」の概要紹介&三浦評価


渡辺脩(麻原弁護団長)和多田進(ジャーナリスト)
『麻原裁判の法廷から』
晩聲社1998年4月15日発刊

重要度
3〜1の3段階で評価/ 数が多いほど重要
重要度は三浦の独断
3+
+がついているのは、非常に重要なので3にさらに+という意味(笑)

概要


■まえがき(和多田進)

被告人の人権ばかり護って被害者の人権は護らなくてもよいのかー。そういう言葉をよく耳にする。
私の考えでは、被告人の人権が護らなければ結局のところ被害者の人権も護られない。
目には目を、歯には歯を、がつづくかぎり人権などという考えが力を持つ余地はない。
オウム事件の被害者たちの人権を護るためには、麻原被告の人権もまた十全に護られる必要がある、と私は思う。
それは私たちが暮す社会の掟ではなかろうか。


■麻原裁判の弁護を引き受けたわけ(渡辺脩弁護士)

十数年前「弁護人抜き裁判特例法案」というものが出てきた。
日本弁護士連合会がそれに反対したとき、私は責任者の立場だった。
弁護人の解任や辞任で裁判を引き延ばすのは許されない、という問題が議論されていた時期のことである。
日弁連は、刑事訴訟原則の基本を崩すような「弁護人抜き裁判」の特例は絶対に許さないということ、と同時に、弁護人がほんとうに必要になったときは、どんな困難があろうと弁護士会は、責任をもって必ず国選弁護人を付けるという約束をした。
私は、そういう運動をしていた責任者の一人であり、ほんとに誰も弁護人として付こうという人がいないケースが出てきて、弁護士会が弁護人を誰か選ばなきゃならない場面に至ったときは、そしてもしも自分に回ってきたら、それは自分で引き受けてやらざるをえないだろう、と覚悟を、そういう約束をしたときに決めていた。

私が所属していた事務所は、「弁護人抜き裁判特例法案」に全力をあげてたたかった。
しかし、私が麻原の国選弁護を引き受けることを、事務所で反対されるとはぜんぜん考えていなかった。私は事務所を出ることになる。 「弁護人抜き裁判特例法案」反対運動はいったい何だったのか。本気でやっていたのか、という憤りの気持ちもあった。
ぼくらの仕事にとって、いちばん難しくなるのは、たぶんそういう社会状況や社会雰囲気との闘いではないかと思った。
これは、家族もふくめてプレッシャーを受ける。
「何で、あんな悪いやつの弁護をするんだ」
そういう種類の非難に、どう立ち向かうかというのが、たぶんいちばん大きな課題になると思った。
マスコミの報道の基本線がはじめから警察、検察側の発表のラインを越えないわけだから、それに抵抗を示すこと自体、よけい非難されることになるのではないかと思った。
しかし、もしそういう非難に怖じ気づいて負けていると、被告・弁護側の本来の争う権利というものを放棄することになりかねない。
被告・弁護側の争う権利を放棄させるための圧力として、そういう社会的な雰囲気が働いてくるであろうことは、十分予想ができた。

刑事裁判の基本は、「被告人が何をしたのか」を審理するのではない。
弁護活動とは、ひとことで言えば、検察側の、その主張と立証を厳密にチェックするということに尽きる。

■根拠がない「裁判引き延ばし」「反対尋問批判」(渡辺脩弁護士)

1997年12月はじめ新聞に、地下鉄サリン事件の裁判で、検察側が約3800人の被害者の数を14人に絞り込む、と報じられた。
当初の起訴のためにどれほど当たり前の弁護活動が、「裁判引き延ばし」と非難されたことか、証拠の整理・検討にどれほど膨大な時間とエネルギーを使ったか計りしれない。
本来、検察側が起訴段階で考慮すべきだったというのは、3800人近い人たちの被害に関してすべて証人調べをしていったら、膨大な時間がかかることははじめからわかっているわけです。
ですから、被害者関係の証拠については、検察側は弁護側が同意することを前提にして起訴したとしか考えられない。
いまなお残っている根拠のない非難は「反対尋問批判」だった。
尋問の目的がハッキリしない、理解できない、と言われても、こちらの狙いをいちいち説明していたら、そもそも反対尋問にならない。


■ 地下鉄サリン事件のこと(渡辺脩弁護士)

検察側は、いちばん立証しやすくて関心を集めている事件ということで、たぶん地下鉄サリンから立証をはじめたと思う。

現場の遺留品について言えば、千代田線霞ヶ関駅にまるまる一袋のものが残されていた。
地下鉄の駅の人から警察にそれが任意提出されて、警察がその領置調書をつくった。
検察側が領置調書を証拠として取調べるよう請求してきた。
その領置調書には、遺留品について「濡れた新聞紙様のもの」としか書いていなかった。
そこで弁護団は、領置調書をすぐ証拠として取調べることに反対して、それを作成した警察官の反対尋問を要求した。
検察側はその警察官の証人尋問をやり、渡辺団長が、反対尋問を担当した。
じっさいに領置したものは新聞紙に包まれた袋もあるわけです。
しかし、その袋のことが書いてない。
「その袋は領置しなかったのか」と尋問すると、いや、領置はしている、と言う。
記載と違うじゃないか、と言うと、それは認めている。
現場でいろいろな混乱した状況があったかもしれない。
だけど、かりにその時点で食い違いがあっても、手続き的にはちゃんと穴埋めして補正するべきですよね。
それじゃないと、現場から何が採取されたかわからないわけだから。
現場の遺留品についてドキュメントが存在していないというのは、はじめから何も記録が出ていないということなんです。

現場で物が押さえられて、それは20日のうちに自衛隊の大宮化学学校に運ばれて仕分けされているということになっています。
警察側の証言は出ていますが、自衛隊側の証言はありません。
仕分け作業をしている写真も何枚か写っています。
その写真の場所が自衛隊の大宮化学学校であるかどうか写真自体からではわかりません。
現場は大混乱しているんだから、細かいことを言ったって無理じゃないかという声は確かにあります。
しかし、仕分け作業をするについて、どういうものを、誰が、いつ、どういう手段で警視庁から自衛隊化学学校に運んだのか、そして化学学校のどの部屋でで、何時何分から誰が仕分け作業を、どのようにはじめて、いつ終わったのかという経過を記録する必要はあるということです。 遺留品というのは、新聞紙に包んだり、袋に入れたり、その袋も何重にもなっていたわけだから、そういうものの表側の一枚を剥いだら何が出てきたか、その下はどうなっていたかを次々に写真に撮ったりしてドキュメントをつくる必要がある。
その種のドキュメントが仕分け作業の段階でないんです。
ほんとにない。最後の段階で何が出てくるかわからないけど、いまは何もない。
警視庁科学捜査研究所の化学斑の責任者がサリンの鑑定書をつくったことになっているから、そこ到達するまでの全過程がドキュメントで埋め尽くされないといけない。
記録としては「写真があります」というんだけど、写真だけでは、対象物の大きさも容量も、濡れているのかも、何もわからない。
で、マスクをつけた人が、二人ぐらい仕分け作業をやっている。「この二人は誰だ」と聞くと、「誰かわからない」というだけである。
とにかくその品物が警視庁に押収され、自衛隊の化学学校に運ばれて、いろいろ仕分け作業され、それがふたたび警視庁に戻って、鑑定に回され、そして「鑑定の結果、こうなりました」という、モノの特定と鑑定にいたる経路に関するドキュメント」が一切ない。
ところが検察側は、その経過は鑑定書に書いてある、と言う。
しかし、鑑定書に書いてある経過が客観的な経過に符合するかどうかをチェックする資料がないんです。
本来、現場に遺留されていたものと鑑定の対象がまったく一致していて、ほかのものが混じりこんだり、ほかのものとすり替えられる可能性がなかったという不動の記録が必要なのですが、その記録もない、証拠もない。
領置したものと鑑定したものの同一性を証拠となるべき記録によって保証しなければいけませんよ。
そういう点でいうと、こういうひどい例はちょっと見たことがない。
だから、「結果はサリンだ」と言われても、それが現場に遺留されていたものかどうか、をふくめて十分な証明がないことになる。

現場遺留品がサリンだったという鑑定資料として、千代田線霞ヶ関駅に一袋、丸の内線本郷三丁目駅に一袋がまるまる残っていた。
警視庁科学捜査研究所化学科責任者の安藤皓章証言では、事件が起きた3月20日午前9時半に調べられたのは、日比谷線小伝馬町駅と日比谷線霞ヶ関駅で採取された脱脂綿だという。
9時50分サリンだと判明した。
これをもとに、警視庁捜査一課長が、午前11時に毒物はサリンと発表した。
ところが、さきほどの千代田線霞ヶ関駅、丸の内線本郷三丁目駅のまるまる残った袋が鑑定されたのは、2ヶ月以上たった5月24日のことだった。
これだけの大事件で、もっとも肝心の毒物をこのときまで調べないのは、まずふつうではあり得ません。

小伝馬町駅で袋が外に蹴り出された。
蹴り出した後、萱場町で乗った人が二人亡くなっている。
これは毒物が入った現場遺留物を現場から除去した後に乗り込んだ人が亡くなっているという点で唯一のケースです。


■坂本弁護士一家殺し事件(渡辺脩弁護士)

平成元年11月2日深夜から3日の未明にかけて坂本弁護士襲撃の謀議が行なわれたという検察側の筋立てになっているんです。
けれども、それまではむしろ「『サンデー毎日』にどう反撃するか」というのがテーマだった。
編集長の牧太郎さんをどうやって襲撃するか、なんていう話になっていて、いきなり坂本弁護士に 変っちゃうんですよ、標的が。
そこの移り変わりのプロセスが、どの供述を見てもよくわからない。

岡崎一明は、1990年2月10日に教団を脱走している。
教団は、岡崎が金を持ち逃げした、とキャッチし、所轄の警察に窃盗事件として被害届けを出した。
岡崎は、金を教団に取り返されたので、坂本龍彦ちゃんの遺体を埋めた場所の現場写真を撮り、警察に投書して、麻原を脅迫している。 さらに坂本弁護士や都子さんを埋めた場所も投書した。

岡崎被告の投書はものすごく正確だった。
ぼくらも現場を見ているし、投書の地図も確かめていますが、驚くほど正確なんです。
岡崎被告が一連の出来事の当事者であるということは、2月23日の段階で、警察にわかっていることは明らかですよ。
龍彦ちゃんの遺体についてのあの正確な投書、3メートルのスケールで距離を測りながら地図を書いた、と言っているんだから、それは非常に正確な地図です。
なぜ、あれほど正確な地図なのに遺体を発見できなかったのか、ということ自体が非常に疑問なんです。
私は、警察の役割をきちんと位置づけないと事件の真相は明らかになってこないと思っているんです。

坂本事件の冒頭陳述でいちばん強く感じたことは、血が通っていないということだった。
坂本弁護士の帰途を襲撃するという話が、なぜ自宅に押し込んで龍彦ちゃんや都子さんまでみな殺しにすることになったのか、もともと、なぜ坂本弁護士を襲撃することになったのか、そういう経過の中で、実行犯とされている人たちはいったいどんな気持ちで、何を思いながら殺人を実行したかなど、自然に出てくるはずの情景・思考・感情がまったく描かれていない。
自白しているというのに、犯行の具体的な経過や内容が少しも明確になっていない。
こういう場合、自白はだいたいウソだと見た方がいいと思っています。
自白していて、自分の法廷でも争っていないのだから、やったことは間違いないとしても、それまでの経過や現場の状況について本当のことを言っているかどうかは、また別の問題です。

坂本さんの死因というのは、いろいろ疑問があります。
頸をしめたということだけども、ほんとうにそうかどうか詳しく調べる必要があると思います。
殺し方も自白のとおりだったのかどうか。
これまで自白している被告人は、警察・検察側の筋書きに迎合している可能性も大いにあるのではないか。
警察・検察側が満足してしまえば、それに迎合している人たちから、それ以上のものは出てこない。
井上にしても、岡崎にしても、早川にしても、元幹部の証人たちの証言は嘘だと思っていますよ。
だって、肝心のところがわからないんだもの。


■ 警察捜査の問題と検察側冒頭陳述の疑問(渡辺脩弁護士)

全体として単なる「ズサン」さでは済まないのではないか、と私は見ています。
たとえば、地下鉄サリン事件の謀議の際、自動車に乗っていた石川公一という人の役割です。
この人は「法皇官房」としてトップです、薬物によるイニシエーションなんかを開発した人物だともされている。
3月18日の車中謀議がもし本当にあったとするなら、なぜ石川公一と青山吉伸が起訴されていないのか、という疑問が生じてくる。
なかんずく、教祖のもとではトップの幹部だった石川公一が一件も起訴されていない。
これは不思議としか言いようがない。

検察側の主張は、オウムは殺人を容認する教義をもつ、これが大きな柱だと言う。
それからもうひとつ、それにもとづいて武装化計画を進めた、ということが大きな柱になっている、と主張している。
しかし、この武装化計画論については、かねてから教団が訴えていた毒ガス攻撃を受けている、との主張の真偽にまったく触れていない。

オウムは莫大な資金を集めて、莫大な金をつかっている。
裁判になる前は、オウム教団の金集めと金遣いについて、ずいぶんいろいろ言われていた。
裁判になったとたんに金の話がマスコミからスーッと消えてしまった。
なぜかということは、ほんと疑問ですね。
謀議の現場という点では、上九一色村のオウム施設は犯行現場になるわけです。
証拠物として考えていけば、ここは残っていないとまずいんです。
刑事裁判の立場から言えば、証拠物として現場が保存される必要があった、ということは痛切に感じる。
いまの裁判所は現場を見ていないんです。

強制捜査を免れるために、地下鉄にサリンを撒くことになった、という冒頭陳述がある。
しかし、証拠調べをしてみると、井上証言なんかですけれども、強制捜査を免れる目的ということには、みんな賛成していない。
強制捜査は避けられそうもない。だからサリンなんか撒いたらよけい目をつけられるから、そんな効果がない、と言っている。

まったくの私見ですが、審理を時系列にやらないでバラバラにしているのは「雰囲気裁判」の方針に従うとともに、ほんとうの問題点を隠す意図もあるのではないか、と疑っています。
たとえば、平成6年6月28日に松本事件が起きて、それから平成7年3月20日の地下鉄サリン事件に来る。
ところが、検察側の主張・立証によっても、この二つの事件は実質的には何もつながっていない。
地下鉄事件の冒陳には「松本事件でその効果を実験済みであったサリンを地下鉄列車内に撒き」と書いてあるが、松本事件の登場はそういうものだけで、検察側が主張している謀議の中身に松本事件の話は一言も出てこない。

注目点 (三浦執筆)


麻原裁判の模様を、弁護人の目から問題点を指摘している。常識的にいっても納得できる、説得力のある内容である。かつ、大手マスコミ情報には決してでない重要情報が満載されている。したがって資料の評価としても3に+を加えた。いまのところ最重要の資料といえるだろう。
この本は1998年に発刊された。そのあと、弁護団が、この手のものを発表していないのは残念。ワイドショーレベルの情報しか垂れ流さなくなってしまった大手マスコミは、報道ネタがないのが、なんだかんだとこじつけて弁護団を叩くばかりだ。この状況では、弁護団はうんざりして口をきく気にならなくなったとしても無理もない。しかし、中には大手マスコミのワンパターンな言い分に疑問をもつ人たちも少なからずいる。あきらめずに、気長に、ちょっとずつでも情報をだしてほしいものである。マスコミには期待できない。大手マスコミは商業主義に走りすぎだ。本来のジャーナリズムの意味を考えなおしてほしいものだ。真実を伝える態度があまりに不誠実だとわかる人にはわかる。そういう情報ばかり垂れ流されるとイライラしてくるのである。ボトムアップ情報の強みを持つインターネットでは現在、超ハイペースなインフラ整備が進行している。このままではそう遠くない時期、今後五年とか十年で、インターネットインフラ整備が光ファイバー網などの形で一定ラインをこえると同時に、新聞・テレビともに一気に駆逐されだすであろうことは明らかだ。文字も映像もすべてインターネットで安価でカバーできるのである。一部の人の考えや都合だけで独善的に情報をコントロールしようとするやり方は、時代おくれとなりつつある。


■いつサリンと判明したのか

まず気になったのが、警察が、3月20日の何時に毒物はサリン、とわかったのだろうか、ということである。
この本を読んでも、明確にははっきりしない。
だが、裁判では、だいたい次のような手順で判明したようである。

3月20日午前8時すぎ事件が起きた。
9時半ごろ、日比谷線小伝馬町駅と日比谷線霞ヶ関駅の脱脂綿が、警視庁科捜研で調べられた。
9時50分、サリンとわかった。
11時、警視庁捜査一課長が、サリンと発表した。

科捜研の鑑定の過程は、次のようになっていたという。
1、 遺留品が警視庁に押収された。
2、 自衛隊化学学校に運ばれ、仕分けされた。
3、 仕分けされたものが、再び警視庁に戻って、鑑定に回された。

とにかく一回、自衛隊大宮化学学校に回されたことになっている。
桜田門から大宮までの時間、仕分け作業の時間、大宮から桜田門に戻る時間はどうなっているのだろうか。
どうも、サリンとわかるのが早すぎるような気がする。
あまりに早すぎるので、渡辺脩と和多田進の対談でも、撒かれたものがサリンだということを、警察は知っていたのではないかと疑問を出している。

この疑問は、他の資料からも読みとれる。
たとえば、『極秘捜査』という、警察からの独自取材により麻生幾がまとめた本がある。ある意味では「本当の話」が書かれているといえる本だ。

『極秘捜査』は、自衛隊の活躍にも焦点をあてている。
もし、不審物の仕分けのために、自衛隊大宮化学学校に回されたのなら、この本で触れていなければおかしい。
なのに、不審物が自衛隊大宮化学学校に回された、とは一言も出ていない。
ほんとうに自衛隊大宮学校で仕分けしたのか、大いに疑問である。

話が脱線するが、『極秘捜査』についてはさらにもう一点。

『極秘捜査』には、警視庁鑑識課員がホームで幾つかの不審物を押収し、科捜研に七つの不審物を持ち込んだ、とある。
日比谷線霞ヶ関駅から得た新聞紙に包まれたナイロン、築地駅の電車内から押収された三つのナイロン袋に残留していたガスを、ガスクロマトグラフィーで分析した。
午前10時半すぎ、サリンと判明した。

つまり、『極秘捜査』では、日比谷線霞ヶ関駅のナイロン、日比谷線築地駅の三つのナイロン袋を10時半すぎに検出となっている。
しかし、裁判では日比谷線小伝馬町駅の脱脂綿が9時半ごろ、日比谷線霞ヶ関駅の脱脂綿が9時53分に分析しているという点だ。 ずいぶん、違っている。
『極秘捜査』の記載が取材不足なのか、それとも別の真実を伝えているものなのか。
個人的には、別の真実を伝えているように思える。つまり、本来警察が秘匿するつもりであった情報を、うっかりポロッと漏らしているように見える。 アセトニトリルにまつわっても、同様の疑問が残されたままである。

■なぜ小伝馬町で不審物が蹴り出されたあと、後の駅・茅場町で乗車した人が死んだのか

渡辺弁護士の見解では、電車内に濃厚なガスが残っていた、のではないかと推測している。

しかし、次のような情報もある。
現在進行中の裁判では、築地駅では不審物は押収されなかった、とされている。
では、築地駅で不審物が押収された、とする人は、何が押収された、というのだろうか。
これは、たった一つを担当したオウムの実行犯のみが罪に問われている理不尽さを意味している、と私は考える。
すべての真相が明らかにされる必要がある。
その上で、改めてオウムの罪も裁かれるべきであろう。

■坂本弁護士一家殺害事件

事件当日、坂本弁護士家の鍵はなぜ開いていたのか、という疑問はあったものの、オウムの犯行というのはゆるぎないものと思っていた。
ところが、この本を読むと、そんなに単純ではないことを知らされた。

1、 なぜ、標的が『サンデー毎日』から坂本弁護士になったのか。
2、 なぜ、坂本弁護士一人ではなく、奥さん、子どもまでの一家みな殺しになったのか。
3、 検察側冒頭陳述には、生きた人間の行動としての殺人行為であれば、自然に出てくるはずの情景・思考・感情がまったく描かれていない。
自白しているというのに、犯行の具体的な経過や内容が少しも明確になっていない。
4、遺体を埋めた位置の正確な地図を、岡崎が書いているのに、警察がなぜ発見できなかったのか。なぜ、岡崎を現場に連れて探さなかったのか。

このことは、現場にオウムのプルシャが落ちていたのに、警察がまるっきり調べなかったことに通底するできごとである。
どうもいろんな疑問がある。

最近、坂本弁護士の奥さん・都子さんの父親である大山さんの著書が出た。
その『都子聞こえますか』108ページによれば、
事件がおきた1989年11月2日午後6時ちょっとすぎ、実家に都子さんから電話があった。
母親が子どもと弁護士の容態を聞いていると、とつぜん電話が切れてしまった。
すぐに実家から電話をかけ直したが、話し中になっていた。そのあとも何度もかけなおしたが、呼び出し音がするけども、電話に出ない。

この内容を信用するかぎり、11月2日午後6時すぎの時点で坂本弁護士一家に異変が起こったと見てもよさそうである。
ところが、オウムの実行犯が坂本弁護士宅に押し入ったのは11月4日午前3時である。
空白の31時間に何が起こったのか。

■ オウムにあったという金塊はどうなったのか。

対談のこの本では、裁判で金の話が出てこない、と指摘している。

警察がオウムを捜索したとき、無刻印の金塊が見つかった、という新聞記事が出たのを覚えている。
その後、その金塊がどこかに消えてしまった、という。
どうなっているのだろうか。




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